熊ノ平


信越本線 明治26年開業(信号場として):昭和38年アプト廃止時、配線変更により消滅



開業以来、平成9年長野行き新幹線開業に伴う区間廃止に至るまで、 104年の長きに亘って、最大の難所として我が国の鉄路に立ちはだかっていた、 信越本線・碓氷峠。 15分の1(66.7パーミル)の勾配が10キロ以上も続くこの区間は、 ご存じのように、当初アプト式という歯車を噛み合わせて、急坂を昇降する 特殊な構造の路線であった。 そのちょうど中間地点、わずか300メートルほどの水平区間に設けられたのが、 熊ノ平である(明治39年に駅に昇格)。 単線区間ゆえ、この駅で全列車が交換する「ネットダイヤ」というものが 組まれていたが、編成の長大化に伴い、構内の有効長を稼ぐために、 スイッチバック構造がとられた。
構内に侵入してきた下り列車(軽井沢へ向かう列車)は―――
■一旦、「下り突っ込み線」の トンネルに頭を突っ込み、最後尾の本務機のポイントが切り替わる位置まで、前進する。
■そして、今度は、列車の最前部が本線に入るためのポイントが切り替わる位置まで、後退して、 停車する(この時、最後部の本務機は、 「下り押し下げ線」のトンネルにお尻を突っ込んでいる形になる)。
□上り列車(横川へ向かう列車)用にも、同様の「突っ込み線」「押し下げ線」が存在するが、 基本的に、下り側が先にスイッチバックして待避した後に、 上り列車が本線上を直進していくダイヤ形態をとっていたので、 待ち合わせ以外には折り返しはしなかったようである。
―――いろいろな意味で、興味深い駅であったが、昭和38年9月29日、 アプト廃止。その約3年後、昭和41年7月には、 粘着運転による複線化の完成により、再び信号場に降格。 ここに停車する列車はなくなった。
但し、スイッチバック運転形態自体は、構内を突っ切る形で粘着新線工事が 行われだして以降(昭和36年4月5日着工)、かなり制限されていたと想像できる。 なお、アプト廃止後の粘着単線時代に、この地でどのような列車交換が 行われていたのかは調査中である。
*写真は、杉江弘氏による。昭和38年3月撮影ということで、 すでに構内に架線も張られた、アプト最晩年のものである。 この4ヶ月後には、新旧線併用期間に入り、 左側の新線には、最新鋭機EF63・EF62が行き交うようになる。 なお、明治期の古い写真を見ると、 この上下線の間に、もう一本、通過線が存在していたことがわかる。
*実は、従来の書物で、熊ノ平をスイッチバック駅と分類したものは見たことがない。 ただ、筆者の基準としては、ホーム進入・待避に際し、恒常的に折り返し動作を伴うという 意味では、当駅も立派なスイッチバックと考えられる。長野電鉄・湯田中の (ミニ)スイッチバックを、シンメトリックに二個並べた形態と考えれば良いだろう。
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