5-7 卓越した文章7 -張り扇の音2-
山川惣治は紙芝居出身の絵物語作家でしたので、作品のここぞというところでは、紙芝居調の文章を堂々と
書いていました。
例えば、主人公の少年が、なにか怪物を、死闘のあげくついに倒したとします。すると、「アフリカ・コンゴーの
大密林を恐怖におののかせた怪物***の、これが最後であった。」と詠嘆調に結ぶのが常でした。
わたしの小さな頃、毎日紙芝居やさんが前の空き地にきて、一時それを日課のように見るのがはやりました。
紙芝居のおじさんは少し鼻にかかったような声で、「たずねる我が子が、すぐそばに居ようとは、しるよしもなく...」
というような語りをしていたのを覚えています。知る由もなく、と言っていたのです。このような紙芝居の語りは、
無声映画の活動弁士の語りに似ています。「花のパリ、ひとびとのあわただしく行き交うまちかどに、ひとり、
寂し気にたたずむ、少女マリーの姿があった...。」というようなものでしょう。
「少年ケニヤ」で、原爆によってやけくずれる研究所の描写。
....ドドドッ!ドーッ!
この、あーっ、という詠嘆とも悲鳴ともつかぬ語は、明らかに紙芝居の語りです。サンケイ児童文庫版ではこの通りの
文章になっていますが、角川文庫版では、「あーっ」が無くなっています。ちょっと紙芝居くさすぎると思ったの
かもしれません。
しかし、物語の大詰め、ワタルが村上と劇的な再開をはたす場面では、山川惣治は、決然として、紙芝居調の語りを、
ここぞとばかりぶつけます。
....ああ、その声、その姿!!なんでわすれることができましょうか!!
ここは角川文庫版でもまったく変えていません。山川惣治にとって、これ以上の文章はないのです。足掛け四年に渡る
大長編の最後を飾るクライマックスにおいて、かれは、まったく、紙芝居作家としての経験に頼っているのでした。
インドのサタジット・ライ監督の名作「大地のうた」の中で、主人公の少年といつもいっしょにいた姉は映画の終わり
の方で死んでしまいます。主人公の姉の死とともに、画面は静寂が支配し、あたかも彼女がいきていたのと同じように、
家のまわりのいろいろなものが静かに写し出されます。主人公の姉はその中にはうつっていませんが、その他は全く
同じように写し出されます。そして、何かの瞬間、彼女がこの世にいないという悲しみが、とつぜん雷鳴のごとく、
スコールのごとくに、主人公と、父と、母とを襲います。魂をゆすぶるような、哀切な音色のインドの古い弦楽器が、
両親の嘆きを代弁するかのようにかき鳴らされ、この静かな映画を見ていた観客は一気に激情の嵐にとらえられます。
...サタジット・ライ監督は、彼等の悲しみを表すについて、昔からの民俗楽器の効果に頼っているのです。
同時にまわりの建物はぐらぐらゆれ、コンクリートはばらばらにくずれ、見る間に鉄骨は真っ赤にもえてあめのように
曲がり、くずれおちます。
幸い人々は逃げ去ったのですが、そうでなかったら、一人残らず悲惨な最期をとげたでしょう。あーっ!アフリカ・
コンゴー奥地にそびえた大建築街は、いっしゅんにして飛び散ってしまったのです。.....
「お、おとうさーん!!」
銃声のひびきをやぶって、ワタルはありったけの声をはりあげて叫ぶと、父の方へ突進しました。....