日本一周第3回「白い雲のように」 

第4日「ヒロシマのある国で〜広島県〜」
 

2006年8月 8日(火) 

 
 
 岡山はほとんど素通りで広島県へ入った。

   

 

 


9:18 岡山 →(のぞみ)→ 広島 →(山陽線)→ 宮島口 10:22
宮島口 →(宮島フェリー)→ 宮島
 

 
 
〈宮島〉
 
 



舞楽 蘭陵王像
 

 
 


 夜は広島市内で友人と会う約束になっていた。なので、それまでの間、宮島へ出かけることにした。
 宮島口駅から宮島口港に向かうと、不思議な像が建っている。「舞楽 蘭陵王」とある。「蘭陵王」とは、舞楽の演目の一つで、北宋の蘭陵王・高長恭(〜573)を主人公としている。蘭陵王は美形であったため、その美貌で兵士たちの士気を下げてはならないと常に仮面をつけて戦っていたという。
  

 
 



宮島
 

 
 
 宮島口からはフェリーで宮島を目指す。
 すると、目の前に厳島神社の鳥居が見えてきた。
   
 
 





厳島神社の鳥居
 

 
   
 宮島に上陸。
   
 
 



日本三景碑
 

 
   
 宮島は日本三景の一つ。すでに松島天橋立を訪ねていたので、これで3つとも制覇したことになる。
   
 
 



宮島の鹿たち
 

 
 
 すると鹿が集まって来た。
 宮島と言えば鹿。僕は母の田舎が広島県なので、宮島にも子供の頃から何度も来ている。そういえば小さい時ここの鹿に追いかけられたことがあったなあ…。
  
 
 



観光客と遊ぶ鹿たち
 

 
   
 見ると、観光客が鹿に襲われている(笑)
 鹿は奈良(参照)でも散々遊んできたが、奈良の鹿に比べ宮島の鹿は荒っぽい気がする。観光客の持っているガイドブックを横からひったくって食べている鹿がいた。だいいち、 奈良の鹿と違って餌をあげてもお辞儀をしないじゃないか。
     
 
 



はいポーズ


のんびり午睡

 

 
  ◆厳島神社(HP  
 



石の鳥居
 

 
   
 鹿と遊んでいる場合ではない。宮島と言えば世界遺産の厳島神社を見なければなるまい。
 参道入り口の石の鳥居をくぐって、厳島神社へ向かう。
  
 
 



厳島神社大鳥居
 

 
   
 厳島神社というと、平清盛(1118〜81)によって1168(仁安3)年頃社殿が建てられたことで知られているが、神社そのものの由来は相当に古く、593(推古天皇元)年にまで遡るそうだ。平氏一門が栄えると同時に厳島神社も栄えたが、1185 (元暦2)年に平家が滅亡してからは荒廃した。その後、戦国時代に毛利元就(1497〜1571)が庇護したことで再び栄えるようになる。そういえば大河ドラマ「毛利元就」 (1997年)のオープニングでここ厳島神社の映像が登場していたことを思い出す。
 厳島神社のシンボルは海中からそびえる大鳥居(重要文化財)。
     
 
 



本殿
 

 
 
 厳島神社の朱塗りの本殿は、災害により何度も建てなおされ、現在のものは毛利元就が1571(元亀2)年に改築したものだが、平清盛当時の造営当時の姿を伝えているそうである。
  
 
 



厳島神社入り口


回廊
 

 
 
 国宝に指定されている回廊。床板には釘は使われず、板と板の間に目透しという隙間がある。これは、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海水や雨水を海へ流す役目を果たしているそうだ。
     
 

 



平舞台
 

 
 
 同じく平舞台と高舞台も国宝に指定されている。
  
 
 



能舞台
 

 
 
 重要文化財の能舞台は、満潮の時には海の上に浮かぶが、海上の能舞台と言うのは日本唯一らしい。1568(永禄11)年の観世太夫の来演が始まりとされ、1605(慶長10)年に福島正則(1561〜1624)が常設の能舞台を寄進している。現在の舞台が建設されたのは、1680(延宝8)年。宮島は広島藩に属してい たが、当時の藩主は4代・浅野綱長(1659〜1708)。浅野家は播州赤穂藩の浅野家の本家に当たるが、綱長の時代にちょうど元禄赤穂事件(1701〜1703年)が発生している。
     
