日本一周第1回「いい日旅立ち」

2日目「ああ人生に涙あり〜茨城県〜」
 

2006年6月27日(火)

 
 


 日本一周2日目。6時頃起床。昨晩は日本酒の酔いもあって20時頃には寝てしまった気がする。だから、朝早くても元気たっぷり。次の県をめざそうと思う。
 快い気持ちに答えるかのように、天気も快晴で、いい旅が期待できる。
    

 
 



千葉県限定マックスコーヒー
 

 
 
 旅の楽しみの一つはその地でしか売っていないもの見つけることだろう。今は千葉にいるので自動販売機で買って飲む缶コーヒーも千葉県・茨城県限定のMAXコーヒーということになる。
 砂糖・ミルクたっぷりでびっくりするぐらい甘い。だが、これを飲むと千葉に来た気がするので、僕は以前から千葉に来るたびにこれを飲んでいる。
  
 
 

7:17 銚子 →(成田線)→ 香取 →(鹿島線)→ 鹿島神宮 8:37
 

 
 

 
〈鹿島〉

 
 
 茨城県の第1歩は鹿島。鹿島神宮を訪ねるのは5年ぶりで、久々の訪問になった。
  
 
  ◆塚原卜伝生誕之地  
 
 鹿島線・鹿島神宮駅を降りると赤いレンガの道が続いている。この道に沿って10分ばかり歩くと鹿島神宮へ出る。
 その途中、「剣聖塚原卜伝生誕之地鹿島」という大きな案内板を見つけた。塚原卜伝(1489〜1571)といえば生涯に39度の合戦、19度の真剣勝負を戦って1度も傷つかなかったというう天下の大剣豪。その彼が鹿島生まれだとは知らなかった。
  
 
 



塚原卜伝生誕之地
 

 
 
 その塚原卜伝は鹿島神宮の座主の子として生まれている。1992(平成4)年に生誕500年を記念してこの地に銅像が建てられたそうである。
  
 
 



塚原卜伝像
 

 
  ◆鹿島神宮HP  
 



アントラーズ栄光の碑
 

 
    
 赤レンガの坂道を登り切った。あとは左に曲がれば鹿島神宮である。ふと右側を見ると石のサッカーボールがあった。「栄光の碑」とある。そうか、鹿島といえばJリーグの鹿島アントラーズの本拠地である。そもそも僕が鹿島という地名を初めて知ったのもアントラーズがJリーグの初代チャンピオンになったからであった。
    
 
 



鹿島神宮二の鳥居
 

 
 
 大きな鳥居(二の鳥居)をくぐりいよいよ鹿島神宮の境内へ。
 まず見えてくるのが赤い楼門である。これは1634(寛永11)年に水戸藩初代藩主徳川頼房(1603〜61)が奉納した門で、国の重要文化財にも指定されている。ちなみに頼房は水戸黄門こと2代藩主徳川光圀(1628〜1701)の父である。
  
 
 



鹿島神宮楼門
 

 
 
 鹿島神宮は武甕槌大神(たけみかづちおおかみ)を祀っている。武甕槌は天照大神が出雲を平定した際に、その使者として出雲に赴いている。そして、大国主命から出雲を譲られることに成功。その後も各地を平定しながら東へ向かい、最後に鹿島へたどり着いたとのことである。
 ちなみに伝承によると、鹿島神宮が創建されたのは神武天皇元年ということである。これが事実だとすると、紀元前660年の創建。2600年以上もの歴史を持っていることになる。さすがにそれは、史実ではないのだろうが、10代崇神天皇が鹿島神宮に奉納したという記録が残っているというから、相当に古い歴史がある。
   
 
 



鹿島神宮鹿園の鹿
 

 
 
 武甕槌のところに天照大神の使者としてやってきたのが天迦久神(あめのかくのかみ)であったが、この天迦久神は鹿の神霊とされている。そのため、鹿島神宮の使いも鹿であるとされたそうである。ということは、昔はこの地にも鹿がいたということになるわけである。767(神護景雲元)年に奈良の春日大社が創建された際には、ここから多くの鹿が奈良に連れていかれており、現在の奈良の鹿の先祖となったそうである。
 鹿島神宮の鹿は「鹿園」に閉じ込められている。奈良の鹿たちが野生でのんびり暮らしているのに比べると可哀想にも思えてくる。
    
 
 



鹿の餌
 

 
 
