ぶらり旅(東北編)                平成17年7月
                  

                                                                     −ホ−ムペ−ジのトップへ戻る−

桐生に住む母方の叔父に一度会いたいと思っていたが、漸く
会うことが叶いひと時を叔父の家で過ごし、おいとまを頂いていよいよ最初の目的地である沼田の道の駅 白沢へ向かった

白沢は「しらさわ」と読む事を当地の案内板で知るが、日本中には色々な読み方が有るものである。

その晩は、温泉に入りレストランで食事をとり久し振りの車内の夜をゆっくり過ごした。そして、翌日は霧の金精峠を越えて奥日光に入る。

右の画像は、丸沼や菅沼と言う白根山がつくった沼を越え、いよいよ金精峠へ向かう入口で休んだ時の画像だが、この道が「日本ロマンチック街道」と名づけられている事もこの時に分かった。
霧の金精峠を越えると、程なく湯の湖が見えて来た。そこは硫黄の臭いが鼻を突く奥日光だが、環境省のビジターセンターで日光の自然体系を見学しひと時を過ごした。そして、
其の先に戦場ヶ原があった。

「戦場ヶ原」はいつの頃からか完全に柵で囲まれていて(奥の方に遊歩道が設けられている様だが)湿原の中には入る事が出来なかった。

下の画像は、戦場ヶ原がどの様にして出来たのかを説明した看板だが、私が小学校の修学旅行で(50年前に)日光へ来た時は柵は無く、奥の方まで歩いて入れた記憶が有る。
周囲の草で見ずらいが、川だったこの辺りが男体山の噴火でせき止められて沼になったこと。

そして、その後の度重なる噴火でその沼に溶岩が堆積し湿原になったことなどが書かれていた。
此処が「竜頭の滝」
滝幅は10mで結構な急斜面を多量の水が大音響と共に滑り落ちて行く感じである。

そして、此処には駐車場が上下に2箇所ありその間を30分程で散策出来る遊歩道が整備され滝を見学しながら歩く事が出来るので、私も上の駐車場に車を停めてかなり下迄歩いて見学出来た。
ここが「華厳の滝」

この時期は水量が多く、ダイナミックな滝を観ることが出来る事が展望台まで降りるエレベ−タ−(100m/minで100mの高低差)の入口に書かれてあったが、確かに其の通りで迫力があった。
午後からイロハ坂を降りたが、下りのイロハ坂は急カーブの連続で怖かった。そして、「輪王寺」や「東照宮」を観たがその陽明門はうっすらとした霧の中でよく観る事が出来なかった。

更に、5年前に世界遺産に登録された関係からか拝観料が高く、何か観光地化され(俗化し)ている様に思えた。

今回の日光はその様な訳で(奥日光は別として)深く印象に残るものは少なかった。
日光を早々に離れ、鬼怒川・川治温泉を経由して会津の「田島」へ向かう。その田島だが、奥会津の玄関口として栄えたのだろうけれど、会津が戊辰戦争で敗れてからは寂しい町になってしまったと言う。

そして、翌日は会津若松市役所でお勧めを聞くと、やはり
鶴ヶ城と飯盛山が良いと教えてくれた。

その鶴ヶ城は、再建されたコンクリート造りの天守閣の中に会津藩の歴史が常設展示されていて、なかでも秀吉に疎んじられて会津行きを命じられたが、その会津を見事に蘇らせた名君の蒲生氏郷と幕末の世に幕府側に付き新撰組とも交流の有った松平容保(かたもり)の人となり、そして戊辰戦争で官軍に破れ勢いを失って行く会津の歴史の流れを知ることが出来た。

また、城址隅に土井晩翠の「荒城の月」の碑を見付けたが、此処と仙台の青葉城をモチーフに歌詞が作られたことが、晩翠直筆の石碑に記されて有った。
この画像は白虎隊自刃の地である飯盛山の彼らの墓で線香の香りが絶えず多くの人が訪れていたが、あまりにも観光地化していて、こうした不幸な出来事をその土地に住む人達の生活の拠所にする人間臭さが私には馴染まなかった。
飯盛山からの下山途中に木々の間からわずかに傾いた木造建築を見掛けたが「さざえ堂」と言い行きと帰りが異なる斜面を登り・降りる珍しい建物との看板が左下に有った。
だが、入場料がいる様なので入らずに通り過ぎた。
此処は、江戸時代にトンネルを掘り猪苗代湖から会津若松へ水を引く疏水で、かなりの量の水が流れていた。

白虎隊もこのトンネルを抜けて飯森山へ登り鶴が城が砲撃されていると思い込んで自害したが事実は砲撃ではなく単なる火事であったと言う。
此処が、野口英世の生家。猪苗代湖の湖面沿いを走ると、程なく立派な建築屋根の下に生家は置かれていた。

そして、家の中に自由に入ることが出来て、中ではビデオで野口博士を詳しく紹介していたので、私も其処に居合わせた幾人かの人たちと一緒に博士の生い立ちや生涯の偉業を改めて知る事が出来た。
野口博士直筆の「忍耐」と書かれた石碑が右の画像だが、
この生家とこの石碑の隣に記念館が在り、野口博士の年賦
や遺品などが展示されていた。

その中で、博士の奥さんがアメリカの人で博士の良き理解者としてアフリカで博士が倒れるまで献身的に尽くした素晴らしい女性である事などを知った。
生家の奥の床柱に野口英世自身が刻んだ文字を移し撮り、見学者の見えるところに掛けられていたので撮った画像だが以下の内容を知ることが出来た。

「志を得ざれば再び此地を踏まず」と記されてあった。

猪苗代湖畔は平坦で、長く続くこの道が何処まで続くのかと思いつつ車を走らせたが、ふと見ると野口英世記念館が見えて来たので立ち寄ったのだが、三枚の画像の他にも博士の母(シカさん)が使った織機(ジバタ)と、母がアメリカに住む博士に送った手紙などの展示などが印象に残っている。しかし、記念館の中は撮影が禁止されており撮ることが出来ないので、であればもっと時間を掛けて見て置けば良かったと、今では少々後悔している。
猪苗代湖を観て五色沼へ向かったが、生憎の土砂降りの雨で五色沼へ寄ることを諦め、奥会津の幾つかの湖を車窓より眺めながら「喜多方」へ。

その、喜多方の駅で再び蒸気機関車の出発に出合う(津和野でも出合ったが)

喜多方ではラーメン店を探したが、食堂はあるものの土産店などは見当たらなかった。
その蒸気機関車の画像。日本中には、こうした蒸気機関車がまだ他にもどこかで走っていることだろう。
この日久し振りに山形へ入る。そして、米沢を通り過ぎて天童の少し手前の高畠で泊まったが、翌日は「山寺」(立石寺)へ

画像は山寺の本堂で、この時はこの先の石段が千段以上もある事を知らない。
本堂の脇に案内図が有ったが、皆この案内図を見て此れからの石段の多い事を知る。
何でも千段以上有るらしいが、途中で私も数えるのを諦めた。とにかく石段が何処までも続き、汗をビッショリかいた。

この画像は上に見える奥の院(一番高いところ)まであともう少しのところ。
下山途中で撮った画像だが、あまり良いアングルでは撮れなかった。

とにかく、石段を必死になって上り下りするだけで、写真をゆっくり撮る余裕など無かったのが本音、と言うところだろう。
同じく登って来る人達を撮った画像だが、年寄りも結構頑張って石段の下にある茶店で杖を買い、その杖を頼りに登っていた。

山寺は、奥の細道で松尾芭蕉が詠んだ俳句で有名ですが、現実は少しも静かでは無く、大勢の観光客で賑わっていました。

    芭蕉の俳句:「静かさや岩に浸み入る蝉の声」
山寺から仙台へ向かう林道をカ−ナビの案内で走ると、
「この先土砂崩れにより通行止」の標識に出合い、渋々元の地点(9km手前)まで戻った。
しかし、この林道(二口線)は舗装もされ結構走り易く、途中でリスだかウサギの子供が横切って行くのを見掛けたり、道の両側の木々の枝が倒れ掛かる中を走ったりと、それはそれで楽しかったが、行き止まりではどうにもならない。
此処が、「瑞願寺」の山門。
仙台は今まで何度も社用で訪れているのだが、松島と瑞願寺を一度も観ていない私は、少し回り道をして寄って見た。

