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平成22年
平成22年の6月に中央線の竜王駅近くをご覧の通りD51が客車を引いて走りましたので、ウォーキングの途中でカメラに納めました。

しかし、蒸気機関車は客車を引いて走っているのではなく、
ジーゼル機関車に引かれて後退して行く場面なのです。

と言うのは、甲府を出発したD51は小渕沢へ向けて下り線を快走しましたが、再び甲府へ向けてD51が客車を牽引するには一度向きを変えなければならないのですが、残念なことに小渕沢には(と言うより殆どの日本中に)機関車の向きを変える設備(転車台)が無いので、客車を押してバックで走る事は出来ますが安全上に問題が有り、この様な状況になったと言う訳です。

しかし、D51の実物を間近かに見ることが出来て、しかも
かなりの人達が見物に来ていましたので、私もすっかり童心に戻り楽しみました。

後日D51 498を調べると「SLやまなし号」は運転日の都度ナンバープレートの色を変えて、黒・青・緑・赤で運転したそうですが、確かに最終日のD51は赤いプレートで運転しました
                        (H23年3月追記)
此処が3月に供用が開始された竜王駅北口の駅前広場です
今迄は、南側にのみ改札が有るので線路をくぐって歩きましたが、北口に広場が出来て直接改札口へ行けるので、大変便利になりました。

しかし、橋上駅舎を含めると、200億円以上の費用が掛ったそうで著名な安藤忠雄さんの設計ですが、それにしても全てが市の借金で造られたそうですから少々考えさせられます。
この車は毎日ウォーキングの時に出合うジープで、見掛けてから一年になりますが、何故か置きっぱなしになっています。

処で、ジープは米国のクライスラー社のブランドですが、米軍や自衛隊の車がジープとして知られていますが、左の車が
ジープであることを知りませんでした。しかし、写真を撮ろうと車に近付くと間違いなくJeepと書かれていました。

それにしても、変わった車体なので紹介する事にしました。

軍用ジープについて調べました平成22年11月追記)
Jeepは「ウイリスオーバーランド社(米国)」が開発し1953年から三菱重工がノックダウン方式で国内生産されたもので、その後、三菱独自のモデルによる「三菱ジープ」として生産が続けられましたが、1996年に燃費や衝突安全性等の改良が望めないことを理由に、防衛庁(当時)は以後のジープの
採用を取り止めそれ以降は三菱パジェロが採用されました。その結果、三菱ジープは1998年に生産を終了したそうです
                 
平成20年
この春に「近況報告」でご紹介したワニ塚の桜です。右手奥に雪化粧をした八ヶ岳を望むことが出来る小高い丘に、樹齢300年の桜が一本だけ立っていました。

此の桜が、平成17年に開催された愛・地球博の日本館で、風に吹かれて花びらを散らす姿がNHKのス-パ-ハイビジョン映像に映し出されましたが、それは細密な画面と共にこの桜も散り際が実に見事でした。 
近隣はもとより、県外からも此の桜を観に多くの人達が集まっていました。

その前年に私は神代桜を観に行きましたが、一本だけ凛として咲くこちらの桜が私は好きです。それにしては、あまり名が知れていないように思いますが、多分これから名前が知れ渡る事でしょう。
此処をなぜ「わに塚」と呼ぶのかその訳をご説明しましょう

それには2説が有り、一つはこの桜が塚(古墳跡)の上にあり、その塚の形が鰐口(神社仏閣の軒下に有る円形の大きな鈴)に似ていると言う説。

もう一つは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の王子(武田王)がこの地で亡くなり、王子を祭ったこの塚を後世の人が「王仁塚(わに塚)」と呼んだと言う説が有るそうです。
これも、以前にご紹介しましたが、庭にある柚子の木に、毎年黄アゲハが卵を生み幼虫がやがてさなぎになりますが、そのさなぎを虫かごに入れてひと冬室内に置きました。

そして、ある日ミル(猫の名前)が不思議そうに虫かごの中を覗き込んでいるのでふと見ると、さなぎから蝶にかえるところでした。

私達も蝶の羽化を見るのは初めてなので、虫かごの中でガサゴソと動きながらさなぎの殻を破って行く生き物の誕生を大変興味深く観ることが出来ました。そして、暫く羽を乾かしてから、少しずつ羽を動かして飛び立つ準備をし始め、花に近づけてやると花びらに掴まりながらしばらく休むと今度は飛び立って行きました。
さなぎから羽化して飛び立つまで確か2時間近く掛ったと思いますが、孫を呼んで一緒に蝶ちょが飛んで行くのを見せましたが、「蝶ちょさん元気でね・・・」と呼び掛ける孫の声に送られて庭の周りを飛び、そして旅立って行きました。何とも自然の不思議さを見た様に思います。
それにしても、生命の営みの何と神秘的で力強いことでしょう。蝶ですら健気に生きようとするのですから、私達ももっと命を大切にしなければいけません。

