日本一周第3回「白い雲のように」 |
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第6日「宵待草〜岡山県・大阪府〜」 | |||
2006年8月10日(木) |
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広島県から岡山県へと戻った。母の故郷は広島県の福山だが、今回は素通りした。 岡山ではまずは倉敷に。 |
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◆美観地区 | |||
美観地区 |
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倉敷といえば美観地区。倉敷川を中心として、古い町並みが残る。 |
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倉敷は商人の町であった。とりわけ、倉敷紡績(クラボウ)の創業者・大原財閥が大きな力を持っていた。 |
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旧大原家住宅 |
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その大原家の住居は、現在国に重要文化財に指定されている。1795(寛政7)年に建てられた。残念ながら現在は非公開で、外から眺めるだけである。 |
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クラボウを設立したのは大原孝四郎(1833〜1910)だったが、大原財閥を築いたのはその3男の孫三郎(1880〜1943)だった。孫三郎は、社会・文化事業にも力を注ぎ、大原美術館などを設立している。 大原美術館は孫三郎がパトロンとして援助していた洋画家・児島虎次郎(1881〜1929)によって収集された美術品を主にコレクションとしている。 エル・グレコ(1541〜1614)の「受胎告知」やクロード・モネ(1840〜1926)の「睡蓮」といったかなり豪華なコレクションを収蔵している。ちなみに大原美術館は数年前に訪ねていたので今回は見学しなかった。 |
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◆大橋家住宅(HP) | |||
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大原家住宅と同様に国の重要文化財に指定されているのが大橋家住宅。こちらは中を見学することも可能である。 大橋家はそもそもは豊臣氏に仕える武士であったが、豊臣氏滅亡後、京都五条大橋の脇に隠れ住んだことから後に大橋氏を名乗るようになった。倉敷に移り住んだのは宝永年間(1704〜10)とのこと。現存の大橋家住宅は1796(寛政8)年の建築 である。 |
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何度か改築されているが、現在の大橋家は、最も屋敷構えの整った1851(嘉永4)年当時の姿に復元され公開されているそうだ。 なるほど格式のある立派な日本家屋である。 |
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◆倉敷アイビースクエア | |||
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美観地区の東にある倉敷アイビースクエア。1889(明治22)年に建てられた倉敷紡績(現・クラボウ)の工場跡地を利用したホテルを中心とした複合観光施設である。 かつて倉敷は徳川幕府の直轄地(天領)であった。アイビースクエアの地には代官所があった。他にも濠や井戸の跡も残っている。 |
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アイビースクエアには、かつての倉庫などを利用して、様々な展示室がある。 その中の1つ、アイビー学館は、壁がレンガが見えないぐらい蔦で覆われ、趣がある。 |
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倉紡記念館は、クラボウの歴史を展示している。 |
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◆いがらしゆみこ美術館(HP) | |||
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倉敷を散策していたところ、懐かしい「キャンディ・キャンディ」の看板を見かけた。「いがらしゆみこ美術館」があるという。 僕も、子供の頃にアニメを見ていた経験があるだけに、懐かしく思い訪ねることにした。 |
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それにしても、いがらしゆみこ(1950〜)と、倉敷が関係あるとは知らなかった。知らないはずである、いがらしは北海道出身で現在も札幌在住。倉敷とは特に関係がないようなのだ。 |
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「キャンディ・キャンディ」をはじめとして、いがらしの漫画の原画などが展示されている。正直、僕自身は彼女の作品は「キャンディ・キャンディ」しか知らないのだが、それでも十分に楽しめた。 |
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ところで、「キャンディ・キャンディ」といえば、原作者の水木杏子(名木田恵子/1949〜)と作画のいがらしの間で権利をめぐって裁判になったことでも知られている。 作画のいがらしが「キャンディ・キャンディ」の絵を用いたプリクラを許可したところ、原作の水木側からクレームがついたのである。絵は自分のものだと主張するいがらしに対し、原作者も同等の権利を持つと主張する水木。最終的には水木側が勝利したが、結果として「キャンディ・キャンディ」は原作もアニメも封印されてしまっている。 つまり再放送も、出版も認められないのである。これだけの名作がうもれてしまうのは何とも言えず残念である。 |
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◆阿智神社(HP) | |||
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美観地区の北にある丘・鶴形山には阿智神社がある。応神天皇の御代に朝鮮半島から渡ってきた漢の霊帝の曾孫・阿知使主(あちのおみ)の一族が、この地に日本最古の蓬莱様式の古代庭園を築いたのがその起こりという。 |
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この地は交通の要衝であり、神功皇后がこの付近を航行した際に、嵐に合い祈願したところ、3振の剣が天空より現れこの山に天下ったため、「明剣宮」として海上交通の守護神である宗像三女神が祀られるようになった。その後「妙見宮」と呼ばれ、明治になって「阿智神社」となった。 |
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◆観龍寺 | |||
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阿智神社のすぐ近くには観龍寺がある。985(寛和元)年、尭勢津師によって開創された。現在地には1624(寛永元)年に移転。江戸時代に伽藍が焼失し、現在のものは1749(寛延2)年の再建である。 |
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観龍寺は幕末の「倉敷騒動」の舞台となった。1866(慶応2)年、天領だった倉敷の代官所(現・アイビースクエア)は、長州藩の配下にあった第二奇兵隊の脱走兵100名によって襲撃された。その後、脱走兵は観龍寺に陣を張ったそうである。 左手鴨居門には槍の傷跡が現在も残っているとのこと。 |
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美観地区に戻るとアイスクリームの屋台があった。白桃アイスが気になったので食べてみた。 |
