九州ひと回りの旅


                                                     −ホ−ムペ−ジのトップに戻る−
早起きをして6時半に山梨を出発、途中先祖の墓参りをしてから中央道を南下し、名阪道を通って昼過ぎの2時半には
大阪南港に着いた。しかし、出航までには3時間近くの余裕が有ったので車内を今一度整理をしたり、今回の沖縄行きの
手荷物などを再チェックをしたりして出発を待った。 

左の画像は4時半頃いよいよ船に乗り込む列に並んだところだが、フェリ−で遠出をする初めての経験に年甲斐も無く少しワクワクしている自分が可笑しかった。
いよいよ乗船し、前から6台目に停めて前方から撮った画像だが、確か40〜50台の車が並んだと記憶している。しかし、車止めを置いては行くが車をその場で金具等で固定しないのだが出航後は車へ近づけないので詳細は判らない。しかし、周囲を見てもそれらしい金具は無かったので恐らくこのまま門司まで行くのだろうと思った。

今回利用した「フェリ−大阪」は名門大洋フェリ−所属の船で総トン数が9,500トン、全長は160m、全幅が25mで、速度は23ノット、定員730人とトラック160台、乗用車100台を一度に運ぶことが出来る。

そして、大阪南港を17時20分に出航し新門司港へは翌朝の5時に着くので、夜中の半日を掛けて瀬戸内海を縦断する(一日2便づつが行き来きしている)フェリ−だった。
此れからの3枚は明石海峡大橋に近づいた6時頃から30分間の画像であるが、橋の真下を通過したのが6時半と画像の記録に残っている。

そして、播磨灘の夕陽の中を進むフェリ−からの景色が薄暮に映え、帽子が風で吹き飛ばされそうになりながら瀬戸内海の旅を楽しんだが、そうした中で(強風の中で)多くの人達が甲板に出て来て歓声を上げていた。
この橋は、たまたまひと月前の四月に、姪の結婚式が大阪であり、それが何と船の上の結婚式で神戸港から真っ白い船(ルミナス)に乗船すると、甲板上で船長が立会人の結婚式が行われ、それが終わると、披露宴は播磨灘をぐるっと回るクル−ジングで始まった。そしてこの橋に近づくと、披露宴を中断して甲板に出て全員で記念写真を撮り橋を通り過ぎると再び披露宴を再開すると言う今迄に無い結婚式であったが、今度は一人で九州への旅の初めに再度この明石海峡大橋をくぐる事が出来た懐かしい橋なのだが、可愛い姪の花嫁姿を思い出しながら、夕暮れが迫る瀬戸内にしっかり造られたこの明石大橋を私は心行くまで眺めていた。

そして、旅の終わりに今度はこの橋を通って山梨へ帰ることにしているので恐らく想い出として何時迄も記憶に残るだろうと思いながら、遠くに見える神戸の夜景の船旅を楽しんだ。

それから、此の先の瀬戸大橋やしまなみ海道の橋もくぐるのだが、時間が判らないことと夜中になるので明石大橋だけを観て船室に戻った。
6時半に橋の真下を通過したが、明石海峡大橋はかなりの鉄骨が組まれていることが良く判る。そして、その先に見える神戸の街並み観てから船室に戻り少しお酒を飲んで熟睡した
船内には、レストランやスナックバ−そして、ゲ−ムセンタ−と浴場も設備されていて、家族連れが多く、400人近い人達が乗っていただろう。

確かに、九州へ帰る人達にとって旅費と宿泊費が船賃だけで済むのだから、利用者が多いのも当然なのかも知れない。

しかし、私が泊まった2等船室はエンジン室に近く振動と騒音がうるさい上に一人当たりの幅が90cmと狭く窮屈だったが、船室の乗客が半分以下なので、布団と毛布を2人分使って
ゆっくり休むことが出来た。
此処が2等船室の廊下だが、夜も遅かったので人影は殆ど見えなかった。しかし、次回フェリ−を利用する時は割増運賃を払っても一等船室で休んで見たい。しかし、車と運転手の運賃込みで、大阪から門司まで二万円で行けるのだから、
ガソリン代+高速代+宿泊費よりはかなり割安である。

門司に到着後は九州道で福岡空港まで走り、飛行場に車を置いて沖縄への2泊3日の旅が始まるが、九州のアルバムは、沖縄から戻り大分道の杷木インタ−の近くの道の駅
(浮羽)から始まる。

そして、九州の旅は沖縄から戻る5月8日から始まるが、まず山国川に沿い本耶馬溪に行くその画像が以下から始まる。
此処より、沖縄から戻ってからの九州の「ぶらり旅」が始まります
此処が菊地寛の小説恩讐の彼方に青の洞門であるが左側が250年前に禅海和尚がノミと鎚だけで掘ったもので、
右が現在のトンネルである。そして、最初この画像と反対側の駐車場に車を停め歩いて洞門に行ったが、トンネルの直前に道に平行して石段があり、降りて見ると道路を斜めに横断する洞門があり此処が洞門との掲示板があった。しかし、
中に裸電球がぶら下り暗かったり 300mはない其の距離にガッカリし薄気味悪かったので其の洞門には入らなかったがトンネルを抜けると其処にも洞門が有り、其れが左の画像である。

青の洞門の話は、私が中学生の時に「恩讐の彼方に」を一気に読んだ懐かしい本であるが、禅海和尚が若い頃に悪行を働き何人もの人を殺めた罪を背負いその後修業をしながら、たまたまこの地に来たのだが川の氾濫等で人馬が此処から転落し命を落とすとの村人の話を知り一人で300m以上の抜け道(洞門)を掘る和尚の物語で有るが、さすがに地元では若い頃の悪行の説明文は無く最初は冷やかだった村人達も最後には協力し30年を要して洞門を完成させた立派な僧侶であることのみが記されていた。

又、大分の耶馬溪に「青の洞門」があることは知っていたが
本耶馬溪の「青」と言う場所に洞門が有るので此の洞門を「青の洞門」と呼ぶことは知らなかった。
此処が、全国の八幡さまの総本宮の宇佐神宮で、上社・下社があり境内は広くさすがに奈良時代に始まった「神仏習合」の国東半島の歴史の中心となる神社である事を知り感心した。そして、此処宇佐へは若い頃から行って見たかったのだが、広大な森の奥深くに在る数多い立派な社殿は見事だった。

しかも、近くにある歴史博物館で此れから予定している国東半島には修験者の集まる多くの寺と摩崖仏そして、神と仏を一緒に信仰する「六郷文化」を紹介してくれたが大変勉強になった。しかし本当は、半島を一周するだけではなく幾つかの寺も観たかったけれど、国東半島一周が80km以上有ることを知り寺と摩崖仏の見学は諦めた。
此処が国東半島のほぼ中間地点の周防灘にある「長崎鼻」であるが、入江になっていてキャンプ場が沢山有った。
そして、遠く山口県の山並みがかすかに見えていた。

処で、半島をひと回りする間に多分30以上はあったかと思うトンネルを通過したが結構起伏があって確かに山が海岸線の近くまで迫っていることを実感じた。

さて、国の東と書いて「くにさき」と読むが、何か不思議な場所を子供の頃から好きだった地理で知っていたので、此処へも是非行って見たいと当初から予定していた。

思えば、宮崎県には来た事があるけれど、大分には此処へ来て初めて来た事に気が付いたが、確かに大分は豊後の国だが何故大分と言うのかを調べていないのにも気付いたが、結局今もって調べていない。

