成光のぶらり旅写真集(buraritabi files)

 
      山陰(京都・岡山)編 
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琵琶湖大橋を渡り大原への裏街道を走ったが、そこは険しい山道だった。そして、50年ぶりの大原は三千院と寂光院の位置関係が記憶とは違っていたが、当時とは逆コ−スの為であるのかも知れない。

しかし、小さな川沿いに近道をして三千院の山門まで歩き、懐かしいその御殿門をくぐり境内に進むと、舟底天井で知られるその御堂が眩い木々の若葉のその向こうに姿を見せていた。

そして、苔の緑と木々の新芽が柔らかに溶け合い、その木立の中に浮き出るお堂は私の思っていた通りの御堂で、その
柿葺屋根のお堂に(半世紀振りに)再び出合う事ができた。

是非また今度は秋の大原に来て見たいと思いつつ、暫くの時を過ごした。
三千院から山裾を歩き平清盛の娘 徳子(建礼門院)が尼僧として余生を過ごした寂光院へ行って見たが、道すがら静けさの中に落着きのある家並みは 私の心を和やかにさせてくれた。それが、寂光院へ着いて見ると、一転余りの変わり様に大変驚く。

 それは、平家物語の「大原御幸」の中の御堂が数年前の
放火で消失したことは知ってはいたが、その場所には写真の
通りの真新しい御堂が建て替えられていたのである。

平家物語の大原御幸で「・・・西の山の麓に一宇の御堂あり、すなわち寂光院これなり。古う作りなせる前水木立ち 由あるさまのところなり『甍破れては霧不断の香をたきとぼそ落ちては月常住のともしびをかかぐ』 とも かようの所をや申すべき」と謡われたその御堂にお目に掛かりに来たのだが、私の中にあるものとは似つかわしくない真新しいそのお姿に驚いた。

なんでも寺の説明ではH17年6月3日に落慶法要を行い翌日から一般公開されるとの事で、幸いにして焼失を免れた本尊の地蔵菩薩をこの日は観る事が出来ず寂光院を後にした。

 「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけれ」 と、
後白河法皇が読んだ心字池より御堂を写す
岡山は、社用で此れまでに幾度となく訪れているが、後楽園を一度も観ていない私は、まずその庭内の広いことに驚いた

そして、手入れの行き届いた芝生に木々の若葉がとけ合い奥深く落ち着きのある色合いを私に見せてくれるのだが、
今がまさしく新緑の季節である事を教えているかの様なその色取りに、この地へ来て本当に良かったとつくづく思う。

その庭内をゆっくり歩いて行くと、お城と庭園を船で行来出来る船着場の跡があったり、茶畑や水田が有ったりと単に庭園だけではなく生活の匂いを感じるものが其処此処にあり、歩くほどに橋を渡り少し小高い場所に行き着くとそこからの眺めは全体を見渡せてこの庭園を一層印象深いものにしていた。
園外に出て岡山城へ行って見たが、単なるコンクリート造りの城で中に展示物がある様だが見学はしなかった。

しかし、お城までの道は良く整備されていて、フェンス越しに後楽園を外側から観る事が出来木々の合間から垣間見える庭園の趣も一興と感じた。
最近ホームページで、春夏秋冬夫々の後楽園の景色の素晴らしさを知ったが、そう言えば7月(H17年)に山中温泉への途中で金沢を通過した時に(能登半島一周の後半で時間が無く)兼六園を観る事が出来なかったので、いつかゆっくりと四季の後楽園と兼六園を訪ねて見たいと思う。

メインペ−ジリンク集の中に、後楽園のホ−ムペ−ジをのせていますので一度ご覧下さい。後楽園の四季を観ることが出来ます。
午後から倉敷へ、倉敷川と大原美術館へ行く。近くの公営の地下駐車場に車を停め地上に出て道順をたずねると、すぐに目指す目的地は見つかった。
その倉敷川は柳が川面に垂れ、江戸時代の佇まいを色濃く残していたが観光名所としての匂いが何処と無く漂っている。

そして、大原美術館を先に観たが、エルグレコの「受胎告知」はさすがその色彩の鮮やかさと構図のまとまりが素晴らしく、帰りにその絵葉書を記念に買い求めた。
それに、淡い光の中に観たモネの「睡蓮」も印象に残っている