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ついでに岡山の地ビール独歩を。この旅の最中いろいろと地ビールを飲んだが、この独歩は味もしっかりしていてかなり美味。地ビールの中でも上位に入る味わい。 |
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3日ぶりに岡山に帰ってきた。 前回はほとんど観光できなかったので、今回はじっくり観光しようと思う。 岡山といえば、桃太郎。駅前に桃太郎の像が建っているかと思えば、メインストリートは「桃太郎大通り」。 |
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郵便ポストの上にまで桃太郎がいる。 |
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◆岡山城(HP) | |||
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まずは岡山城へ行った。岡山城はその黒い姿から、「烏城(うじょう)」とも、「黒鷺城」とも称される。「白鷺城」と称される姫路城とも対比される。 |
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岡山城は、戦国時代に宇喜多氏の本拠として城郭が整備された。宇喜多秀家(1572〜1655)が関ヶ原の合戦に敗れて改易となった後は小早川秀秋(1582〜1602)、池田氏により整備 ・拡張が行われた。 北側の廊下門から、本丸に入った。廊下門は1620年代に池田忠雄(1602〜32)によって建てられたが、明治時代に取り壊され、1966(昭和41)年にコンクリートで再建されたもの。 岡山城の本丸は、高い順に本段、表向(中の段)、下の段と3つに分かれている。廊下門は、表向の入口に当たる。 |
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本丸の裏口に当たる北西に月見櫓がある。これは、池田忠雄が1620年代に廊下門と共に建てた櫓で、建設当時のものが現存している。国の重要文化財にも 指定されている。 |
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表向から本段へ通じるのが不明門(あかずのもん)。本段は藩主が日常生活を営む御殿があったため、入ることができたのは特に限られた身分の人であった。そのため、この門は閉ざされていることが多く、 「不明門(あかずのもん)」と名付けられた。明治維新で取り壊され、1966(昭和41)年にコンクリートで再建された。 |
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本段には天守がある。天守は宇喜多秀家によって1597(慶長2)年に三重の六階建てで建てられた。 1945(昭和20)年の空襲で焼失。1966(昭和41)年にコンクリートで再建された。 |
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さっそく登ってみた。天守の中は博物館となっている。 天守からは後楽園が見えた。 |
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◆後楽園(HP) | |||
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岡山城のすぐ隣に後楽園がある。後楽園は、水戸・偕楽園、金沢・兼六園と共に日本三名園に選ばれている。 |
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後楽園は岡山藩主・池田綱政(1638〜1714)が、岡山郡代官の・津田永忠(1640〜1707)に命じ1687(貞享4)年から14年の歳月をかけ1700(元禄13)年に完成した。 当初は「御後園」と呼ばれていたが、1871(明治4)年の一般公開にあたって「後楽園」と改められた。 |
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もともと後楽園は、藩主が賓客をもてなした延養亭を中心とした池泉回遊式の庭園であった。 延養亭は戦災で焼失。1960(昭和35)年に、建築当時の間取りで再建された。 |
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流店(りゅうてん)は、建物の中央に水路の通った珍しい建物。休憩所として使われた。戦災をまぬがれた現存している建物の一つ。 |
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慈眼堂(じげんどう)は2代藩主・池田綱政(1638〜1714)が1697(元禄10)年に池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀ったもの。 |
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観騎亭は藩主が家臣の乗馬を見るための建物で、馬場側に窓が開いているそうである。 |
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花葉の池(かようのいけ)には、蓮が植えられている。「一天四海」(大名蓮)と呼ばれ、夏には大輪の白い花を咲かせるそうだが、この時には花は咲いていなかった。 |
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茅葺き屋根の茂松庵は茶室。歴代藩主はここで茶の湯を楽しんだという。当初は「花葉軒」と呼ばれていたが、明治に「茂松庵(もしょうあん)」と名を改める。戦災で焼失後、最初に復元された建物とのこと。
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ここらで僕も一休み。園内にある福田茶屋に立ち寄った。 抹茶と、お茶請けは岡山名物きび団子。 |
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そんなこんなで、後楽園を後にした。 |
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◆夢二郷土美術館(HP) | |||
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ここ岡山は竹久夢二(1884〜1934)の故郷であり、後楽園のすぐ近くには「夢二郷土美術館」がある。夢二は僕の母校・早稲田実業の先輩でもある。 岡山にあるのは美術館の本館で、夢二の生まれた瀬戸内市にも分館があるそうだ。 夢二といえば美人画で有名である。だが、その一方で、詩人としての側面も持っている。 美術館の前には夢二の詩碑も建つ。 青麦の青木をわけて はるばると逢ひに来る子と おもへば哀しも |
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夢二の詩で最も有名なのは、「宵待草」ではないだろうか? 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな その後、多忠亮(1895〜1929)によって曲がつけられてヒットした。 後楽園の入り口には「宵待草」の碑も建っている。 |
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しばし、夢二先輩の業績に思いを馳せた。 |
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〈梅田〉 |
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大阪に帰って来た。 名物の串カツで一杯やった。 |
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夜もまだ早い。地元の人と触れ合いたいと思い、梅田の町で誘われるままにキャバクラなどに行ってしまった。 もっとも、キャバ嬢は若すぎた。おかげでカラオケでジャンヌダルクなどを歌って若ぶったりしてしまったが…(笑) |
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志摩半島〜三重県・大阪府〜 | |||
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