日本一周第1回「いい日旅立ち」 

4日目「青葉城恋唄〜福島県・宮城県〜」
 

2006年6月29日(木)

 
 



会津若松地ビール・あかべこスタウト
 

 
 


 昨晩、寝る前に何か飲み物でも買おうとコンビニへでかけた。すると、会津若松の地ビール「あかべこスタウト」を売っているのを見つけた。早速購入。ところが、なんと栓抜きが無い。残念ながらその日は飲むことができなかった。このあかべこスタウト、僕と一緒にしばらく旅を続け、結局飲むことが出来たのは10日目の天童でのことだった。ちなみにしっかりとした味わいのラガービールで、その後に数限りなく飲むことになる地ビールの中でも一番の美味であった。
     

 
 

〈会津若松〉

 
 
 1986(昭和61)年12月31日。翌年早々に中学入試を控えていた僕だったが、その日だけは母親からテレビを見ることを許されて、年末時代劇スペシャル「白虎隊」(日本テレビ)を観ていた。戊辰戦争(会津戦争)当時の会津若松を舞台に、僕よりほんの少し歳上にすぎない少年たちが若い生命を散らしていくこのドラマを 、僕はとても感動しながら観た。当時大いに話題となり、大晦日の紅白歌合戦の裏番組にもかかわらず17.8%の高視聴率を稼いだのだった。
 以来、一度その舞台の会津若松を訪ねるのが僕の夢だった。だがなぜか、それから20年も経ってしまっていた。

 さっそく、ドラマのメインの舞台ともなった鶴ヶ城(会津若松城)をめざすことにした。ホテルから城までは約2キロ。ちょうどいい散歩になる。
   
 
  ◆戊辰戦役西軍没者墓地  
 



東明寺・戊辰戦役西軍没者墓地
 

 
 
 鶴ヶ城へ向かう途中、「戊辰戦役西軍没者墓地」を見つけた。会津若松は戊辰戦争最大の激戦地である。だから、敵方である西軍にも数多くの戦死者を出している。ここにはその 西軍の戦没者が葬られ、鎮魂されているのである。
 墓所は東明寺という時宗の寺院の境内にある。だが、まだ時間が早かったせいか門は開いていなかった。しかたないので、門の外から墓石を眺める だけにとどめた。土佐藩の33人、長州藩24人、大垣藩20人を始めとして、計150人がここに眠っている。
 ところで、明治政府側を「官軍」、旧幕府側を「賊軍」という言い方があるが、これはあくまで勝った側からの見方であって、あまり使うべきではないだろう。「西軍」 (明治政府側)「東軍」(旧幕府側)という言い方をするのが正しいと思う。ましてやここは負けた側の会津である。しかしながら、墓地の説明書きでは明治政府側を「西軍」と表記してあったにもかかわらず、墓石のほうは「官軍」となっていた。
      
 
 



薩摩藩戦死者墓
 

 
 
◆野口英世青春通り
HP
 
 



野口英世青春通り
 

 
 
 会津若松は、現1000円札の人・野口英世(1876〜1928)ゆかりの地でもあるらしい。隣町の猪苗代町に生まれた野口英世は、幼くして右手に大火傷を負う。15歳の時、会津若松の「会陽医院」で火傷の手術を受け、それがきっかけで医学を志した英世は、書生として会陽医院に住み込み、19歳までをこの地で過ごし た。その会陽医院は、現在「会津壱番館」という喫茶店として現存している。 
 その会陽医院のあった通りは「野口英世青春通り」と名づけられている。赤レンガ敷きで、古風な趣きのあるどこか懐かしい町並みだ。
  
 
 



旧会陽医院
 

 
 
 また、その近くには「野口英世青春広場」という公園があり、彼の像が建っていた。苦労人だった彼をしのび、「忍耐」の2文字が刻まれている。
  
 
 



野口英世青春広場の野口英世像
 

 
  ◆鶴ヶ城(会津若松城)HP  
 



鶴ヶ城跡碑
 

 
 
