東武鉄道伊香保軌道線:伊香保線
明治43年開業(伊香保電気軌道として):昭和31年路線廃止により消滅
明治期に敷設された、渋川から前橋・高崎・伊香保の三方向に向かう軌道線
(前二者は、当初は馬車鉄道として出発)。
これらは、昭和2年に東武鉄道に買収され、以降「伊香保軌道線」と総称されることになる。
中でも、“伊香保電車”と呼ばれた、
全国でも屈指の温泉地・伊香保へ向かう12.5kmの路線は、
「日本初の登山電車」と言えるものである(明治26年開業の、官設・碓氷線は、
ラックレール使用であり、純粋に粘着による登坂路線としては、ここが初)。
平均勾配22分の1(45パーミル)、最急勾配18分の1(55パーミル)、
カーブ87箇所という、この超急勾配路線、いくら勾配に強いと言える、
路面電車を以ってしても、一筋縄ではいかず、
線路・車両面含めていくつかの特殊な設備が必要となったが、
そのひとつが、途中の行き違い施設を、スイッチバックとすることであった。
とは言っても、国鉄に見られるような、本線を中心に発着線と引き上げ線を設置した
大掛かりなものではなく、単に本線から1本の側線を水平に引き出しただけの
簡素なものであった。
これは、安全側線の役割もあったため、分岐点のポイントは常に側線側に開かれており、
勾配を下ってきた電車は、そのまま側線に入り、勾配を登ってくる電車を待つ。
そして交換後、本線に戻り、ポイントを切り替えて、坂を下っていくわけである
(交換がないときが傑作で、つまり、ポイントの手前で車掌が飛び降りて走り、
レバー操作で、一旦ポイントを本線側に切り替え、電車通過後に、
再び電車に飛び乗るという具合だった!)。
このような形態の行き違い施設は、数カ所あった(※)。
徳富蘆花や田山花袋など、多くの文士にも愛され、紹介された、温泉場の「チンチン電車」も、
幾多の軌道線同様に、モータリゼーションの波に押され、昭和31年12月28年廃線となった。
温泉に向かう小さな路線の小さなスイッチバックの痕跡は、宅地開発やゴルフ場建設に飲まれて、
現在見つけ出すのは難しい。
※「思いでのチンチン電車:伊香保軌道線」(あかぎ出版刊)掲載の略図によると、
待避線は全部で「元宿」「六本松」「大日向診療所」「水沢」の計4ヵ所であると推測されるが、
「レイル」NO.10(プレスアイゼンバーン刊)に掲載された
「伊香保電車盛衰」(小林茂氏著)の略図だと、「御蔭」にも待避線らしきものが見られる。
一方、「鉄道廃線跡を歩くU」(宮脇俊三編著:JTB刊)でも、この路線が紹介されているが、
そこで紹介されているスイッチバック跡は、地図の位置から見ると「入沢」のことだと思われる。
以上のように、正確なところは不明だが、
現段階の筆者の推測(独断!)では、最初に述べた4ヵ所が正しく、
「御蔭」「入沢」に、スイッチバック待避線は存在しなかったのではないだろうか。
★上記の推論は、最終的に小林茂氏の証言により、確認された
(上記の「御陰」の待避線らしきものは、編集作業上のミスとのことである)。
ここに感謝の気持ちと共に、氏の書かれた文章を掲載させていただく。
「スイッチバック式の行き違い施設は、いずれも最寄の停留場名で呼ばれ、元宿、六本松、離山、水沢の4ヶ所がありました。
このうち、六本松以外の3ヶ所は停留場から離れていました。しかし、大日向療養所前の停留場が新設されて、離山の行き違い施設が
そこに隣接するため、離れていたのは2ヵ所に減り、離山は大日向と呼びかえられました」
「水沢の停留場は当初、行き違い施設の近くにありましたが(以下、故宮田氏が撮影された水沢の写真で、車両の右脇に盛り土された部分が見えるだろうか?
これがそのホーム跡だとのことである)、後に水沢観音へと向かう道と交差する踏切付近に移動して、分岐から240米ぐらい離れることとなりました」
「当時、水沢での行き違いは朝の7時台と8時台の2回だけで、上野を一番列車で発ってもダメで、1回しか見る機会はありませんでした」
「元宿の停留場は道路上で、行き違い施設との分岐までは、専用軌道に入って250米ほど。その待避線は右側に突っ込むように記憶していましたが、
どうも左側のようです(これは、田部井氏の写真と証言で確認された)」
「離山の場合、停留場と行き違い施設までの距離は540米でした。なお、行き違い用のスイッチバック施設は、文書では“待避線”という呼び方が見られます」
―――この項に関しては、小林茂氏をはじめ、
あかぎ出版の小野澤敏夫氏、田部井康修氏、そして
故宮田雄作氏にひとかたならぬお世話になった。
この場をお借りしてお礼を申し上げたい。
なお、今回の記述更新に合わせて、以下、MAPも一部訂正させていただいた(平成19年10月)。
写真は上段二枚は、故宮田雄作氏より提供いただいたもの。
左は、六本松交換所の待避線に停車する上り電車(34号車)。この分岐点から
30mほど上方(写真では、画面左方)に、六本松の停留所がある。
*上段右写真は、ポールを下げたまま惰行する上り電車(33号車)が、約200m上方にある
水沢の停留所を過ぎて、交換所に差し掛かるところである。
画面の右隅に、待避線に切りかえるポイントのレバーが見える。
*下段左写真は、ほぼ同地点より、水沢交換所の全景を見たところ。
写真は、前述の小林茂氏によるものである。
ポイントは待避線側に開いており、まさに安全側線としての役割を持たされていることが
よくわかる。
*下段右写真は、渋川に向かう上り電車(21号車)を、
元宿交換所の待避線上から撮影したもの。田部井康修氏による撮影であるが、写真でも分かるように、
本線との高度さと距離が意外とあり、六本松などと比べても、待避線が長かったことが想像される。
田部井氏ご自身も「元宿の待避線はかなり長かった」と証言されている。
※当時の写真・データ捜索中!
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