3歳の孫にとっても私達にとっても実に良い勉強になったと思います。
確か、この写真は二匹目の羽化後の画像だと思いますが、結局4つのさなぎの内3匹が蝶になり、4匹目のさなぎは羽化しませんでした。何故か、テレビ台の下にぶら下がって越冬したさなぎもいましたが、どれとどれが羽化したのかは判りません。
柚子やキンカンの葉に黄アゲハが黒い卵を生み最初の内は葉を食べられるのが嫌で卵を取っていましたが、その内に木が大きくなって手が届かなくなり、葉も多くなったこともあって、卵を取ることを止めました。

そうしたことで幼虫が葉を食べるのを観察したり、多分鳥に食べれれたのか居なくなったり、幼虫も大きくなると角を出して威嚇するようになったりと、実に面白く観ることが出来ました。
この画像は、JR中央線の竜王駅(甲府の一つ長野より)のものですが、駅舎を新しくするのを記念して、駅舎の歴史を展示した時のものです。(H18年5月撮影)

戦前から戦後に掛けての駅舎の写真が並べられ展示して有りました。
この写真の横に新しい橋上駅舎のイメ−ジ図が有りましたが、安藤忠雄さんの設計による山梨のイメ−ジを水晶(クリスタル)をモチ−フにした斬新なデザインの駅舎で、完成するのが楽しみでした。
竜王駅の空中写真ですが、水色の大きな屋根は日本通運の倉庫で駅舎は小さく写っています。何年か前からこの竜王駅から特急「かいじ」が発着するようになり、当時は出張に大変便利なので、良く利用したものです。


新駅舎の工事中の画像ですが、ガラスをふんだんに使って水晶のイメ-ジを表現しているモダンな駅舎が徐々に形造られていました。そして、線路をまたいで左側に延びるブリッジ部分が完成するとこちら側にバスタ−ミナルが出来て、私の住む敷島にかなり近くなり、大変便利になります。

この画像は、たまたまウォ−キング中に撮ったものですが、確かH20年1月初め頃の写真です。
前の画像を含めて、この2枚の写真は、現在は引き込み線になっている余り人の出入りのない場所から撮ったもので、石油タンクへ燃料を補給する石油基地方向から撮りました。

この風景も恐らく数年先には大きく様変わりすることでしょう。
そして、平成20年の3月に完成した新しい橋上駅舎の入口ですが、エスカレ−タ−とエレベ−タ−がそれぞれ南北に一か所ずつ有り、今までは南側一か所だった改札口がどちらからも行くことが出来て大変便利になりました。
此処は北側の入口で、私の家がこちら側にあるので将来はこの入口を利用することになりますが、現在は駅前広場がまだ整備されていないので、畑の中にポツンと入口が有る状況です。
橋上の改札口は、さすがに新しく出来たばかりで斬新なデザインですが、思い出して見ると25年前に山梨へ越して来た当時とは比較にならないほど立派になりました。しかし、私より年配の人にとっては、古い駅舎への想い出も多いことと思いますので、最初に載せた今までの竜王駅の写真を懐かしそうに見入っている人達のことを思い出します。
南北をつなぐコンコ−スはかなり広く、周囲の山並みも見えて開放感のある通路になりました。早く北側のバスタ−ミナルが整備されて、便利になって欲しいと思います。
少し駅舎から離れて撮った画像ですが、南アルプスの白根三山も見えています。しかし、ご覧の通り周囲はまだ荒れ地で駅舎まで行くには狭い道路を通って行かないと行き着くことが出来ません。
上野の国立博物館へ薬師寺の日光・月光菩薩を観に行った時の画像ですが、北海道へ行く直前に観に行きました。
館内は撮影禁止なので画像が撮れていませんが、近況報告に書きましたように実に素晴らしいお姿でした。

近況報告より
5月16日に東京国立博物館へ行き薬師寺の日光菩薩・月光菩薩を観に行って来ました。何しろ、50年以上前に修学旅行で観て以来で、こんなにも近くで観る事が出来てその場を仲々立ち去る事が出来ませんでした。そして、市原悦子が案内する音声ガイドを借りて順路に沿って観賞しましたが、何と言っても念願の日光菩薩・月光菩薩の立像を上方からと下に降りて360度方向から身を乗り出せば40cm迄に近づいて実物を見る事が出来て、とっても至福の時を過ごすことが出来ました。