 
 



反橋
 

 
   
 同じく重要文化財の反橋。鎌倉時代にはすでにあったそうだが、現在の物は1557(弘治3)年に毛利元就・隆元(1523〜63)父子により再建された。
 この橋を渡れるのは天皇からの使者だけだったため、別名「勅使橋」ともいう。
  
 
 


鏡の池
 

 
    
 「鏡の池」は干潮時のみに現れる池である。水が湧き出ており、干潮時に火災が発生した際には消火用の水の役割を果たしたそうである。
   
 
 



卒塔婆石
 

 
    
 「卒塔婆石」は鹿ケ谷事件(1177年)で平家転覆を企てて鬼界ヶ島に流された平康頼(1146〜1220)が、京に住む老母を偲んで2首の歌を千本の卒塔婆に書いて流したところ、そのうちの1本が流れ着いた場所にあった石だそうである。この卒塔婆を見て感銘を受けた清盛 は康頼の赦免を決めたそうである。
     
 
 



 

 
  ◆大願寺  
 



大願寺山門
 

 
   
 厳島神社以外にも宮島には見どころがある。
 厳島神社の西回廊から出ると、大願寺に出る。大願寺は建仁年間(1201〜33)に了海によって開かれた真言宗の寺院である。本尊は薬師如来像(重文)だが、日本三大弁財天の1つとされる弁財天像も安置されている。かつては厳島神社の主神・市杵島姫命と弁財天が同一視されていたが、明治の神仏分離令によってここに遷された。
  
 
 



本堂
 

 
 
 本堂奥の書院は、第二次長州征伐の際に、幕府側の勝海舟(1823〜99)と長州側の広沢真臣(1834〜71)らが講和会議を行った場所だそうである。 
  
 
 



本堂入口
ただし中には入れない
 

 
 
 龍神の祀られた社があるが、竜神は弁財天の使いなのだそうである。
  
 
 



龍神を祀る社
 

 
  ◆厳島神社五重塔  
 



五重塔
 

 
 
 高台の上にひと際目を引く五重塔。1407(応永14)年建立で国の重要文化財。もともとは金剛寺に属していたが、廃仏毀釈の際に厳島神社の所属になった。
  
 
 



厳島神社から望む
 

 
 
 残念ながら中を見学することはできない。
   
 
  ◆千畳閣  
 



千畳閣
 

 
 
 五重塔のすぐ隣にある建物は千畳閣。厳島神社ほどの壮麗さは無いが、どことなく趣のある建物である。
 千畳閣は、豊臣秀吉(1537〜98)が戦没者の慰霊のため1587(天正15)年、大経堂として安国寺恵瓊(1539〜1600)に命じて建てさせたが、秀吉の死により未完成に終わった。畳857枚分の広さがあることから、「千畳閣」と呼ばれている。
 明治の神仏分離の際に本尊の釈迦如来像は大願寺に移され、厳島神社の末社として秀吉と加藤清正(1562〜1611)を祀る「豊国神社」となった。
  
 
 



厳島神社を見下ろす
 

 
 
 高台からは厳島神社の境内が見下ろせる。
  
 
 



千畳閣の中
 

 
 
 千畳閣の中にも入ってみた。さすがはその名に恥じず、広々としている。夏の盛りではあったがひんやりして涼しかった。
  
 
  ◆宮島大杓子  
 



宮島大杓子
 

 
 
 宮島はしゃもじが名産品なのだそうである。確かに土産物店にはしゃもじが多く売られている。その起こりは寛政の頃、宮島の光明院の修行僧・誓真 (1742〜1800)が、当時特に産業がなかった宮島のために、弁天のもつ琵琶と形が似たしゃもじを参拝の土産として売り出すことを島民にすすめたことに始まるのだという。
 商店街に巨大なしゃもじ「宮島大杓子」が飾られている。長さ7.7メートル、最大幅2.7メートル、重さ2.5トン。木材は樹齢270年のケヤキである。1983(昭和58)年に2年10ヶ月の歳月をかけて製作されたが、展示場所が決まらず、14年もの間倉庫に収められていた。1997(平成8)年、厳島神社が世界遺産に登録されたのを機に、現在の場所に展示されるようになった。
   
