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       ぶらり旅(北海道)のデジカメ集                                平成20年制作

昼過ぎに山梨を出発して北陸道の米山で夕食を摂り7時に新潟港へ着きましたが、出航が11時半なので4時間半の間に再度船内に持ち込む荷物をチェックしたり、
港内を歩いたりしながら時間が来るのを待ちました。確か、乗船は10時45分頃
だったと思います。

ご覧の画像は、「フェリ-あざれあ」に乗船したところですが、瀬戸内海を渡った時のフェリ-の倍の大きさ(2万トン)で、やはり大きく感じました。

「あざれあ」の船名は、ツツジだそうで別名は「オランダツツジ」とのことでした。

後で調べて見ると、総トン数が2万トンのフェリ-は国内では最大級なのだそうです。
北海道へ向けひたすら航行するフェリ-の航跡を撮りましたが、速度が22.7ノット(時速42km)で途中秋田港へ立寄り津軽海峡を縦断して、苫小牧へ翌日の夕方に着きました。

津軽海峡では竜飛岬や北海道の渡島半島が見えたり、途中でイルカの群れを発見したりと18時間の船旅でしたが、ゆっくりと体を休めることが出来ました。

処で、九州の時は2等船室で寝ましたが、船室がエンジン室の近くに有りエンジンの微振動と騒音に悩まされたので、今回はベットの部屋を取りました。しかし、エンジン室からは離れて居ても、結局船全体が振動しているので多少の振動は避けられないことが判り、諦めて深夜の一時頃に眠りに着きました。

           フェリ-の概要
航行速度 22.7ノット(42.0km/h)
総トン数 20,500トン
搭載能力 乗用車80台+トラック186台
定 員 926名
馬 力 11,900×2 PS
全長×幅 195m×29m
造 船 所 石川島播磨重工業東京工場(IHI)
                          1994年(平成6年)建造
此処は右側が船室で左側に日本海が見える通路ですが、海側は風や波がかからない様に羽目殺しのガラス窓になって居ました。瀬戸内海を航行した時は、ガラスが無く強風に帽子を飛ばされたり散々でしたが、さすがに船が大きいと設備も立派です。

 処で、このフェリ-は北海道への途中で秋田に寄港しましたが、港に近付いた頃に秋田で下船するシニアの男性と話をしました。
その方は新潟から車と共に乗船し秋田で降りて一週間夜はユ-スホステルに泊まりながら秋田と青森を観て回り再び帰りの船で戻るとのことで本当は仙台から名古屋へのフェリ-を利用したかったそうですが、6千円も運賃が値上がったので諦めた、とのことでした。
しかし、こうして新しい所へ行くと今から気持ちがワクワクすると話してくれました。
私が車で20日間北海道を旅すると話すと、しきりに羨ましいと言っていました。

 また、津軽海峡を航行中に、別のシニアの方が話し掛けて来られましたので車で北海道へ行く事を話すと、その方は45年間国交省の関係で主に建設用重機の運転指導の仕事に従事されたそうですが、定年を前に脳疾患を患い郷里の青森に帰って療養をし、漸く治ったので、今から札幌にいる昔の仲間に会いに行く所とのことでした
その友達には会いに行くことを知らせずにビックリさせようと思っていることや、とにかく北海道はくまなく行っているけれど、道内は広いから車の速度を70km/h以下で走らないと事故に遭うことや、鹿が飛び出してくるから特に夜間は鹿に驚いて急ハンドルを切ると大事故になるなどの話をしてくれました。そして、私が車に乗る準備で列に並んでいると、わざわざ近付いて来てくれて気を付けて行って下さい と励ましてくれました。
此処は、最初に泊まった壮瞥(そうべつ)から有珠山へ向けて走る途中で立ち寄った展望台ですが、洞爺湖が初めて観えた場所です。