 そうこうしているうちに鶴ヶ城(会津若松城)址に着いた。戊辰戦争を最後まで明治政府に敵対して戦っただけに、以前訪ねた仙台の青葉城(仙台城)同様、徹底的に破壊しつくされて当時から残っているものはほとんど無い。しかし、青葉城とは違い、天守閣が復元され、立派な姿を見せている。
 鶴ヶ城は、1384(至徳元)年に蘆名氏によって築かれ、1590(天正18)年には蒲生氏郷(1556〜95)が天守閣を建てている。江戸時代には保科氏、後の松平氏の栄耀を誇った。
    
 
 



鶴ヶ城天守閣
 

 
 
 天守閣は戊辰戦争(会津戦争)後の1874(明治7)年に取り壊されるが、1965(昭和40)年に再建。2000(平成12)年には干飯櫓と南走長屋も復元されている。
    
 
 
 



鶴ヶ城干飯櫓・南走長屋
 

 
 
 天守閣の展示室の8時半のオープンと同時に入場した。ほぼ貸し切り・・・と思ったのもつかの間。突然、絶叫が聞こえてきた。すると、修学旅行の小学生共がけたたましく駆け込んで くる。せっかく20年目の感慨も何もあったもんじゃない(>_<)
  
 
 



天守閣より飯盛山方面を望む
 

 
 
 天守閣からは会津若松の町が一望できた。白虎隊が自刃した飯盛山が見える。思ったよりも距離がある。
  
 
 



麟閣入り口
 

 
 
 鶴ヶ城のもう一つの見所が茶室「麟閣」。千利休(1522〜91)の養子・少庵(1546〜1614)によって建てられたもの。父利休の粛清後、少庵は会津へ逃れ、蒲生氏郷の庇護を受ける。この麟閣は少庵が氏郷のために建てたもので、城内では数少ない、創建当時のまま残る建物である。1872(明治5)年、鶴ヶ城が取り壊されるに当たって、麟閣は茶人・森川宗久の屋敷に移築される。1990(平成2)年、再び城内に移された。
  
 
 



麟閣

 
 



麟閣・腰掛待合
 

 

麟閣内部
 

 
 
 それにしても実に立派な茶室である。僕もついつい勧められるまま抹茶と和菓子(500円)を頂いてしまった。
  
 
 

荒城の月碑
 
 
 
 城内には土井晩翠(1871〜1952)
にちなんだ「荒城の月」碑があった。あれ? 同じものが仙台の青葉城 (仙台城)にもあったはず…。どういうことだ? どうやら晩翠は青葉城と鶴ヶ城の2つを念頭に詩を書いたんだそうだ。本当なのかな? 確かに青葉城は晩翠の故郷仙台のシンボル的存在だが、戊辰戦争では直接戦場となっていない。それよりは数多くの悲劇を生み出した鶴ヶ城のほうが歌のイメージにも相応しい。そういうことで、2つの城をイメージしたのだろうか。
    
 
 



廊下橋
 

 
 
 鶴ヶ城のすぐ近くには福島県立博物館があった。僕は今回、そこは訪ねなかったのだが、博物館の前には晩翠の像が建っていた。
  
 
 



土井晩翠像
 

 
 
 ついでに県立博物館の前には元衆議院議員・伊東正義(1913〜94)の銅像もあった。1989(平成元)年の竹下登内閣の退陣の際に、後継指名を断った幻の総理大臣。代わりに跡を継いだ宇野宗佑内閣がスキャンダルによって短命に終わったことを考えると、伊東の考えは賢明だったのかもしれない。
  
 
 



伊東正義像
 

 
  ◆御薬園  
 



御薬園
 

 
 