 
 



名物焼きカキ
 


 
 
 ふと見ると商店街では牡蠣を焼いていた。牡蠣は宮島名物でもあるらしい。
  
 
 



鹿ソフトクリーム
 

 
 
 鹿ソフトクリームなるものがあるので注文してみたところ何のことはない、麦チョコを鹿の糞に見立てたものらしい。

  

 
 



 

 
 
 こういったものを食べながら、再び鹿としばし戯れ、宮島を後にした。
   
 

 


宮島 →(宮島フェリー)→ 宮島口
 

 
 



広島名物あなごめし
 

 
 
 宮島口では、名物「あなごめし」を食べた。甘く煮たあなごをご飯を上に乗せた丼で、東京で言えば「うな重」みたいなもの。実際、広島ではうなぎよりもあなごのほうをよく食べるとか。
 宮島口の有名店に行こうと思ったら列が出来ていたので、その近くのすいている店を選んでしまった。あまりに暑かったので生ビールを飲もうと思ったらなんと売り切れ。どうやらみんな考えることは同じらしい。しかたがないので、瓶ビールを注文した。
         
 

 


宮島口 →(山陽線)→ 広島
 

 
 
〈広島〉
 
 
 広島に到着。まずは駅前のホテルにチェックインした。
  
 
  ◆浄光寺山門  
 



浄光寺山門
 

 
 
 友人との約束までは時間があったので、平和記念公園に行こうと思っていた。ホテルを出てすぐのところにあった寺院・浄光寺の山門の説明書きを何気なくみたら、これが何と被爆建物とのこと。原爆の傷跡は今なお街のあちらこちらに残っている。
 浄光寺は爆心地から2.1キロの地点に当たる。山門は1690(元禄3)年頃に建てられたものだが、本堂が倒壊し全焼した中で奇跡的に焼け残った。周りの建物もほとんどが焼け、焼け野原に山門だけがぽつんと取り残されたそうである。爆心地付近の木造建築がこして原爆を耐え抜いたというのは、奇跡にも近いのではないか。
  
 
 



広島市民球場
 

 
 
 平和記念公園へ向かう途中、広島市民球場の前を通った。広島市民球場は広島東洋カープの本拠地の球場。1957年に建てられてから50年が経ち老朽化による取り壊しがすでに決まっていた。プロ野球公式戦は2008年度まで(2009年はオープン戦のみ開催)で、2010年に閉鎖・取り壊されている。
    
 
  ◆原爆ドーム(HP  
 



原爆ドーム
 

 
 
 広島のシンボルともいうべき原爆ドーム前に到着。正式名称は「広島平和記念碑」で世界文化遺産にも「負の遺産」として選ばれている。
    
 
 



 

 
 
 原爆ドームは爆心地から約200メートルのところにある。もともとは広島県産業奨励館であった。
 1945(昭和20)年8月6日8時15分に投下された原子爆弾によって煉瓦と骨組みを残して全焼したが、奇跡的に全壊をまぬがれ、被爆建物として残った。原爆の惨禍を後世に伝える建物として保存され、現在に至っている。
    
 
 




原爆ドームの慰霊碑
 

 
 
 実際の爆心地は原爆ドームから200メートル東に行った「島病院」の場所である。島病院は原爆によって跡形もなく崩壊し、80人余りの職員と患者は全員が即死した。戦後再建され、「島外科」 (2009年からは「島外科内科」)として現存している。
   
 
 



爆心地
 

 
  ◆広島平和記念公園(HP  
 



平和記念公園から原爆ドームを望む
 

 
 
 続いて広島平和記念公園へ向かった。
  
 
 





レストハウス(旧燃料会館)
 

 
 