 鹿に餌をあげてみた。奈良だと鹿には鹿せんべいをあげるが、ここでの鹿の餌は生のニンジンだった。
  
 
 



鹿島神宮樹叢
 

 
 
 奈良の鹿は天然記念物だが、鹿島の天然記念物は鹿ではなくうっそうと繁る樹叢。「もののけ姫」に出てくる神の森を思わせるような荘厳な雰囲気がある。中でも本殿の後ろの杉の木は樹齢1200年、周囲11メートル、高さ43メートルである。
    
 
 



鹿島神宮本殿
 

 
 
 見所としては重要文化財の奥の院。1605(慶長10)年に江戸幕府初代将軍・徳川家康(1543〜1616)が本殿として造営したもの。1619(元和5)年に2代将軍・秀忠(1579〜1632)が現在の本殿を奉納した際に、ここに移された。
    
 
 



鹿島神宮奥の院
 

 
 
 鹿島神宮は地震の守り神としても知られているが、それは境内の南東の隅に要石があるから。地震を起こす大ナマズの頭を抑えているのだそうである。徳川光圀はこの石を掘り出そうとして7日間掘らせたが、ついに掘り出せなかったそうである。何てことはない小さい石なのだが、相当深いところにまでつながっているらしい。
   
 
 





鹿島神宮要石
 

 
 
 境内の北東には御手洗(みたらし)の池がある。古来禊の斎場であった湧き水。妙に青く澄んでいた。この御手洗の名にちなんだのが「みたらしだんご」だそうである。
   
 
 



鹿島神宮御手洗
 

 
 


 近くの休憩所で焼いていたので、せっかくだから1つ頂いた。1串300円。御手洗池の湧き水で米粉を溶いて、みそだれをつけて焼く。シンプルな味わいでなかなか美味である。しかし、この後、売店のおっさんから衝撃の事実を聞かされた。近年付近の開発が原因で、湧き水の量が減っているのだそうだが、何と今では井戸水を混ぜているのだそうだ!! 知らぬが仏とはこのことか…。
   

 
 


 
みたらしだんご
 

 
 
 最後に宝物館へ行ってみた。目玉は直刀・黒漆平文大刀拵(くろうるしひょうもんたちごしらえ)。全長2.71メートル(刃の部分は2.24メートル)、奈良時代に作られた現存最古の御神刀である。「常陸国風土記」によれば704(慶雲3)年に作られたとされる。これは、茨城県で唯一の国宝でもある。
   
 
 

10:33 鹿島 →(鹿島臨海線)→ 水戸 11:59
 

 
 

 
〈水戸〉

 
 



水戸駅前の水戸黄門・助さん格さん像
 

 
 
 鹿島から水戸へ移動。
 今回、日本一周旅行をするにあたって、日本一周を達成した歴史上の人物のことをいろいろ考えたものである。伊能忠敬(1745〜1818)、松尾芭蕉(1644〜94)…。しかし真っ先に頭に浮かんだのは水戸黄門こと徳川光圀であった。お供の助さん格さんを引き連れて諸国を漫遊する黄門様…もっともこれはドラマだけの話で史実ではないのだが。後でわか ったのだが、黄門様はこの地・水戸ではまさしく神様のような扱いを受けていた。いや、実際神様になっているのである。
 水戸の駅を降りると、さっそく黄門様が僕を出迎えてくれた。助さん格さんを引き連れたテレビの水戸黄門の銅像である。
   
 
  ◆弘道館HP  
 



弘道館
 

 
 
 水戸駅前の食堂で適当に昼食を済ませてから市内観光へ。北に10分ほど歩いたところに「弘道館」跡がある。光圀公から数えて9代目の11代藩主・徳川斉昭 (1800〜60)によって1841(天保12)年に創設された水戸藩の藩校である。文武両道の教育方針の下、馬術や剣道といった武道ばかりでなく、人文科学、社会科学に加え医学、天文学といった自然科学に至るまでを広く教え、総合大学とも言うべきものであった。「大日本史」を編纂し「水戸学」の礎を築いた 徳川光圀に始まり、藤田東湖(1806〜55)ら幕末に至るまで多くの偉人を輩出した水戸藩の大元がここにあったのだろう。斉昭の子で江戸幕府15代将軍となる徳川慶喜(1837〜1913)もやはり、ここで英才教育を受けたとのことで、入り口には「徳川慶喜向学の地」と書かれた碑が建っている。
     