 会津若松で僕が一番行きたかった場所は、白虎隊終焉の地・飯盛山であったが、そこはあえて最後にとっておくことにした。その前にいろいろ寄り道をした 。それにしても、会津若松は見所がたくさんある。
 その一つが御薬園(おやくえん)。そもそも蘆名盛久(?〜1444)が1432(永享4)年にこの地に別荘を建てたのが始まりで、江戸時代になってから会津藩2代藩主・保科正経(1647〜81)が別荘に薬草園を設け、3代松平正容(1669〜1731)が遠州流の庭園として整備したものである。
    
 
 



 

 
 
 回遊式の庭園(御薬園)と薬用植物園の2つに分けられている。庭園は名勝で見所も多い。すでに梅雨入りしていたが、この日は好天にもめぐまれ実に気持ちよかった。
 
 
 
 



 

 
 
 与謝野晶子(1878〜1942)もかつてここを訪れていて、歌碑が立っている。

  秋風に 荷葉うらかれ 春を放つ おん薬園の 池をめぐれば
 
 御茶屋御殿では庭を見ながら抹茶が頂けるが、すでに麟閣で飲んでいたので、遠慮しておいた。
  
 
 



与謝野晶子歌碑
 

 
  ◆天寧寺(近藤勇の墓)  
 



天寧寺
 

 
 
 次は会津武家屋敷へ向かう。その途中「近藤勇の墓」という案内板を見つけたので気になって寄ってみた。あれ? 確か会津までやってきたのは新撰組副長・土方歳三(1835〜69)らだけで、近藤勇(1834〜68)は江戸で処刑されたのでは無かったか? 確か、板橋駅前に元新撰組隊士・永倉新八(1839〜1915)が建てた近藤の墓があった。ともかく行ってみよう。
    
 
 



萱野家の墓所
 

 
 


 件の近藤の墓は天寧寺の墓地にある。天寧寺は1422(応永28)年、蘆名盛信(1408〜51)の建立により傑堂禅師が創立した曹洞宗の寺院である。
 境内の案内を見ると戊辰戦争当時の会津藩の家老だった萱野権兵衛(1830〜69)や田中土佐(1820〜69)の墓もあるようである。
   

 
 



郡長正の墓
 

 
 
 狭い山道を登ったところに萱野家の墓所があった。萱野権兵衛は戊辰戦争で会津が降伏した後に、責任を取って切腹させられた人物である。というのも、筆頭家老の西郷頼母(1830〜1903)は当時行方不明。他の家老・田中土佐と神保内蔵助(1816〜69)もすでに自刃していたため、唯一残っていた彼に責任が負わされた。ずいぶんと損をしたような人物である。ドラマ「白虎隊」では西田敏行(1947〜)が彼を演じていた。
 真っ先に見つかったのが権兵衛の息子・郡長正(1856〜71)の墓だった。
長正は権兵衛の次男であるが、父が切腹したために母方の姓を名乗っている。16歳で小倉にて自害。理由は諸説あるが、留学先の小倉で、母からもらった手紙を落として友人に罵られた屈辱をはらすためだったとも…。父子揃って悲劇的な最期だったと言える。
   
  
 
 



萱野権兵衛夫妻の墓
 

 
 
 さて肝心の権兵衛の墓なのだが、萱野家は代々権兵衛を名乗っている上に墓碑が風化していて読み取るのが難しい。どれがそうなのかなかなかわからなかった。ようやく、明治2年と記された墓碑を発見。明治2 (1969)年といえばまさしく戊辰戦争終結の年。これが権兵衛の墓に違いない。
       
 
 



田中家の墓所
 

 
 
 田中土佐の一族の墓所もあった。ただうっかりして田中土佐の諱(いみな)を忘れてしまい、墓を探すことができなかった。ちなみに「玄清」というのが彼の諱である。
  
 
 
 



近藤勇の墓(左)・土方歳三慰霊碑
 

 
 