しかし、宇佐市役所の男性職員は待っていた様に私に大分の紹介をしてくれて、沢山の資料を封筒に入れて渡してくれたので、今後ゆっくり勉強したいと思っている。

 その後の調査で、大分県 を調べましたのでご覧下さい
                        (H23年3月追記)
この山が由布岳で、画像は別府へ向かう途中の登山道入口の辺りからのものだが、国東半島から湯布院へ着いた日は小雨で生憎、由布岳はわずかに見えていただけだった。

それでも、カエル温泉の湯船の中から見えた由布岳は、3月までNHKの朝のテレビ小説「風のはるか」で見ていたので、
親近感が沸いた。
此処が別府にある「血の池地獄」と呼ぶ場所であるが、別府には、8箇所のこうした地獄と呼ぶ名所があり、半日コ−スの観光めぐりとして、市役所で教えて貰い、其の内の4箇所に行って見た。

その市役所では、別府温泉を「別府八湯」として街を巡りながらそれぞれにある八箇所の温泉を楽しむキャンペ−ン中で、商工課の次長が別府の見所を熱く語ってくれてパンフレットも沢山頂いた。

そして、この「血の池地獄」は、酸化鉄を含んだ粘土が蒸気を出しながら赤い色を見せているとのことで、78度の熱い蒸気が立ち込めていたが、以前に青森の恐山で見た血の池地獄とは比較にならないはるかに大きな池であった。

其の後、すぐ隣にある龍巻地獄(間歇泉)へ行って見たが、次の噴出までにはまだ30分は掛かるとのことなので、鉄輪
(かんなわ)にある海地獄を先に観ることにした。それが次の画像である。
此処は、硫化鉄を含んだ粘土が青色を見せているとのことで
しかもものすごい蒸気がゴ-ゴ-音を立てながら、あちこちから吹き出ていたのが異様であった。

赤池地獄は音も無く静かな地獄であったが、此処の海地獄はものすごい音が周囲に響き、観て回る歩道のそこ此処からも蒸気が吹き出ていた。

そして、海地獄の後に近くにある「鬼石坊主地獄」と呼ぶ幾つもの粘土の池から坊主頭よろしくプクプク粘土が膨らんでは消える不思議な地獄を観てから、間歇泉の「龍巻地獄」へ
戻った。

左の画像は、パンフレットからスキャナ−で画像を作ったものであるが、まさしくこうした青い色が蒸気の中から見える迫力ある地獄であった。
此処高千穂峡は、阿蘇の火山活動で流出した溶岩が五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し急激に冷された為に出来た柱状節理の素晴らしい峡谷であるが、左の画像は遊歩道脇から五ヶ瀬川に落ちる日本滝百選に選ばれた真名井の滝で、此処では滝の周りを貸しボ−トで観ることが出来て、この地でお会いした横浜から来られたご夫婦もボ−トで楽しんでおられた。

 
この高千穂へ来るまでには、高崎山の千2百匹の猿達に
合って小一時間を過ごしたのちに九重連山にある竹田市を目指したが、此処まで来る国道はマズマズであったのだが、
竹田から更に宮崎にある高千穂峡までの国道はものすごい森の中を走る(一部が未舗装の狭い)国道で、特に工事中の場所では、ダンプカ−とのすれ違いが出来ずにバックをしてやり過ごしたり、鬱蒼と茂る木々の中では、すれ違う車も無く此処でパンクでもしたら野宿するしかないかなあ・・・と、心細くなったりもした。

しかし、夕方漸く高千穂の道の駅に着いた時はホットした。
そして、その道の駅でお会いした横浜からやはりミニバンで来られていたご夫婦と親しくお話を沢山したが、確か道の駅の画像の方で詳しく書いていたと思う。

高千穂では、天の岩戸へも行って見たが、ただの洞窟で岩戸などはまったく無く残念であった。恐らく天照大神が弟である「すさのおの命」の乱行に失望して天の岩戸に隠れ、それを岩戸の前でお祭りをして天照大神を岩戸から出すことに成功した伝説が一人歩きをしているのだろう
此処は、西都原考古博物館の入口ですが、300以上もある古墳の中に県立博物館は建てられていた。そこで、律令制が始まる前までに、この古墳群が出来たこと。そして、天孫降臨に関わる古墳があるとのことで、宮内庁がその古墳を厳重に管理されていたが、しかしその古墳は森の中で観る事は出来なかった。そして、此処ではおびただしい人骨が集められているとの事で、数年前に定年退職し此処でボランティアガイドをされている男性から色々な話を聞くことが出来た。

そのボランティアガイドのお勧めで、館内に在るパソコンに私のパスワ−ドを登録したが、山梨に戻ってから開いて見ると博物館で登録をした私個人のペ−ジを見ることが出来た。
今後、西都原のことで問い合わせることが有れば、いつでもサ−ビスが受けられる様だ。

それにしても、私にとって九州の南部にこうした遺産がある事を以前から知っていたけれど、余りに多い古墳の数に驚き、何故此処におびただしい古墳が有るのかが現在もナゾで、
しかしミステリアスな古墳群を今回観る事が出来て大変満足した。
此処は日南海岸にある道の駅で撮った画像だが、波に洗われる海岸線が何処迄も続く景色は観ていて飽きないさすがに観光スポットの日南海岸であった。

そして、日向灘の穏やかな景色と、フェニックスの街路樹が続く街をゆっくり走ったが、途中延岡や日向市を通り日南市にあるこの道の駅に着くと、高千穂峡でお会いした神奈川のご夫婦とも再会し、翌日の飫肥城を教えて貰う幸運を得たり、ラッキ−な一日であった。
此処、飫肥は日南市にある城下町で、この地にこの様な町が在ることを全く知らなかった。そして、高千穂峡でお会いしたご夫婦から観光ガイドブックで紹介しているこの地を教えて
貰い早速来て見たが、大正解。此処に住む人達がどんなに飫肥を大切にしているか、それが大変良く理解出来た。

第一に町全体がゴミひとつ無く綺麗な環境が整っていること。そして、中学生達がこの日たまたま城内の清掃をしていたが行き会う人にどの子供も挨拶の言葉をキチンと掛けてくれてしかも大きな袋に枯葉やゴミを丁寧に集めている光景。
それに、入場券を買いに入った家の奥さんは「ようこそ飫肥を訪ねてくれました」と心の籠った感謝の気持ちを示してくれた

そして、飫肥は静岡の伊東からこの地にやって来た伊東家が薩摩との永い争いの末に此処に定住したこと。それに天守閣が有る訳ではないが、城内は実に落ち着いたたたずまいで、
当時のお城の様子を再現する広い屋敷等が再建されており落ち着いた城内を観ることが出来た。 
同じく右側の石段を登って行くと資料館があり、当時の甲冑や武具そして伊藤家の系図などを観る事が出来たが、予定していない飫肥をゆっくり観ることが出来て、目からウロコの
一日だった。

とにかく、街全体を(郷土の誇りとして)この地の人達が大切にしていることを皆さんに是非とも知らせたいと思うのだが、

此処の人達はあまりメジャ-になることを喜ばないとでも言う様な感じで、偉ぶる様子も無く(私だけが知らなかったのかも知れないが)慎ましく生活をしている様子が実に良く判り、
何か人としての生き方を教わった様な一日であった。

