第1章−映画の誕生(6)

エキゾチック・ジャパン!
〜映画日本上陸〜

 

コンスタン・ジレル撮影「家族の食事」(1897年仏)
      右端は稲畑勝太郎



 これまでは外国における映画の状況を見てきたが、そろそろわが国日本に目を向けたいと思う。
 リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した1895年は、明治28年にあたる。日本が明治維新によって近代化の道を歩み始めてから30年と経っていない。その前年の1894年に日清戦争が勃発し、日本がようやく世界の列強の仲間入りを実現しようとしていた時代であった。
 そういう事情であるから、現在でこそ技術大国となっているからといって、当時の日本が映画の誕生に直接関与するなどということはなかった。したがって、日本の映画の歴史は、映画が輸入される所から始まる…
(*1)

*1 以下、映画日本上陸に関しては拙稿「谷崎潤一郎の映画製作」(2002年3月「実践学園紀要」)より「第2章 映画の誕生と日本上陸」を書き改めた。
 

 日本に最初入ってきた映画は、エジソンのキネトスコープであった。1896(明治29)年11月、大阪の鉄砲商・高橋信治は、キネトスコープ2台とフィルム10本を輸入し、11月25日から12月1日にかけて神戸の神港倶楽部で上映会を催した。その後も、大阪・東京・北海道などで巡業され評判を得るが、一人ずつが覗き見るというスタイルのものであったため、直後に輸入されたスクリーン投影式のシネマトグラフやヴァイタスコープによって姿を消すこととなる。ところで現在、12月1日が「映画の日」であることをご存知であろうか? 映画の日には映画が原則1000円で観ることができる。最近では、毎月第1水曜日
(*2)にも同じ金額で映画を観ることができるようになったため、12月1日が映画の日であることは忘れられがちであるが、これはキネトスコープの最初の公開が12月1日までだったことに由来していると思われる。
 リュミエール兄弟はシネマトグラフを発明した後、世界各地にカメラマンを派遣し、風物を撮影させた。京都の紡績商・稲畑勝太郎(1862〜1949)は、かつて留学していたリヨンのラ・マルティニエール工業学校においてオーギュスト・リュミエールと同窓であった関係で、リュミエール社の日本における代理人となった。そして1897(明治30)年1月、映写機2台とフィルム50本以上を日本に持ち帰っている。2月15日から28日にかけて大阪の南地演舞場において、シネマトグラフの最初の興行が行なわれた。その後、3月8日から28日にかけては東京神田の川上座でも上映されたが、この時の興行を委託されたのが、後に日活を作る横田永之助(1872〜1943)であった。
 シネマトグラフの輸入とほぼ同じ頃に、大阪の実業家・荒木和一によってヴァイタスコープが日本に輸入され、1897年2月21日に大阪の新町演舞場で公開された。諸外国と同様に、シネマトグラフとヴァイタスコープは日本においてもさかんに競争していたようである。当時の新聞では、シネマトグラフには「自動幻画」、ヴァイタスコープに「活動写真」の訳語が与えられたが、やがて「活動写真」で統一されるようになる。

*2 2003年4月以降は、毎月1日となった。
 



リュミエール社の代理人となった
稲畑勝太郎

 


 日本における映画撮影は、稲畑勝太郎と共に来日したリュミエール社の技師コンスタン・ジレル(1873〜1952)によって始められた。彼は1897(明治30)年の1月から10月にかけて日本に滞在。シネマトグラフの上映を行なうと同時に、日本の光景を撮影した。彼は北海道にも渡り、当時のアイヌの姿までも撮影している。
 ジレルが帰国した翌年1898(明治31)年の10月には、リュミエール社のもう一人のカメラマン、ガブリエル・ヴェール(1871〜1936)が来日し、翌年3月まで滞在している。
 ちょうど二人が不在であった時期に、日本人カメラマン・柴田常吉(1850〜1929)によっても映画が撮影されている。ジレルとヴェール、そして柴田によって撮影されたリュミエール社の映画は、今日33本が現存している。それらの作品は「明治の日本」という題名で知られているが、明治期の日本を知るための資料としても大変に貴重な作品である。
 


