日本一周第2回「旅人よ」 

5日目「まほろば〜奈良県〜」
 

2006年7月19日(水)

 
 


 奈良には2泊する。今回の旅で2泊するのは初めて。それだけ奈良には見どころが多いということだろう。奈良は「古都奈良の文化財」として日本で初めての世界文化遺産に登録されている。
  

 

 


 奈良 →(関西本線)→ 法隆寺
 

 
 
〈斑鳩〉
 
 
◆法隆寺(HP
 
 



法隆寺 金堂と五重塔
 

 
 
 天気はかなりの大雨。傘をさしていても濡れてしまう。そこでコンビニでビニールのレインコートを購入した。
 そうした中を法隆寺へ向かった。
 法隆寺、別名・斑鳩寺ももちろん世界文化遺産であるが、「古都奈良の文化財」とは別に、「法隆寺地域の仏教建造物」として単独で登録されている。607(推古天皇15)年に聖徳太子こと厩戸皇子(574〜622)によって創建された、世界最古の木造建築である。
   
 
 



南大門
 

 
 
 法隆寺への入り口となるのは南大門。創建時のものは、1435(永享7)年に焼失。室町時代の1438(永享10)年に再建された。国宝に指定されている。
  
 
 



南大門を入ったところ
突き当たりに中門
その奥に五重塔が見える
 

 
 
 大雨ではあるが、修学旅行と思しき子供たちの姿が見える。
  
 
 



中門
 

 
 
 南大門をくぐるとその突き当たり、少し小高くなったところに西院伽藍がある。その入口である中門と、そこから延びる廻廊は、共に飛鳥時代に建設された国宝である。もっとも、7世紀の再建というから、聖徳太子当時のものではない。
 中門の左右には金剛力士像が建つ。また、門の真ん中に柱が建っているのが珍しい。これは、梅原猛(1925〜)「隠された十字架」(新潮文庫)によると、聖徳太子の怨霊を封じるためのものであ ったという。
 ただ、残念ながら現在はこの門をくぐることはできず、中に入るのは廻廊の隅の入り口からである。
   
 
 



五重塔
 

 
 
 31.6メートルの五重塔は、世界最古の五重塔。釈迦の骨である仏舎利を奉安している。そのため、法隆寺の中でも最も重要な建物である 。何でも、5つの屋根は上にいくほど小さくなっているそうで、遠近法でより高く見える。
  
 
 



金堂
 

 
 
 五重塔の並びにある金堂には、法隆寺の本尊を安置している。入母屋造の二重仏堂である。
 堂内には、聖徳太子のためにつくられた国宝の釈迦三尊像、その父・用明天皇(〜587)のための薬師如来座像(国宝)、母・穴穂部間人皇后(〜622)のための阿弥陀如来座像(重文)、日本最古の四天王立像(国宝)等が安置されている。
 世界的に有名な法隆寺金堂壁画は、1949(昭和24)年壁画模写作業中の火災によって焼損。この火災がきっかけとなって文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーと制定された。
   
 
 



三経院
 

 
 
 西院伽藍を出ると、東と西にそれぞれ東室、西室と呼ばれる僧房がある。共に鎌倉時代に建てられた国宝だが、西室の南側は三経院となっている。三経院は聖徳太子が「三経義疏」で勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈されたことにちなんでいる。現在でも夏に三つの経典の講義が行われている。 
     
 
 



東室
 

 
 
 東室もやはり国宝。この建物の東側にある妻室(重文)は、従者が寝泊りする小子房であった。
     
 
 



聖霊院
 

 
 
 東室の南側は聖霊院(国宝)となっている。 鎌倉時代になって聖徳太子信仰が高まってきたため、1121(保安2)年に聖徳太子の尊像を安置するために、東室を改造して造られた。現在のものは、1284(弘安7)年に改築されたもの。
      
 
 



綱封蔵
 

 
 
 聖霊院の東にある綱封蔵(こうふうぞう/国宝)は、寺宝を保管するための蔵として、奈良時代に建てられた。かつてはこのような蔵が33棟あったという。
     
 
 

 

東大門
 

 
 
 西院伽藍を東大門(国宝)から出て、東院へ向かう。東大門は、棟が三つ併せてある三棟造りという珍しい構造で、現存する門としては最古のものである。
      
 
 



夢殿
 

 
 
 東院伽藍では、八角形の夢殿(国宝)がひときわ目を引く。聖徳太子が住んでいた斑鳩宮跡に、行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲び739(天正11)年に建築。
 堂内に設置されている救世観音像は聖徳太子の等身像とされるが秘仏で、春と秋の年2回だけ公開される。
    