H18年10月にNHKテレビで放送された「鶴瓶の家族に乾杯」の番組の中で、飫肥が登場しましたが、飫肥城ではなく飫肥の人達の生活振りが分かり楽しく観ました。
 飫肥の街を三枚の画像で紹介したが、左の画像が飫肥の武家屋敷であり後で紹介する知覧の武家屋敷と同様にゴミ一つ無く整然とした落ち着きを見せていた。そして、此処は
宮崎県と鹿児島との国境いにあり、永い年月を掛けて薩摩藩との戦いの後、秀吉に認められ豊臣時代から明治維新までの歴史のあるこの飫肥であるが、此の街が大変気に入ったので改めて別の機会に紹介したいと思っている。

 そして、全国には秋田の角館などにも武家屋敷が在るが、今回の九州の旅でも、此処飫肥と鹿児島の知覧や出水等に武家屋敷が在る事を知らずに私は旅に出ているだけに、この
落ち着きのある雰囲気が気に入り、心に残る飫肥であった。
飫肥を出て都井岬へ行ったが、此処には野生の馬がいて
ビジタ−センタ−のボランティアガイドの青年から御崎馬と
呼ぶ此処の馬達の話を詳しく聞く事が出来た。

何でも、現在129頭がいて今が子育ての真最中とのことだが
一方 此処都井岬は蘇鉄が自生する北限でもあり、その蘇鉄は特別天然記念物。しかし、御崎馬は天然記念物で「特別」が付くか付かないかで貰える手当てが随分違うと其の青年は悔しそうに話してくれた。その青年の話によると、馬達は冬場は下の森の中で暮らし、春先から秋までを「小松ヶ丘」と呼ぶ小高い場所で生活し一部が「扇山」にいるようで、この2つの山でオス一頭に最大10頭のメスが集団となりひとつの群れを作り生活をしているが、メスの数が少なく、オス同士の群で有ったり、年寄り同士の群もいると教えてくれた。

そして都井岬から日南駅を通り山合いを走るといよいよ最後の鹿児島入りをカ−ナビが教えてくれたので、途中志布志港へ立ち寄り大隅半島を横断して錦江湾にある根占(道の駅)まで行った。

とうとうこの日、鹿児島入りを果たしこれで全ての都道府県に一応行った事になるが、その最後の鹿児島は色々な意味で沢山の想い出を私にくれたのである。
此処が九州最南端の「佐多岬」だが、景勝地の割りに訪れる人は少なく、何とも寂れた観光地であろうかと、思わざるを得なかった。

そして、岬の先端に立つレストランは閉店していて、海側の
アルミサッシは大きく壊れ見る影も無い状態だが、左の画像の中央部分にある小島の上に立つ白い灯台が見えた時は、此処まで来て良かったとほっとした。

岬を観てから、帰り道で沢山茂っていた葉っぱを数枚土産に貰い、神社でお守りを買い求めて佐多岬を後にした。

このイノシシは野生だが実に人に馴れていて私が駐車場に車を停めて支度をしていると、私の足を突付くものが居て
それがこのイノシシだった。そして、帰りにこの場所に戻ると再び寄って来て何かをむしんしている様に思えたが、
癖になるので結局何もやらなかった。

佐多岬の入り口で切符を売っている小母さんの話では、誰に
でもこうして寄って来るイノシシとのこと。来る途中で猪と猿を見掛けたが、観光地化されず自然が一杯残っている佐多岬はそれはそれで良いのだろう。
此処は佐多岬から薩摩半島にある開聞岳が見えた場所だが
この日は生憎の小雨の朝だったが、幸いにして岬に着いたら雨が止んで見晴らしも良くなった。開聞岳が錦江湾の向こうにこんなにもはっきりと見えていたのが今も不思議に思える。

そして、白波を立てて一隻の船が錦江湾を横切って行く姿も気に入ったので撮ったのが左の画像である。
此処は鹿屋に在り、海上自衛隊が管理運営する「鹿屋航空基地史料館」であるが、敷地内には建物を取り巻く様に退役後の飛行機やヘリコプタ−が置かれていた。そして、記帳を済ませ館内に入ると、何とゼロ戦が展示されていて此処だけは写真撮影が許されていたので、記念写真を含めて何枚もの画像を撮りそれから、神風特別攻撃隊の若き飛行士達の遺影と遺書や残された遺品などを見て回った。
(左の画像は衆議院議員「二階堂進」の書による)

そして、今まで鹿屋と知覧の地名は知ってはいたが、鹿屋が海軍で知覧が陸軍である事や、真珠湾を攻撃した時の空母「加賀」の事や、昭和17年当時の空母の数が、日本が10隻でアメリカは17隻と日本も遜色の無い船を持っていたのだが
米軍のその後の総攻撃と建造能力の関係で、昭和20年には日本が6隻でアメリカが94隻と比較にならない状況でありこれでは勝てる訳が無いことなどを知った。

そして、特攻隊員908名のモノクロの遺影と自筆の遺書等は
60年以上が経つ今も決して風化させてはならない事を改めて教えてくれた。
左と次の2枚の画像は三菱重工の技術支援を得て鹿屋航空工作所を中核に復元されたゼロ戦52型であるが、錦江湾に不時着した2機の朽ち果てた残骸を海底から引き上げて使えるものは極力使い、不足するものは図面から作り出して再現したそうで、タラップに登ると自由に機体に触る事が出来た。そして、左の画像の翼の下に見えるエンジンも復元されていて感動したが、中島飛行機が製作したエンジン(下記に詳細を記録)は中島知久平達が設計製造したもので、彼の写真も見ることが出来た。

ゼロ戦のエンジン:「零式艦上戦闘機五二型」に搭載(エンジンの脇に有った説明書きのメモより)
1)型式:栄発動機二一型
 (14シリンダ−の2重型空冷星型エンジン)
2)減速機:遊星平歯車
3)減速比:0.5833 : 1
4)公称高度 : 第1速 → 2850 m
          第2速 → 6000 m
5)燃料:航空95(91)揮発油比重:0.723
6)発動機重量:642kg ±10kg (使用状態)
7)クランク軸
   常用 最大  → 2500 rpm
   超高速運転 → 3250 rpm
恐らく、殆どの部品は再製作されているのだろうが、此れまでに見たことの無いゼロ戦を観る事が出来て、しかも触る事が出来、此処だけは撮影が許可されていて見学に来られた方にお願いして2箇所から記念写真を撮る事も出来たし、
想い出に残る大切な画像を残すことも出来た。
      (海上自衛隊のHPに寄ると、3枚羽のプロペラは本物とのこと)

ゼロ戦の概略仕様
1)自重:1680 kg(エンジン自重:642 kgを含む)
2)最大出力 : 940 ps
3)航続距離 : 3350 km
4)最高速度 : 533 km/h
5)プロペラ:住友ハミルトン製(直径:3.05m)
6)爆   弾 :120 kgを搭載
7)初 飛 行 : 昭和14年(11型)
零式艦上戦闘機21型としては昭和17年に正式採用。生産台数は11型、21型、52型合計で10,430機)