コンスタン・ジレル
 

ガブリエル・ヴェール

 さて、日本にやってきたカメラマンが、ジレルとヴェールであったのは大変幸運なことであった。なぜなら、リュミエール兄弟によって世界各地に派遣された技術者の多くは、単に映画を上映するだけの技術しか持たず、撮影をもできる者は少なかったからである。その点、ジレルとヴェールは、自身で映画を撮影できるばかりか、リュミエール社屈指のカメラマンでさえあったのだ。
 今日現存しているリュミエール社の作品は約1400本であるが、そのうちジレルの作品と特定できるものは40本、ヴェールの作品は77本である。彼らより多くの作品を残しているのはアレクサンドル・プロミオの約300本だけで、ルイ・リュミエール自身でさえ約40本しか撮っていない(兄オーギュスト撮影の作品は1896年の「草焼き」たった1本のみ)。
 もし日本にやってきたのが、単なる映写技師であったならば、どうであっただろうか。ジレルとヴェールというリュミエール社で2番目と3番目に多くの映画を撮っている2人だったからこそ、今日日本を映した映画が数多く残ることになったのだ。繰り返すが、これは大変に幸運なことであった。
 



ジレル撮影「列車の到着」(1897年仏)

 


 「明治の日本」に収められた33本の映画を分類すると、だいたい次のようになる。
 まずは日常生活を撮影したもの。これには稲畑勝太郎一家を撮影した「家族の食事」(1897年仏)と「日本の宴会」(同)の2作品がある。リュミエール兄弟の初期の作品では「赤ん坊の食事」などがこのカテゴリーに入る。
 次いで、屋外の風景を撮影したもの。名古屋駅を撮影したと思われる「列車の到着」(1897年仏)や、柴田常吉が奠都三十年祭を撮影した「東京の並木道」(1898年仏)などと言った作品で、計10本。
 祭りや芸能を撮影したもの。中村雁次郎や市川左団次が演技を見せる一連の「日本の俳優」(1897年仏)という作品や、芸者を撮影した「日本舞踊」(1898〜1899年仏)など。ジレルが北海道で撮影したアイヌの踊りを撮影した「蝦夷のアイヌ」(1897年仏)もこのカテゴリーに入る。16本。
 最後に労働を撮影したもの。ヴェールが田園の風景を撮影した「稲刈り」「田に水を送る水車」(1898〜1899年仏)など3本がこれに当たる。
 この他に剣道の試合を撮影した「日本の剣士」「日本の剣術」(共に1897年仏)という作品もあるが、ひょっとしたらこれは2番目の祭り・芸能に分類すべき作品かもしれない。
 



ヴェール撮影「田に水を送る水車」
(1898〜1899年仏)
 


 さて、リュミエール社のカメラマンが世界各地で撮影した映画の中には「イタリア国王夫妻」「散歩中の大統領」(メキシコ・ディアス大統領)「ロシア皇帝戴冠式」などと言った題名が示すように、要人の姿を映したものが多く見うけられる。ところが、日本において撮影された映画の中に、それら要人を映したものは一つとして現存していない。ヴェールが明治天皇(1852〜1912)の姿を映画に撮影しようと試みていたことは、現存する彼の手紙からも明らかであるが、残念ながらそれは天皇自身の病気のため実現しなかった。そういった事情はあるにせよ、リュミエール社のカメラマンが日本人の要人の姿をまったく映画に残さなかったのには、何か理由がありそうである。
  



「日本の俳優:男の踊り」(1897年仏)
 



「日本の歌手」(1898〜1899年仏)
 