それは、前々から一度観たいと思っていたのですが、本で読んで知った「柔らかな仏像」(土とロウで造った鋳型に一度に銅を注いで鋳造したロウによる極めて滑らかな曲線)で、3m以上もある像の大きさにまず圧倒されそして、美しい衣の曲線にも目を奪われて、結局像の周りをそれぞれ3回周り再び上方からも観たりと1時間以上は観ていたでしょう。周囲にはやはり離れ難くウットリ見入っている人達が大勢いましたが、反面「偽物じゃなくって本物だってさ・・・」などと少なくとも美を鑑賞するに値しない老人達がいたり様々でしたが、もうこの先この様な形では2度と観る事はないお姿を観に出掛けて、しかもゆっくりと鑑賞することが出来てとっても良かったと思いました。

また、特別展はこの他に、神仏混合としての休ヶ岡八幡宮と薬師寺との関係や、左右が対称の聖観音菩薩立像や、玄奨三蔵がインドに旅をして持ち帰った膨大な経典を翻訳しそれを弟子の慈恩大師が法相宗として完成させたこと、そしてそれを興福寺と薬師寺が交替で法要を今もしていること.。そして、吉祥天像のことなどが展示されていました。
昼過ぎに博物館を出て、上野〜秋葉原までの山手線の下を久し振りに歩きましたが、右の画像は博物館前の広場に並ぶ人達の列を撮ったものですが、かなりの行列が出来て居ました。平日ですらこんな状況ですから、休日は大変な混雑なのでしょう。しかし、私の場合は、7時前に山梨を出て10時前には着きましたので、待つことなくゆっくり鑑賞することが出来ました。

一方、上野から御徒町を通って秋葉原まで歩きましたが、秋葉原から筑波エキスプレスが開通しているので一度見ておこうと思い、併せて最近の秋葉原を知らない私は(かつては良く寄った電器街ですが)久し振りに立ち寄って見たいと思いました。

しかし、電器街は差ほど様変わりはしていませんでしたが、かつては広場だったエリアに大きなビルが出来ていたり、裏側に筑波エキスプレスの地下ホ−ムが出来ているなど、変化の著しい部分と、旧態依然の部分が混然一体としている様に感じました。
昨年は、トマトやキュ−リを植えた家庭菜園に、今年は孫とジャガイモの苗を植えて大きくなるのを楽しみにしていましたが、その収穫したジャガイモが下の画像です。12個の苗から大小取り混ぜて結構な数のジャガイモが採れました。

右の画像は畝を作って植えたジャガイモから葉っぱが出て花が咲きだした頃(5月下旬頃)のものですが、ジャガイモを初めて植えたので私達も本当に収穫できるのか半信半疑で見守っていたころの写真です。
7月6日に孫と一緒に収穫しましたが、大きなジャガイモを手にして嬉しそうにしている孫の笑顔が印象的でした。

去年は、採れたキュ−リを洗って丸ごとかじっていた孫の嬉しそうな顔を覚えていますが、今年は泥のついたジャガイモを手に持ちコレっと私に差し出す姿が何とも可愛く、この様にしてすくすく育って行く孫達が丈夫で元気よく成長することを願うばかりです。
                                                     

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平成19年
右の画像は、韮崎市の少しその先の武川町にある実相寺の「山高神代さくら」ですが、丁度山梨県内ニュ−スを見ていてこの桜を紹介していましたので、翌日妻と観に行きました。

そこは結構観光客が来ていて、農家の人達がチャッカリ空き地を有料駐車場にしていたり、出店も多く山梨へ来て20年以上住んでいますが、桜の事は知っていても、こんなに観光地化していることを私は知りませんでした。
桜の近くにある看板によると

推定樹齢は2000年で、大正11年(1922年)に国指定の天然記念物になり全国的に知るところになりましたが、その後 樹の勢いが衰え始めて、平成13年(2001年)から手入れが入り、桜の近くにあった道路を迂回させ、土壌を改良し・・・
平成18年(2006年)3月に完了したばかりである事を知りました。

この桜は韮崎市にあるワニ塚の一本桜と同じ「エドヒガンサクラ」の古木です。
看板の続き

                              
単位(m)
大正11年 平成18年
 高  さ 13.6 10.3
根元幹周り 13.5 11.8
枝張り
東西 27.0 17.3
南北 30.6 13.0



桜の根元を踏まないように柵で囲われていますが、昔は根元まで近づけたそうです。

しかし根元を人が踏む事で桜の根が弱り勢いが無くなったと書かれていました。
柵越しに多くの観光客が集まっていましたが、山梨に住んで20年以上も経つのに初めて此処を訪れました。