此の日は晴天で、どこもはっきり観る事が出来ましたが、7月に開催された洞爺湖
サミットは3日間とも天気が悪く残念でした。
此処が昭和新山で、私が生まれた昭和18年に突如噴火し隆起した山だそうで、
個人の所有地でしかも特別天然記念物に指定されていました。しかし、隣に有る
有珠山の方がはるかに大きく幾度となく噴火を繰り返しているのに、有珠山の影が
薄く昭和新山の方が表向きは人気があるように思いました。

その理由は、有珠山へ行くロ-プウエ-の駅よりも昭和新山の方が駐車場に近く、
土産物店などが近くに沢山有ることも影響しているように思います。
此処が有珠山ですが、8年前(2000年)にも噴火をして溶岩流が洞爺湖町の方に
まで流れて、大きな災害となったことを覚えています。

しかし此の山は、溶岩がむき出しになっていてあまり綺麗な山ではありませんが、
ロ-プウエ-で登りしばらく歩くとガスが噴き出している場所が有るのですが、
まだかなり歩かないと行けそうになかったので、そこへは行きませんでした。

と言う訳で、有珠山にはあまり良い印象が残っていません。少なくとも、インタ-
ネットで見る事が出来る360度のパノラマ映像と現実とにはかなりの開きが有り
ました。
支笏湖へ向かう道で見覚えのある建物が見えたので車を停めて振り向くと、それが洞爺湖サミットの会場となったウインザ-ホテルでした。確かに山の上に有り、あれならば警備上はやり易いと思いました。

近況報告の「北海道のぶらり旅を終えて(その2)」でご紹介した道路の路肩にある赤い矢印の標識が画像の制限速度50km/hの標識の手前に見えていますが、(詳しくはH20年の近況報告でご覧下さい)此処でも数十メ-トル間隔に設備されていました。これは、冬の季節に車が路肩から外れて道路の外へ飛び出す事故を防止する為の標識のようです。

恐らく、相当以前から道路から飛び出す交通事故が多発し、その必要性から設置されているのだろうと思います。確かに、夜間はその矢印が点滅していたのをサロベツ原野で見ましたので、間違いなく雪対策で有ると思います。

それに、北海道では信号機が少なくかなりの速度で飛ばす車が圧倒的に多かったので、そうした場合の交通事故を未然に防ぐ必要も有ったのでしょう。しかし、私は最初何の為の標識であるのかが判りませんでした。
此処は、有珠山と昭和新山を観た後に支笏湖へ向かう途中の洞爺湖です。

処で、洞爺とはトが湖でヤが岸、つまりアイヌ語で「湖の岸=湖畔」を意味しますが、北海道で初めて観た洞爺湖は湖の中に浮島が有ったり大きな島が有ったりとかなり広い湖との印象が残りました。
此処が支笏湖ですが、洞爺湖よりひっそりとしていて神秘的な湖でした。

そして、支笏湖はシ(大きな)+コツ(凹地)を意味するアイヌ語から付けられた湖名ですが、秋田に有る田沢湖の次に深い湖で、しかも田沢湖同様冬場も凍結しない湖なのだそうです。



支笏湖を観た後、一度苫小牧へ出て道央道を使って白老迄行き「アイヌ民族博物館」へ行きましたが、最初は此の博物館へ行くのが大変楽しみでした。

下の画像は、アイヌの人たちが実演するチセ(藁ぶきの小さな家)と呼ぶ小屋の中を撮ったものです。

しかし行って見ると、想像していたより新鮮さが無く何かマンネリ化している様に感じました。それは、展示物などはしっかりしていましたが、一時間ごとに開演されるこの博物館の説明と古式舞踊の実演が期待していたよりもあまり良くなかったからです。


その理由の一つは、その日も見学者の8割以上の人達が東南アジアからの人達で
一々通訳者が通訳をする間は説明が中断してしまうことと、説明者が面白おかしく座を盛り上げるのは良いのですが、何か品格に欠ける上滑りな話のやり取りやただ煩いだけの彼等の会話は、日本人の見学者にとって興ざめせざるを得ませんでした。