参考資料(ゼロ戦の真実より):http://www7.plala.or.jp/kutaragi/page094.html

ゼロ戦の詳しい説明は、メインペ−ジの「リンク先」→
「九州(沖縄・屋久島)」→「鹿屋航空基地資料館」のHP
→「ゼロ式艦上戦闘機」で見ることが出来ます。
此れは、大隅半島にある大根占から薩摩半島側へ50分で行けるフェリ−のブ−ゲンビリア号(総トン数:1500t、定員:200人、車輌:39台)の画像だが結構大きな船で、このフェリ−で初めて薩摩半島にある山川港へ着いたが、途中で開聞岳が良く見えていた。そこから指宿迄走り(結局、指宿の道の駅で2泊したが)指宿に到着して道の駅の様子を見に車を離れて戻って見ると、千葉から来たと言う初老の男性が私を待っていて(同じミニバンで旅をしているそうで)色々な話をした。

 何でも、春にセスナを操縦中に5メ−トルの高さから墜落し背骨を怪我しているが、九州が梅雨にならない内に出掛けて来たとのこと。やはり、車に冷蔵庫を積んでいてその電源にインバ−タ−を電気屋の友達から買ったけれど、正弦波ではないのでどうも仲々冷えないとか、とにかく話し好きな人で、小一時間近くは話したろう。お陰で、途中で買った弁当が冷めてしまったが、でも面白い話を幾つも聞けた。ただ、電源を切らずに(カ−ナビ作動)話し込みその後野球中継をテレビで見た時もエンジンを掛けなかったり自分としては不用意な事をやったお陰で、翌朝見事にバッテリ−が上がり、近くの人にお願いしてブ−スタ−ケ−ブルでエンジンを掛けさせて貰った
此処が開聞岳で、近くの漁港へ行き撮った画像だが、開聞岳は遠くから見た方が存在感があり良かった様に思う。それ程高い山ではないが(海抜922m)、形が綺麗で鹿児島に来ている実感がする一度見たかった山である。

また、JRの指宿・枕崎線の「開聞」と言う無人駅を通り池田湖へ向かったが、3両編成のジ-ゼルカ−が途中私の車を追い抜いていったが、丁度この駅で追い着いた。
此処が池田湖で以前から何故鹿児島の半島の先に湖があるのか疑問に思っていたが、其のナゾが行って見て判った。

それは、この湖が火山の火口に出来た火口湖でそこへ周囲の山から多量の雨が流れ込み九州で一番大きな湖になったのだそうだ。しかも、その水深は日本で4番目に深く、湖底に火山床がある珍しい湖だそうだ。恐らく湖になったあとで湖底で火山が爆発し火山床が出来たのだろう。

でも、この湖はあまり全国的に知られていない。私は中学生の頃からこの湖に興味を持っていたが、開聞岳と言い池田湖と言い地図には載っているがあまりにも目立たない存在の様に思う。もっとメジャ-になって欲しいと思っている。

この後、枕崎まで足を伸ばしそのあとで知覧へ向かった。
この画像は鹿児島の特産であるお茶の畑であるが、静岡の茶畑と違い平地に植えられていた。しかも、どの茶畑も綺麗に半円形に刈られていたが、何と人の手で摘むのではなく、機械で刈るのでこの様に仕上がると言う事が後で分かった。

枕崎から知覧へ向かう道の両側は、こうした茶畑が何処までも続いていた。
此処は、知覧にある「知覧特攻平和会館」だが、鹿屋が海上自衛隊が管理運営し名実ともに立派であるのに対して、此処は知覧町立でこじんまりしているのは何故なのか。この様な事は戦争とは関係ない石炭の世界でも違いを見つけたが
(つまり三池炭坑と筑豊炭坑の明らかな違い同様に)世の中には判らない事が多い。

しかし、川崎正蔵(川崎重工の創業者)の川崎航空が造った「飛燕」や「疾風」そして「隼」と言った戦闘機を観る事が出来たし、此処が日本陸軍の基地が在った場所で、鹿屋が海軍基地であるのに対し陸軍基地である事が判りしかも、此処からやはり1035人(茨城、浜松からの若者を含めて)もの特攻隊員が特に終盤の沖縄戦で命を落とした悲しい場所である事をその遺影と遺品そして遺書などで理解することが出来た

しかも、此処ではボランティアガイドのシニアの男性から話を聞く事が出来たが、「25分間私に時間を下さい」で始まった写真とコピ−によるお話に大変感動した。そして、此処では少年航空兵として志願した学生(17才)や32才の3人の
子持ちの青年も飛び立って行ったと言う。

私は、沖縄戦の惨状を見て来ただけに、覚悟を決めて此処へ来たのではなく、戦争末期のドサクサの中でしかも海軍とは違う陸軍が無計画にむりやり彼らを戦場に送り出したこうした悲劇をそれこそ(今日が61回目の終戦記念日で小泉首相の靖国参拝のテレビ中継の中で)複雑な思いで、この記録を書いている。
此処が、明日朝飛び立つ航空兵達が一晩を過ごした半地下の三角兵舎を復元したものだが、敵に見つからない様に松林の中に建てられたとの説明書きがあった。そして、平和会館には復元された飛燕の実物があったが、エンジンが星型ではなくダイムラ−ベンツ社製をモデルに川崎航空機が国産化したレシュプロ型でゼロ戦よりかなり大きく、飛行機の自重が
2,855kgと重いのにも驚いたが、確かにエンジンの重量からもゼロ戦より性能が劣っていることを知った。

しかし、ゼロ戦は超軽量化し過ぎて航続距離と飛行速度の点では群を抜いているけれど、その後の性能アップは出来ていない事と敵機の攻撃に対して実弾を防ぐ防備が全く無かった事等問題が無かった訳ではないことも判った。

飛燕の諸元(二型改:キ61-11改)

1)9.16(L)×12.0(W)×3.75(H) 単位:m
2)出力:1260HP(排気量:35.7 リットル)
3)装備込み重量:3,825 kg
4)最大速度:610 km/h
5)航続距離:1,920km
此処は知覧にある武家屋敷で平和会館から10分程の所にある。そして、飫肥でも武家屋敷を観たが、規模と内容共に知覧の方が数段勝っていた。

それは、看板の出ている屋敷は自由に入り庭を観ることが
出来る事や、通り沿いの小さな川に錦鯉が沢山泳いでいて、街全体で屋敷の風情を大切にしていた。

しかし、私は此処を観るのに300円がいることを知らずに、勝手にバスガイドのグル−プに加わり観終わってから入場料がいることが判ったが、何処で購入するのかの案内も無く、
欲の無い街であると思った。

確かに、町営の駐車場も150円と今までで一番安かった。
左の画像は、庭園に入ることが出来る案内板が右下にある屋敷であるが、恐らく普段も人が住んでいるのだろうが、物音が少しも聞こえて来ない静かな屋敷が多かった。

そして、知覧独特の2連続きの屋敷では、鍵形に折れ曲がった二棟続きの屋敷があり二世代住宅ではないが、二家族が十分住める大きな屋敷などもあった。

 知覧を観てから再び指宿へ戻ったが、この朝バッテリ−が上がり大慌てをしたので出来るだけエンジンを切らずに充電に心掛けた結果、スタンドでチェックして貰うと十分回復している事が判った。それでも、翌朝エンジンが掛からず屋久島に行けないと困るので、指宿の道の駅でタクシ−会社の電話番号を調べてから寝たが、幸いにして翌朝一発でエンジンが掛かり安心した。
此処からは、屋久島への2日間の旅の後 鹿児島に戻ってからの画像だが、前夜は「喜入」で温泉に入り、17年振りに会うかつての仲間との再会を楽しみに雨の鹿児島で休んだ。