 
  ◆中宮寺(HP  
 



中宮寺
 

 
 
 法隆寺の周りには様々な寺院がある。その一つが中宮寺である。中宮寺は聖徳太子の母・間人皇后の請願によって建てられたものとされるが、一説には聖徳太子自身の建立ともいう。
    
 
 



中宮寺の門
 

 
 
 中宮寺は、法隆寺の東院伽藍に隣接しており、法隆寺からそのまま中に入ることができる(拝観料は別途必要)。
 もともとは、ここより400メートル東にあったとされる。間人皇后は、聖徳太子の居宮である斑鳩宮を中心として、西の法隆寺と対照的な位置に中宮寺を建立した。その後、戦国時代の16世紀末に寺院は焼失。この地へ逃れてきた。

 中宮寺のハイライトは、何といっても本尊の「如意輪観世音菩薩半跏像」であろう。国宝にも指定されたこの像、台座に腰かけ、右足を左の腿に乗せ、右手の指を頬に当てた、いわゆる思惟半跏像である。物憂げな表情で、口元にはうっすらと微笑みをたたえている。観る者に強い印象を与えざるを得ないこの像。一説に、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)作「モナ・リザ」 と共に「世界三大微笑」だと言われている。
       
 
  ◆法輪寺(HP  
 



法輪寺
 

 
 
 法隆寺東院や中宮寺より北に15分ほど行くと、法輪寺がある。法輪寺は別名・三井寺とも言うが、これは聖徳太子がこの地に3つの井戸を移したことにちなんでいる。法輪寺の由来は諸説ある。622(推古30)年、聖徳太子が病気になった際、その子・山背大兄王が建立したというものと、670(天智9)年に百済の開法師、円明師、下氷新物の3人が建立したというものである。
  
 
 



法輪寺三重塔
 

 
 
 かつては法隆寺の2/3もの規模を誇っていたそうであるが、1645(正保2)年の台風によって主な建物は倒壊。唯一、三重塔だけが破壊を免れた。その三重塔も1944(昭和19)年、落雷によって焼失したため、現在のものは1975(昭和50)年に再建された 。
  
 
 



金堂
 

 
 
 本尊を祀る金堂も台風で倒壊したが、1761(宝暦11)年に再建されている。もっとも老朽化が進んだために、現在本尊の薬師如来像を始めとする主な仏像は鉄筋コンクリート製の収蔵庫に移されている。
   
 
  ◆法起寺(HP  
 



法起寺
 

 
 
 法輪寺の東にある法起寺は、「法隆寺地域の仏教建造物」として法隆寺と共に世界文化遺産に指定されている。606(推古14)年に聖徳太子が法華経を講義した岡本宮を、その死後寺に改めたものとされる。
   
 
 



三重塔
 

 
 


 法起寺の建造物の中で現存最古のものは三重塔(国宝)で、708(慶雲3)年の創建で、三重塔としても日本最古である。建立後再三に渡って修復が行われたが、室町時代にこの寺が衰えた際も取り壊されず、現在まで伝わっている。
      

 
 



講堂(本堂)
 

 
 
 荒廃していた法起寺は、江戸時代に真政圓忍とその弟子たちによって再興された。1678(延宝6)年に三重塔が修復されたのを始め、1694(元禄7)年には講堂(本堂)も再建されている。
   
 
 



聖天堂
 

 
     
 聖天堂は1863(文久3)年に建立。本尊として歓喜天像を祀っている。今になって考えれば、歓喜天(聖天)とはヒンズー教でも人気のあるガネーシュのことだ。
     
 

 


 法隆寺 →(関西本線)→ 奈良
 

 
 
〈奈良〉
 
 



 

 
 
 奈良へ帰ってきた。奈良は奈良公園を中心にいくつもの寺院が点在しており、それらの多くは世界文化遺産に登録されている。
 天然記念物の鹿に鹿せんべいをあげたりしながら、それらの寺院を見て歩いた。
  
 
  ◆興福寺(HP  
 



興福寺
東金堂と五重塔
 

 
 