今までは生活と仕事に追われて、周りを見る余裕が無かったと言うことなのでしょう。

此れからは、遠近を問わずに色々な所を観て歩きたい、と思っています。
この桜は「コヒガンザクラ」と言う種類で、ご覧の通り何本もの木材で支えられていましたが、太い幹は石で造られた頑丈な架台で支えられていました。

昭和の初期頃までは勢いが有ったそうで、天然記念物に指定されたのでしょう。
神代桜の周りには、幾本もの桜が植えられていて賑やかでしたが、この寺(実相寺)が日蓮宗派なのか、身延山の久遠寺から移された桜も植えられていました。

とにかく、この様な山里に多くの人が集まり桜の咲く時期だけでしょうが、近隣の人達の副収入になっていることも事実の様に思いました。
本当は、方角的には甲斐駒が見える場所なのでしょうが、とにかく辺りが桜で埋め尽くされて山肌を見る事が出来ませんでした。

それと、山梨にはもう一つ韮崎にある「わに塚の桜」と言う大木が有ります。確か、愛知万博のNHKのス−パ−ハイビジョンに映し出されたあの桜ですが、樹齢300年のコヒガンザクラの満開の桜の美しさを私はまだ残念ながら近くに居てこの目で観ていません。

盛岡に有る「一本桜」同様、山梨が誇るこの桜を来年は見落とさない様にしたいと思っています。
此処武川町は、美味しいお米が取れる(武川米)ことで知られていいますが、尾白川(おじらがわ)渓谷と言うキャンプ場でも有名で、こちらの方は娘達を連れてバ−ベキュ−をしに幾度か行ったことがあります。

しかし、渓谷より甲府寄りにこうした名所が有る事を名前は知っていてもこの場所を知っていなかった自分が、可笑しく思いました。
実相寺の入り口にある山門ですが、結構古そうな寺で、神代桜と共に古くから知られた名刹なのでしょう。

山梨には、塩山にある恵林寺や、身延にある久遠寺などが知られていますが、規模は小さくても、まだまだ多くの名刹があちこちにあることを知って、当分は観て歩くのに困らないことをこの時実感しました。
左の画像が、山高神代サクラを紹介している看板で、その内容を既に紹介しましたが、山高は此処の地名であり、明治時代から現在に至るサクラの様子が5枚の写真で紹介されていました。
此処は甲府第一高校の近くにある「御崎神社」で、テレビ番組を見ているとこの神社が紹介されていたので、自宅から徒歩で観に行きました。確かこの日は久し振りに2万歩近くを歩いたと思います。

そして、此処の神社が有名なのは神社もさることながら、太宰治が新婚時代に住んだ住居跡(石碑)が神社から十数メ−トル先にあり、甲府駅から近いこともあって、ボランティアガイドが観光客を案内する格好の場所でも有りました。

御崎神社は、晩秋の色濃いケヤキなどが紅葉し、木の葉が風にそよぐ静かな境内でした。(平成18年11月21日)
かなり歴史のある神社で、武田神社からも近く恐らく信玄公もこの前を通って出陣していったのでしょう。
その石碑が右の画像ですが、今は当時の家は無く普通の住宅の隅にこの石碑だけが建っていました。

そして石碑の下に書かれている文章があり読んで見ると・・・

「太宰治は昭和十四年一月から八ヵ月間 御崎町五十六番地で新婚時代を過ごした。短期間ではあったが、充実した想い出の多い地であった」

と記されていました。
此処からの6枚の画像は、山梨県の県名の由来である山梨岡神社ですが、これもNHKの風林火山の番組の中で紹介されていたので、出掛けて見ました。

そもそも、廃藩置県で新しい県が誕生した訳ですが幾つかの県名の由来は承知していても今もって判らない県名が多く、例えば大分県の大分にはどの様な謂れがあるのか、今もって分からない。

さて、山梨へ来た頃に山梨は山ならし、つまり山地を開墾して平地に土地をならした事によると何かで読んだ記憶が有り、この話しをず-と信じていましたが、実はそれも一説ではあるけれど、もっと確からしい説が今回分ったのです。
この神社は、JR中央線の石和温泉駅のひとつ東京寄りにある春日居にあり、雁坂トンネルへ向かう国道(雁坂道)を200mほど入った所にあります。

境内はそれ程広くは無いが、先の御崎神社よりは広く、確かにこの神社についての謂れが書かれて有った。(それがこの画像です)

