三段峡


可部線 未成スイッチバック(昭和44年駅開業:平成15年路線廃止により駅消滅)




設計図だけで終わったC63という「幻の蒸気機関車」があるが、 同様の捉え方をするなら、ここ三段峡は 「幻のスイッチバック」 と言えるだろう。 このスイッチバックは、一度もこの世に存在しなかった。 本企画のリストに、実在したことのない施設を加えることには異論もあろうが、 このホームページは学術論文ではないので、敢えて「スイッチバックに纏わるロマン」 として取り上げることとする。
内容に関しては、ほぼ正しいと確信するものの、 当初計画の図面を入手したわけではなく、 あくまで状況証拠の積み上げによる 「仮説」の域を出るものではない。 その点も断わっておきたい。

明治25年の鉄道敷設法に「広島県下広島ヨリ島根県下浜田ニ至ル鉄道」 という路線がすでに計画されていた。 この計画のもとに、昭和11年、国鉄は横川〜可部間を営業していた広浜鉄道を買収し、 国鉄可部線として三段峡方向に向けて路線を延長開始する。 一方、島根県側からも昭和8年には、山陰本線・下府〜今福が着工されたが、 この工事がほぼ完成したところで、太平洋戦争により中断の憂き目を見る。
この当初計画では、深い峡谷に行く手を阻まれている三段峡駅から、 一旦折り返して、地形に逆らわず谷を迂回しながら(現在の国道191号線に添う形で) 、橋山〜今福を目指すものであったと思われる。
つまり、仮に戦争が起こらず、当初の計画通りに路線建設が進めば、 非勾配型の折り返し型停車場「三段峡」が存在したかもしれない。
しかし、実際には、三段峡駅まで線路が開通した昭和44年時点で、 工事再開された同路線の今福から先は、当初計画とは異なり、 下府を経由せず直接浜田へと向かうルートとなっていた。
そして、昭和49年に着工された三段峡〜今福間のルートも、戦前の計画とは異なり 三段峡駅から直進、長大トンネルを経て、ほぼ直線で橋山に到達するものとなっていた。
つまり、三段峡駅が開業した時点では、すでに三段峡スイッチバックの構想は消滅して いたということである。
さらに、昭和55年には工事の凍結により、三段峡から先を目指す陰陽連絡ルートは、 折り返す線路どころか、直進する線路さえも完成することはなく (『鉄道廃線跡を歩くX』では、「未成線・今福線」として、 各所で見られる新旧両方の「遺跡」を紹介している)、最終的には、平成15年11月末の 可部線・可部〜三段峡駅間廃止により、すべてが幻と消え去ってしまった。

*写真は、東広島市の中野洋氏から提供頂いたもの。
上段右は、三段峡駅全景。その行く手には断崖絶壁が迫り、 戦前の土木技術では、折り返しを余儀なくされたのも、想像に難くない。
下段左は、同じく三段峡駅構内。今度は戸河内方面を振り返ったアングル。 左側に雪に埋もれた機回し線が見えるが、これがそのまま今福方面と向かう 折り返し線になっていたかもしれないのだ。
下段右は、三段峡駅からほど近く、駅前から県道を走り、国道191号線に ぶつかる手前付近で見ることが出来る自動車用トンネル(A地点)。 坑口の形状から見て、鉄道用のトンネルの転用であった可能性が高い。 三段峡駅で折り返してきた下り列車が、ここを潜っていく光景が、ふと脳裏をよぎる。

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