 さて、近藤の墓は、会津までやって来た土方が、その首を埋めたものだそうである。一説には埋めたのは首ではなく遺髪とも遺品と言うが、そっちのほうがあり得そう。近藤の首を会津まで持ってきたとはさすがに考えられ にくい。戒名は「貫天院殿純忠誠義大居士」。これは会津藩主・松平容保(1836〜93)が近藤に贈ったものと言われている。
 すぐ隣には土方の慰霊碑も立っていて、こちらの戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」であった。こちらはもう少し新しい時代に作られたもののようである。
      
 
  ◆会津武家屋敷(HP)  
 



会津武家屋敷
 

 
 
 会津武家屋敷は由緒ある会津の城下町の屋敷を復元したものである。西郷頼母の屋敷である「家老屋敷」とその他の歴史建造物からなっている。
  
 
 



家老屋敷
 

 
 
 まず、家老屋敷のほうから見ていく。表門のすぐ右に西郷四郎の「山嵐」の像があった。西郷四郎(1866〜1922)というのは頼母の養子で柔道家。黒澤明(1910〜98)の「姿三四郎」(1943年東宝)のモデルとなった人物である。
     
 
 



山嵐像
 

 
 
 屋敷の中に入ることができるのは冬季のみとのこと。今は、外から観るだけである。屋敷の中には人形によって当時の生活が再現されている。
     
 
 



片長屋
 



書院壱の間
  

 
 
 武家屋敷の中には陣屋や茶室なども再現されていた。
  
 
 
 



西郷頼母の一族が自害した「自刃の間」
 

 
 
 なんと佐々木只三郎(1833〜68)の墓があった。京都見廻組の隊長で坂本龍馬(1836〜67)の暗殺にも関わったとされるこの男…。ドラマなどでは悪役になることが多いが、故郷会津では慕われているのだろう。1868(慶応4)年の鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、和歌山県の紀三井寺で死亡。墓は紀三井寺のほうにもある。
  
 
 



佐々木只三郎の墓
 

 
 
 僕も線香を買って、そっと手向けておいた。
    
 
 
  ◆ネパール博物館(鶴井筒)  
 



ネパール博物館のある鶴井筒
 

 
 
 旅先では思いがけないものに出会うことがある。武家屋敷の外でバスを待っていたところ、「ネパール博物館」なるものの看板を目にした。僕は12月からネパールに行く予定になっている。これは見逃すわけにはいかない。慌ててバスに乗らずにそちらへ向かった。
   
 
 



 

 
 
 ネパール博物館は会津料理「鶴井筒」の2階と3階にある。豪華な日本家屋の上にネパール美術というのも妙な取り合わせという気がする。仏像をはじめとしたネパールを中心に、インド、チベットの美術品が展示されていた。
   
 
 



 

 
 
 展示室は屋根裏部屋を改造したようなもので、冷房設備が無いうえに締め切られている。見ているだけで汗だくになってしまった。
     
 
  ◆飯盛山  
 



飯盛山
 

 
    
 僕の中で会津若松観光のクライマックスと考えていたのが飯盛山。白虎隊士自刃の地である。
 鶴ヶ城天守閣から見た飯盛山は意外と遠かったのだが、当時あの少年たちはこの距離を歩いていた。そう考えてバスに乗るのをやめ、約2キロの道を徒歩で向かうことにした。

 ここで白虎隊について簡単に説明しておくと…。白虎隊とは、戊辰戦争に際して会津藩によって結成された15歳から17歳の少年による部隊である。約340名の隊士は、身分によって士中隊、寄合隊、足軽隊に分けられている。本来予備兵力であったのだが、会津軍が明治政府軍に苦戦する中、彼らも前線で戦った。中でも、敗走し飯盛山へ逃げ延びた士中二番隊の20名の隊士が、市内の火事を城が燃えていると誤認。1868(明治元)年8月23日、自刃して果てるという悲劇によってよく知られている。
     
 
 



動く坂道
これで飯盛山の頂上近くまで行ける
  

 
 
 途中軽く昼食を済ましたりしてから、飯盛山に到着。飯盛山の頂上までは「動く歩道」なんてものがあった(有料)が、もちろん、そんなものを使う気は無い。
   
 
 



