日本一周第2回「旅人よ」 

3日目「京都慕情〜京都府・福井県〜」
 

2006年7月17日(月)

 
 


〈天橋立〉

 
 



 

 
 
 今回の旅で初めての温泉。朝から浸かって充分に堪能した。
 この日も朝からの雨。しかし宿でゆっくりするというのは性に合わない。ホテルで傘を借りて、さっそく日本三景の一つ天橋立を見学に出かけた…。
    
 
  ◆智恩寺HP  
 



智恩寺山門
 

 
 
 まずは、天橋立の南側・文殊地区にある智恩寺へ出かけた。
 智恩寺は臨済宗の寺院で、雪舟(1420〜1506)の「天橋立図」にも描かれている由緒正しき寺院である。
 寺伝によれば、醍醐天皇(885〜930)の延喜年間(901〜23)の創建という。本尊は文殊菩薩で、奈良県桜井市の安倍文殊院、京都市の金戒光明寺(または山形県高畠町の大聖寺)と共に、日本三文殊の一つとされる。

 入口である山門は、1767(明和4)年、7年に及ぶ工事の末に完成した。再建にあたって後桜町天皇(1740〜1813)から黄金を下賜されたことから「黄金閣」とも称される。
  
 
 



多宝塔
 

 
 
 山門をくぐると、重要文化財の多宝塔がある。1501(明応10)年に完成。円形の塔身の上重に相輪をあげ、下重には方形の裳階(もこし)を付けており、丹後地方唯一の室町時代の遺構だそうだ。  
  
 
 



文殊堂
 

 
 
 本堂は文殊堂。雪舟の「天橋立図」にもこの文殊堂らしき建物が描かれているが、現在のものとは異なっている。現在の文殊堂は1655(明暦元)年に修理された。なお、本尊の文殊菩薩は秘仏とされ、年に5回だけ開帳される。
    
 
 



石造地蔵菩薩立像
 

 
 
 境内に建つ3体の古い石像は「石造地蔵菩薩立像」。そのうち1体(写真上の右側の像)は1427(応永34)年の作。雪舟の「天橋立図」にもそれらしき姿が描かれている。
   
 
 



力石
 

 
 
 卵型に磨かれた3つ石は「力石」。祭りや集会の余興の際にこの石を持ち上げて力自慢を競ったそうだ。石の重さはそれぞれ130キロ、100キロ、70キロという。

 

 
 



鉄湯船
 

 
 
 手水鉢として使われている鉄湯船は、もともとは湯船として使われていたもの。1290(正応3)年、河内の国の鋳物師・山川貞清によって制作されたもので、国の重要文化財にも指定されている。

  

 
 



無相堂の文殊菩薩像
 

 
 
 本尊の文殊菩薩像は秘仏なので見ることはできないが、無相堂に奉納された文殊菩薩像を見ることができた。2004(平成16)年の台風23号で倒れた天橋立の松193本の再生への願いをこめて学生たちによって作られたもの 。
  
 
  ◆天橋立  
 



日本三景碑
 

 
 
 それでは天橋立に向かおう。言わずと知れた日本三景の一つ。このうち宮城の松島にはすでに訪れている(参照)。もちろん広島の宮島も後日訪ねる予定である。
  
 
 



 

 
 
 天橋立は、智恩寺のある文殊から、北側の府中を結ぶ全長3.6メートルの砂嘴(さし)である。
 幅は短いところで20メートルから、長いところで170メートルある。
  
 
 



松並木
 

 
 
 その天橋立には松が植えられており、その松並木は8,000本に及ぶ。端から端まで歩いて約一時間。雨ではあったが、その景色を楽しみながら歩くことができた。
   
 
 



宮津湾側海岸
 

 
 
 天橋立は海を分断する形になっており、東側が宮津湾、西側が阿蘇海である。
 宮津湾(写真上)は日本海に接していることもあり、かなり波が荒かった。
    
 
 



阿蘇海側海岸
 

 
 
 一方、阿蘇海(写真上)のほうは、内海ということもあり、ほとんど波の無い穏やかな海。
 天橋立の左右で、こうも海の様子が違うというのも面白い。2つの海は、天橋立の南のつけ根の文殊の切り戸によって結ばれているだけである。 
    