 
 



徳川慶喜向学の地の碑
 

 
 
 現在弘道館跡地は弘道館公園として整備されている。残された敷地だけでも相当広いが、旧県庁や水戸市立三の丸小学校の敷地も併せ、かつては17.8ヘクタールあったそうである。
      
 
 



弘道館
 

 
 
 入場料は190円と、県営の公園だからかとても安価であった。
 入り口から入ると、徳川斉昭公と七郎麻呂(後の慶喜公)の像が飾ってあった。同じものが、偕楽園のほうにもあったが、それはその鋳型である。
   
 
 



弘道館・徳川斉昭公七郎麻呂(慶喜公)像
 

 
 
 弘道館の建物のうち、重要文化財に指定されているのは正門と、正庁の間と至善堂である。
 正庁の間は、藩主の出座する正席の間。藩主以下重臣の試験や各種の儀式に使用された場所である。
       
 
 



弘道館正庁の間の弘道館記
 

 
 
 一方の至善堂もやはり藩主の座所である。明治維新の際に将軍を返上した慶喜公がこの部屋で恭順を意を示したという歴史的にも重要な場所である。
 1886(明治元)年には、会津戦争で敗走した水戸藩士・諸生党が弘道館に立てこもり、新政府軍と戦う「弘道館戦争」の舞台となり、多くの建物が焼失している。1872(明治5)年12月8日、弘道館は閉鎖された。
   
 
 



弘道館至善堂の要石歌碑
 

 
 
 弘道館のすぐ外には斉昭公や、黄門様の父頼房公の像がある。水戸城址もすぐ近く。そこまでの「水戸城跡通り」を歩くことにした。
  
 
 

徳川斉昭公像
 


徳川頼房公像
 
 
  ◆水戸城址  
 

大日本史編纂之地碑
 
 
 
 水戸城までの道のり、いろいろな碑が建っている。例えば、「大日本史編纂之地」碑。「大日本史」は徳川光圀によって1657(明暦3)年に編纂が開始された歴史書。ここには「大日本史」編纂のために光圀によって設置された彰考館があった。そして、彰考館の総裁だった安積澹泊(あさか・たんぱく/1656〜1738)の像もある。安積は通称・安積覚兵衛。格さんこと渥美格之進のモデルとなった。なお、助さんこと佐々木助三郎のモデルは、同じく彰考館総裁を務めた佐々介三郎こと佐々宗淳(1640〜98)である。
  
 
 



安積澹泊像
 

 
 
 水戸城は1871(明治5)年に廃城となった後、1945(昭和20)年の空襲で大部分が焼けてしまい、ほとんど現存していない。ただ唯一、「薬医門」だけが水戸一高の敷地内に建っている。
  
 
 



水戸城薬医門
 

 
 
 薬医門は、学校の門を入った中にある。この日は平日だったので、当然すぐ隣のグラウンドでは体育の授業をやっている。薬医門の見学者以外は立ち入り禁止と の断り書きがあるが、門でチェックをしているわけではない。セキュリティに問題があるな、と思いつつ中に入って見学してきた。
 説明書きよるとこの門は安土桃山時代の建設とのこと。佐竹氏の時代(1591〜1602)に創建され、徳川氏に引き継がれた。本来、本丸の表門であったと推測されるが、永らく城外に移されていた。1981(昭和56)年9月この地に移転された。
     
 
  ◆水戸黄門神社(義公生誕の地)   
 



水戸黄門神社
 

 
 
 駅に引き返し、水戸黄門生誕の地を訪ねた。駅の北西すぐのところにある。現在は水戸黄門神社となっている。
 徳川光圀は義公と称されているが、1628(寛永5)年6月10日、この地にあった家臣・三木仁兵衛之次の屋敷内で生まれている。4歳まで三木の子として育てられた。
  
 
 



義公生誕之地碑
 

 
 

水戸駅 →(バス)→ 偕楽園入口
 

 
 
 この日の宿は偕楽園ユースホステルに取っていた。ユースホステルなら安い値段で泊まれるということと、相部屋なので他の宿泊客とも仲良くなれるということで、学生時代にはよく利用していたが、この 歳になってまで泊まるとは思っていなかった。
 水戸駅から偕楽園まではバスで移動。梅のシーズンならJRの偕楽園駅がオープンしているのだが、もちろんこの頃はシーズン・オフ。バスの中からは市内に立つ何人もの黄門様の像を見つけた。
   