処で、この画像は鹿児島市にある「維新ふるさと館」で、最初に市役所に行くと、どうしても此処だけはお薦めとの事で最初に行って見た。そして、鹿児島の人達が西郷隆盛をどんなに敬愛しているか、島津斉彬や西郷隆盛とやがて袂を分かつ大久保利通の考え方、薩摩と長州が何故争わなければならなくなったのか「西南の役」の事実等を色々と知る事が出来た

この維新ふるさと館を観た後、城山へ登り鹿児島市内を良く観たり、錦江湾を霧島方面へ走り福山で黒酢を買い、垂水から桜島を目指したが垂水迄走るとこれで錦江湾を一周した事に気付き、あとは桜島に少しでも良いからお目に掛かろうと溶岩が迫る海沿いの道を走ったのだが、結局この日も櫻島は雲の中で7日間の鹿児島滞在の中で一度も桜島を観る事は出来ずフェリ−で市内に戻り、友の待つ町を目指した。
鹿児島市に別れを告げて、入来にいるかつての親友に会いに行ったが、17年振りの再会は実に懐かしかった。

そしてこの画像は、島津藩の外城であった[清色城」であるが
此処入来にも大規模な石垣の続く武家屋敷があり、しかし、武家屋敷として整備しているのではなく、普通の民家が立ち並ぶ其の道筋に玉石の石垣が見事に並んでいて、こうした
この街の特長も珍しく感心した。

そして、この晩は近くの温泉に入り、地元の居酒屋で鹿児島名産のコリコリした地鶏の刺身やマグロのトロに当たる美味しい地鶏の脂みやイモ焼酎を存分にご馳走になり、山ほどの懐かしい話に華が咲いた。
此処「出水市歴史民族資料館」を市役所で教えて貰い行って見ると、ここでも館長が親切に説明してくれた。そして、撮影は本来は禁止なのだがお願いすると数枚撮って良いと許可をくれたので撮らせて貰ったが、出水でも海軍の特攻基地があり名前も分からない若者を加えると500人以上が此処から飛び立って行ったと話してくれた。

そして、此処に記録のある若者は60人との事だが、しかし、よもや沖縄戦に出撃するとは思わない航空志願兵やしかも此処は飛行機の訓練基地であり、給油に立ち寄っただけで
沖縄への飛行を命じられた少年兵達の悲しい運命を聞くとは思わなかった。だが、現在は滑走路は存在しない様で、出水が海軍の飛行訓練基地である事を知る人は少ないと言う。

そして、出水はツルの飛来地として県外の人にアピ−ルして
いるとの事だが資料館のビデオを観て現地は行かなかった
それから、かつて出水市は大きな洪水でかなりの被害が出た事を話すと、良く覚えていてくれたと館長からほめられた。
此処水俣は有機水銀中毒の公害病で全国に知られているが
丁度、今年が公害病に認定されてから50年の節目の年で
この市立水俣病資料館(正面奥の建物)で知る事が出来た。
そして、水俣病で今も苦しむ多くの患者に心を痛め、どうしてこの公害をもっと早く見抜けなかったのか、それに此れ迄にどの様な対策が取られて来たのかそうした点も知りたかった。

其の点に注意してこの資料館を見て行くと、湾内に堆積した水銀は70〜150トンと予測されて、汚染面積は209万u、水銀濃度が25ppm以上の区域が151万uで、チッソが排出した濃度の濃い部分を埋め立てその周囲を浚渫し昭和52年から工事を開始し平成2年3月に竣工。水俣エコタウン広場として市民に開放されており(総工費485億円の6割をチッソが負担)、館内に有った「過ちを改めざる、それを過ちと言う」の言葉が印象に残った。確かに水俣は行政を含めてチッソが出す水銀を戦前から分かりながら町の反映を優先させて其れを看過し、完全に手遅れの中で患者達を苦しめ続けた責任は単にチッソのみに責任を転嫁してはならない行政側の責任も理解した。それにしても、普通の人は一日に魚を100g程度食べるのに対して患者はその4倍、人によっては10倍以上も食べた人がいた様で、ただの魚を食べ続けた貧しい漁師達が一番の犠牲者になっている側面も社会問題として忘れてはならない、と思う。
この画像は、有明湾に向かう途中の菊水町にある「肥後古代の森」に行った時の画像だが、水俣のあと五木の里に泊まり翌日は八代で洗濯をして熊本へ立ち寄り、その後に阿蘇の玄関口にある大津で一泊。そして、次の日に玉名市に向けて走る途中で案内板を見掛けたので寄って見た時のものです。

そこは幾つかの古墳の周りに古民家を移築した公園で、
其処に画像の様な吊橋があり、しかしワイヤ−ロ−プが一本も見えず説明文を読むと、橋の両側からピアノ線で引っ張りその上に橋を掛けたPC工法と呼ぶ吊橋との事で珍しく、記念に撮ったものです。

この工法は建築物で柱の間隔を広げる目的で床にピアノ線を張りその張力により床に掛る荷重を支える方法があるが
その工法を採用し、橋をすっきり見せ景観を良くしている。
此処は大牟田市にある三井三池鉱の「石炭産業科学館」で、立派な建物だった。そこには、炭坑で使われた蒸気機関車や掘削等に使われた大掛かりなドリルや天井を支える自走枠と呼ぶ油圧式の装置などの実物が展示されていたり、明治の初めに三池鉱を反映に導いた團琢磨の人柄、そして筑豊が山の中に石炭層が有るのに対して三池鉱は海底に石炭層がある炭坑である事や、三池鉱の労働争議等についても詳しく展示していた。

 確かに、この5日後に行った直方にある資料館とは比較にならない立派な展示館で、三井三池が財力にも優れた炭坑であったことを伺わせる立派な科学館であった。
この石炭の塊が科学館のホ−ルに飾られていたが、540 kgもある塊だそうだ。そして、400mの地下にある採炭現場迄を音と振動で雰囲気を味わえる秒速10mのエレベ−タ−で地下へ着くと、そこには坑内を走る電車(下の画像)や大きな採炭機械と自走枠と呼ぶ天井からの落石を防止する油圧式の設備や人形の工夫達が採炭現場を再現させていたり、
かなり凝った展示をしていた。
見学通路を歩くとこの様な展示があちらこちらに有って楽しく観て回ることが出来た。

処で、三井三池鉱は平成9年3月に閉山したとのことだが、筑豊の方が昭和30年代には石炭の枯渇から閉山に至っているのに比べて40年も長く生産を続けていたことを、此処へ来て初めて知った。

しかし、正直の所三池鉱が有明海側の大牟田にある認識は残念ながら持っていなかった。
大牟田の後は水郷で知られる柳川へ行って見たが、あまり
感激は無かった。ご覧の通り運河をひと周りする多くの船を見掛けたが、しかし船頭達は露骨に客寄せに懸命で、完全に観光地化されていた。

そんな中で、柳川藩の立花家の「御花」と呼ぶ別邸で今では結婚式場を兼ねたホテルが有り其処に入って見たが、江戸時代に造られた見事な庭園があり、其処を見学したり柳川藩の武具や甲冑を観たりして過ごしたが、最初の予定では大川へも行って見ようと思ったけれど大川はやめて佐賀の山奥にある厳木(きゅうらぎ)へ向かった。