その瑞願寺は、それまで在った寺を伊達政宗が大改築し金箔をふんだんに使い、京都から大勢の絵師を招いて襖や天井を錦絵で飾った豪華絢爛な寺であった。

そして、宝物館にも寄って見たが、正宗の心意気が伝わって来る寺らしくはない寺(?)であった。
此処が日本三景のひとつの松島(?)と思いつつも、感動も無く写真を数枚撮って引き上げた。
仙台から古川へ向かう国道沿いの道の駅「三本木」は亜炭の町で、大きな亜炭の塊を撮ったのが右の画像。6トン有るとの事だが、三本木がかつては亜炭の産地であることを多数の資料と共に道の駅に併設されたこの町営資料館で紹介していた。

処で、ここが新幹線が出来る前までは仙台からバスで近くのサッシメーカーへ行く途中に有る町で馴染み深くしかし、当時はこの町が亜炭の町で有るとは知る由も無く今回初めてこの土地の事を知った。

しかも、国道は拡幅されて交通量も多く立派な町に変身しており、日本の豊かさと共に此の町が発展して行った事が良く判った。そして、豊かな三本木町舎が国道を挟んだ対面側に立派に建っていた事も、この町を以前から知る者として嬉しく思った。
中尊寺前の公営駐車場に車を停めて、其処でくれた地図を頼りに国道を平泉駅迄歩いたが、駅は小さく殆どの観光客はバスなどで平泉を訪れている様に感じた。

そして、中尊寺を中心とする平泉の町が国道に隣接している事を知らなかった私は、もっと深山幽谷とまでは行かなくとも人里離れた場所を想像していたので、あまりに喧騒の中に
在る平泉が実に意外だった。

そして、岩手県を初めて訪れた私は平泉を自分の足で歩きながら歴史をひも解く良い経験をしたと思っている。

しかも、町営の温泉にも入り郷土館では義経を詳しく知った事も予定していなかっただけに、収獲の多い一日であった。
駅から一番近い「毛越寺(もうつうじ)」迄歩いたが、この寺の存在を此れもまた平泉へ来る迄知らなかった。「もうつうじ」と読む事も初めて知った。

この毛越寺は、平安時代は中尊寺よりかえって栄えていた事や、池を回遊する大きな庭園は、かつての繁栄を想像させるのに十分な広さであり、藤原氏の保護で栄えたこの寺が藤原氏滅亡の37年後に野火で全焼し池と礎石のみが残る(殆ど建築物の無い)お寺なのだが、中尊寺とは異なる藤原(平安)時代の一方の遺産である事に間違いはなく、「毛越寺」を知ったこともこの日の収獲の一つであった。
「大泉が池」と呼ぶこの池は、ご覧の様に池の中に石組みを多く残していたり、かつては池の中央に石橋が掛かっていたりと往時を偲ぶ大変大きな池で、今はこの池を中心に本堂や金堂などの土台の石が数多く残されていた。

いずれにしても、平安時代に造られた庭園である事を基本に観て回ると歴史を深く感じることが出来て、絢爛豪華さとはまた違う趣を感じる寺であった。
此処が町立平泉郷土館で、NHKの大河ドラマの関係からか源義経を展示していたが、義経は藤原秀衡を頼って平泉へ行き16〜22歳までを平泉で過ごしその後兄頼朝の命で多くの活躍をし、再び29歳で平泉へ逃れ義経追討の命により31歳で藤原泰衡により殺されるまでを詳細に展示していた。

又、芭蕉が元禄2年5月13日に高館(たかどの)で詠んだ

 「夏草や つわものどもが 夢の跡」なども紹介されていた。

高館には、義経終焉の地とされる「高館義経堂」が有ります。
此処が中尊寺参道の入り口で、国道4号線と隣合わせのその場所にこの「月見坂」は在った。(私の背中の傍を多くの車が走り過ぎて行く)

もっと静かな場所を想像していただけに、あまりの喧騒に驚いてしまった。
しかし、坂を登って行くとご覧の通り この月見坂は太い木立の中をかなり歩く参道で、金色堂まで恐らく600〜700mはあったと思う。
そして、金色堂までの途中に八幡堂や弁慶堂があり中尊寺の本堂が有ったりと、そうした古い建物を観ながら一番奥まったところに金色堂は在った。

その金色堂を観た帰りの月見坂を歩きながら芭蕉が詠んだ

「さみだれの 降り残してや 光堂」の句を繰り返しそらんじた
その金色堂の囲堂(おおいどう)が右の画像。
最初はこのコンクリートの建物の中に金色堂がある事を知らずに狐に摘まれた思いで中に入ったが、入ってみると5.5m四方の黄金の金色堂に圧倒されてしまった。

そして、定期的に金色堂の紹介が流れるそのアナウンスを、私は3回も繰り返し聴いてしまった。

其の説明によると、昭和37年〜43年までの全工期の中で現在の囲堂が新たに建造され、工事期間の中で金色堂を
全面的に解体して東京まで搬送し完璧に修理されて再び囲堂の中で組立てられた事。古く鎌倉時代には既に囲堂は有ったが、暫くの間は風雨に晒されていた事。藤原氏3代のミイラと泰衡(4代)の首が納められている夫々の場所などを知る。

その後、金色堂に圧倒されて外に出ると江戸時代に造られた其れまでの囲堂が移築されていたので、其処も見学した。
平泉を出発して宮沢賢治の故郷である水沢(花巻)へ向かったが、その道の駅の駐車場が狭く次の石鳥谷に変更した。

しかし、変更して大正解。石鳥谷は日本酒を製造する町で、中でも優秀な杜氏が全国に出向く南部杜氏の町であった。

しかも、その道の駅に併設されて南部杜氏伝承館や民族
資料館が有り、日本酒に関する様々なものが常設展示され
ていたので、翌日の9時から(出発を遅らせて)その2館を見学した。

まず、伝承館ではビデオによる日本酒の古い作り方を見る事が出来たし、民族資料館では1800点近くの酒造用具が展示され国の有形文化財に指定されていたり、此れもまた今までこの地にその様な産業や文化がしっかり根付いている事を知らなかった私は(時間を惜しまずに)ゆっくりと見学した。
11時過ぎに石鳥谷を出発して盛岡へ行き、市役所でお勧めを聞くと、小岩井農場と盛岡城址を教えてくれた。

そこで、車で30分ぐらいの場所(雫石)にある農場へ出掛けて見たが、殆どが家族連れや若い男女ばかりで来てしまった事を最初は後悔した。

しかし、農場は広くのんびりとしていて気分転換には良いかな、と考え直し牧場を歩いて行くと、結構今回の旅で記念になる場面に出合うことになるが、それは3枚目と4枚目の画像で詳しく紹介をしよう。
処で、「小岩井」の名前の由来がこの農場を創設した3人の苗字の頭文字〔小野(鉄道会社)、岩崎(三菱社長)、井上(鉄道マン)〕から来ている事を知る。

そしてこの農場の歴史は古く、創業が明治24年と言うから
110年以上も前になるが、此処が盛岡市より田沢湖(秋田県)へ向かう途中に在り、広大で空気の澄んだのどかな場所であることを私は此処へ来るまで知らなかった。

最近知ったこと(07.05.12追記)

右の画像に映る頂上が雲に隠れている山が何と「岩手山」である事を知った。勿論、岩手に「岩手山」がある事は知ってはいたが、青森の「岩木山」の事は眼中にあったけれど「岩手山」はうかつにも思っていなかった。しかし、NHKの朝ドラで何となくあれが「岩手山」かなと保存の画像を調べると此れが右の画像を含めて「岩手山」と判り目からウロコである。
農場には羊が沢山放牧されていて、誰でも羊と遊ぶ事が出来る。

そこで、私も羊に触りながら かなり羊の毛が硬いことに驚いたり、未歳生まれの私は 羊と2ショットで記念写真を撮ったりして彼らと仲良しになり旅の記念に羊のマスコットを買って帰った。
次は乳牛の乳搾り体験の話しです。
画像は、一頭のホルスタインからオレンジ色のシャツを着た男性が牛乳を搾り、その様子を赤いシャツの女性が説明しているところです。そして、説明のあと希望者に順番で乳絞りの体験をさせてくれるのですが、私も良い機会なので参加させて貰いました。その体験で、結構牛のお乳はボリュームがあり長さが15cm近くは有る事が分りました。