 元安橋を渡ったところにある建物は観光案内所として使われているレストハウス。ここは元の燃料会館。被爆建物で現在も使用されているという点ではかなり貴重である。
    
 
 



原爆の子の像
 

 
 
 原爆の子の像は、折り鶴を持った少女の像。2歳で被爆し、10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子(1943〜55)をモデルとしている。彼女の兄の息子はバンド・GOD BREATHのボーカルの佐々木祐滋(1970〜)で、禎子について作詞・作曲した歌「祈り〜INORI」はクミコ(1954〜)が歌いヒットしている。
    
 
 



原爆死没者慰霊碑
 

 
 
 ここ平和記念公園では、毎年8月6日に、原爆記念日の平和式典が行われている。今年(2006年)も2日前に行われたばかりである。原爆の投下された8時15分には1分間の黙祷が捧げられ、原爆死没者慰霊碑にその年亡くなった被爆者の名簿が収められる。被爆者ということで詩人・原民喜(1905〜51)や、動物物真似の3代目・江戸家猫八(1921〜2001)らといった著名人の名前も収められているはずである。
             
 
 



平和の火(手前)と広島平和記念資料館
 

 
    
 平和記念資料館にも行ってみた。広島には何度も来ているのだが、資料館に入るのはすごく久しぶりである。
    
 
 



ジオラマ(原爆投下前)


ジオラマ(原爆投下後)
 

 
 
 被爆者の遺品や、原爆投下直後の広島を再現した展示など、その迫力ある展示は何度もても胸を締め付けられるような気がする。
    
 
 



被爆者を再現した人形


市立中学校三人の遺品
 

 
   
 広島に投下された原子爆弾によって当時35万人いた広島市民のうち10万人以上が亡くなった。そして今なお後遺症に苦しむ人たちがいる…。人類は何と愚かな過ちを犯してしまったのだろう。ここに 来るたびいろいろ考えさせられる。
      
 
 



被爆したアオギリ
 

 
   
 公園内には被爆したアオギリの木がある。このアオギリの木はもともとは爆心地から1.5キロのところにあった逓信局の庭に3本生えていたが、原爆によって半分が焼けてしまう。その後、1973年に郵政局庁舎の建て替えに伴って、3本のアオギリは現在地に移植された。そのうちの1本は枯れてしまい、現在は2本だけが残っている。
       
 
 



峠三吉詩碑
 

 
 
 詩人・峠三吉(1917〜53)は爆心地から3キロの広島市翠町で被爆。1951年「原爆詩集」を発表し、原爆の恐ろしさを訴えた。
 その峠三吉の詩碑が建っている。「原爆詩集」の冒頭に収められた「にんげんをかえせ」が刻まれている。

     ちちをかえせ ははをかえせ
     としよりをかえせ 
     こどもをかえせ
 

     わたしをかえせ わたしにつながる 
     にんげんをかえせ

     にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
     くずれぬへいわを 
     へいわをかえせ

数年前のことだった、8月6日の原爆記念日にNHKを見ていたら、この詩が朗読されていた。聞いていてとても恐くなったのを覚えている。
     

 
 



祈りの像
 

 
   
 平和記念公園にはまだまだ色々な見所があるが、友人との待ち合わせもあったため、見学もそこそこに町の方へと出かけた。
   
 
 







海の幸の数々
 

 
   
 今回会う友人は、大学時代のクラスメート。彼は故郷の広島に就職したこともあって、僕は割と頻繁に広島へと来ている。
 彼と会うのは、ネパールに行く前では最後になる。そんなわけで、瀬戸内海の海の幸をたっぷりと堪能した。
  
 
 



〆はお好み焼き
 

 
 
  さんざん飲んで2軒目にはお好み焼き屋に行った。広島県人は飲みの〆でお好み焼きなのだそうだ。ちなみに僕にも広島県人の血が半分入っているので、そばの入った広島風のお好み焼きが大好きである。鉄板の上に乗ったお好み焼きをヘラで食べるのが正式なものらしい。
  
 
 

憧れ遊び〜兵庫県・岡山県〜

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