 
 



与謝野鉄幹・晶子歌碑
 

 
 
 天橋立と言えば、百人一首の小式部内侍(999頃〜1025)の歌

 

  大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天橋立

が有名であるが、他にも様々な文学に読まれている。
 与謝野鉄幹(寛/1873〜1935)・晶子(1878〜1942)夫妻も天橋立を訪れている。鉄幹の父・礼厳(1823〜98)は天橋立の北・京都府与謝郡出身であったことから、 二人は何度も訪れていた。1930(昭和5)年5月に訪ねた際には、鉄幹45首、晶子60首の短歌を詠んでいる。
 鉄幹・晶子夫妻の歌碑も建っている。2006(平成18)年建立というから比較的新しいもの。

  小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波  寛
  人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立  晶子

晶子は、1935年に鉄幹が亡くなった後、1940年にも一人天橋立を訪ねているが、帰京後病を得た彼女にとってそれが最後の旅になった。
     

 
 

「石見重太郎仇討ちの場」碑
 
 
 


 天橋立は石見重太郎が父の仇討ちをした場としても知られている。石見重太郎は講談でお馴染みの人物で、父の仇を探しながら全国を漫遊。道中、狒々(ひひ)や大蛇を退治する。ついに天橋立で、父の仇・広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門の3人を討ち取る。それは、1590(天正18)年とも、1632(寛永9)年のこととも言われている。一説に、重太郎は大阪夏の陣で討ち死にした豊臣方の武将・薄田隼人正兼相(〜1615)と同一人物であるという。とすると、1632年仇討ちというのはあり得なくなってしまうが…。
   

 
 

石見重太郎試し切りの石
 
 
 
 仇討ちの場の近くには、重太郎が試し切りをしたという石も残っている。
  
  
 
 



磯清水
 

 
 
 石見重太郎仇討ちの場のすぐ向かいに井戸がある。「磯清水」と呼ばれ、日本名水百選にも選ばれている。四方を海に囲まれながらも、その水は塩気をまったく含んでいないという。というなら、ぜひとも味わってみたいところ。ところが…
   
 
 



 

 
 
…とのことである。残念。
   
 
 



天橋立神社(橋立明神)
 

 
 
 天橋立神社あるいは橋立明神は、かつては皇大神を祀り、いわゆる元伊勢を移したものとの説がある。実際は信仰が流行した平安末期から鎌倉時代にかけて、文殊堂境内鎮守として祀られたものと考えられている。
   
 
 



 

 
 
 天橋立を歩いている最中、時々強い風が吹いてきた。おかげで、ホテルで借りた傘が壊れてしまった。幸い、雨も弱まってきたようなので、傘を捨てていくことにした…。
  
 
  ◆元伊勢籠神社(HP  
 



元伊勢籠神社
 

 
 
 天橋立を渡り切ると、元伊勢籠(この)神社がある。
 社伝によると、その由来は神代の時代にまでさかのぼるという。もともとは豊受大神を祀ってきたが、10代崇神天皇の時代に天照大神も祀られるようになった。11代垂仁天皇の時代に天照大神が、21代雄略天皇の時代に豊受大神がそれぞれ伊勢神宮に移り、それ以後「元伊勢」と称されるようになった。現在の祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと/別名・天火明命)。天照大神の孫にして天孫・邇邇芸命の兄に当たる人物である。
    
 
   


狛犬(阿形)
 

 
   
 鳥居をくぐると神門の脇に狛犬が座っている。鎌倉時代の作で、重要文化財に指定されている。作者の一心で魂が入っていたため、抜け出して人びとを脅かしたため、石見重太郎によって足を切られたという。
   
 
 



狛犬(吽形)
 

 
 
 神門をくぐると、拝殿があり、その奥に本殿がある。本殿は伊勢神宮とほぼ同じ形式の唯一神明造りである。
      
 
 



拝殿
 

 
 
