作品論16-6
少年ケニヤの登場人物5 ワタルの母親-村上夫人
ワタルの母親は「少年ケニヤ」にはあまりでてきません。父親はしょっちゅう出てくるのですが。母親のことはあまり
語られません。
トカゲ族の住む地獄の岩山の話になったとき、はじめて母親のことがでてきます。しかしどこでどうしているという
ことは、語られません。父親村上のことはワタルのエピソードに交えて語られるので、母親のことも描写しょうと
すれば、作者はできたのに。
物語の最後の最後になって、大団円にふさわしく母親が登場しますが、その登場は突然といってもよいでしょう。
ワタルの母親の無事を読者は突然知らされるのです。
そして、よかったと思うと同時に複雑な気持ちにさせられます。戦争中、英軍の捕虜になりたくなくて、ジャングルを
逃げまわった村上親子の苦難はいったいなんだったんだろう。おとなしくほりょになって数年間収容所へはいっておれば、戦争
は終わり、命を
かけるような危険を冒さずとも親子三人一緒におられたかもしれないのに。まったくむだな努力だったのではないか。
しかしまた思うのです。そうではない、ワタルはゼガにもケートにも会えたではないか。素晴らしい冒険をしたでは
ないか。親子ともに苦労したことがむだであったはずがない。これが人生だと。
トルストイの「コーカサスのとりこ」には、コザックのほりょになったロシア兵の話がでてきます。彼の家族は身代金
を要求されていますが、貧しいので払えない。そこでこの兵士は脱出しょうとしますが、失敗してしまいます。一層
厳重に拘束され、逃げられなくなります。コーカサス人の娘や他の人々となじんでこのまま彼らといっしょに住んでも
よいような気持ちになったとき、再びチャンスがめぐってきます。主人公は脱出に成功しますが、一緒にとらわれて
いた同僚は逃げ切れずにまたつかまってしまいます。この同僚には過酷な運命が待ちかまえているように思えて読者は
同情しますが、小説の最後にこの同僚は家族が身代金を払って、無事に帰ってきます。彼は金持ちの息子でした。
トルストイの中編小説は脱出する捕虜の冒険的な人生もあれば、金を払って楽に戻れる人生もあり、この世は複雑である
ことを物語っています。これが普通の小説と違うところです。別の価値観の存在もしめしているのです。
日本が米国との戦争に負けたとき、男子は去勢され、婦女は強姦されるというデマが流れたことがあります。しかし、
米軍は思ったより寛大でした。戦争に負けてみると、それは思ったほど悲惨ではありませんでした。アメリカ人は鬼
ではありませんでした。あの戦争は何だったんだろう。何百万の人が命を落としたあの戦いは何のためだったのか。
今こうして米英の機嫌をとって生きていくのなら、はじめから戦わずにすませる道もあったのではないか---。日本人
の心の中には、この思いが残っています
山川惣治はただ単にハッピーエンドを用意しただけでしょうか。もしそうでなく、村上親子にとって、別の道もあった
ことを---人生には別の道もあることを物語の最後にさりげなくしめしているとしたら。それは巨匠の手並みという
ものでしょう。「少年ケニヤ」は最後になって母親が一瞬登場することによって、人生の複雑さを表現し、
日本人の運命までも考えさせる驚くべき高みに達するのです。誰が村上を笑えましょう。彼がアフリカで猛獣や毒蛇
と戦っていたとき、日本人全体が世界を相手にして戦っていたのでした。