 まずは興福寺へ。興福寺は中臣鎌足(後の藤原鎌足/614〜69)が、大化の改新の成功を願って造立した釈迦三尊像を安置するため、また、その妻・鏡王女(〜683)が夫の病気平癒を願って669(天智8)年に建立した山階寺を起源とする。創建当初は京都の山科にあったが、都が変わると共に寺も転々とし、710(和銅3)年の平城遷都と共にこの地に移り、興福寺と称するようになった。
 以来、1300年の歴史を刻んでいるが、度々火災に見舞われた。源平争乱に際しては、興福寺の僧兵が源氏方に呼応したため、1180(治承4)年平重衡(1157〜85)によって東大寺と共に焼き討ちにあう。大半の伽藍がこの際に焼け、現存する建物はすべてこの後に再建されたものである。
  
 
 



三重塔
 

 
 
 興福寺の伽藍の中で現存最古のものは三重塔である。もともとは崇徳天皇(1119〜64)の中宮・皇嘉門院藤原聖子(1122〜82)によって1143(康治2)年創建された。1180年の焼き討ちで焼失したが、その後すぐ再建されている。現在は国宝に指定されている。
  
 
 



北円堂
 

 
 
 北円堂は藤原不比等(659〜720)の1周忌に、元正上皇(661〜721)と元明天皇(680〜748)の母娘によって創建された。
 やはり1180年に焼失。1210(承元4)年に再建された。もちろん国宝である。
  
 
 



東金堂
 

 
   
 本堂にあたる金堂は、興福寺には3つあった。中金堂、東金堂、西金堂の3つである。このうち中金堂と西金堂は1717(享保3)年の火災で焼失。以来、西金堂は再建されておらず、中金堂も2015年の完成をめざして再建中とのことである。
 したがって、現存する金堂は東金堂(国宝)のみということになる。726(神亀3)年、聖武天皇(701〜56)が叔母・元正上皇の病気全快を願って創建された。6度に渡って火災で焼失。現在のものは1415(応永22)年に再建されている。
  
 
 



五重塔
 

 
 
 東金堂の並びに建つ五重塔(国宝)は仏舎利を収めている。730(天平2)年、藤原不比等の娘・光明皇后(701〜60)によって建てられた。やはり度々焼失し、現在のものは1426(応永33)年の再建。
  
 
 



 

 
 
 興福寺は、境内が奈良公園の一部となっているため、自由に見学できる。境内では鹿たちが愛嬌をふりまいている。
  
 
 



「志津香」の釜飯定食
 

 
 
 そろそろ昼食の時間だ。奈良の名物料理は何だろう。奥さんが奈良出身という友人にメールで問い合わせたところ、「ちなみに鹿は名物料理ではない」という(笑) 彼のお勧めという「志津香」の釜飯を食べることにした。海老、蟹、穴子、若鳥、ごぼうなどの入った「奈良七種釜めし」1837円。なかなかおいしゅうございました。
  
 
  ◆東大寺(HP  
 



東大寺南大門
 

 
 
 食後は東大寺へ向かった。
 東大寺ももちろん世界遺産に選ばれている、奈良を代表する寺院である。東大寺は長い歴史を持っている。そもそもは728(神亀5)年、聖武天皇(701〜56)の皇太子で夭逝した基王(727〜28)の菩提を弔うために建てられた金鐘寺が前身といわれる。その後、741(天平13)年に金光明寺と改められ、国分寺となった。東大寺の名前が用いられるようになったのは、747(天平19)年に大仏の建設が始まった頃である。
 東大寺と言えば国宝の南大門。962(応永2)年に台風で倒壊し、1199(正治元)年に再建された。その際に重源(1121〜1206)が中国・宋から伝わった大仏様(天竺様)が取り入れられた。
   
 
 



金剛力士像
 

 
 
 南大門には運慶(〜1224)・快慶によって造られたとされる木造金剛力士立像(国宝)が安置されている。
   
 
 

中門
 
 
 
 南大門をくぐると、大仏殿への入り口に中門(重文)がある。1716(享保元)年頃の再建。
  
 
 



金堂(大仏殿)
 

 
 
 東大寺の本尊は盧舎那仏像(国宝)。要するに大仏様である。その大仏を安置するのが金堂(大仏殿/国宝)である。度々焼けて、現在のものは、1691(元禄4)年に再建された。
  
 
 



盧舎那仏像
 

 
 
 大仏は、聖武天皇の発願で、745(天平17)年に制作が始まり、752(天平勝宝4)年に開眼供養会が行われた。大仏殿と同様、度々焼けており、創建当初のものは、台座と腹、指などの一部とのこと。
 もちろん、大仏を見るのは初めてではないが、何回見てもやはり大きいと感じる。
   
 
 



盧舎那仏像
 

 
 