 外国人の考える誤った日本の姿は通常「フジヤマ・ゲイシャ」と呼ばれている。映画で言えば、「ティファニーで朝食を」(1961年米)に出てくるユニオシ氏(ミッキー・ルーニー)が真先に思い浮かぶ。このユニオシ氏、背が低く、黒眼鏡に出っ歯といういかにもステレオタイプの日本人像。提灯や盆栽に囲まれた部屋に住み、足袋を履いたまま寝ていたり、着物の下にズボンを履いていたりとかな〜り奇妙。だいたい僕は未だかつてユニオシなんて苗字の日本人を見たことがない。いったいどんな漢字を当てるのだろう? 知っている方にはぜひご一報頂きたい。
 「80日間世界一周」(1956年米)では、無一文で横浜に到着したパスパルトゥ(カンティンフラス)が、次の瞬間に鎌倉の大仏の前にやってくる。香港発の船が富士山の前を通って横浜に着くのは問題ないが、横浜発サンフランシスコ行きの船がまたもや富士山の前を通るのは明らかにおかしい。しかもその際、富士山が甲板から見て右から現れてくるのだが、ということはつまり横浜から出た船がいったん西へ進み、そこから再び東に航路を取ったということである。一体どういうコースを取ったのだろう。「007は二度死ぬ」(1967年英)で日本人漁師に変装したジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)、「八月十五夜の茶屋」(1956年米)で沖縄人通訳を演じたマーロン・ブランドなどはどう見ても無理があった。etc、etc。
 さすがに最近ではそういった極端な例は少なくなったけれども、時たま苦笑を誘うような場面に出くわすこともある。「クロコダイル・ダンディー2」(1988年豪)では、日本人観光客がカメラのフラッシュや空手を駆使して悪人をやっつけるし、「ライジング・サン」(1993年米)では日本人ビジネスマンが下手な日本語しかしゃべらず、おまけにベテラン警官が若手警官を“コーハイ”と呼んでいたりする。ミミズを食べてスーパー・ヒーロー、カブキマンに変身し、割り箸や扇子で悪人をやっつける「カブキマン」(1990年米/日)なる珍作もあったが、これは日米合作なので実は確信犯であったようだ。

 さて、「フジヤマ」というのは、富士山に代表される日本の自然の美しさ。「ゲイシャ」が日本の伝統文化をそれぞれ象徴しているのは明らかであるが、言い換えれば自然美と伝統文化への好奇こそが外国人にとっての日本文化への興味対象であったということだろう。したがって、日本にやってきたジレルもヴェールも、日本において映画を撮影するに当たってまず念頭においたのは、西洋の列国に追いつけ追い越せと近代化していく日本の姿ではなく、もう一方において失われつつある自然と伝統文化にあった推測することができる。

 つまり、リュミエール兄弟が東の果ての未知の国に、自社屈指のカメラマンを派遣したというのは決して偶然からではない。おそらく兄弟自身が、日本という国に対して並々ならぬ関心を持っていたことがその背景にあるのではないだろうか。いや、彼らに限らず、当時の欧米の人たちは日本という国に魅力を感じていたのだろう。1898年にはエジソン社からジェームズ・ホワイトが、1901年にはバイオグラフ社のロバート・ボーニンとオスカー・デイビューがやはり来日して日本の光景を撮影しているのがその証拠である。

 19世紀の終わり、フランスのカメラマンによって映された日本は、世界の人々が初めて見る日本であった。そこに見られる光景が、その後長きに渡って世界における日本のイメージに寄与したのではあるまいか。「フジヤマ・ゲイシャ」という誤解された日本像を生み出した原因も、つきつめていけばリュミエール兄弟の派遣した二人のカメラマンに行き着いてしまうのではないだろうか。  
 


(2002年4月11日)


(参考資料)

光の誕生 リュミエール!」1994年5月 朝日新聞社
吉田喜重・山口昌男・木下直之編「映画伝来/シネマト
グラフと〈明治の日本〉」1994年11月 岩波書店
蓮実重彦編「リュミエール元年―ガブリエル・ヴェールと映画の歴史」1995年12月筑摩書房
 


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