厳木では「佐用姫の湯」と呼ぶ温泉に入り、明日の吉野ヶ里遺跡見学への体調管理に努め、ゆっくり体を休めた。
此処が吉野ヶ里遺跡の入口で、正面の茶色の石段を登るとゲ−トが有り、その先を進むと其れからの遺跡の広いこと。
しかし、半日を掛けてほぼ観て歩くことが出来た。

処で、吉野ヶ里遺跡は当初佐賀県が工業団地として開発すべく造成工事を始めたが、以前から土器等が多数出土していたので、ある教師が熱心に工業団地化に反対して東京の学会に報告するなどの活動に専念した結果として広大な遺跡が発掘されたことを、此処のホームページで知ってはいたが、あまりの広さに改めて驚いた。

そして、此の遺跡は弥生時代の農業を中心とした大きな集落跡で、大和朝廷に繋がる日本の歴史の重要な拠点であることが途中の休憩所にあるビデオや出土品の展示により紹介されていたが、瓶のお棺なども珍しかった。


そして、支配者の竪穴住居や、見張り塔などが多数復元されており、国の力の入れ様が判る場所である。

吉野ヶ里の中にある看板で弥生時代のお墓の見学案内を見掛けたが、休日で休みとのことで近くで植木の手入れをしていた植木屋さんに訪ねると、フェンスの扉をわざわざ鍵で開けてくれて教えてくれた。そして、少し歩くと雨天用の小屋の中に小さな墓を見ることが出来たが、扉に戻るとその方が私を待っていてくれて、今度は私を軽トラックに乗せて現在発掘中の別の広いお墓の場所迄連れて行ってくれたが、何とも親切な方で有難くお礼を何度も言った。

とにかく吉野ヶ里は広く此処だけで2
万歩近く歩いたが本当はまだ見ていない場所もあったけれど、この辺りで引き上げた。

処で、この遺跡は発掘と調査が全て終わった段階で再び元の状態に埋め戻されて、埋め戻した後に正確に深い堀や住居跡やお墓などを復元したものと言う。
此処は周囲を堀で囲み、外敵の進入を防いだのだそうだ。
こうした説明が数箇所ある休憩所のビデオで紹介していたが
歩き疲れて一休みするのには丁度良かった。

そして此処では、支配者の竪穴式住居にも人形がいて当時が判る工夫がされていたり、弥生時代の服を無料で貸し出していたり、広場では当時の服装を身に着けた人が弥生時代の道具を使って物を作りながら体験学習を勧めるコ−ナなども有り、多くの人達が参加していた。

私は、吉野ヶ里遺跡から車で10分ほどの場所に自動倉庫を納めたユーザーがあり、それこそ数十回は此処へ来ていたのだが仕事が忙しく一度も遺跡には来ていなかった。そして、今回念願の遺跡に来ることが出来たので、途中でその倉庫に久し振りに合ってから吉野ヶ里をあとにした。

此処が島原市にある「雲仙岳災害記念館」で、通称
がまだすド−ム」と呼ばれていた。

処で、最初は雲仙岳と普賢岳の関係が判らなかったが、雲仙岳はあくまで全体の総称で雲仙岳の中に普賢岳などがあるのだそうだ。そして雲仙岳の中で、普賢岳が一番高く今回の噴火で出来た平成新山が更に標高を少し高くしているとのこと。そして、この記念館には今回の噴火で燃えてしまったカメラや車等の実物が展示されていて建物の中央の床がガラス張りで、その床の下を火砕流が走り抜ける様子を見ることが出来た。

追記
 がまだす:島原地方の方言で、頑張るを意味する。

島原へ来て最初に市役所へ行ったが、休日で生憎閉庁中であり、宿直の男女の職員に普賢岳の当時の事や資料館のパンフレットなどを聞いたり貰ったりした。

そして、
市役所の先の海沿いに有る「雲仙岳災害記念館」の展望台から見える普賢岳を撮ったのが左の画像なのだが
生憎霞んで良く撮れていない。ほぼ中央の右側にうっすらと見えるのが普賢岳で、漸く噴火活動が終息した事を記念してこの建物が建てられたのだが、赤いス−ツの数人の女性達がアテンド役となって江戸時代の噴火を紙芝居風に紹介するコ−ナ−と今回の噴火を実際の映像と立見席の足元が振動し、轟音などで臨場感を出すコ−ナ−もあった。

尚、この災害は普賢岳に出来た溶岩ド−ムが砕けて火砕流となり多くの死者が出たのがH3年6月3日なのだが、しかし、
前年の11月に既に普賢岳は噴火していたと記されていた。


そして3階へ行くと、そこは普賢岳を正面に見る事が出来る展望台になっていたので、そこで撮ったのが左の画像である

此処「みずなし本陣」は、初めに見た記念館の先にある道の駅だが、其の道の駅の中には先の普賢岳の噴火により町の其処此処に土石流が押し寄せ、この辺りにも多量の土石流が押し寄せて全てが埋まってしまったそうだが、そうした民家をそのまま後世に残す為に保存し、此処を公園にしていた。

また、一部の民家を永久保存するための大きな建物があり、左の画像の様に建物の中が土石流で殆ど埋まってしまっている民家が幾つもあった。

 此処「口之津」は、17年前に妻とフェリ−で天草から島原に降りた懐かしい場所ですが、そのフェリ−乗場と島原鉄道のこの駅は以前と少しも変わること無く見る事が出来た。

そして、まず口之津役場でトイレ休憩したがその間に島鉄の電車が行ってしまって、記念の写真を撮りたかったのだが次が20分後と判り諦めて、島原半島の島原市と反対側にある雲仙へ向かった。しかし、雲仙迄の道が山の中を結構走るのには意外であった。其れと言うのも、雲仙はもっと平坦な場所にあるとばかり思っていた。

山中を走りながら、水蒸気が立ち込めている所を通り掛ったので立ち寄って見ると、硫黄の臭いが鼻を突く正しく温泉地で、「清七地獄」と書かれた柵の中は、湯煙が立ち昇る名所(?)で、暫く車から降りて写真を数枚撮り雲仙を後にした。

H23年2月18日追記
今回島原を調べると、2008年に島鉄の島原外港〜加津佐
間が廃線になり、この駅も廃駅になったことが判りました。

此処が雲仙の中心地のようだが、硫黄の臭いが鼻を突き、あちらこちらから蒸気が立ち込めていて、雲仙はその水蒸気の中を走る正しく温泉地であった。そして、高級そうな旅館や大きなホテルが蜜集していた。

左の画像は「清七地獄」と呼び、柵の中は湯煙が次々に吹き出る名所(?)で、此処で暫く休憩した。

この後長崎市へ行ったが、長崎では市役所の駐車場が一杯で入れず、30分100円の民間の駐車場を見掛けるのだが長崎観光を予定していたので、戻って来る道順が判らず結局長崎は車で一通り走っただけで、長崎半島を北上し次の予定地である外海(そとめ)へ向かった。