そして、この牛には今お腹に赤ちゃんがいるそうで、今後赤ちゃんに栄養を上げる関係で此れからはあまりお乳を出さなくなるので、今日が最後の出演とのことでした。
此処「遠野」は、民俗学者の柳田國男が明治の頃に此処の民話をまとめた「遠野物語」で知られているが、陸中海岸から北上川へ行く街道の中間地点として昔から栄えた宿場町でもあり、何と言っても地名の言葉の響きが快く昔から岩手に「遠野」が在る事を私は知っていました。そして、今回この道の駅に来て2つの事を発見しました。

一つには、ここの風車の羽根が一枚で片側にしか取り付いていない事(残念ながら回っていなかったが、逆に止まっていたので判ったのですが)

二つ目は、この道の駅に国土交通省の施設が全く無く、全ての設備が県と遠野市が造っている事です。しかも、今まで利用して来た道の駅に比べ設備のレベルが高く、多分国からの指定許可が取れずそれなら地方で立派な施設を作ろうとしたのでは無かろうか(?)と思いました。

例えば、トイレのオートドア化や建物内に野菜売場が有り(他では屋外テントが普通)、立派なミニレストランが有るなど他より整っていた(これ等はその後の道の駅で確認出来ましたが)
釜石港にある新日鉄の製鉄所で、「Welcomeかまいし」の文字と多量の白煙を吐いていたのが印象的。

そして、今回初めて三陸海岸に来た訳だが、これから陸中海岸を北へ遡ることに、この日は気持ちがワクワクしていた。
まず、釜石漁港に行って見たが既に仕事は終わり後片付けの最中であった。

そして、誰でも邪魔でなければ岸壁まで車を乗り入れても良いとの事で、私も船着場の近くまで行って見たがやはり魚の臭いが鼻を突き、落ちこぼれた小魚を狙って海鳥達が集まっていたことが印象に残っている。
そこで、30分ほど釜石港を見てから宮古市へ向かった。

此の漁港は2011年に起きた「東日本大震災」の
地震により1m以上も地盤沈下し、現在も使う事が
出来ないと言います。そして此処は平成23年8月
現在でも満潮時に海水が入り漁港として使用出来
ない状況にあり、今後の復旧が待たれますが、いつ
になるかの見通しは無いそうです。

              (2012年12月書き込み)

宮古市役所の観光課でお勧めを聞くと、宮古では浄土ケ浜、そして田野畑村の北山にある北山崎が何と言っても一番のお奨めとのことだった。

そこで、早速浄土ケ浜へ行って見たが、途中の駐車場に車を停め後は海端までの遊歩道を降りて行くことになる。
その「浄土ケ浜」には観光船の発着場が有ったり、波打ち際を歩ける様にテスリを付けるなどの設備が整っていたが、白い岩が幾何学的に連なる奇岩の連続は見応えがあった。
そして、遊歩道を通って駐車場まで戻ると、県立水産博物館が在ったので見学をした。

館内には三陸海岸に棲息する魚類や、急に深くなる海底迄を模型にして展示していたり、大きなトドの剥製が置かれていたのが印象的だった。
次からの3枚が宮古市役所お薦めの「北山崎」
此処も、駐車場に車を停めて展望台までの道を歩くのだが、木々に隠れて見えなかった太平洋が突然見えた瞬間、画像の景色が目に飛び込んで来た。

そう言えば、何かで以前見た事が有ると思うのだが、此処を「北山崎」と呼ぶ事を知らなかった。

そして、展望台が3箇所に有り夫々から異なるアングルで観る事が出来るのだが、第一展望台の20mほど下にある第二展望台からの眺めが私は気に入った。

尤も、少し離れた所にある第3展望台には熊が出没するので通行禁止の看板が有り行けてはいないのだが。

東北編の最初にこの写真を紹介しているが、
到着が遅れて4時過ぎになり、しかも少し小雨の中で北山崎を観たのだが、しばらくその場に釘付けになり目が点になってしまった。

それは、200m以上はある断崖絶壁と入り組んだ岩や小島の連なりが、はるか8km先まで見渡せる絶景の場所なのだが、いつかリアス式海岸を観て見たいと昔から思っていたことが実現し、つくづく此処へ来れて良かったと思うと感動で体が震えた。
この画像は、第2展望台から戻る石段の途中で振り向くと木々の合間から違った角度の景色が見えたので、此処でも一枚撮って見た。

処で、此処「北山崎」の名は、田野畑村の北山と言う地にある岬なのでその名が付いたそうで、何も山崎の北にある訳ではない事を此処へ来て知った。
此処は、R45号線から「北山崎}へ向かう入口のポイント。

このあと野田へ向かったが、北山崎が余りにも素晴らしく気分良く車を走らせていると、薄暮の上り坂で左カ−ブを曲がろうと少し内側を走った結果、対向車線の車と接触しそうになり慌ててハンドルを切り難を逃れたが、幾分ボ−っとしていたかも知れない。
此処、「野田」は三陸鉄道の陸中野田駅に併設された道の駅で、駅前が広くは無いので駅を利用する人達で結構混み合っていた。

そして、「マイレ−ル三鉄・沿線地域30万人運動」のキャンペーン・チラシを配っている人がいて、その人達に聞いたところ、三陸鉄道がJR民営化以後第三セクターとして独立し、久慈〜宮古間を北リアス線、釜石〜盛(さかり)間を南リアス線として営業しているが、最近赤字経営が続き蓄えを食い潰しているので、少しでも黒字化する為に、地域住民が一年にあと一回多く電車に乗って貰うキャンペ-ンをやっているとの事だった。

そう言えば、朝晩は2〜3輌編成なのだが日中は一輌だけのジーゼルカーが走り、車体はカラフルに塗装され可愛らしさを強調する等の努力が良く判った。
此処「野田」は、その昔は塩の産地でその塩を牛の背に積んで遠く盛岡や秋田方面に売りに行く、とっても貧しい土地であった事を記した牛と塩売り行商人の銅像が駅前に置かれていた。

右の画像がその「野田の牛方像」で、当時の貧しかった生活振りが紹介されていた。
此処が本州最北端の大間崎で、「ここ本州最北端の地」のモニュメントが建っていた。

そして、大間がマグロの一本釣りの本場である事を説明した掲示板や、啄木が「東海の 小島の磯の白砂に われ泣き濡れて蟹とたわむる」と詠んだその石碑が有ったが、灯台の有る海の少し先の小島とは引き潮の時に地続きになりその砂浜を啄木が詠んだ事などが記されていた。

それと、NHKで数年前に放送された朝の連続ドラマ「私の青空」の此処がロケ地でありスタジオのセットが再現されていたが、私には分らず帰って妻に聞くと、良く覚えていると言う。

そうした色々な事が分ったが、地元の老婆の話しに寄ると向こうに見えるのが函館山で、将来大間と北海道が橋でつながる計画があると、話してくれた。
野田を出発してからの行動だが、最初は久慈市へ行き地元のコインランドリーで洗濯を兼ねて休養をとることにした。

洗濯の後は、午後からいよいよ青森入りし八戸〜三沢の街を走り小川原湖にあるオ−トキャンプ場で宿泊する予定で現地へ行って見たが、人影が少なく不用心に思えたので三沢市から20km先にある道の駅に泊まる事にした。

しかし行って見ると、今までで一番小さな道の駅で食料品の販売も無く仕方なく再び三沢市まで戻り食料を調達したが、この場所が明日からの下北半島一周のスタート地点である事がその後分り、結果的には大変ラッキ−であった。
右側が本州最北端の灯台で、左側に辛うじて見える小高い丘(?)が函館山だと老婆は言うが、この画像では良く見えない。(水平線上の左の隅にわずかに見える)