その説明に寄ると、その昔 疫病や災害でこの地が大変荒れ果てたその時に、勅命により小高い岡に祭神を祭りひたすら祈ることで事無きを得たが、その小高い岡は御室山と呼ぶ山で、その後山の中腹に祭られた神様を麓の平地に移し神社を造営した時に、その平坦地には梨の木が沢山生えていてその梨の木を伐採し開墾して神社にしたと言う。そこで、この神社を御室山の山と梨と岡を組み合わせて、山梨岡神社にしたと書かれていました。

明治になり甲斐の国を新しい県名で呼ぶ検討の中で「山梨岡神社」の最初の二文字を取り「山梨」と決めたとのことです。
この神社は、県の文化財に指定されていて、国道から本殿への人家の中を通る参道はそれとなく趣きのある道で、神社を大切にして暮らしているこの地の人達を知る事が出来ました。
正面にある小高い山がその御室山(みむろ山)で、甲府盆地の平地の中に此処だけが小高くなっており、恐らく周囲の山ではなく平地の中にあるこの岡に小さなほこらを造り祭神を祭ったのでしょう。

私は、山梨に来て20年以上が経つが、初めて山梨と言う県名の謂れを知ることが出来ました。

そう言えば、前に書きましたが都道府県名のそれぞれの謂れを知りたいと思っていますが、例えば昨年(H18年)に行った九州の大分は、おおいたと読む事を含め何故大分なのか(?)知りたいと思っていますが、インタ−ネットで調べても今のところ見つかりません。

大分県の県名の由来を発見!
          (ネット上の百科事典であるウィキペディアで確認)


大分は、古来この地の国府として大分郡(おおきたのこうり)と呼ぶ地名が残っていて、その「おおきた」→「おおいた」に変化して行ったとのこと。そのおおきたの由来は「豊後国風土記」の中で、景行天皇がこの地を訪れて「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべしと感嘆して名づけ、これが後に大分と書かれたと記されているようだ。この中で、「碩」は訓読みで「大きい」と読むので(又は立派であることを表す言葉)、大きな田の国は「おおいた」に通ずる言葉として十分理解出来るが、それがなぜ 後世「大分」になったのかは調べても良く判らない。それに対して、別の定説では大分平野は広大とは言えない狭くて入りくんだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じ、古来の大分郡との関連から「おおいた」になった、と「ウィキペディア」に出ています。
                        (H19年11月24日調べ)
国道にある山梨岡神社の道路標識ですが、私が立つ側に春日居中学校があり、何度も此処を通っていながら今まで知らずに通り過ぎていました。
9月に友達の結婚式に行く娘を送って、笛吹川フル−ツ公園にある式場へ行った時にもこの道を通り、神社を通り過ぎてすぐその先にある「鎮目」の交差点を左折して公園まで行きましたが、「鎮目」と呼ぶこの地が神社と関わりのある土地であることも判り、参考になりました。

今年は、NHKの大河ドラマの風林火山」で、ドラマの最後に番組と縁のある土地を紹介するコ−ナ−が有りますが、ドラマのお陰でまた一つ新しい知識を得る事が出来て勉強になりました。
この画像は、娘達夫婦が住むアパ−トへの行来で目にした何とも懐かしい光景を撮ったものですが、マツダのオ−ト三輪の荷台に、昔懐かしいダイハツのミゼットがおさまっています。

以下の画像を含めて角度を変えて撮って見ましたが、いずれもかなり痛みがひどくボディ−も腐っているけれど、型はしっかりしていて何かホットするものを感じます。
私も目黒に住んでいた頃に、当時マツダのK360と言う軽三輪を運転し、親父が作ったキャビネットを秋葉原へ納めに行ったり、想えば、銀座通りを軽三輪車で走ったり45年以上も前の話ですが、あの時代と想い出が重なる懐かしい画像です。

ミゼットでは、その昔、藤田まこと、大村昆や白木みのる、茶川一郎、芦屋雁ノ助・・・たちが演じた「てなもんや三度笠」をテレビで良く見ましたが、あの番組でもダイハツのミゼットを前にして彼等が面白おかしく演じていたことを想い出します。
車体は相当壊れたり腐っているが、タイヤはパンクも無く、車止めに支えられてしっかりしていました。

何ともユニ−クな姿ですが、ところが9月の上旬に近くを通ると、そのミゼットの姿は無く、オ−ト三輪だけになっていました。右の画像はH19年5月29日と記録されており、その後も幾度か見掛けているので、何時ミゼットが無くなったかは判りませんが、一体どうしたのだろう(?)