処で、大原美術館は美術館としてそれ程大きくは無く、本館・分館など幾つかの棟に分かれていたが、絵画の展示の他に工芸館もあり、棟方志巧の木版画があったり、東洋の古美術品も数多く展示されていてさすがの大原孫三郎に感服した。

大原孫三郎は、倉敷紡績を立ち上げた人物だが、絵画などへの造詣が深く、新進の画家「児島虎次郎」を5年間欧州に住まわせて私財を投じて名画の購入に当らせたことを、後日知る事が出来たが当時買い集めた絵画を大原美術館として今日に残したと言う。
倉敷川はもっと長い川を想像していたが、直角に折れ曲がるその先の距離を合わせても1kmには届かない狭い範囲の中にある。

その中で、江戸様式の建物の証券会社が今時の景気動向を通り端に掲示していたり、白壁造りの土産店が軒を並べていたり(下の画像)、この街そのものが現代の中に有って時代を感じ風情を味わうように造られているのが めずらしかった。
駐車場まで戻ると将棋の大山康晴の記念館があり 彼の生涯の紹介と将棋に関わる記念品等が展示されていたので見学したが大山康晴が倉敷出身であることを私は知らなかった。
いよいよ、念願の山陰へ。
今回の山陰の旅では殆ど高速道路のサ−ビスエリア(SA)で宿泊したが、前日の宿泊地の小谷SA(山陽道)では、朝食を早めに作り7時前には既に出発し中国道を経由して浜田道の旭インタ−チェンジで降りたことがその日の記録に残されていた。

その後、国道を通り浜田で久し振りに海と出合うが、山陰の海を此れまでに見たことがない私は、この海がとっても新鮮に感じられた。

そう言えば、山陰の海はどことなく年間を通して鈍よりとしていて暗いイメージが私の中に有ったが、何々あの時の日本海は此れ迄見て来た北陸の海と同じくキラキラと明るく光り輝き爽やかな汐風と海原がそこにあった。

この画像は途中休憩したR9号線の道の駅で撮ったものだが山陰本線が単線で電化されていない事もこの時に知り、境港
への道すがら日本海を再度しっかり見て走ったのだが、山陰の3県(山口・島根・鳥取)を今回訪れて見て、山陰のそれ迄の暗いイメ−ジを払拭出来た納得の行く旅であったと思う。
萩市へ午後の2時頃に着いたが、早速市の観光課を訪ねて見所を聞くと、松蔭神社と萩市立博物館を教えてくれた。

左はその松蔭神社だが、吉田松陰の偉業は萩博物館でも色々と知ることになる。
左の画像は、当時の「松下村塾」をそのまま松蔭神社の境内に移築したものとの事だが(後年修理をしているとは思うが)、何と粗末な小屋であることかと驚いた。(メモによると、50uほどで8畳の講義室と10畳半の控えの間、1坪の土間から出来ている)

しかし、当時貧しかった吉田松陰が何とか工面して建て、多くの門下生を差別無く受け入れる途中で増築したものとの事でしかし、此処で学んだ伊藤博文達の此処が「学び舎」である事を思うと胸が熱くなった。

だが、此処ではほんの2年半しか塾は開かれていないことを知る。その後吉田松陰は江戸で海外逃亡の罪で幕府により殺されるが、その当時の松蔭は30代前半であり、その意思を継いだ志士たちが時代を大きく変えて行くその萩の街を、私は(ずう−っと)前から一度尋ねて見たかったのである。
その萩市立博物館はH16年に完成された瓦葺きで平屋造りの真新しい木造の建物である。
そして、館内はそれ程広くは無いが、ここで勤皇の志士達のことが良く分った。

 左の画像は明治維新を推進した長州の志士達の顔写真であるが、その中で「高杉晋作」の風変わりな人生が私は気に入った。

彼は騎兵隊を組織したことで名高いが、彼の活躍とは反対にその私生活は家庭を極めて大切にし、その生活はいたって倹しく江戸と萩を行来する中で家族をとっても大切にしたことが記され、その彼も若くして(29歳で)死んでしまったと言う。

しかも博物館の中では彼だけが別室に一人だけで紹介されていたが、萩の人達は彼のことを特別な想いで(手厚く)大切にしていることが良く判かった。
萩では初めてホテルへ泊まり、湯治場(阿武川温泉)迄出掛けて温泉を楽しんだが、その翌日は秋吉台へ。