確かにあまり良い天気ではなかったが、うっすらと北海道が見渡たせた。
大間から「仏が浦」への途中に野生の猿が道を横切って行くのを見掛けたが、カメラを準備する間に崖の下に姿が隠れてしまった。
そして、ふと見ると小猿が1匹ガードレールの上に乗っていたのでその猿を撮ったのが右の画像。


H23年1月追記

下北半島を大間から仏ヶ浦へ向かう山の中で、野生の猿の群れが私の車の前を横切って行く所を見掛けましたが、走行中なので一度車を止めてカメラを用意する間にその集団が
ガードレールの外へ消えてしまいました。ガッカリしてふと見ると、子猿がガードレールの上にいました。其処で、急いでシャッターを切ったのが此の画像ですが、今でもあの瞬間を良く覚えています。実は、最近NHKが北限の猿達を撮影した番組を放送していましたが、母猿のお腹にしっかり抱かれて、母猿が木の芽をとっている場面が有りましたが、私が行った7月より早く生れたばかりの2ヶ月頃の子猿でした。その番組を見て、平成17年の7月を懐かしく思いました。
此処が大間から南下する途中に在る「仏が浦」で、最初は、展望台から右の画像を撮ったのだが、程なく行くと海岸まで降りられると言う案内板が有り降りて見ると、何の何のその道のりは遠く険しい坂道や幾段もの石段を降りねばならずいっその事途中で止めようかと思ったが、何とか下まで降りることが出来た。

しかし、ガッカリだったのは、その景色が期待外れで降りて来たことを再び後悔した。其の上、時間は押して来るし、この先の山道と恐山への時間が益々無くなることから、悔しい仏が浦のイメージだけが残ってしまった。
此処が「恐山」だが、此処も私の期待を間違いなく裏切った。
まず、どんなに険しい山中に在るのかと思いきや、途中の曲がりくねった山道は良しとして、着いて見ると俗化した単なる観光寺と違いがなかった。しかも、霊場と称する岩山は、単に亜硫酸ガスによる風化で岩がボロボロになっているだけで、賽の河原を連想させる如何にも三途の川がここだと言わんばかりの霊場(?)は、硫黄で変色した単なる岩場でしかない様に私には思えた。

また「いたこの口寄せ」にしても下の画像に撮ってはあるが、7〜8人ほどの老婆がテントの中で相手と1対1で何やら話しをしていて、その周りに人だかりがしているだけの様に私には見えた。
霊場は、こうしたボロボロになった岩肌がいたる所にあり、それが積み重なって山になっている所や、途中に水が流れていて其の水が硫黄の色で黄色に変色している所や、
赤池地獄では、お地蔵さんの周りの池がいかにも血で染まっているかの様な気持ちの悪い池(多分鉄系の金属などで赤く染まっているのだろう)であったりと、

とにかく年寄りには地獄を見た様な不気味さを与えるのに十分な場所では有っても、私には名前ほどの魅力が湧いては来なかった。
「いたこ」は皆老婆で一人だけ若い(40代か)女性もいたが、その女性の前には一人の客もいなかった。

しかも結構な人だかりで珍しそうに中を覗いている人もいたが、私は写真を撮っただけで失礼した。
恐山から一挙に三内丸山遺跡に飛ぶが、その間に浅虫温泉に泊った事に少し触れて置きたい。

結局一日で下北半島を一周し330km以上、時には険しい山道を走った事や仏が浦で時間を使い過ぎた事などで夜の8時に浅虫に着き、急いで温泉に入ったが、やはり半島一周を一日で見るのは厳しかった。
そして、三内丸山遺跡の話しにつながる。

画像は三内丸山遺跡の入り口であるが、こんなにも青森市の近くに遺跡が在り、そのあまりにも広い敷地にも驚いた。
遺跡の中は、ある程度入場者がまとまると希望者にボランティア・ガイドが付いて30分ほどで説明をしながら一周してくれるのだが、その時のガイドの女性の説明が上手で、この人から多くのことを学んだ。
ここは地下深く縄文人が残したもろもろの物(土器のかけらや生活ゴミなどの化石)を見学出来る様にしてあるが、保存状態を良くする為に屋根が掛かっており、十分な照明のない薄暗い中で説明を聞いた。
これが古代人のお墓で、方々に点在するこんもりと盛り上がったお墓の中で一つだけガラス張りにしてお墓の中が見える様にしてあったが、勿論骨は見当たらずそれを質問して見ると、ガイドさんの説明では、どのお墓も両膝を曲げて上向きに寝た姿になっているとの事で、遺跡の発掘以来骨らしき物は一切見つかってはいないそうである。

しかし、骨が有るとおぼしき土には確かに人骨の成分が検出されている、と話してくれた。
三内丸山遺跡があまりにも広過ぎて、記録を取るのもままならず、こうして画像に撮って後から見ようと沢山撮って来た。
この日の予定は三内丸山遺跡〜津軽半島の日本海側の北に有る十三湖までだが、途中仕入れた情報で五所川原で「立ねぶた」を観る事にした。

画像は五能線の五所川原駅で、五所川原は私のかつての会社の先輩の郷里であり、此処に立ち寄れて今は横浜にいる先輩を懐かしく想った。

そして、8月のねぶた祭りに五所川原では大きなねぶたが街に繰り出すとの事。早速「立ねぶた館」に出向くことにした。
その立ねぶた館は駅から近く、行って見るとそれは高い建物でその中にねぶた(青森では『Neputa』と呼ぶ様だ)が入っているとは知らなかったが、入場して見てその大きさに仰天してしまった。

何と高さが22mも有ると言うし、重量も16トンでこれを人力で街中を引き回すのだと言う。
その大きさと内部からの照明でカルフルに映し出される色彩に見とれていると、「ヤッテマレ」の軽快なお囃子の実演が
始まった。

それは、ハッピ姿の若い娘さん達が横笛と手振鉦テブリガネと読み、地元の人経ちは「ジャガラギ」と呼ぶと太鼓、そして
「ヤッテマレ」の囃子によるリズミカルな演奏だった。

処で、青森市のねぶたをテレビで良く見るが、青森とは一味違う軽快なお囃子が気に入った。しかし、立ねぶたの画像を撮るにはとにかく大き過ぎて全体を写す事が出来なかった。
館では4台のねぶたが展示されていたが、とにかくカメラに
収まらず右の画像も一部分である。

そして、このねぶたは館の中で組み立てが出来る様に天井にクレーンが設備されていて普段はクレーンが見えない様に隠されているとの事だが、祭りの当日は正面の22m高さの一枚扉を全開にして、外へ出すのだと教えてくれた。

さて、「ヤッテマレ」のお囃子の意味だが、「やっつけてしまえ」と言う津軽言葉で女性のじょっぱり精神を表した言葉だと言う

そして、お祭り当日の内部照明は、発電機を取り付けているとの説明が有った。
どおりで、22mの本体をトラス構造で支える鋼鉄製の骨組みやこの発電機などにより、自重が16トンにもなってしまうことがようやく判った。
立ねぶた館は1日が休みの外は年中開館しており、五所川原の名物として(自信を持って)市民総出で営業している様だ

右の画像は会館入り口の床にペイントされているのを写したものだが、これも斜め方向から撮ったものだが全体を撮る事は出来なかった。

そして、この館を訪れて見て大きな立ねぶたと若い娘さん達のキビキビとした所作が今、とっても清々しく想い出される。

メインフレ−ムの「関係リンク先」に五所川原の「立ねぷたの館」をご紹介しましたのでご覧下さい。
尚、「立ねぷた館」のホームペ−ジで「入場」→右側の「
祭り開催情報」→「・・・動画ライブ配信」をクリックすると、毎年の動画(VTRで約14分)を見る事が出来ます(以前


現在の「立ねぶた」の映像は、メインページの左下にある
リンク先」の下の方に有る「立ねぷた館」を選択すると、
ねぶた祭りの映像を見る事が出来ますが、その映像には音声が有りませんので映像と音声を聞くには、下に有る「スクリーン上映」をクリックすると、館内で上映している映像を音声入りで
見る事が出来ます。(H23年3月追記)
此処が津軽半島の日本海側にある「十三湖」で、あと30キロも走ると半島の最北端にある竜飛岬です。