しかし、どうしてミゼットがオ−ト三輪の荷台に乗っていたのか(?)それの方が不思議です。
この画像は、ウォ−キングの途中で見掛けた自動車修理工場前に止められていたオ-ト三輪で、恐らく走ってはいないと思うが、こちらの方は先ほどのオ−ト三輪よりもしっかりしていました。

良く、東南アジアでオ−ト三輪がタクシ−に使われたり、物を運んでいたりする光景をテレビで見ますが、日本もその昔はこうした車が大活躍していた時代がありました。

それは、現在の日本では既に見る事は無い経済がまだ良くはならない時代の庶民の生活が伺えて、時代の証としての貴重な車で有ると思っています。

その私も60才も半ばになりますが、こうした車を写真でしか知らない若い世代の時代になり、少し寂しい気がします。
これは、中央線の竜王駅が新しく生まれ変わる現在工事中の駅舎の近くにある看板ですが、駅前広場が狭くしかも線路を挟んで反対側に駅がある関係からガ−ド下の狭い歩道をすれ違う車を避けながら歩く今までとは違って、再来年からは私の住む家の方角にも広場が出来るその完成予想図です。

いずれにしても、特急の「かいじ」が数本竜王駅から出発するようになったり、この地域が再開発されて便利になって行くのは嬉しいことでです。
これは、孫に野菜を自分の手で取らせてやろうと我が家の庭に作った菜園で、キュ−リとトマト、ミニトマト、ナス、ピ−マンそしてカボチャが植えられていますが(肥料と苗は娘達が揃えました)しかし、良く取れたのはキュ−リとミニトマトぐらいで、ナスは他の野菜に養分を取られたのか、2〜3個ぐらいでカボチャに至っては、元気な葉は茂るのですが花が咲いても身は一つも出来ませんでした。植物でも、成長が早いものとそうでないものがあることを野菜を育てて見て初めて知ることが出来ました。

良く親父が、孫に喜んで貰おうと土をふるいに掛けたり肥料を買って来ては本やテレビを見ながら野菜を育てていましたが、野菜作りも仲々難しいものです。

しかし、孫が自分の可愛い手でキュ−リを手にして、その場でキュ−リを洗い、いかにも満足と言う顔で喜んで食べている姿は感性を育てる意味からも大切な事だと思うのです。
この画像と次の画像は、やはり孫にお米の収獲を体験させようと、ホ−ムセンタ−で大きな容器を買いそこに農家で田植え後の余った苗を分けて貰って来て孫と二人で田植えをした6月頃の画像です。

容器の底にホ−スを取り付けて水道の蛇口から毎日水を入れては、底のホ−スからは古い水を抜きそして、適量に入った時点で底のホ−スを上に上げてそれ以上減らない様にしてはそれを繰り返して稲を育てました。
処が、ある時どうも犬が底のホ−スの継ぎ目を外した様で、それに気付かずに数日水が無い状態が続きかなりの稲が枯れてしまうと言うアクシデントがありました。

そこで、大至急復旧して元の状態にしましたが、枯れてしまった稲を写したのが右の画像です。

しかし、9月になると大分穂が出て来て、このホ−ムペ−ジを転送する頃には、孫と稲刈りも終わり、収獲したお米を皆さんに見て貰える事と思っています。
9月27日に孫と一緒に稲刈り(?)をしました。右の画像は稲刈り後の田圃(?)です。

最初は鎌でやろうとしましたが、仲々上手く切れず枝切りバサミを使って、孫に鋏を握らせて私も一緒にやりましたが、15束ある稲を8束切った所で孫が飽きて来たので、残りは私一人で本格的(?)に鎌で切りました。

孫は満足そうな顔をして、私のそばで見ていました。

稲刈り後は、この容器の中の土を出して今度は中に砂を入れて、砂場にしようと思っています。
刈り取った稲を束にして桜の枝にまたがせ、皆で手を叩いて収獲を祝いました。

この時期の田圃はほとんどが稲刈りが済んでいますが、なぜか一部の田圃はそのままです。田植えの時期が遅かったのか、それとも成長が遅い稲なのか判りませんが・・・

孫と一緒に田植えをしたのが 6月7日なので3ヶ月と20日間で収獲出来ましたが、途中で水が無くなって一部の稲が枯れたり、しかしかなりの稲が復旧出来てお米が沢山(?)取れました。

乾燥したら上手に出来た稲穂を孫に見せて収穫祭をやりたいと思っています。
妻が大切に育てている「月下美人」に今年も花が咲き妻が自ら撮った画像を一枚載せました。

甘い香りがしていよいよ今夜咲くだろうと楽しみにしていましたが、私が早く寝てしまったので、10時過ぎに撮ったようです。

一晩だけ咲くので待つことしきりですが、咲いた夜はひと時をこの花の話題で話しが盛り上がります。
続いて、我が家の庭に咲く草花をご覧頂きますが、今の一眼レフのデジカメは、色々な撮り方の設定が出来て、例えば背景をボカシたり高速で移動する被写体をハッキリ写す事が出来るなど色々な撮り方が簡単に出来ます。

