上市
富山地方鉄道・本線 大正2年開業:現存
富山県内の鉄道会社の大合同で生まれた富山地方鉄道(地鉄)。
その歴史を反映して、現在、市内電車を含めて100km近い路線網を持つが、
その複雑な路線図上でも、はっきりと「くの字」として描かれる当駅。
立山の山々を彼方に見る、この平坦な地に、全列車折り返しを必要とする
スイッチバックを作らせたのも、やはりこの複雑な沿革と無縁ではない。
この地に駅が誕生したのは、今を遡ること約100年も前。立山の峰を目指す
立山軽便鉄道(蒸気動力、軌間=762mm)の滑川〜五百石が開業した際、その途中駅「上市」がそれである。
その後、昭和6年に富山電気鉄道が、すでに立山鉄道と名を変えていた立山軽便鉄道を合併し、
同年8月、電鉄富山〜当駅までを開通させ(電化1500V、軌間1067mm)、さらに11月には滑川〜当駅の区間
も同様の電化と改軌を行った。
その際、当駅から東に600mほど線路を延長し、町の中心部に「上市駅」を開業するが、同時に当駅は
「上市口」と名前を変えることになった。
この時点で、ようやく富山方面と滑川方面に枝分かれする2本の線路が出現したわけである
(但し、新宮川から当駅に入ってくるルートは現在とは違っていた)。
なお、富山電気鉄道は寺田から五百石を結ぶ「短絡線」も同時に開通させたため、五百石〜上市口間は支線扱いとなり、
両駅を往復する列車が設定されたようだが、それも翌年には廃止される。
戦時中の昭和18年(この年は、前述のように、富山県内の鉄道が「地鉄」に統合された年だが、この際、当区間が不要不急路線と判断されたのであろうか?)
には、上市口〜上市間が廃止。その際に上市口が再び「上市」と改称され、新宮川からの進入ルートも現在と同じものになったが、
この段階で現在の平地型の行き止まり構造が完成されたといえる。
なお、施設の変遷だけではなく、運転としての折り返しがいつからどのように行われてきたのか?――は、
まだ推測の域を出ないが、昭和6年時点では、まだ直通運転は行われず、富山方面と滑川方面から向かってきた列車は
当駅で合流し、それぞれ終点となる旧上市駅を目指していたのではないだろうか?(あるいは、滑川方面が当駅止まりで、
五百石方面へ接続。富山方面からのみ旧上市を目指していた?)
上市口〜上市間廃止と同時に、黒部線の1500V昇圧が行われ、それにより「初の電鉄富山〜宇奈月間直通運転」が実現するが、
この時点を以て、上市のスイッチバック運転がスタートしたと考えるのが妥当であろう。
――それにしても、複雑な沿革ゆえに、あたる史料によって記述にも差異が生じており、俄か勉強の筆者としては自信が持てない部分が多々ある。
地元の研究家の方などいらっしゃったら、間違いを正していただけると幸いである
(※やはり誤りであることが判明。後半調査報告参照)。
*写真は、平成20年4月19日撮影。久々の晴天に(遠く立山連峰がやや雲の中なのが残念!)、菜の花が黄色い花を輝かせていた。
上段2枚は、新宮川方面(余談ですが、この駅の旧名は「江上」!)から上市駅に進入する上り特急『うなづき号』と
、上市で方向転換後、富山に向けて出発した同列車であるが、新塗装の黄&緑に彩られた
14760型のボディーカラーはまさに菜の花畑と瓜二つである。
なお、非勾配型の当駅であるが、新宮川方面に向けて下り22パーミル、
相ノ木方面に向けて下り25パーミルという勾配が存在し、逆に言えば
高台にある当駅を目指して、どちらからも勾配を上ってくるような線形となっている。
中段左は、頭端式の2面3線ホームからなる当駅での交換風景。
左が電鉄富山方面の1番線。右が滑川方面となる2番線(1番線とホームを挟んで
当駅始発列車専用の3番線ホームが左隅に見える)。
どちらから来る電車も、停車時には直進してそのままホームに入り、
出発時にシザースクロスポイントを亘って、逆方面に向かうような運転方法をとる。
中段右は、ホームから見た本線。左が富山方面、右が滑川方面であるが、
その両側には保線基地や留置線も用意され、すでに御役御免のはずのホキ80(?)の姿も見られる。
下段左は、駅の正面側。上段写真でも遠くからデカデカと見える「JAアルプス」の看板は、当駅のシンボル(?)。
かつてはショッピングセンターも入っていたという立派な駅ビルだが、現在は広々としたコンコースに学生が数名という
のどかな光景(?)を見るに留まる。
※調査報告【1】(平成20年5月段階)―――
上市駅の沿革に関して、筆者はうかつに見落としていたが、名著『鉄道廃線跡を歩く ]』の中で、
岸由一郎氏が非常に正確な記述をされていたことを発見。
その内容を変遷図にしてみると同時に、上記記述の誤りをここに訂正させていただくこととする。
図に示したように、そもそも立山鉄道に設置された、初代の上市が現在の駅と同じ場所というのが誤りであった。確かに地理的には近いが、
滑川から来て五百石方面に向かっていたのだから、当然、施設の向きも全く違うわけであった。
そして、滑川・電鉄富山〜上市口〜上市(二代目)までの電化&改軌が行われた段階で、新宮川から上市口に入るルートも
変わって、つまり町の中心部に位置する上市駅をまっすぐ目指せる方向に進入経路が変化したわけである。
そして、非電化ナローで残された五百石までの旧線区間は、最寄の「上市口」を始発駅にしながら、1年ほどの営業を続けたわけである
(というより、岸氏の記事によると、むしろ、上市口は当初、単に滑川方面と電鉄富山方面から来る列車の合流点にしか過ぎなかったが、
五百石までの支線への乗換えを実現するために、駅を置いたとのことである)。
また、当初の疑問である「スイッチバック運転が昭和6年時点から行われていたのか?18年以降か?」に関しては、
岸氏の記述では
「上市口〜上市間はスイッチバック運転のため、取り扱いが煩雑なうえにスピードアップのネックとなり、
昭和18年12月をもって廃止されている」
となっているので、あたかも両駅間を二重に走るような「滑川方面〜電鉄富山方面の直通運転」が行われていたように
読み取れるのだが、本当にそうだったのだろうか?――という疑問はまだ残ってしまう。
廃止年度からしても、廃止の理由が「戦時下に於ける不要不急路線の廃止」(一畑電鉄の「小境灘〜一畑」間などと同じく)
と全く無縁で、単にスイッチバック運転の煩雑さだけとは、どうも思いにくいのである。
(※また誤りが判明。以下の調査報告参照)
※調査報告【2】(平成20年6月段階)―――
今尾恵介著の『地形図でたどる鉄道史』(西日本編)の「上市・滑川付近」の項で、
「(前略)時代は前後するが、富山電気鉄道では滑川開業時から急行の運転を
するなど北陸本線に対抗したダイヤを設定していた。昭和9年(1934)
の時刻表によれば富山〜滑川間の所要時間は約26分の北陸本線に
対して富山電鉄の普通電車は47分、急行(停車駅多数)でも40分と、
上市でのスイッチバックなど遠回りゆえの不利があったが、それでも
北陸本線の1日9往復(普通列車)に対して電鉄は約30往復と頻繁な
運転でカバーした。
(後略)」
との記述が見つかった。
以上から、二代目上市開設当初から、
二駅間折り返しを伴う直通運転が行われたことは、まず疑いないであろう。
――それにしても、たったひとつの駅の歴史すら、その真実にたどり着くのは
容易ではないことを改めて実感する次第である。
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