そして、十三湖はシジミの産地で、行った時も十人ほどの人が小雨の中でシジミを獲っていました。
それが十三湖高原で泊まった次の朝、再び近くを通ると今度は大勢の人達がシジミ獲りをしていたが、この辺の人達の副収入なのかも知れない。

しかし、十三湖のシジミは宍道湖のそれよりも何故だか美味しくはなかった。
十三湖から弘前市へ向かう海岸沿いの道に、ご覧の様な鉄柵が連続して設けられていた。そして、暫く走ると今度は下の画像の様に低い鉄柵が連続して造られている。

そこで、近くで農作業をしていた小母さんに質問して見ると、
この設備は雪対策で冬に日本海からの風と雪で道路に雪が積ってしまうのを防ぐ柵なのだと言う。そして、背の低い方は夏場はたたんで低くしてあるが、場所によっては手間が掛かるので夏場もそのままにしてあり高くなっているのだと話してくれた。

それに、この柵の良いところは、日本海からの強い風が柵の下側を吹き抜ける時に、道路に積った雪を吹き飛ばしてくれるのだと、小母さんは青森言葉で話してくれたが、良く聴き取れた。
道路の雪対策の設備で、夏場はこの様に背を低く仕舞われている。当然、海側の道路に設備されていた。
(詳しくは一つ上の説明をご覧下さい)

この設備のことを教えてくれた小母さんとあの時は暫く話しをしたが、山梨から来たと話すと、アレ!マ−とビックリしていた。そして、気を付けて無事に山梨まで帰って下さいと、励ましてくれたあの小母さんの青森弁をもう一度聞いて見たいと思っている。
弘前市から白神山地へ向かう途中で昼食を作る為に車を停めた場所に、右の様な小さな神社が有った。その神社が気になったので謂れを読んで見ると、

何でもその昔にこの辺りが川の氾濫で困り果てていたが、一人の勇敢な村人が裸で川へ飛び込み自分が人柱となって川を鎮めたと言う。そして、この勇気有る村人を尊び「杭止神社」として村人達が此処に祭っているのだと言う。

こうしたその土地の人にしか分らない話が日本のあちこちにきっと有るに違いない。
弘前市役所の観光課で白神山地の行き方を聞いたところ、
津軽峠まで車で行きその先を30分も歩くとブナの原生林は有ると言う。

そこで、かなり険しい山道を走ったが、仲々津軽峠に着かないので途中で聞いたところまだまだ先だと言う。市役所の人は1時間も有れば津軽峠に行けると言ったのだが、何の何の(雨が降ってはいたが)この先の予定が立たないので途中の「暗門」で引き返した。

暗門からも白神山地へ行ける様だが、かなり歩かないと着かないと言う。仕方なく白神山地の空気をしっかり吸って、十和田湖へ向かった。
その白神山地周辺の案内図が右の画像であるが、
この地図によると秋田側からも登れるので、これからの予定で計画出来れば日本海側から再挑戦しようとその時は考えたが、
しかし其れは実現しなかった。
この日の十和田湖は、生憎の強風と小雨で良い所がまったく無かった。
唯一、十和田湖の湖面が見えたその時に秋田県に入った事を知った感動(これで、東北北部3県に漸く足を踏み入れる事が出来た)は、今も忘れられない。

しかし、その念願の十和田湖は風激しく波が立ちその上小雨で良いところが無かった。

そこで、せめて、乙女の像まではと小雨の中を急ぎ、漸くその場所まで行けたが、とにかく今回の十和田湖は期待外れであった。
右の画像は十和田湖に浮かぶ小島で、その島に生える木々の説明が湖畔にある立て看板に以下の様に紹介されていた。(スナップ写真から転記)

弱くて強い植物
小さな島の上にマツが見えますか。この様な岩場や尾根筋の環境条件の悪いところでは他の植物との生存競争には「弱い」けれど、悪い環境に耐える事が出来る「強い」アカマツやキタゴヨウなどが生きています。
同じく浮き島だが、この日は天気が悪く(白神山地も土砂降りの雨だったが)、十和田湖は小雨ながら風が強く湖岸に波が打ち寄せているのがご覧頂けると思う。

とにかく、湖の全体が霞んでいて、良く見えないのが本当に残念だった。
此処は乙女の像へ行く遊歩道で、ご覧の様に一部が木道になっていた。
その木道は湖水がすぐ近くまで迫っていて低い柵が設けてあり、私は打ち寄せる波音を聞きながらそこを歩いた。

と言う事でコンディションがあまりに悪かったので、早々に引き上げ十和田インターへ急いだがその途中で強烈な夕立に出合い、早目に引き上げて来て正解であった事を知る。
十和田インターまでの道も結構遠くこの日は大変疲れたので、夕食の摂れる花輪サービスエリアで宿泊した。
そして翌日は、鹿角・八幡平インターチェンジで降りて大湯に在るストーンサークル(環状列石群)へ行く。

此処はかなり前から発掘されていた様で、縄文人達が作った住居跡であるが、まだ良く判っていない部分も多く今後も未開発部分を発掘して行くと記されていた。
その一例が下の画像である。
右の画像の外にも環状ではないものや、環状が幾重にも取り巻いているものなど、かなりの広さの中にそれらが点在していた。
この遺跡は大湯町が運営管理していて、ビジターセンターが遺跡の中にあり、古代文化を味わう体験学習などが予約制で開かれていたが、昔から発掘がされていた割にはその活動は活発ではない様に見えた。
しかも、受付の女性が無愛想で色々と聞くと迷惑そうな顔で返事が返って来た。

一方、此処へ来るまでに通って来た鹿角(かづの)が八幡平で最も青森寄りの場所に在り、このあと鹿角の道の駅で聞くと尾去沢鉱山を勧められたので、八幡平にもっと留まりたかったが、八幡平に別れを告げて鉱山見学へ向かった。
右の画像はその鉱山の坑道跡であるが、薄暗くあまり紹介する画像が無い。

何でも、昭和53年までは三菱金属が銅山として経営していたが、閉山後に坑道を整備して「マインランド・尾去沢」として小さな遊園地を併設し町が運営していた。
この鉱山は江戸時代には金を産出していた様で、夫婦で屈まなければ移動出来ないほどの狭い坑道を自分達で掘り進み、金鉱を採取し生活していた様子を、坑内に人形を置き実際の江戸時代の狭い坑道を見学者に見せながら紹介していた。
この駅は、内陸秋田縦貫鉄道の「阿仁マタギ」駅で、温泉に入りに行った帰りに駅舎の近くをたまたま通ったので、時刻表などと共に撮ったものです。

この鉄道は単線で、角館〜鷹巣間を普通列車(一日5本)が約2時間で、急行は1時間(一日1本)で走り途中迄で終点の普通列車が数本時刻表にありました。
私が見た時は、黄色に塗られた一輌のジーゼルカーが結構早い速度(80km/H位か)で走っていました。
此処が、「阿仁」と言う道の駅ですが、計画時は此処が八幡平の一部と考えていましたが、実際には違っていました。
しかし、鹿角(八幡平)で尾去沢を教えて貰い鉱山を見学した後なので、再び八幡平には戻らずに此処に来たと言う訳です。

そして、一度この道の駅に着いてから、打当(うっとう)温泉に行きましたが、その近くにある滝「安(やす)の滝と言う日本百名滝」をガソリンスタンドで教えて貰い車で行って見ました。

しかし、その道は片側が絶壁の砂利道で、ガ−ドレ−ルも無く車のすれ違いが出来ない険しい山道でしたので、行く事を諦め途中で何とか車を方向転換出来る場所を探し、そこで引き返して漸く下の道まで戻り、温泉に入って再び道の駅まで戻りました。
此処が田沢湖です。
十和田湖と違いエメラルドグリ−ンの湖面の何と神秘的なことか。日本一の水深(423.4m)である事を数字は別として知っていましたが、確かに急に深くなるので湖には近寄らないで、の注意書きが方々に有りました。

そして、田沢湖町役場へ行き此処のお勧めを教えて貰い行って見ましたが、竜子姫の伝説の場所や、この湖が冬の季節にも結氷しない湖である事なども教わりました。
田沢湖が気に入った私は、湖畔で白砂を容器に入れたり地図を見ながら周囲を走って見ましたが、オートキャンプ場が有り盛岡から近い事も有って夏場は賑合う様です。