 次いで、春日大社へ向かうことにした。場所がよくわからなかったので、その辺にいた鹿に、「こっちでいいの?」と聞いたところ、みんな一斉に頷いた。なるほどこっちでいいのか…と思ったら、間違っていた。まったく鹿はあてにならない(笑)
 奈良の鹿がお辞儀をするのは有名である。なんとも丁寧だ。しかしなぜ、奈良の鹿がお辞儀をするのかはよくわかっていないらしい。まあ、神の遣いだからということにしておこう。
   
 
 



 

 
  ◆春日大社(HP  
 



 

 
 
 こうして春日大社へやってきた。春日大社もまた、世界遺産に登録されている。春日大社は、平城京に遷都された710(和銅3)年、藤原不比等によって、藤原氏の氏神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が御蓋山(みかさやま)に祀られたことに始まっている。その後、768(神護景雲2)年に、武甕槌命に併せて、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)とその妻・比売神(ひめがみ)の4柱を祀る社殿が造営され春日大社となった。
 春日大社自体も小高い丘にあるが、その奥には御蓋山の原生林が広がっている。御蓋山は三笠山とも書き、標高297メートル。遣唐使として唐に渡ったまま客死した阿倍仲麻呂(698〜770)が故郷への念を詠んだ、

 

  天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

の歌に描かれた山としても有名である。
  

 
 



二之鳥居
 

 
 
 二之鳥居をくぐったところに、手水鉢がある。これが何と鹿の形をしている。天照大神の遣い天迦久神(あめのかくのかみ)は鹿の神霊で、武甕槌命は茨城の鹿島神社(「ああ人生に涙あり」参照)からこの地に白い鹿に乗ってやってきたのだという。現在奈良にいる鹿も、鹿島神宮の鹿の子孫だという。
   
 
 



伏鹿手水所
 

 
 
 春日大社の本殿へは、南門(重文)を通って入る。南門は、もともとは鳥居だったが、1179(治承3)年に楼門に改められた。藤原氏以外の者の参入門とされており、春日祭の勅使が藤原氏であった場合は、この門は用いられず、西にある慶賀門が使用されるそうだ。
  
 
 



南門
 

 
 
 本殿の入り口となるのが中門、その左右に伸びているのが御廊(おろう)で、共に重要文化財である。春日大社の代表的な建築物で、その奥に本殿(国宝)がある。
    
 
 



中門・御廊
 

 
 
 一息つこうと思い、境内にある荷茶屋(にないぢゃや)で春日大社でおやつを食べることにした。万葉集にちなんだ四季の野菜が添えられた「万葉粥」が有名だが、すでに昼食は済ませているので、くず餅を頂いた。もちろん吉野の葛を用いており、「奈良のうまいもの」にも登録されているらしい。
   
 
 



春日荷茶屋のくず餅
 

 
 
 帰りがけに一之鳥居(重文)を通った。1638(寛永11)年の創建で、福井の氣比神宮(参照)、広島宮島の厳島神社の鳥居と共に日本三大鳥居とされるそうである
(*)

* 諸説あり。吉野の金峯山寺、大阪市天王寺、厳島神社の3つを指す場合もある。
   
 
 



一之鳥居
 

 
 
 今回奈良を訪ねた理由の一つは、奈良の百人一首かるた会の練習に参加するためだった(かるたについては「日本競技かるた史(2)」参照)。ちょうど水曜日が奈良県かるた協会の練習日と重なっている。奈良の猿沢池の近くの公民館で行われている練習会に参加させてもらった。
  
 
 



猿沢池
 

 
   
 練習では、奈良の有力選手2人と対戦させてもらった。試合結果は、2試合ともいいところなく負けてしまったが、なかなか楽しかった。
   
 
 



日本酒「やたがらす」
 

 
   
 試合後は奈良の選手と一緒に食事に行くことになった。「やたがらす」という居酒屋へ。
 八咫烏(やたがらす)とは、日本神話において、神武天皇の東征の際に大和への道案内を務めた神様の名前だが、同じ名前の日本酒がある。
       
 
 



大和肉鶏
 

 
 
 また、名物という大和肉鶏も一緒に頂いた。
 旅の間はいつもは一人切りなのだが、この日は一緒に過ごす仲間がいるということで、お酒も進み、すっかり酔っぱらってしまった。
  
 
 

越前恋唄〜福井県・奈良県〜

なのにあなたは京都へ行くの〜奈良県・京都府・滋賀県〜  
 


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