13-2 ジャングル物語の系譜2 ロビンソン・クルーソー(1719)
ジャングル物語の系譜は、やはりロビンソン・クルーソーあたりからはじめるべきだと思います。
ロビンソン・クルーソーの流れ着いた島にはジャングルはなかったのかもしれません。少なくともジャングルという言葉は
出てきません。
しかしどこか熱帯の島でありますから(オリノコ河口?)、熱帯雨林に近いものははあったでしょう。そこで、文明社会と切り離されて生きて
いけるかということは、ターザンやモーグリが人間社会から離れて狼の社会でいきてゆくことができるかということと関係が
あります。
ジャングル物語のテーマの一つは人間が文明からきりはなされて、人間らしく生きていけるかということです。則ち「生存」
(サバイバル)の問題です。
ロビンソン・クルーソーは無人島でも文明人らしく生きていけますが、そのバックボーンは二つあり、そのひとつはかれが
座礁した船から運び出した、銃、弾薬、大工道具などの文明の製品です。もうひとつは、いかなる環境でもかれが捨てる
ことがなかったキリスト教信仰です。
小説「ロビンソン・クルーソー」は、主人公がとにかく生きていかねばならないという、非常に現実主義的な物語で
あるとともに、人間らしく(キリスト教徒らしく)生きなければ意味がないという、たいへん理想主義的な物語でもある
ことがわかります。
私などはロビンソンと同じ境遇におかれてもとてもかれのなしとげたことの10分の1も達成できないでしょう。あれだけ
勤勉にたゆまず働いて、生活基盤を築いていく馬力はすごいと思います。
ロビンソンと同様ターザンもふたつのものを持っています。一つは文明の利器・短剣であり、一つはかれがうまれながら
にして持っている高貴な精神、あるいは貴族(グレイストーク卿)の血です。(そんなものがあるとすればですが)
「少年ケニヤ」のワタルもふたつのものを持っています。一つは文明の利器/マサイの長槍であり、もうひとつは「大和
魂」です。
小説「ロビンソン・クルーソー」の後半、現地人フライデーが出てくると、「文明と野蛮」というもうひとつのテーマが
出てきます。
ロビンソンは「文明人」でフライデーは「野蛮人」ですが、なぜそう呼ばれるかというと、前者はキリスト教徒であり、
後者は違うからです。
「ロビンソン・クルーソー」では現地人のもっとも野蛮な習慣として「食人」が挙げられています。しかし現代人の目から
見ると、「食人」を行っている現地人を何人も射殺するなど、ロビンソンのほうもけっこう野蛮ではないかと思われます。
文明人ロビンソンのほうが必ずしも正しいと言えないというアンチテーゼは、たとえば現代のフランス作家ミシェル・
トゥルニエの作品「フライデー/大平洋の冥界」で示されました。
「ロビンソン・クルーソー」は「少年王者」や「少年ケニヤ」では取り上げなかったテーマもあつかいました。これは深刻
な問題であり、「モンテ・クリスト伯爵」などで一部とりあげられました。それは「孤独」という問題です。