 その秋吉台は、高原の中に小さな石灰岩が点在する草原が見渡す限りはるか彼方まで広がり、その中を一周出来る
遊歩道(1.5km)が整備されていて私も歩いて見たが、所々に秋吉台を紹介する質問形式のミニ掲示板が置かれ、其れを読みながらの散策は天気も良くのどかで実に楽しかった。
とにかく広く、陥没している所は柵で囲われ近づかないようにとの看板があちこちに掲示されていたが、広い草原に石灰石の白い岩が点在するその光景は、誰でも此処へ来ると元気になると思った。

そして、記念に売店で石灰石の塊を買ったが、山梨へ帰り石を洗って見ると塗料が溶け出しただの石だったのには呆れた

更に帰り道に博物館を見学したが、秋吉台のなり立ちとこの辺りで発掘された動物の化石(骨)等が展示され、小じんまりとした2階建ての博物館だが、大変勉強になった。
遊歩道を歩く小学生たちを大勢見掛けたが、恐らくこの近くの学校の社会科の勉強を兼ねた遠足なのだろう。

しかし、この近くの子供達は実に自然に恵まれていると思う。
昼少し前に秋吉台の下にある秋芳洞を見学した。
その鍾乳洞はとにかく奥行きが1Kmもある洞窟で、天井までの高さも100mはあろうかと思う程高く中は寒かった。

処で、地上の草原を「秋吉台」と呼ぶのに対して洞窟の方は「秋芳洞」と書く。その訳を聞かずにここへ来てしまったが、
この辺りを秋芳町と呼ぶ様で、こうした所に何か訳が有るのかも知れない。

画像は鍾乳洞の入り口を写したものだが、洞内は余りに広く
しかも暗過ぎて満足な画像は撮れていなかった。
鍾乳洞を見学し、再び浜田へ向かう途中で津和野駅に立ち寄って見た。

その津和野は島根の西にある温泉地で、今も蒸気機関車が
運転されていることは以前から知っていたが、運良くこの日に山口号が出発する場面に出合えた。

そして、多くの人が写真を撮っていたので私も数枚撮ったが
「つわ乃」と言う左書きの駅名を小さいながら蒸気機関車脇のホームに見ることが出来た。

処で、津和野は落ち着いた湯煙が立つ川沿いに開けた温泉街で、土曜日で有った精か観光客が多かったが、そう言えば蒸気機関車の運転は土・日限定と分り、実にラッキ−だった
浜田の夕陽の見える道の駅で宿泊したが、(今回の旅で唯一道の駅で宿泊した)ムーンルーフを開けて置くとカモメの大群が上空を飛び交い押し寄せて来そうな気配に慌てて閉めた。

そして、翌日は出雲街道を延々と走り、漸く出雲大社に着き大社前にある駐車場に車を停めて、幾つもの大きな社殿を参拝し、その裏の海岸(稲佐)で昼食を作ったが、ここでも車の屋根に布団を上げ干していたら、強風で布団が飛ばされて危なく海まで飛んで行くところだった。

帰ってから稲佐海岸に付いて調べると、出雲大社の真西に有ることが判り更に、海岸に行く途中で確か、「出雲の阿国:京の加茂川で歌舞伎踊りを始めたとされる人物」のお墓の傍を通った記憶が有ったが、それをNetで確かめる事が出来た
左の画像は,出雲大社にある「因幡の白兎」の銅像であるが、大国生命(おおくにぬしのみこと)が出雲大社の祭神である事は承知はしていたが、この像を見て改めて納得した。

うさぎが直立不動で大国生命と向き合っているのが面白い。
宍道湖への途中に白い屋根のドームを見掛けたので車から降りて写真を撮ったのが左の画像だが、後から調べて見るとどうもあれが出雲ドームで有る様だ。
しかし、確か出雲ドームは木造の建物と聞いていたのであの時はまさか出雲ドームとは思わなかったが、ことに依ると木造の骨組みの上に金属板を取り付けているのかも知れない。

後日、出雲ド−ムの事を調べて見ると、ド−ムに付いての
イベント情報は見つかるが、ド−ムの画像は出て来ない。


Yahooトラベル観光情報より転記
(07.05.10)