そして、角館へ行く途中に「抱き返り渓谷」を役場で勧められ行って見ましたが、そこで盛岡から来た人が私の山梨ナンバ-に気付き話し掛けて来ました。

それが、何と30分以上も話し込んでしまい、作り掛けのラ−メンがのびてしまって新たに作り直し、結局そんなこんなでこの渓谷を観る時間が無くなり駐車場で記念の写真を撮っただけで角館へ向かいました。
ここが角館の街並みです。
まず最初に役場へ行くと田沢湖町との合併準備中で忙しそうでしたが、角館は阿仁の処で書いた通り内陸縦貫鉄道の始発駅でもあり、ご覧の通りの武家屋敷や古い民家などが街中に整備され、秋田に江戸文化此処に在りを街全体でイメージアップしている落ち着いた街でした。

そこで、もっと角館の街を歩こうと思いましたが先を急ぐ私は、車内から数枚の画像を撮り次の秋田市へ急ぎました。
八郎潟の情報を聞く為に秋田市役所へ寄りましたが、秋田の人達は実に皆んな親切な人達で、駐車場の交通整理をしているシニアの人も観光課を詳しく親切に教えてくれたり、観光課が分室に有りその場所が分らないでいると、わざわざ一緒に観光課迄連れて行ってくれた女性がいたり、秋田の人達の情の細やかさと深さに感心しました。

右の画像は、8月の竿灯祭りに使う竿灯を市庁舎の庭に飾ってある処を撮ったものですが、人の背丈と比べてその大きい事が良く判ります。
秋田市役所で八郎潟を観るなら男鹿半島の付け根にある寒風山へ行くと良い事を教えて貰い早速行って見ました。
その寒風山は、340m程の小高い山でその回転式展望台(6〜7分で一回転)から八郎潟や男鹿半島と日本海が一望出来る見晴らしの良い場所でした。その展望台から八郎潟を撮ったのが右の画像です。

とにかく広大で全体が見えないのですが、調整池や日本海と八郎潟を仕切る水門などが良く分りました。
そして、この展望台には八郎潟に関する資料が沢山展示してあり、其の他にも「生はげ」の人形などちょっとした民族資料館になっている良い場所でした。
此処が、「琴丘」と言う道の駅ですが、実は此処へ来るのに八郎潟の中を通って来たことを翌日まで知りませんでした。
とにかく、何処までも真直ぐな道だなあ・・・と、思って走りました。
かつての八郎潟は大潟村に在りますが、村役場へ行くと「干拓博物館」を勧められ行って見ました。

そこは、真っ白なドーム状の素敵な博物館で、干拓事業が此れまでどの様に進められて来たのか、最近は有明湾の干拓で地元民同士が紛争している事に比べ八郎潟の場合はどの様に行われて来たのかが良く理解出来る素敵な資料館でも有りました。

 そして、八郎潟では一所帯当たりが1Km(タテ)×600m(ヨコ)の60fの農地で約3,000人の人達が耕作しており、主に秋田こまちを中心に生産し、減反政策後は一部小麦や大豆など(約20%)の混合栽培に切り替わっているとの事でした。

右の画像は、開拓初期に大型機械が湿地帯の中で埋もれて引っ張り上げている当時の苦労を館の中央に実物の大きさにして展示していたものです。
大潟村の土地は山手線の内側の面積よりも広く、その中に現在人口が3,400人(約1,000所帯)でその内の約3,000人の農民が働いているとの事。(H17年7月現在)

右の画像は、博物館の外側に此れまで農作業に使われて来た機械が展示されていたので写したものです。そして、入植当時は外国から大型機械を導入していたが、効率が悪く現在は8〜10連を一度に植えられる大型の田植機や収獲には大農場用のコンバインを使用し、そして収穫物を共同で蓄えるカントリー・エレベ−タ−(サイロ)などの大型農業としての施設が備なわっていました。
干拓博物館の入口(右の画像)を入ると目の前に大きな水色の壁が有り、その上方に舟が一そう置かれていましたが、皆さんが今立っている所が大潟村の地面で上の舟の高さが海抜0mを表わしているとの説明が有りました。そしてその距離は3〜4.7mで、つまり大潟村は海抜が平均で約-4mとの事でした。

更に干拓事業では、地元の漁師達に漁業補償をしたり、オランダから技師を招いて基本計画を作ったりと大変な難事業で、昭和33年に着工し、、昭和42年に第一次入植を開始し43年から生産物を出荷したとの事なので、生産開始から既に37年が経っていることになります。
とにかく、大潟村の道路は一直線でそれが10km以上も続くさすがに干拓によって人工的に造られている事が歴然の真っすぐな道路でした。そこで、車を脇に止めて一直線の道を撮ったのが右の画像です。

そして、大潟村は昔の八郎潟の一部を3方向に川を配置し調整湖(八郎湖)を南に配してその周囲を堤防で囲み、干拓後は生活水と農業用水は調整湖から、生活廃水は4箇所のポンプ場で川と調整湖へ排水しており、その調整湖の水位は日本海と調整湖との間を仕切る堤防に造られた大きなポンプ場で常時管理しているとのことでした。
此の画像が、秋田県で最も南にある象潟町の日本海です。
そして、此処「象潟」は江戸時代に起きた大地震で潟が隆起し陸地になってしまった関係で、それ迄九十九島を中心に仙台の松島と並ぶ美しい景勝地であった象潟が跡形も無く消えてしまった所でした。

そして、この町は芭蕉が訪れた奥の細道の最北限でも有名で、芭蕉がこの地で詠んだ「象潟や 雨に西施が ねぶの花」が良く知られていることも分りました。
右の画像が象潟の道の駅ですが、ビルの上の階に温泉がありそこで象潟の海を眺めながら(350円と言う安い料金で)入ることが出来る絶好の場所でもあったのです。

そして、その浴場の更に上の階に見晴台が有り、其処に先ほど紹介した芭蕉が詠んだ俳句の説明が記されていました。
再び象潟の日本海ですが、この様に海辺まで歩ける遊歩道が出来ていました。
そして、屋外で簡単に入れる足湯が有ったりして大勢の観光客で結構賑わっていました。

処で、芭蕉の俳句ですが、メモに寄ると以下の様な難解な意味なのでご紹介して置きます。:「象潟や 雨に西施が ねぶの花」

俳句の意味:象潟の雨に濡れる合歓(ねむ)の木の花を見ていると、その昔絶世の美女であった西施もこの様に美しかったのであろうと思われてくる。

西施:中国(春秋時代)の美女で、政争の具にされた薄幸な美人の名前。(にしぜ)
翌日は鳥海山の5合目まで舗装された道がある事を知り挑戦して見ましたが、4合目の少し手前で濃霧に出合い、危険なので引き返しました。そこで、此処で秋田県に別れを告げ、山形の酒田と鶴岡や温海(あつみ)を経由し新潟県入りをしました。

と言う事で、此処までの画像で東北の旅を終え、以下北陸への旅が始まります。

鳥海山:秋田から山形に有る出羽三山(北から、鳥海山、月山、湯殿山)の中で、一番高く2,200m以上有る。

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3.北陸編                             −ホ−ムペ−ジのトップへ戻る−

此処は山形〜新潟へ向かう海岸沿いの国道ですが、カ−ナビを設定し走ると主力国道が海岸線から大きく離れる場所では、小さな国道や県道などが指示されて左の画像の様なあまり交通量の多くはない、のどかな風景の中を走る事になる。

処が、これが又風情が有ってとっても良いのだ。どこかで書いたかも知れないが、この地の日本海はあまり目立っていない印象を私は今まで持っていたけれど、時には素掘りのトンネルが有ったり、トンネルの上方から滝の様に水が落ちていたり、トンネルの海側には小さな島や半島が突き出ていたりと仲々趣があり、此処ではカ−ナビ様々であった。
陸地の斜面が海に迫るその先に小さな島が有りそのすぐ横を羽越本線が通っている景色が左の画像であるが、、記念に撮って置きたいそうした場所を通過するたびに、車を停める場所を探しながら走っていると結局シャッタ−チャンスを逃してしまうことがこの旅では結構多く有った。
此処が、新潟の最初の道の駅で豊栄(とよさか)です。何でもこの道の駅が全国で一番目に承認された場所との事で、下の画像にそのことを記した石碑が建てられていた。

