三笠


幌内線 明治15年開業(名称:幌内太):昭和62年路線廃止により消滅




北海道で最初の鉄道となった官営幌内鉄道(札幌〜幌内)の一駅「幌内太」として開業。 その後、三笠から幾春別へ向う路線(そちらが本線扱いになった)が開通した明治21年以降、 スイッチバック構造が生まれた(※誤りであることが判明。 後半調査報告参照)。
つまり、三笠から幌内に向かう列車は、一旦構内の引き上げ線にバック運転で出てから、 進行方向を変え、20パーミルの勾配を上りながら、幌内を目指した。 昭和47年までは、岩見沢区の9600が、一両の荷客合造車を牽いて、両駅を往復する姿が見られたものだ。
しかし、昭和47年に旅客営業が廃止され、国鉄〜JR移行の62年には、他の赤字路線と同様に全線廃止。 その後、三笠・幌内駅構内の跡地を利用した「三笠鉄道記念館」がオープン。 最古の運炭路線が紡いできた105年の歴史を後世に伝えている。
*写真は3枚とも、 「なつかしの蒸気機関車館」で、現役・復活SLを数多く紹介している 久保順氏より提供いただいたもの。
上段左は、駅構内に並ぶ気動車と9600・D51による重連貨物の姿。 画面手前が、萱野方面。前方には機関車の駐泊施設が見えるが、画面最も右に見える 急カーブを描く線路が、幌内方面に向かうものである。 三笠から幌内に向かう列車は、画面中央の踏み切りを二度横切ることになるので、 なかなかの「開かずの踏み切り」であったことが想像できる。
上段右は、三笠を出て幌内へと急勾配のSカーブを驀進する、9600の姿。 三笠駅の代表的な構図である。
下段は、駅から萱野寄りの光景。三本ある線路のうち、最も向こうのものが、 幌内方面に発着する列車のための「引き上げ線」である。

*それにしても、三笠駅のスイッチバック構造、 最初からこのような配線だったとは、とても考えられない (※誤りであることが判明。後半調査報告参照)。 楓のように、後から開通した部分が、手前から分岐するならまだしも、 先に開通してる側を走る際に、なぜスイッチバックする羽目に陥ってしまったのか? わざわざ、運転形態を複雑にするために、駅を移動するはずもないし…… 「鉄道廃線跡を歩くZ」に掲載された、明治20年頃の写真には、なんと! 幾春別方向から 幌内に向かうような線路が写っており、 当駅を中心にデルタ構造が出来ていたらしい (※用途判明。後半調査報告参照)。
この複雑怪奇なる 「三笠駅の謎」―――どなたか、教えていただけたら幸いである。


※調査報告(平成12年2月段階)―――

平成5年刊行の「新三笠市史」では、三笠(幌内太)駅に関して―――
「幌内太駅の位置は、現在の鉄道村三笠ゾーンにあって、 廃止まで位置は変わらなかった。」
「(三笠山)村内では、幌内炭鉱の地形は平坦な所がないので、 幌内太に駅、機関室、休泊所等を設け、幌内には駅のみであった。」
―――という記述がされている。

さらに、この件に三笠市役所の方よりいただいたコメントでは、 「推測ながら――」と断わった上で「鉄道敷設時点で、すでに乗り合い馬車の待合所が、 現駅の場所にあったこと、さらに、民家・道路等がすでに整備されていたこともあり、 幌内川の位置からしても、これ以上、岩見沢寄りに駅を建てるのは、 難しかったと思われます」としている。

これらの資料から、筆者は、この駅の成り立ちに関し、以下のように推論してみた。

「手宮から伸びてきた線路が目指す地点は、幌内の炭鉱である。 ゆえに、基本的には、幾春別川〜幌内川に沿って、出来うる限り 最短距離で目標に到達すべく、線路敷設を行おうとしたことは、想像に難くない。
しかし、地形の問題で、幌内には操車施設等が作れず、やむなく麓の幌内太にそれらを置いた (小樽に対する小樽築港のような関係)。 もちろん、それだけの施設を置くなら、職員の乗降もある上に、麓の村に住む 農村人口や農作物を対象とした駅=幌内太を作るだけの必然性があった。
ただ、幌内川に沿った形で、当地から急激に南下しながら、幌内の炭鉱(ヤマ)を目指す線路を 見渡した場合、麓の人間が利用しやすい場所に、水平な停車場を作るには、 現在の場所しかなかった。
例えば、幌内方面への分岐点を基準に、それより萱野寄りに 停車場を作ろうとすれば、幾春別川、幌内川と山に挟まれた狭隘な場所しか確保できない上に、 市街地から遠くなる。一方、幌内寄りでは、急カーブ・急勾配にかかってしまい、 とても平坦な区間が確保できぬ上に、やはり市街地から遠くならざるを得ない。 よって、比較検討の結果、この変則的な形態の駅が出現した」

なお、「新三笠市史」で、明治18年当時の列車運行を見ると、 1日2往復(他1往復は手宮〜札幌)で、
第1便:手宮発6:30→幌内着10:55/幌内発11:05→手宮着16:30(貨物のみ)
第2便:手宮発13:00→幌内着17:45→幌内太着17:55 /幌内太発(翌朝)6:50→幌内→手宮着11:50(貨客混合)
ということなっている。

ここから、幌内太〜幌内周辺の、当時の運行状態を推測してみた。
●まず、幌内太を始発・終着とする混合列車(第2便)。 始発列車を例に取れば、以下のような光景が繰り広げられたのではないか?
逆向きの機関車を、客車の先頭に(幾春別側に)連結した列車が、幌内太を発車。
まずは、推進運転で引き上げ線(当初は、引き上げ線はなく、本線上かも?) に突っ込む。そして、ポイントが幌内側に切り替わると、 今度は、逆向きで客車を牽引する形で、幌内へと向かう。
幌内(当時は転車台無し)で、機関車は機回し線を使って、今度は客車の反対側に正位置で連結する。
幌内を発車した列車は、再び幌内太に向かうが、今度は、引き上げ線に入らず、 そのままスルーして、一路、岩見沢・手宮方面を目指す(帰りは、まったくその逆)。

●幌内発着となっている貨物列車(第1便:運炭オンリーと思われる)にしても、 10分停車で同列車が折り返すとは考え難い。 きっと、幌内に到着した機関車は、空のセキを置いて、幌内太へと単機で引き返したのであろう。 そして、翌朝、満タンのセキを牽くために、 再び単機で幌内太から幌内まで登っていったのではないだろうか?
なお、開業当時、幌内同様、幌内太にも転車台がなかったが、その代わりとして、 前述のデルタ線で機関車の方向転換を行っていたと、「新三笠市史」は記している。
この推測通りなら、とにかく、幌内太は、開業当時から、 実質的な始発・終着駅として機能していたことになり、 途中駅としての折り返しの煩雑さを それほど考えることもなかったのであろう。
ただ、一方では、引き上げ線を使い構内で進行方向を変えた上に、 今度は隣駅と往復するという、 二重のスイッチバック運転を行っていたということになり、 スイッチバックの研究対象としての興味は尽きないとも言える。

―――以上はあくまで、現状の調査に基づく憶測の範疇であり、 さらなる詳細の解明は、この後の研究をお待ちいただきたい。
*なお、三笠の沿革調査に関しては、「夕張線:楓」と同様に、江別市の奥山道紀氏に、 ひとかたならぬお世話になった。この場をお借りしてお礼を申し上げたい。
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スイッチバックリスト1に折り返す
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