12-3-3c.宇田野武と「ゲームの規則」
宇田野武の絵物語では、登場人物たちがてんで勝手にセリフを言っており、セリフを読んでいっ
ても、筋が劇的に盛り上がるということがないことを述べました。吹き出しのある絵物語は、みな多少そのような
傾向があるのですが、宇田野作品ではとくにその傾向が強いように思います。
昔のおもしろブックを読んでいくと、「醍醐天平」の作者がそのことを十分自覚していると感じさせるコマがあり
ました。
上の絵は「醍醐天平」のひとコマですが、天平が金持ちの級友をかばって、心ならずも相手を投げ飛ばすと、その少年
は急に足をかかえて苦しみだします。
そこへ早瀬という立派な態度の少年が登場し,天平は窮地に陥りますが、このコマは12の吹き出しが乱れ飛んで、だれ
がなにを言っているのか、大混戦になります。混線するならとことんやろうと逆手をとった作者の意図が感じられます。
フランスの映画監督にジャン・ルノワールという人がいますが、この監督の作品に「ゲームの規則」というのがあり
ます。フランソワ・トリュフォが、映画史上特筆すべき傑作と言っています。この映画の冒頭では、いろんな登場人物
が、いろんなことを言っており、どこに「本筋」があるのかわかりません。確か、大きなお屋敷で、パーティーが
行われるのですが、複数の出席者が交互に画面にあらわれ、それぞれてんでに勝手なことを言ったりしたりします。誰が
主人公なのか、なにがおこるのか、展開が読めないだけでなく、何がこの映画の筋であるのか、わかりません。ところ
が、少しずつ筋がよめてくるのです。いくつかの筋がまとまって、最後に物凄いクライマックスがおとずれます。舞台劇
ではなかなか、このようなドラマはできないでしょう。映画でなければつくれない傑作です。
「醍醐天平」のこのコマは、「ゲームの規則」に似ているように思います。
舞台劇ではパーティーの出席者のすべてに、一どきに発言させるということはしません。また本筋に無関係なことを言わ
せたりはしません。登場人物はドラマの筋に関係のあることを順に言います。それによって、ドラマは進行し、クライマ
ックスへ観客をはこびます。しかし、それは不自然でもあります。現実には、パーティーでは皆がいっぺんに発言し、
その中には複数のドラマがあり、あるドラマはおわりかけており、別のドラマは始まったばかりです。「ゲームの規則」
は劇を少し現実に近づけようとする試みで、驚くほどの成功をおさめています。
「ゲームの規則」を見習った映画がいくつか、あります。日本映画では「北京の西瓜」の冒頭、飲み屋で、一同がてんで
勝手にしゃべっている場面があります。ロバート・アルトマン「ウェディング」では、結婚式の出席者によって「ゲーム
の規則」の現代版が演じられます。ポール・マザースキーの「セント・エルモス・ファイア」も「ゲームの規則」を見習
ったような映画だったと思います。どれも本家を越えていません。
マンガは一コマが小さいので、沢山のコマを使って、出来事を順に描写し、なにが起こったかを説明します。絵物語は、
地の文を失ってしまうと、コマ数が少ないために、なにが起こったか十分に説明できない場合がおこります。吹き出し
を使っても、十分にストーリーを語れない場合があります。登場人物がてんでに自分の言いたいことを言って、
セリフが噛み合っていないことがあります。漫画家ならセリフが右上から左下の方向へ読まれることをよく知っていて、
うまくフキだしを並べるのですが。
この「醍醐天平」の場合は、(1)新しく登場した早瀬少年と、(2)泣いている相手の友達と、(3)天平の三人に
だけ発言させ、コマの右上の吹き出しが最も早く、左下がもっとも遅く読まれることを計算して、セリフを配置すれば
よいように思います。まわりのガヤガヤした感じをだしたいのなら、他の少年たちの「どうしたんだ」「泣いてるぜ」
くらいのセリフなら小さく付け加えてもよろしい。