そして、此処の管理者によると、道の駅制度が出来た平成5年より以前から此処は営業しており、そうした事で初年度に全国で103箇所が同時に認可された中で、最初の番号をくれたのではないかとの事であったが、実はこの制度が出来る前は本当は法律的にこうした施設は違反しており恐縮していると、小声で話してくれた。

それに、此処での最大の楽しみは何と言っても無線LANが出来る事で、山形を素通りして出来るだけ早く此処へ着きたかった理由がそこにある。
「道の駅発祥の地 豊栄」と書かれた石碑(詳細説明は上記をご覧下さい)

その無線LANですが、最初は何度やっても繋がらず事務所を訪ねると、現在親機が故障中で長岡から技術者がこちらへ向かっていると言う。折角早く着いたのに仕方が無いが、止む無く技術者の到着を待つ事にした。
そして3時間ほど待って漸く開通したが、これ又電波が弱い為に交信出来ず、駐車場の最前列に車を停めて漸く15日振りのネットとMailを存分にやることが出来た。

Mailは車載のカ−ナビからも出来るので、家との連絡はもっぱら車から送受信していたが、何しろキ−ボ−ドでは無いので効率が悪く必要な連絡のみにしていたが、此処ではノ−トパソコンとキ−ボ−ドでかなりの長文を送る事が出来た。
此処が新潟の寺泊と言う漁港ですが、近くに魚の土産店が多数店を出し、しかもこの時期は海水浴の人達も車を停めるのでこの駐車場は大変混雑していた。

その様な訳で、寺泊は落ち着かず隣町の柏崎へ向かったが此処の博物館で、三階節の「米山」を知った。何でも、米山に修験者が住み着いていて下界に向かって必要な物品を無心し調達しては生活をしていたが、ある時殿様に納める米俵を舟で運んでいる船頭に、米俵を分けてくれと頼んだところ断られ、舟に積まれた米俵を全部自分の山に吸い込んでしまったと言う。そこで、船頭は手をついて謝り許しを乞うたと言う。

その話から、この山を「米山」と呼び、地元の人達の信仰の山として大切にする様になったそうだ。
能生へ向かう途中で、初めて日本海の夕陽を見た。
梅雨の盛りのこの時期なのだが(それにしては天気には恵まれたが)、漸く日本海の夕陽にめぐり合えた。
此処が「能生」と言う道の駅で「のう」と読むが、計画時点ではこの土地の名を私は読めなかった。そして、行って見ると隣に能生漁港が有り、そこから沢山の魚介類をこの駅に運び20軒以上の魚屋が朝早くから夕方まで商売をしていた。
また、能生では残念な事に車に傷を付けられたが翌日の夕方までそのことに気付かず、後の祭り・・・と言う訳である。

しかも、新潟と富山の境に「親不知」があるが、親不知の所在地が新潟県である事も今まで分らなかった。山梨から富山へは何度も行っている訳だが、富山県にあるとばかり思い込んでいた自分に呆れた。
富山の入善(同僚の郷里)へ入り黒部市の生地浜へ急いだが、富山に行く時に良く泊った民宿の傍に左の画像の砲台跡が在ったことを私は行くまで知らなかった。

そして、その民宿に挨拶だけはしようと立ち寄ったが、生憎不在なので黒部市役所へ行きこの土地のお薦めを教えて貰ったが、宿直の女性達2人はやはり生地の湧き水を親切に教えてくれた。

しかし、私はその伏流水の事はすでに十分知っていたので、貰った清水巡りの地図を頼りに湧き水を訪ね歩いて見ることにした。
それが下の画像である。
以下3枚の画像は、私が出張で民宿に泊まった時に出張先への行き帰りに立ち寄った懐かしい清水である。そして、「絹清水(きぬしょうじ)」として日本名水百選に正式に選ばれていて、その認定書がその場所に掲示されていた。

処で、此処の清水は一年を通して冷たくて口当たりが良く、まろやかなその味は格別そのもので、10年近く来ていないこの清水をこの時何度も頂いた。そして、あの当時と少しも変わらない美味しいこの清水を懐かしく想い出しながら頂いた。
上の画像を裏手に回って撮ったものが左の画像です。そして、コンコンと湧き出すその清水を大きなペットボトル3本に汲み、その内の一本を山梨へのお土産に持ち帰った。とにかく、こんなに美味しい清水を毎日飲む事が出来るこの地区の人達を何とも羨ましく思った。
此処の清水の認定書が左の画像ですが、生地には方々にこうした清水が湧き出ていて、途中で寄った魚の駅でも店の前に清水が湧き出ていたり、黒部市で貰った名水めぐり(資料)に寄ると、生地には清水が18箇所も有ると言う。
魚津市にある埋没林博物館の展示品を撮ったものです。
この様な巨大な乾燥した根っ子や発見当時をそのままに保存した水中の埋没林などが特別天然記念物として展示されていました。

私も魚津には何度も社用で行きましたが、蜃気楼は知っていても埋没林の事は皆目知らずにいました。

しかし、縄文時代からのこんなにも巨大な埋没林を現実に観て、今まで世間知らずでいた自分が情けなくなりました。
左の画像は、埋没林博物館の建物を撮ったものですが、右側の白い建物が魚津の海が見渡せる展望台のある建物で、左側の三角屋根(実際には3棟)が埋没林を展示している建物です。

しかし、少なくとも2000年以上も前の大木の根が何故海中で腐らずに残っていたのかと言う不思議さが判らなかったが、館内の説明で漸く判明した。

つまり、当時の大木達が川の氾濫などによる堆積物により真水の状態で閉じ込められて、しかしその間の海面の上昇・下降を繰り返した経緯の中で、発見された時は海中で有るが、結局海水から守られて腐らずに今の姿を留めているとの事であったかと思う(多分正しいと思う)
左の画像が富山の城址公園ですが、此のお城の中に富山の歴史が分る資料館が有る事を知り行って見ました。しかし、資料館はH17年秋まで生憎休館でした。
そこで(残念だったので)地下駐車場が許す時間まで富山駅へ歩きました。その富山駅は此れまでにも何度も行きましたが、昔と少しも変わらない懐かしい駅舎でした。
富山駅前の歩道に、薬売りの行商人と子供達とのブロンズ像が有りましたので撮ったのが左の画像です。
さすがに富山は、こうした地域の文化や歴史をキチンと伝える努力をしていると思いましたが、その点来る途中で寄った新潟駅(新潟県)には新潟杜氏に関する物は何も無く、郷土の伝統を大切にしていない様に思えて残念でした。
この画像を紹介する意味がお判りですか(?)
これは、富山駅の横断歩道に有る信号機ですが、良く見ると信号機の左横にあと何秒で信号が青(赤)に変わるかを数字で示す表示灯が取り付けて有りました。

私は、こうした信号機を此れまでに何処にも見掛けていなかったので、富山の人はよっぽど気が短いか、住民へのサ−ビスが行き届いているかのどちらかであろうと思い、一枚撮ったのです。
此処は氷見にある道の駅で氷見漁港に隣接していました。
そして、大勢の観光客がこのセンターに集まっていましたが、私は北陸に入ってとにかく毎日が暑く汗をかいていましたので、この日も温泉を探し(ここでも)汗を流しました。
そして、いよいよ明日は能登半島を一周する事を楽しみに、この道の駅で一晩を過ごしました。
その、能登半島の先端にある禄剛崎灯台が左の画像ですが、初め珠洲市役所を訪れた時はすぐに行けるとの話しでしたが、禄剛崎灯台が仲々見当たらず、地元の漁師に聞きやっと判りました。

それは、2枚下にある石段を登り、しかもかなり水平移動しないと行き着かない下からは見えない奥まった場所に有ったのです。

しかし、漸く灯台が見えた時はその眩い姿に疲れも忘れて見入りました。
しかも、此処が海難事故の多発地点で、その為に裏山から狼煙を上げて舟の安全を確保した昔から重要な地点である事と、此処の地名を狼煙(のろし)と呼ぶ事が灯台の脇に記されてあり、参考になりました。
禄剛崎灯台から見える日本海ですが、晴れていれば佐渡がはっきりと見える絶好の場所との事でした。
恐らく、江戸時代には北前船の往来で賑わった事だろうと思いながら海を眺めました。
此処が、その禄剛崎灯台に続く石段ですが、最初は木々の中に隠れているこの石段の所在が判らずに、何度も人に聞いて探し当てたのです。