出雲ドーム  [スタジアム・イベント場]
高さは48.9mで日本最大級のドーム型木造建築。屋根はテフロン加工したガラス繊維製で、昼間は照明が不要。風通しもよく、直径約130mある内部は人工芝が敷かれスポーツ競技の他、展示会やコンサートにも利用される
此処でも山陰の日本海を紹介しよう。

レンズが広角ではないので、これ以上の広がりが写らないが
とにかく眩い海原と白い砂の海岸線がどこまでも続く景色を思いっ切り楽しんだ。

そして、此れまでのこの地の旅で色々な発見がありそうした意味で、山陰を最初に選んで良かったと今も思っている。
宍道湖を確かに見たのだが、残念ながら写真を撮るチャンスを逃してしまった。

処で、宍道湖は美味しいシジミが獲れるることで有名だが
私も道の駅で真空包装されたシジミを食べて見て、それ迄の
シジミの味とは違うその美味しさにビックリした。そこで、早速
お土産に買うことにした。

画像は間もなく宍道湖に出合う出雲街道後半の日本海だが
それにしても宍道湖の写真を撮るチャンスを逃してしまった事が悔やまれた。
此処からは山陰の旅を終え、此処が大津にある「石山寺」の山門です。石山寺は紫式部が源氏物語を此処で執筆した所として有名ですが、京都も好きですが滋賀の石山寺や三井寺も気に入っています。

処が、途中で見つけた社(やしろ)のコインランドリーで洗濯をするのに時間が掛かったり、途中丹波・篠山を通る一般道を選んだ事が影響して石山寺へは4時少し前に到着しましたが石山寺の閉門時間が4時45分と知り慌てました。でも、折角来たのだから少しでも観ようと急ぎ観て歩きました。

 それにしても、石山寺は石段が多く結構息を弾ませて登りその日の運動不足の解消にはなりましたが大変疲れました。
多宝塔を望む場所からの一枚ですが、何しろ時間が殆ど無くゆっくり出来なかったのが残念です。
参道でお坊さんに出会ったので後姿を撮らせて貰いましたが、閉門近い時刻で参拝者は一人も無く僧侶と私だけの空間のひと時でした。

此処で記録に残して置きたい事として、石山寺を観たあとの宿泊地での出来事を書いて置こうと思う。

それは嵯峨野へ行く為に名神高速の大津サービスエリアに前日泊まった時のこと。此処は、上りと下りの駐車場の人の行来が出来る場所で、反対側の駐車場へ行って見たところ、愛媛ナンバ−の軽ワゴンで旅をするシニアの男性を見掛けたが、狭い室内は物入れや食器入れ等の工夫がされておりその点自分の方がまだ恵まれていることを痛感した。

そして、其れからは自分の不自由さが恥ずかしくなり、多少のことは前向きに対処する様にした。
此処からがいよいよ嵯峨野です。まず最初に嵐山に在る
「大覚寺」に行きましたが、ここで貰った嵯峨野の地図が後々まで重宝しました。

 その大覚寺では、観光客用に大きな襖絵と赤い毛氈の前で自由に写真を撮って良いとの案内板が有り丁度居合わせた小母さんに頼んで記念にシャッタ−を押して貰いました。

しかし、此処以外はどこも境内の写真撮影は「禁止」でした。
渡月橋の近くの公営駐車場に車を置き、いよいよ嵯峨野のぶらり旅の始まりです。そして「大覚寺」の次は「天龍寺」へ

まず、本堂を拝観した後に夢窓国師による庭園を観ましたがその時の画像が下の写真です。

処で、天龍寺では黙々と雑草を取る老婆の姿が印象に残りその老婆の働く姿を撮ったのですが、今回はデータ量を減らすためにカットしました。
この回廊の右手に夢窓国師による庭園が少し見えますが、
この庭園の片隅にある回廊に腰掛けて庭園を眺めた想い出に一枚撮ったのが左の画像です。
此処が学問の神様で源氏物語などで知られる「野々宮神社」ですが、多くの参拝者がいて良いアングルで撮ることが出来なかった神社のひとつです。
此処が「常寂光寺」です。山門をくぐると長い石段が有り、
そこを登るとその先に本堂が在ります。

その本堂迄の木々の緑がそれはそれは素晴らしく、5月の光に映えて輝いていました。(此処でも画像を載せたいのですがデ−タ−量が増えるので残念ですが見て頂けません)
此処は「二尊院」。こちらも木々の若葉が綺麗でしたが、西行法師の庵跡や、裏山が小倉山(藤原定家が此処で百人一首を選んだ事で有名)である事などを知りました。