白虎隊記念館
 

 
 
 まずは飯盛山の中腹にある「白虎隊記念館」に立ち寄った。
 記念館の前には自刃した隊士たちの像と、生き残った酒井峰治(1852〜1932)が愛犬クマと再開した場面を描いた銅像があった。酒井峰治は士中二番隊の一員であったが、仲間たちとはぐれてしまう。しかし、滝沢茸山で愛犬クマと再会したことで勇気づけられ、無事鶴ヶ城へたどり着き、籠城戦に参加し た。彼が生前書き残した「戊辰戦争実歴談」が近年発見され、愛犬クマとのエピソードが知られるようになった。
 さて、館内には様々な資料や再現ジオラマと共に、ドラマ「白虎隊」関係のものもあった。20年前の感動が胸の中に蘇って来て熱くなってきた。堀内孝雄(1949〜)の歌ったテーマソング「愛しき日々」がエンドレスで流れてきた。愚か者だと笑いますか?
  
 
 



酒井峰治と愛犬クマの像
 



記念館前の白虎隊士像
 
 
 そして頂上へ。自刃の地には慰霊塔と、遠くを仰ぎ見る白虎隊士の像。彼の視線の先に鶴ヶ城があるはずである。ドラマ「白虎隊」でも、「お城が燃えている!」と叫んでいた。それで、僕もその像の見ている先をたどってみた。「あれ? お城どこ?」。そばにいた小学生たちにもお城が見えるかどうか聞いてしまった。
 
 
 



飯盛山・白虎隊士自刃の地
 

 
 
 みんなで探してようやく発見したが、小さくてほとんど小指の先ぐらいにしか見えない。いくら当時は他に建物がなかったからといって、この距離からお城が燃えていると判断した隊士たちはあまりに軽率だったのではないか。もちろん、それだけ心身ともに疲れ果てていたのだろうが…。
 ♪急ぐ命を笑いますか…。
   
 
 



飯盛山から見た鶴ヶ城(矢印の先)
 

 
 
 次に隊士の墓へ向かう。慰霊塔からそこへ向かう途中、飯沼貞雄(貞吉/1854〜1931)の墓の前を通る。自刃した20隊士のうち唯一の生き残りである。彼の証言によって白虎隊の悲劇が後世に伝わることになった。当時の彼の無念さは思い余るものがある。遺言によって、彼もまた仲間たちとともにこの飯盛山に眠ることになった。
  
 
 



飯沼貞雄(飯沼貞吉)の墓
 

 
 
 白虎隊士をはじめとした会津藩士は朝敵ということで、戊辰戦争後も永い間埋葬が許されなかった。ようやく埋葬が許されたのは戦後半年も経ってから。その際、飯盛山に白虎隊士の墓が建てられた。
     
 
 



自刃19隊士の墓
 

 
 
 19士の墓の側には白い「白虎観音」の像が。「嗚呼忠烈白虎隊」と書かれた慰霊碑もある。この慰霊碑の書を書いた松平保定(1926〜)は会津・松平家13代当主で、会津藩最後の9代藩主だった松平容保の孫にあたる。
    
 
 

白虎観音
 







嗚呼忠烈白虎隊碑
 
 
 
 その松平容保が詠んだ弔歌の碑もある。

  幾人の涙は石にそそぐとも その名は世に朽(くち)じとぞ思ふ
  
 
 



松平容保公弔歌の碑
 

 
 
 会津藩の悲劇は白虎隊の少年たちによって象徴されているが、もちろん悲劇的だったのは彼らだけではない。鳥羽伏見の戦いで最も多くの戦死者を出したのは会津藩だったそうだ。戊辰戦争全体の死者でも、会津藩出身者が大半を占めているとのことである。
 家老・西郷頼母の妻子が足手まといになることを恐れてそろって戦争前に自刃した姿は、会津武家屋敷に人形で再現されていた。また、中野竹子(1846〜68)を隊長とする「娘子軍」の奮戦と悲劇も知られている。そうした婦女子の殉難者は会津藩全体では200名にも及んだ。殉難婦女子を祀るった「会津藩殉難烈婦の碑」があった。この碑を建てたのは元東大総長の山川健次郎(1854〜1931)。彼は白虎隊の生き残りでもあった。
 