そして思うのですが、この様に日本中にはあまり人が行かない所に素晴らしい景勝地がまだまだ沢山在るのでしょう。そして、この禄剛崎灯台も間違いなく日本の景勝地の一つであると今も思っています。
此処は、珠洲市から輪島市へ向かう途中にある場所ですが、この先のトンネルを抜けると輪島市です。

私は当初輪島へ行く事を楽しみにしていたのですが、後から書く様に現実の輪島には大変ガッカリしました。
それは、あまりにも世俗化し単なる観光地と変わらない様に私には思えたからです。

それは、此れまで観て来た日光や飯盛山や恐山もそうですが、今回の旅を通して感じる事は、これからの観光地の在り方は「商売優先」だけでは、いずれ旅人に飽きられてしまう様に思います。観光で生活をする人達は良く考えて見ると良いでしょう。
輪島へ行く途中にある「千枚田」と言う道の駅ですが、此処が今回の旅行で一番小さな道の駅でした。
そして、この光景は一枚の区画が何と0.2uしかない田圃も有る様で、こうした田圃が千枚あることから千枚田の名前が付いた様です。

でも、この田圃を手入れして行くには大変な労力が居ることを思うと、この土地の人達の苦労を感じない訳に行かない(現実の生活の)厳しさを改めて感じました。
此処が先ほど書いた輪島市の家並みだが、あまりにも画一的で整い過ぎていて一般的な観光地と何にも変わらない寂しさを感じ、市庁舎にも寄ったが記念の画像を数枚撮っただけで早々に引き上げた。
いよいよ北陸の旅の終りに近づいたが、
此処が山中温泉の道の駅で、今年の春(H17年)にオープンしたばかりの新しい駅である。

その日、能登半島を一周し、かなり疲れたので金沢から北陸道で加賀インター迄移動し、18:00に山中温泉に着いたのだが、その昔から山中温泉は北陸の中でも名のある温泉地として知られており、通って来た道の両脇は確かに多くの温泉旅館が建ち並びしかも奥が深く、その温泉街を登り切った所にこの新しい道の駅があった。
「今は山中」と書かれた道の駅は、その敷地内に広い温泉設備が有り、地元の人達が家族連れで大勢車で来ていた。
でも考えて見れば、旅館の温泉に入るよりもこの温泉に入りその後は大広間でゆっくり休めるし、しかも格安な料金で入れるのだから利用者が増えて当然なのかも知れない。

そして私も今回の旅の最後の温泉(7回目)にゆっくり入り、お陰で疲れがすっかり取れたが、その日のニュースで台風が愛知から関東方面に上陸の恐れがある事を知り心中穏やかではなく早目に車に戻り早目に休んだ。
そこで、翌日は道の駅を早くスタートし、加賀市へ戻り市役所で加賀民族資料館と九谷焼美術館を教わり、市役所へ車を置き徒歩で早速見学した。

その加賀民族資料館では、此処がかつて「大聖寺」と呼ばれ、前田藩の流れを汲む城下町であった事、廃藩置県では大聖寺県として存在したが合併で最終的に石川県に吸収された事、日本百名山の著者である深田久弥が大聖寺出身であることなどを知った。

しかも、此処の学芸員の女性はとっても熱心で、大聖寺の事をこの機会に良く知って帰って欲しいと付きっ切りで説明をしてくれた。

一方、九谷焼美術館では、その年代(時代)で異なる色彩が使われた素晴らしい古久谷焼を鑑賞した。その色合いの何とも微妙で奥深しい事か。

しかし、もっとゆっくり観たかったが残念ながら台風の関係で見学は此れまでにして、この春完成した山中温泉トンネル(左の画像)を通り永平寺へ向かった。
此処が「永平寺」の入り口だが、最初駐車場が見つからず坂を登って行くと、町営の無人駐車場が見つかった。そして、10分ほど徒歩で下り漸く見つけたのがこの永平寺の山門だが、やはり台風の影響でこの日は小雨が降っていた。

しかし、通って来た新しいトンネルは確かに金沢から福井市を回って此処へ来るよりも最短距離で移動出来ることが良く判った。だが、開通したばかりなのでカ−ナビにもそのコ−スが未登録で、空中を走っている(飛んでいる)様な不思議な体験をした。
石畳のなだらかな登りの参道は周囲の巨木の中をゆっくり歩くと結構長く、しかし心の落ち着きを感じる不思議な参道であったが、一度来て見たかった永平寺に今自分がこうして此処にいることを実感しつつ参道を歩くと、この先に在る永平寺への期待が更に膨らんでいった。
此処が、傘松閣(さんしょうかく)と言い、永平寺で最も大きい(156畳)の広間だが、此処永平寺には国宝級の建造物や仏像などは一つもないと言う。

そして、永平寺は修行をすることを唯一の目的としている寺で、現在も約300人の修行僧達が日々この寺で自己と向き合い修行を続けているのだ、と言う。更にこの寺を開いた道元禅師の教えにより、参拝者と同じ空間を共有ししかも、私達を案内してくれた修行僧からも参拝者への説明も自分の修行の一部であることを聞いた。

確かに修行僧と廊下ですれ違う時も、会釈をする訳でもなく、トイレも共有し修行僧と参拝者を分け隔てる何ものも感じなかった。
この様な長い階段が左右に造られているが、この階段のことは此処へ来る前から知ってはいたが、初めて自分の素足で此処を登り下りして見ると、この廊下を多くの修行僧達が駆け上り・下って行くその足音が今にも聞こえて来そうな、そんな姿が直に伝わって来る様な実感を私に与えてくれる不思議なところであった。

そして、たまたますれ違った修行僧の後ろ姿を一枚撮らせて貰ったが、本当は、修行僧を被写体にはしないで欲しいと、初めに聞いていたのだが。
陽の光の関係で、こちらの廊下の方が少し暗く写っているが、山の斜面を利用して造られたこの廊下を修行僧が無我の心で日々修行に明け暮れる、そうした事象をほうふつとさせる静かな空間であった。そして、永平寺はぶらり旅の計画でたまたま最後に選んだ場所なのだが、此処を最後に選んで良かったとその時思った。また、この寺の書き物に次の言葉があったと思う。

「人生に定年は無い。自らの人生を悔いなく生き切ること、 人生の現役 こそが人の生涯なのです」

の言葉を心に留めて永平寺を後にしました。
此処が九頭竜湖駅で、福井へ通じています。昔の地図を見るとこの鉄道は「越美北線」とありますが、今は第三セクタ−の「九頭竜線」と呼ぶようです。

そして、此処へ来る間に通って来た九頭竜川はその昔は急流で、暴れ川の代名詞でしたが今では大きなダム(ロック・ヒル式)が出来ていてその面影は無く、水量も少ない川に変身していました。そして、最初はこの険しい山道をなぜ「恐竜街道」と言うのかが判らなかったけれど、九頭竜の竜から来ていることが、道の駅(この駅に併設)の竜のイラスト看板で漸く納得しました。
此処が山岡で、愛知万博を観ての山梨への帰りに通過した町ですが、日本一の水車の町としてアピールしていました。
そして、今は寒天の産地であることも知りましたが、途中で明智光秀の明智を通ったり、長野への裏街道は仲々自然が豊かで高速道路では味わえないローカル色豊かな街が幾つもありました。
このトンネルを抜けるとその向こうが長野県で、平谷峠の近くです。そして、長野に入り「大鹿村」を通るコ−スにチャレンジしましたが仲々見つからず、ついに断念し(結局、最後はかなり疲労が溜まって来たので)、中央道を使って帰りました。


今回の旅は、私にとって念願が叶った楽しい旅でしたが、今まで知らなかった色々な事が山ほど分かり、大変勉強になった有意義な旅でも有りました。
又いつか、こうした 心の旅 をして見たいと思っています。

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