そして、二尊院の謂れは、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祭っている所からその名があるとのこと。又、社務所の人の話しが面白く色紙や小倉山の由来などを書いた冊子を買い求めました。
落柿舎」が向井去来(芭蕉の弟子)の庵であることは知っていましたが、行って見て余りのつつましさに驚いてしまった。

そして、見学をする人が少ないと見えて、「是非拝観料を・・・」とのお願い看板を見掛けたが結局私も中に入らなかった。
此処が「祇王寺」
平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王がやがて若い白拍子(仏御前)にその地位を奪われ母と妹の三人でこの祇王寺で暮らすのだが、その後仏御前も一緒に暮らす事となり四人で念仏を唱えながら一生を暮らした事を、釦を押す度に流れる祇王寺の紹介アナウンスで知る事が出来た。そして、此処も新緑が実に美しく眩しかった。

処で、祇王寺は大覚寺と同一宗派の様で、大覚寺で祇王寺との共通券を買い拝観した。そして此処の後に行った念仏寺は俗化が進み失望したので、早々に引き上げた。
この画像は折々の四っ辻にある案内標識で、こうした道案内が其処此処に有り、大覚寺で貰った地図とこの標識を頼りにルートを調べながら一日を観て歩いた。
以下四枚の嵯峨野の道は竹垣や柵等で囲われていて静かな散策が出来て嵯峨野の雰囲気を感じるとても歩き易い小径だった。

しかし、ゆっくり歩いていると、急にタクシーが追い抜いて行くのだが良く見ると、修学旅行生達がタクシーに乗り合いで寺々を回っていることが判った。
タクシーもそれを当て込んで、しっかり勧誘している所も目にした。
此処がどの辺りかよく覚えていないが、常寂光寺から祇王寺に掛けての道であったかと思う。

嵯峨野のホ−ムペ−ジは、リンク先の中の山陰・京都・岡山でもこうした小径を見る事が出来ますのでご覧下さい。
四枚の中ではこの画像が私は一番のお気に入り。
人影も無く静かさが伝わって来る様であの日を想い出します

処が、後で調べると何とこの小径は、あだし野の「念仏寺の境内であることが分かった。祇王寺の所で念仏寺をけなして悪いことをしました。念仏寺さんゴメンナサイ。
周囲の竹林と垣根が調和して笹の擦れ合う音が聞こえて
来る小径だった。
以下四枚は嵯峨野に溶け込んだ町屋の家並みであるが、
どの家からも地域の環境を護ろうとする意気込みが伝わって来る格式の高さを感じる家が多かった。

嵯峨野のホ−ムペ−ジにそれぞれの家並みが紹介されていますので、リンク先の中の「京都・嵯峨野」をクリックしてご覧下さい。
こうした家並みをあちこちに見掛けたが、歩きながらこの街に一度だけ住んで見たいと思った。
そう言えば、若かりし頃に、京都の大学に入り京の町に住みたくて受験勉強に明け暮れた日のことを想い出します。
白い蔵と黒壁や柵がマッチする店(湯豆腐を食べさせてくれるお店)だが本当に嵯峨野は名だたる寺院だけではなく、こうした民家の落ち着きも嵯峨野を奥深いものにしていると思う。

其れに、例えば「嵯峨小学校」の建物が日本建築様式で出来ており屋根は切妻で、しかも入口が銅瓦葺とどこかの寺院を思わせていたり、それにどの民家にも夫々の個性が有り、
画一的であったり妙に観光地化していない(美学に通じた)
心のより処を感じる家並みが続き街それ自体が どっしりしていて実に美しっかった。
塀と道の間に野仏を安置し、いつも手入れをしている民家を見つけたが、嵯峨野に限らず日本中にはこの様な光景が
沢山あるのだろう。

今回の旅で、最後に嵯峨野をゆっくり観ることが出来て旅の締めくくりとして仕合せであったと思う。
また、新緑の季節に念願であった大原を岡山を山陰をそして嵯峨野を十分観ることが出来た想い出深い記念すべき旅であり、計画が実現出来たことを喜び、協力してくれた多くの人に感謝をしたい。特に、「わぎもこ」 に!
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