 境内には倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)の像がある。海部(あまべ)宮司家の4代目の祖で、神武天皇の東征の際、明石海峡に亀に乗って現れ、神武天皇一行を先導したとされる。その功で「倭宿禰」の称号を賜ったとされる。
 海部氏は現在までで82代を数えるが、神社に伝わる海部氏系図は、現存する日本最古の系図として1976(昭和51)年国宝に指定された。
  
 
 



倭宿禰命像
 

 
  ◆傘松公園  
 



傘松公園から天橋立を望む
 

 
 
 天橋立を眺めるためには、傘松公園の高台に登るのが良い。
 傘松公園には、ケーブルカーで登ることができる。
 傘松公園から見る天橋立は、「斜め一文字」に見える。
  
 
 



股のぞきのイメージ
 

 
 
 天橋立といえば「股のぞき」。股の間から天橋立を覗き見ると、まるで天に架かった橋のように見える。
 「丹後国風土記(逸文)」によると、イザナギの命が天に通おうと考えて橋を作ったが、命が寝ている間に倒れてしまったという
(*)
 

* 「風土記」(日本古典文学大系)1958年4月岩波書店
  
  
 
 


黒豆ソフトクリーム
 

 
 
 再びケーブルカーで下へ降りる。
 丹波の黒豆を使った黒豆ソフトクリームで一息つく。黄な粉のような味わいが絶品。また、丹波名物焼ポン栗を購入。これは電車の中で食べるため。
  
 
 



ポン栗
 

 
 
 さすがに再び天橋立を1時間かけて歩くという気にもならない。そこで帰りは観光船に乗った。
   
 
 



天橋立観光船かもめ1号
 

 
 
 船が陸を離れると、すぐ横をカモメたちがついてきた。なんと船からカモメに餌をやることができるのだ。
  
 
 



 

 
 
 天橋立の南側である文殊地区までは10分少々。智恩寺のすぐ近くに着く。
  
 
   


智恵の輪灯籠
 

 
 
 波止場のすぐ横に智恵の輪灯籠がある。江戸時代には文字通り輪の中に灯がともされていたそうだ。この智恵の輪を3回くぐれば文殊様の知恵を預かることができるそうだが…さすがに実行するのは無理ではないか?
  
 
 



丹後地ビール
 

 
 
 さて、天橋立の滞在も残り少しとなった。まずは丹後地ビール。昼食には何を…と考えていたら、「名物あさりうどん」の張り紙を発見。さっそく食べてみることにした。あさりの出汁がしっかり利いていておいしかった。
  
 
 



あさりうどん
 

 
 
 次の目的地は福井県の敦賀。電車を乗り継いで4時間である。
 長い電車旅のお供には天橋立ワイン黎明と、焼ポン栗。
    
 
 



天橋立ワイン黎明と焼ポン栗
 

 




 


12:07 天橋立 →(タンゴ鉄道)→ 西舞鶴 →(舞鶴線)→ 東舞鶴 →(小浜線)→敦賀 16:35
 

 
 


〈敦賀〉

 
 



都怒我阿羅斯等像
 

 
 
 ようやくのことで福井県の敦賀に到着。駅前には都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の像が建っている。
 この都怒我阿羅斯等は、かつて角鹿(つぬが)と呼ばれていた敦賀の地名の由来となった人物だそうだ。「日本書紀」によると、都怒我阿羅斯等は朝鮮半島の加羅から崇神天皇に仕えるためにやってきた。だが、崇神天皇は崩御したばかりで、彼は次の垂仁天皇に3年仕えた後、故郷に帰って行った。
 史実かどうかはわからないが、この地域が朝鮮半島と古くから交流があったことをうかがわせる。
    
 
 



 

 
 
 ホテルにチェックインして、すぐに夕食を食べに出た。日本海が近いのだから、当然海の幸を。吟醸生酒「まるさん」は癖があるけど味わい深い。つまみは“へしこ”(鯖の糠漬)の刺身。これまた濃厚な味で日本酒にぴったりだった。
 昨晩はコンビニ弁当だった夕食の仇を取った(笑)
  
 
 



へしこの刺身
 

 
     
 

デカンショ節〜 兵庫県・京都府〜

越前恋唄〜福井県・奈良県〜  
 


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