この画像も、奥側の花をぼかして、焦点を当てた花だけが鮮明に撮れていますが、時々色々な被写体を撮っては楽しんでいます。

この花の名は調べると「ランタナ」と言う様で、花の色は数種類あると言います。

小さくて可愛い花ですが、近くの園芸店で買って来たのが増えたのだそうです。
最後に、毎年五月に咲くアヤメに似た外国種の花ですが、調べて見ると「ジャ−マン・アイリス」別名を「ドイツアヤメ」と言う様です。

五月に一斉に咲くこの花の姿に気付くと、今年もこの花が咲く季節になったなあ-・・・と、いつも初夏を感じる以前からあるアヤメです。

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平成15年〜18年
信玄堤公園(旧竜王町)
信玄堤についての案内図
信玄堤の紹介
同、案内図
家の近くの紅葉の眺めの良い場所(H16年の敷島台)
軽飛行機の墜落現場(甲府市美咲町)まで徒歩で見学。 撮影日:04.01.22
同上:電線を切断した為に、復旧工事中であった。とにかく、極めて狭い通り沿いの駐車場に墜落したが、私が到着した時は機体は既に青いシートで覆われていた。後日談であるが、女性操縦士がパラシュートで直前に脱出したがパラシュートが開かず死亡。先輩副操縦士が最後まで操縦桿を握り、周囲への墜落の影響を少なくする努力をしたが、残念ながらその副操縦士も亡くなった事を知り、最後の最後迄責任を果たそうとしたその努力に胸が痛くなる。冥福を祈る。
同上:軽飛行機の破片が電線に絡んでいた
韮崎・甲府線(山の手通り)の自宅近くでの下水道工事現場の広報板(シールド工法を知らせるなかなかユニークなもので、地域住民への協力要請の姿勢が感じられる良い看板と思う) (H17年撮影)
バンフォーレ(J2サッカー)選手寮(甲府市池田町)をウォ−キングの途中で見掛けたので一枚。

H17年暮れにJ1に昇格し、H19年に再度J2に降格しました。
西八幡スポーツ公園に隣接する信玄堤の桜並木。 撮影日:03.04、02
西八幡スポーツ公園に隣接する信玄堤の木立ち。三々五々散歩をする人達の姿で賑わう。 撮影日:03.04、02
同上、しっとりと落ち着いていて気分のリフレッシュに良いところ。昼食の弁当を食べに会社を出てこの林のベンチに腰掛、ひと時を過ごした。
双葉高原から八ヶ岳を眺む。  撮影日:04.02、27
旧双葉町からの茅ヶ岳
荒川の敷島側土手(千松橋とその下流にある音羽橋の中間)にあり、画像は信玄堤同様の堤防決壊防止用木組みを説明した掲示板。

牛枠、沈枠(しずめわく)、菱枠(ひしわく)、
聖牛(ひじりうし)などの用語と形状の説明及び、掲示板の後方にサンプルが組み上がっています。
牛枠や聖牛などが実際に組み立てられている場所。



     
                                     
     平成15年〜18年                -ホ−ムペ−ジのトップに戻る-
神社と寺院関係
山形神社(甲斐市篠原)
祭神は山形大弐(江戸中期の国学者)で学問の神様。毎年秋(文化の日又は勤労感謝の日?)に「学問祭り」が行われる。
この神社は、かつて私の通勤途中にあった懐かしい神社である。


江戸時代中期に、幕府の方針を批判(大弐は尊王攘夷を中心に儒学や兵学を修めた)し、最終的に処刑されたが、この思想が明治維新を推進した人達(吉田松陰や伊藤博文達)に強く影響を与え倒幕を成功させた。そこで、山形大弐は明治政府より見直され祭神として祭られた。又、大弐は甲斐の国(現在の甲斐市竜王)の出身で、若くして江戸へ出て塾を開き多くの門弟を育てたと言う。
(此の部分H21年4月追記)
同上:神社正面
同上:山形大弐像とお墓
同上:入口にある神社の説明文
甲府市池田町にある菅原道真を祭る神社。(県立看護大学のはす向かいで、通りより少し奥まった所にある)