 
  ◆偕楽園HP  
 



偕楽園御成門
 

 
 
 偕楽園ユースホステルは偕楽園のすぐ隣にある。チェックインの前に、兼六園(石川県)、後楽園(岡山県)と並ぶ日本3大庭園の一つを訪ねることにした。
   
   
 
 





 

 
 


 偕楽園には御成門から入った。目の前には梅林が。100種3000本の梅の木があるという。といっても、季節はすでに初夏。梅の木はすべて緑。春に来ればさぞかし…と思った ところ、なぜか甘い香りが漂ってくる。よく見ると、梅の実がたわわに実っているではないか。
 
 
 この偕楽園を作ったのは、弘道館と同じく徳川斉昭。“烈公”として“義公(徳川光圀)”と並ぶ尊敬を集める名君である。1841(天保12)年に造園開始。翌年に開園している。
  

 
 



偕楽園記の碑
 

 
 
 梅林を抜けると「偕楽園記の碑」があった。偕楽園の由来や造園の趣旨などが刻まれているそうだが、石も風化していてとても読めたものではなかった。ちなみに「偕楽園」の名は「孟子」の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」から取られたそうである。
      
 
 



好文亭
 

 
 
 偕楽園記の碑の近くには好文亭という建物がある。「好文」とは梅の別名「好文木」に由来している。三階建ての好文亭と奥御殿からなっていて、1842(天保13)年の創建。1969(昭和44)年に落雷で焼失し、現在のものは1972(昭和47)年に再建されたものである。
  
 
 

好文亭・菊の間の襖絵
 


好文亭・楽寿楼からの景色
 
 
 美しく色鮮やかな襖絵や庭園など見所は多い。中でも3階の楽寿楼から眺める光景は絶景である。
 また、1階から3階へは「お膳運搬装置」が作られている。これは今のエレベーターの走りだが、そうした創意工夫が烈公のユニークな人柄を物語っているかと思う。
    
 
 



好文亭・お膳運搬装置
 

 
 
 好文亭から再び庭園を歩いてみる。
 偕楽園の南の端に仙奕台(せんえきだい)という見晴らしのよい場所があり、千波湖がよく見渡せる。「奕」とは碁盤という意味だが、石の碁盤が残っている。実際、ここで碁や将棋、雅楽などを楽しんだらしい。琴石も残っている。
    
 
 



偕楽園仙奕台
 

 
 
 それでは千波湖のほうへ行くことにした。偕楽園から偕楽橋を渡り、常磐線を超えて湖のほとりの千波公園へ降りていく。その途中、「大日本史完成之地」碑 が建っていた。徳川光圀によって1657(明暦3)年に編纂が開始された「大日本史」は、光圀の死後も250年に渡って編纂が続けられ、完成したのはなんと1906(明治39)年であったというから驚きである。弘道館の近くにも「大日本史編纂之地」碑があったが、250年もの間には当然何度も編纂の地は変わっているのだろう。
  
 
 



大日本史完成之地碑
 

 
 
 さて、千波湖のほとりには千波公園がある。ここにも黄門様がいらっしゃった。1984(昭和59)年3月に建てられた「徳川光圀像」で、晩年の姿をしている。
  
 
 



千波公園・徳川光圀公像
 

 
 
 弘道館の入り口にあったのと同じデザインの「徳川斉昭公七郎麻呂(慶喜公)像」があった。碑文によると、斉昭公45歳、七郎麻呂(後の慶喜公)7歳当時の姿を想定しているそうで、斉昭が七郎麻呂に世の正しい道を指し示し、七郎麻呂がそれに応えて斉昭公を仰ぎ見るという姿なのだそうである。
 なお、1998年に大河ドラマ「徳川慶喜」放送を記念して、1999年に建立されたものである。そういえばドラマではモックンこと本木雅弘(1965〜)が慶喜を演じていたっけね。
 後でも述べるが、水戸ではここに銅像のある光圀公、斉昭公、慶喜公を「水戸の三名君」として今にいたるまで深く尊敬しているようである。
         
 
 



千波公園・徳川斉昭公七郎麻呂(慶喜公)像
  

 
  ◆常磐神社HP  
 



常磐神社大鳥居
 

 
 