 
 
 



会津藩殉難烈婦碑
 

 
 
◆さざえ堂
 
 



さざえ堂
 

 
 
 飯盛山にはその他にもいろいろな見るべきものがある。その一つが国の重要文化財のさざえ堂(旧正宗寺三匝堂)。ひしゃげたような、なんとも不思議な形をした建物である。
 1796(寛政8)年に僧・郁堂によって作られた仏堂で、中に入るとスロープになっている。そのスロープを登ると、そのまま下りのスロープにつながっており、誰ともすれ違わないうちに一周できる作りになっている。
 「世界唯一」という謳い文句だが、確かにこんな変わった建物、世界のどこにもないだろう。
   
 
 



19隊士の霊像を収めた宇賀神堂
  

 
   
 さざえ堂のすぐ隣にある宇賀神堂には白虎隊士19人の霊像が収められている。
  
 
 



戸ノ口洞穴
 

 
    
 山のふもとには「戸ノ口堰洞穴」がある。これは猪苗代湖の水を会津に引くために作られた人工の水道だが、敗走する白虎隊士20名もここを通っている。会津戦争は 8月末のことで、当時の暦では秋。ここで体を冷やしたことも、彼らに判断誤らせた要因の一つだったのだろう。
 しかし、僕には疑問が浮かんだ。坂を少し下ったところには滝沢本陣がある。彼らはなぜそちらに行かず、飯盛山の上に向かったのであろうか…。滝沢本陣まではここからほんの10分である。
   
 
  ◆滝沢御本陣  
 



滝沢御本陣
 

 
 
 会津戦争の際の会津藩の大本営となったのが滝沢本営。白虎隊もここから出撃している。
 もともとは、会津藩歴代藩主が、参勤交代の際などに旅支度を整えるための休憩所であったそうである。
 
 
 



滝沢本陣内部
 

 
 
 そのせいか、本陣とは言いながら、建物はそうは思えないほど手狭であった。ただし、庭園は遠州流で立派である。 
   
 
 



遠州流の庭園
 

 
 
 柱には刀傷、ふすまには弾痕が残り、会津戦争の激戦が生々しく伝わってくる。
  
 
 

柱の刀傷
 







ふすまの弾痕
 
 
 20年目にしてついにやって来ることができた会津若松。本当ならもう少しゆっくりして余韻に浸りたかった。だが、今は日本一周の旅の途中。次の目的地、宮城県をめざそうと思う。
 同い年の友人に、会津若松に来た感動を知らせようと。「風の流れの激しさに」という文面の携帯メールを送ったところ、「愚か者だと笑いますか」という返事が届いていた。
      
 
 

14:13 会津若松 →(磐越西線)→ 郡山 →(やまびこ)→ 仙台 16:17
 

 
 

 
〈仙台〉

 
 
 宮城県に入った。仙台はすでに6月に来ており、その際青葉城(仙台城)瑞鳳殿には来ていたので、今回はとくに観光の予定はなかった。
 とりあえず、駅ビルのずんだ餅ステーションで仙台名物・ずんだ餅を食べた。ファーストフード感覚で和菓子が食べられるというのもなかなか乙なものだ。
  
 
 



仙台名物ずんだ餅
 

 
 
 夜はやはり仙台名物・牛タンを食べようと思い、「右門」という店に入った。 
 牛タンに麦トロ、そして日本酒。すっかり酔っ払ってしまい、ホテルに帰るのが辛かった…。
   
 
 



仙台名物牛タン
 

 
 

愛しき日々〜福島県〜

花咲く旅路〜宮城県・岩手県〜  

                              
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