元々は近くの別な場所に有ったが、道路拡張の為に場所を移したとの事で、竜王駅から甲府駅へ向かう中央線の車窓から見えた社を知りたくて敷島から歩いて探した。

この通りを「天神社通り」と呼ぶことが長く判らないでいたが、天神様を祭る神社が近くにある通りであることをウォ−キングで知った。

日本のそれぞれの地にこうした昔ながらの謂れや言い伝えのある神社が沢山あることだろう。
同上:境内より社殿を映す。
同上:この石碑に移転の経緯が詳しく書かれている。
旧敷島町の山の手通り沿いにある八幡神社。前の通りが拡幅され、境内が狭くなったが、昔からの鎮守様であろう。
甲府市湯村にある八幡神社。丁度行った時が節分祭で、多くの人が集まっていた。
旧竜王町にある慈照寺と言う武田家に縁の有る由緒あるお寺。竜王駅から少し長野よりの線路近くにある。

「竜王辞典その1」(甲斐市のホームページ)で詳しく紹介されています。
同上
同上

甲府市湯村にある塩澤寺(えんたくじ)
毎年2月13日から1日だけ厄を除けてくれるお地蔵様で有名。この日の縁日には大勢の参拝者が訪れます。
撮影日:04.02.13(縁日の日に)


同上:その、お地蔵様。

同上:お祭りの日に撮影しました。(04.02.13)
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古墳&石碑関係
旧敷島町にある大塚古墳(敷島北小学校のそば)
弥生時代(古墳後期)のもので、荒川のすぐ近く(距離にして20m)にあるところから、弥生人が荒川の肥沃な土地で生活した頃のお墓と思われる。
同上:古墳の上には神様が祭られているが、これは後世に造られたものと思う。
同上:掲示板(旧敷島町教育委員会)
同上:古墳裏側の石室
旧双葉町にある古墳で、雑木林の中に立っている。ドラゴンパークの少し敷島寄りにある
ドラゴンパーク(甲斐市赤坂台)にある古墳。写真に撮っては無いが、古墳と石室が整備されている。
金の尾遺跡(敷島町教育委員会)内容
・中央道の建設工事中(昭和52年末)に発見され53年からほぼ一年を掛け発掘された。
・弥生時代(2000年前)の住居跡で、敷島町字金の尾の地名から命名された。
・恐らく、近くに当時の水田跡が有るのではと予測するとの事(住居のみが集中している)
・近くにある敷島南小学校の校歌にも歌われている。
・この掲示板は、中央道と田富・敷島線が交差する大下条立体下に立てられている。
中央道双葉サービスエリア近くにある古墳跡。
ご座石(説明文は下の写真)
武田信玄の父(信虎)が今川藩の武将と戦った時にこの大きな石の上に乗り指揮をとったと言ういわれが下記の説明文にある。(見え難いが、家の下に有る大きな一枚岩)場所:旧双葉町竜地
同上、ご座石の謂れ
甲府市千塚の山の手通り沿いにある常夜灯と理解するが下記の写真から安西三年の文字が読める。しかし、文字がかすれていて自信は無い。
同上
灯篭の裏側に書かれた文字
の様な江戸時代に作られたと思われる灯篭が、あちらこちらに見られる。
敷島総合公園入口にある本居宣長の句碑。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の石碑

20数年前に会社の山梨移転で住居を検討していた際、「敷島」の響きが気に入り現在の地を選んだが、学生時代に覚えた「敷島は大和の枕言葉」である宣長の詩が、その理由。
用水路改善記念碑
石碑上部にある玉幡村の名は今の旧竜王町の一部。サトイモの「八幡いも」で有名。
旧千松橋(せんまつばし)の石柱

千松橋の謂れ
千塚村(甲府側)と松島村(敷島側)を結ぶ橋より「千松橋」となった事が石碑(下の写真)に書かれている。その昔、私の住むこの辺りは恐らく松島村と呼ばれていたのだろう。確かに、「松島」の名は、松島郵便局を始め数箇所に残っている。
同、上の画像の説明文
袖すり橋跡:旧敷島町内にある町の歴史の説明文。
古老の話として「昔、信州路に続く町屋往還(この辺り)で市川男と御嶽女が別れを惜しんだ橋の有った場所」と書かれている。
武田信虎(信玄の父)と今川軍が戦った古戦場跡に建てられた記念碑(旧敷島町島上条の荒川土手にある公園に「上条河原古戦場跡」として建立)
今川軍(静岡)が攻め入って来た時に、武田軍は少数で戦い敵を追い返したことが書かれている。
そうした戦史の詳細が、石碑の裏側に書き記されている(詳細が下記写真)
戦史の詳細が書かれた記念碑の裏側。
この木は通称をムクの木と言い、正しくは「ムクロジ」と呼ぶのだそうだ。一般的なムクノ木とは別種とのこと
         
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