 これまでさんざん徳川光圀を「神様みたい」と言ってきたが、実際神様になっているのである。
 光圀公が祀られているのは偕楽園の東門を出てすぐのところにある常磐神社。ここの御祭神は義公(徳川光圀)と烈公(徳川斉昭)の2人で、それぞれ高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと)と押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)と名づけられている。明治の始めに水戸藩士によって偕楽園内に祠堂が建てられ、1873(明治6)年にこの地に創建された。1945(昭和20)年戦災で焼失。1959(昭和34)年に再建されている。
  
 
 



常磐神社本殿
 

 
 
 ちなみに上の写真で、本殿の前にある大きな輪は茅の輪(ちのわ)くぐりの輪。正月からの半年間の罪穢(つみけがれ)を払う夏越しの大祓(おおはらえ)の儀式に用いられる。左回り、右回り、左回りと8の字を書くように3度この輪をくぐりぬけると、心身ともに清らかになって、次の半年を新たな気持ちで迎えることができるのだそうである。ちょうどこの日は6月27日で、2006年の前半が終わろうとしている時期。同じような茅の輪は先に訪れた鹿島神宮にもあった。
  
  
 
 



摂社・東湖神社
 

 
 
 摂社・東湖神社は藤田東湖を祀っている。藤田東湖(1806〜55)は、幕末の水戸藩士で、水戸学の大家として尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた人物。僕は手塚治虫(1928〜89)の漫画「陽だまりの樹」(1981〜86年連載)で東湖のことを知ったのだが、主人公・伊武谷万二郎が東湖の「回天詩」の「三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る。」というのを好んで 歌っていた。1855(安政2)年11月11日に関東地方を襲った安政の大地震で圧死している。
 末社・三木神社の祭神は光圀育ての親・三木之次・武佐夫妻である。なんでもこの三木氏の子孫・三木啓次郎(1877〜1972)は若き日の松下幸之助(1894〜1989)の援助をしていたことがあるそうで、ドラマ「水戸黄門」の提供が松下電器なのはそれ以来の縁なんだとか…。
   
 
 



末社・三木神社
 

 
  ◆義烈館  
 



義烈館
 

 
 
 最後に、義烈館へ行った。義烈館は常磐神社に隣接した博物館である。「義烈館」の名前は言うまでも無く義公(徳川光圀)と烈公(徳川斉昭)にちなんだもの。入り口では光圀公の木像が迎えてくれる。
 義烈館は、両公の遺品に加え、水戸藩関連の資料を展示している。中でも、大砲「太極」が貴重。ペリー来航(1853年)の際、江戸湾防備のために作られた74門の大砲のうち現存する唯一のものらしい。
 徳川光圀に関する展示はといえば、「大日本史」を始めとする、水戸学の祖としてのものがほとんど。考えてみると、僕らはドラマの「水戸黄門」は知っていても、実像としての徳川光圀は良く知らない。これからは学者としての徳川光圀の側面を考えていくべきなのかもしれない…。館内には徳川光圀の足跡を記した地図も展示されていたが、史実では諸国漫遊はおろか、北は勿来の関、南は江ノ島ぐらいまでしか行っていないのである。
     
 
 



浪華の梅
 

 
 
 義烈館の入り口の脇には「浪華の梅」がある。光圀が小石川に会った水戸藩江戸屋敷に植えた梅を、後にここに移植した際に、斉昭の和歌 「家の風いまも薫のつきぬにそ文このむ木のさかりしらるる」を慶喜が書にしたためたものを石碑にして設置したとのこと。 解説板には「三人の黄門様の合作であります」とあり、水戸の三名君のそれぞれの手が加わったものということができる。解説板にもあるように、「黄門様」とは必ずしも徳川光圀だけを指すわけではなく、斉昭も慶喜も黄門様なのである。ようするに「黄門」とは中納言の別称。水戸の三名君以外にも、水戸藩からは初代頼房以下、3代綱條(つなえだ/1656〜1718)、6代治保(1751〜1805)、8代斉脩(1797〜1829)、10代慶篤(1832〜68)が中納言つまり黄門となっているそうである。
   
 
 
 観光を終えて、偕楽園ユースホステルに入った。意外にも宿泊客は僕一人。面白い出会いどころではなかった。
 広い和室に一人きりというのも寂しいが、頼んでいた夕食を一人で食べるのはもっと寂しかった。と言うよりも、僕一人のために作ってもらったのが何だか悪い気がした…。
    
 
 

想い出の九十九里浜〜千葉県〜

愛しき日々〜福島県〜  

                              
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