其処は、1ヶ月前にオ−プンしたばかりの高台にある道の駅で、晴れていれば遠くに五島列島が恐らく見えるのだろうが、生憎の小雨で全く見えないので、次の西海へ行くことにした。
そのような訳で、現在「さるく博」のキャンペ−ン中の長崎は何にも観ずに終わってしまったのが残念と言えば残念で、
此処に載せる画像が一枚も無いのが改めて残念である。
佐世保市役所へ行くと「海上自衛隊佐世保史料館」を教えてくれた。そこで早速行って見るとその史料館は、セイルタワ−と呼ぶ左記の建物で、記帳を済ませるとエレベ−タ−でまず7階へ上り、其処から順次下の階へ展示物を観る様になっていたが、その7階は展望ロビ−で佐世保湾や九十九島などを見る事が出来るのだそうだが、当日は天気が悪く殆ど見る事は出来なかった。

そして6階が日本海軍の軌跡、5階が軌跡U、3階から下が海上自衛隊関係で5階で観た連合艦隊の軍艦が勢揃いした模型や太平洋戦争の主な海戦等に付いて自衛官が見学に来た婦人達に説明していたのでその中に加わって拝聴した。

此処は陶器の町有田だが、有田町は其れこそ道路の両側は陶器店が続き昼食にチャンポンを食べに入った中華料理屋の親父さんがくれた地図もその通りだった。しかも、卸団地
(左の画像は平屋の同じ間口の店が両側に24軒並んでいて
それぞれ扱う品物が少しずつ違うのだが、私には同じように見えた。

そこで、品数が多く庶民的で入り易い店でお土産を選んだが
中華店の親父さんから有田では陶器はどこも3割引と聞いたので、話して見ると割り引いてくれたお蔭で結構な量の土産を買うことが出来た。
有田から伊万里へ行ったが、伊万里は有田と違って一軒毎の民家風の店が坂の両側に並び、下の駐車場に車を停めて裏が大川内山と呼ぶその斜面を登って行くと、狭い周回道路の道沿いに沢山の陶器店が在った。

そこで、中央を流れる川を渡り反対側の道に出ると使用中の登り窯(下の画像)があったり、陶器作りを体験出来る工房が有ったりと、有田よりも陶器を求めに来るお客をもてなす熱意を感じた。

そこで、伊万里で一組の湯呑茶碗を買い伊万里を後にした。

伊万里は昔、此処(伊万里港)から焼物を積み出した関係で港の名前を取って伊万里焼と称した事。そこで、有田も唐津も伊万里焼である事などを知ったが、どおりで「古伊万里」は有っても「古有田」や「古唐津」が無い訳である。

左の画像は、現在も使われている登り窯でその日は休の日で無人だったが、川を挟んで裏手の通りの中程にこの登り窯があった。
この画像は伊万里のガソリンスタンドの塀であるが、この塀にも焼き物が塗り込められていてさすがに陶器の街であると感心したので、丁度信号待ちで停まった車内から撮ったものである。
此処は唐津にある東松浦半島で泊まった道の駅から大宰府へ向かう途中の玄界灘の画像であるが、この日は天気も良く晴れていて海は穏やかだった。

そして、道路を挟んだ海と反対側に唐津と博多を結ぶアルミの下地に赤い模様の6両編成の電車(JR唐津線)が走っていたが、結構乗客が乗っていて、その電車に並走し3時間で大宰府に着いたがもっと時間が掛かると思っていたので、
お陰で大宰府の国立博物館をゆっくり観ることが出来た。

この画像は、昨年出来たばかりの「九州国立博物館」で、
天満宮の参道の途中を右に曲がると数十メ−トルで此処に来ることが出来る。

そして、この入口から長いエスカレ−タ−を乗り継いで行くと一番高い所に博物館はあった。

処で、此処へ来る前に天満宮をお参りしたが、最初天満宮の市営駐車場が裏手にある事を知らず此処へ来て看板を見て判ったが、案内板を見ながら天満宮を目指すと、そこは丁度天満宮の参道の横手に合流する道で、懐かしい西鉄の駅も正面にあった。

 さて、天満宮の社務所で孫のお札を買おうと聞いて見ると、天満宮は学問の神様なので1歳の子供のお札は無いと言う
そこで、健康に育つ様に小さなお守りを買ったが、17年前に工事中だった社殿は立派に完成し(当然)新しい社殿で孫の健康を願いお参りをした。

天満宮と地続きの博物館に行くと「九州国立博物館」が正式名称で、天井が極めて高く開放感のある此れまでの博物館とは違う明るい空間が其処にあった。そして丁度琉球の特別展をやっていたので、今回沖縄を二度観る事が出来たが、再度首里城の国宝などを観ることが出来てラッキ−だった。

更に、特別展を観た後に常設展も観たが、古代から現代までの日本の文化と歴史を広い展示室が幾つもある順路を回って観ることが出来た。
左の画像は飯塚市役所で教えて貰った「歴史資料館」だが、飯塚にも遺跡が有り色々訪ねると、此処の学芸員の女性達はこの町の広報に大変熱心で、沢山の史料を封筒に入れて渡してくれた。

しかし、最初は飯塚に炭坑があると思っていたが、有る事は有っても直方が筑豊炭坑の中心であり飯塚は規模も小さい
との事だった。其れよりも、遺跡や古墳から出土したカメ棺
(吉野ヶ里遺跡で沢山観ることが出来た上下一対で作られたお棺)を此処でも観ることが出来た。恐らく吉野ヶ里だけではなく、北九州全体に古代人が生活をしていたと言う事だろう。
飯塚市立歴史資料館の入口に「山上憶良」の辞世の歌碑があったのでその資料を貰って来た。

 士(おのこ)やも空しくあるべき万代(よろずよ)に、語りぐべき名は
立てずして

(男子たるものは空しく世を過ごして良いはずがあろうか。
のちのちの代まで語り伝えられるべき功名も立てない
 ままに・・・)

飯塚市の後に直方市へ行きその後、小倉を見学して九州の旅を終える予定であるが、前日あたりから胃がシクシク・ムカムカしてくるのに悩まされて、自分で食事を作るのが出来なくなってしまった。恐らく、3週間近く一人で生活をする中で、
一日のカロリ−はきちんと出来ていても、食事の時間を其処其処に次の行動に移ってしまったことが原因の様に思った。そこで、一日様子を見てこれからの予定を考える事にした。
この蒸気機関車は直方市の「石炭記念館」にあるもので、この記念館で筑豊炭鉱の歴史を実に良く理解する事が出来た

しかも、此処の館長はご夫婦で記念館を管理しており、実に熱心に筑豊炭坑を教えてくれた。

私が大牟田で三池鉱の科学館を観て来た話をすると、館長は
三池鉱よりかなり早く閉山(昭和30年代)した事や、3人の
偉人(麻生大吉、安川敬一郎、貝島太助)の生涯等を詳しく
話してくれた。

(1)麻生大吉:現在の麻生太郎外務大臣の祖父
(2)安川敬一郎:現在の安川電機の創業者
(3)貝島太助:炭鉱一筋で石炭とは別の企業は作って
         いないが貝島が一番筑豊に貢献したこと

しかし、余りにも多くの経営者が居たこと、石炭が早期に枯渇
してしまったことなどが影響して三池鉱の様な立派な科学館
が出来ていないことと、直方市もあまり熱心ではない事などを
館長は残念がっていた。
また、筑豊の名の謂れはかつてこの地が筑前(福岡)と豊後(大分)にまたがっており、夫々の頭文字から出来ていることを館長から教わった。

処で、筑豊は三池と違い山中に石炭層があり、昔は遠賀川を底が平らな船で石炭を港へ運んだ事や、後期は蒸気機関車(上の画像)が活躍し一時は多くの人が成金になったりしたが
石炭の枯渇と共に廃れて行ったと言う。

そして、この記念館の場所は、1,000人以上の人達が石炭に関する様々な技術の習得に努力をした場所で、炭塵爆発等の危険物の研究に大いに貢献した所だそうで、左の画像の様なエア−モ−タ−式機関車等が露天で展示されていたが
しかし、三池鉱と違いこの様に屋外に展示されてかなり錆ており勿体無い事であると感じた。そして、館長は私に悩みを打ち明けられて、私が熱心に質問すると喜んで蒸気機関車の運転室に乗せてくれたりサ−ビス満点であった。
この建物は100年前の建築物で、筑豊炭坑が華やかなりし頃に事務所として使われていた所で、この建物の裏には本物の坑道や訓練用の設備が今でも有るようだが老朽化しているので中への立ち入りを禁止しているとの事であった。

本当に様々な事情からこの記念館がマイナ−になっている事を残念に思うと話すと、館長ご夫妻は大変喜ばれてお土産をくれたり、是非貴方のホ−ムペ−ジでこの石炭記念館の実情を広報して欲しいと館長から頼まれた。

皆さんも、直方へ行った折は場所が判りずらいのですが是非この記念館を訪ねて欲しいと思います。尚、直方は魁皇関の出身地です。
此処が小倉城址だが、とにかく町の道幅が広過ぎて市役所へも行けず、町を見物するにも駐車場が見つからず、此処の観光を諦めたのだが、実際は胃の調子が悪く観光どころではなかったのだ。そこで、小倉を少しは観れた事を良しとして、関門橋で本州へ渡るか関門トンネルにするか迷ったが、関門トンネルの方が小倉に近い事がカ−ナビのチェックの結果で判り、関門トンネルで行くことに決めた。


此れで、九州をひと回りする旅を完成させることが出来た。
そして、九州の地に16泊17日居た事になる。思えば、大阪からフェリ−で門司に上陸し、そして、関門トンネルを使って九州を離れる迄、行きのフェリ−の1泊と2泊3日の沖縄旅行そして、1泊2日の屋久島旅行を含めると、山梨を出発して20泊21日目になるが、九州を離れる時は寂しくもあったが体調を悪くした事もあり此れからは最少の日程で体に大きなダメ−ジを与える前に家に戻る様にしたいと思う。しかし、
早目に切り上げた今回の判断は結果的に良かったと思っている。
カ−ナビのガイドで関門トンネルを目指したが、なんとわずか5分で本州側へ行く事が出来た。確かトンネル内は対面通行で少し怖かったが、普通のトンネルと全く変わりは無く海底を走っている実感は無かった。

しかも、通行料金が150円で今までの有料道路の中で一番安い料金である。

それから、下関側の有料道路を通って下関市へ行ったが、
美しい関門橋が見えたので車を駐車場に停め関門トンネルを歩いて渡る人の為に造られた地下への入口から関門橋を撮ったのが下の画像である。
関門海峡の距離を調べていないが、改めてこの橋の2本の主桁を見ると数キロ位しか離れていない様に見える。確かに関門トンネルもアット言う間に通過してしまった。

この画像は、しまなみ海道の今治北のパ−キングから来島海峡に掛かる最後の橋を小雨に煙る中でわずかに観た時の画像だが、どのパ−キングエリアにもそれぞれに展望台が
有り橋を観ることが出来たが、旅の最後にこのような光景を観る事が出来てこの海道と淡路島だけは残そうと選んだ甲斐があったと思う。

それにしても、下関から国道と山陽道を使い広島の先にある尾道の道の駅迄400km以上を走ったが、本当は下関で一晩泊まり翌日は徳山や岩国の錦帯橋そして広島の原爆ド−ムと福山にある鞆の浦を観て尾道に行く予定であったが、体調の関係で計画の部分をパスし尾道まで一気に走った。

そして、次の日は尾道から今治迄の「しまなみ海道」を楽しん
だが、今から思うと淡路島の鳴門大橋と明石海峡大橋よりもこちらの方が良かったと思う。それは、何と言っても島の途中にある展望台で島と橋をゆっくりと観る事が出来た事である。

此処が高松市の先にある屋島から観る事が出来る古戦場であるが屋島の頂上まで有料道路があり其処まで車で登ると
屋島寺とこの展望台に行くことが出来た。

そしてこの日は雨と強風に悩まされたがゆっくりと古戦場の説明板で当時の状況が正しく理解出来た。一方、下関に
壇ノ浦が有るが此処屋島で平家に壊滅的な打撃をを与えて壇ノ浦へと落ちて行く、正しく此処が古戦場の場所であり、
こうした高い所から古戦場の全体を見渡せて屋島に来て
良かったと思った。
此処から見る屋島の古戦場は、左り手が義経の作戦の裏を斯こうと平家が多くの船を隠した場所で、義経側は右側から攻めたのだそうで、義経は当日大軍を引き連れて船で極めて早く和歌山からこの地に到着出来たのはラッキ−な風が吹いたからで、アット言う間に屋島に着いたことが分かった。
そして、義経があまりにも早く着いたので、まさかそんなに早く着くとは思っていない平家が油断をしたすきに丁度屋島から見える向こうの山との間の狭い所から徹底的に平家を攻めて相手に壊滅的なダメ−ジを与えたと言う事が上の画像に少し見えている説明案内で手に取るように理解出来た。

処で、この山をどうして屋島と呼ぶかと言うと、屋島の頂上が家の屋根の形(頂上が平)をしている事から付いた名前で、地続きで島ではなく山なのだが何故か屋山とは言わず屋島と呼ばれているとのことであった。
以下3枚の画像は、明石海峡大橋から撮ったものだが、特にこの画像は走りながら撮ったもので朝で車が空いていたので撮ったけれど、本当は危険な行為である。

そこで今度は車を脇に停めて撮ったけれど、これも本当は
駐停車禁止の看板があるので本当はNGだろう。しかし、
単に橋を通り過ぎるだけでは何とも味気なく、少なくとも橋の下を通過した時の感動とは全く異なる。

それに、昨日通った鳴門大橋も走りながら「 うず潮」を確かに観たことは見たが、この時は数台の車が走っていたので、
停める事をやめてチラッと うず潮を眺めて走り過ぎた。

そして、鳴門大橋では淡路島側に観潮出来る場所が有った様に思うが、案内板も無く走り過ぎてしまった。
そこで、今度は橋の脇に車を停めて車内から橋を撮って見たが、やはり差ほどの感動は無く失望した。

マア、こんなものだろう。そして、今回の旅で明石海峡大橋を下から観る事が出来た事と、しまなみ海道の大小7つの橋と鳴門大橋、それに明石海峡大橋を最後に走ることが出来たことが良い想い出のひとつであったと思う。
そして、この橋を渡り終えて、須磨のジャンクションから京都南インタ−迄を通勤割引を利用して走り、国道で最後の給油をしてから再び彦根インタ−に入り、この日は一気に480kmを走って山梨まで帰った。

九州の旅は此れで終わりますが、胃炎のトラブルが無ければ熊野古道や飛騨の高山に寄って帰る予定が4日ほど短縮になったが、でも九州をひと周り走ることは完結したので、今はこれで良かったと思っている。

そして、今回帰りに行けなかった所は、いずれ単独で行こうと思っている。                       
                              終わり
                    
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