どうして東南アジアからの見学者が多いのか(?)、それは此処が年間23万人の
入場者の入場料で運営され、公的な補助のない独立採算で経営されている博物館で、しかも年間入場者が減少する中で海外の人達を呼び込むことが唯一の活路であることが最近判りました。

しかし、外国の人達はガヤガヤ騒ぐだけで我々にとっては煩いだけの単なる見世物小屋の様に感じてしまう場面が色々と有りました。

行きのフェリ-で、伊藤さん(北海道在住45年のシニアの方)が、あそこは以前は多くの見学者で賑わったけれど、最近は俗化してあまり流行っていないと話してくれましたが、確かに財団法人化していることがパンフレットからも判りましたが、採算を優先させるあまりに博物館としての品位が保たれていない様に思います。しかし、やむを得ない面も有り仕方がないのかも知れません。でも、此のままでは継続維持が難しいと思うのですが・・・。

と言う訳で、期待外れの博物館には一時間と少し居て、再び道央道で千歳まで行きましたが、ひとつだけアイヌの女性がビ-ンビ-ンと鳴らす「ムックリ」と呼ぶ竹笛の音色には何か哀愁を感じ、今でもあの楽器の音が耳に残っています。
此処からが夕張市に在る石炭博物館ですが、九州の大牟田と直方で観た博物館とはレベルが明らかに違う大変優れた博物館でした。

夕張市は財政破綻をしてどんなにか寂れているだろうと気にしながら夕張へ向かいましたが、博物館は何々立派なものでさすがは北炭夕張炭鉱として永く栄えた石炭の街で、またその展示内容がすこぶる優れていて、炭鉱で働いている人達の生活の匂いが肌で感じられる大変立派な施設でした。

以下4枚の写真は、そうした展示されている所を撮ったものですが、どの画像も働く人達の有りのままの姿や本物の坑道を見せてくれたり、賃金の変遷や落盤事故などの記録や年表が正確に展示されていました。

また、博物館の入口は立派でしたが、館内を進むと坑道内を実感して貰う為に暗くした展示場や、実際にヘッドランプをつけたヘルメットを貸してくれてそれをかぶって坑内を歩く工夫なども実に楽しく観て回る事が出来ました。

確かに、一日券の3,150円は高いのですが夕張市を支援する為にも、もっと見学者が増えて欲しいと思います。
まず、顔と言い体中が炭だらけの体を銭湯で洗う左の画像は、見ているだけでその生活感が伝わって来る迫真の写真です。

その石炭の生産は24時間体制で、1番方~3番方が8時間毎に交替します。

一番方 7:00~15:00
二番方 15:00~23:00
三番方 23:00~7:00



此の中は薄暗いトンネルになっていて、その中を進むと抗内で使われた機具や道具が陳列されていました。

夕張鉱を初め北海道の炭鉱は石炭層が70~80度傾斜しているために、階段状に掘る「欠口採炭」と呼ばれる方法がとられたため九州の様な大掛かりな機械化が仲々難しかった様です。(ダイナマイトに寄る発破採炭が主流)

それでも良質の石炭を産出出来たので、1960年代には26山の炭鉱が存在し、昭和45年~50年に掛けて更に深い地層に良質の石炭が有る事が分かり立坑を新規に設備して500m/hの高速で300m以上の地底から採炭する新鉱が開発されたそうです。

そうした炭鉱は赤平や幌内などにも同様な新鉱が誕生したのですが、石炭→石油へのエネルギ-転換政策と大きな落盤事故やガス爆発などが全国的に多発し、安全性が問題となり平成の初めに次々と閉山に追い込まれたそうです。
此処は、本物の坑道でそれを修復して展示していましたが、空気を送り込むパイプや電線なども実物で、実際に炭鉱の中を歩いていることが良く理解出来ました。

此の博物館が九州の2つの博物館より優れているのは、やはり本物の炭鉱を保存し有りのままの形を見せてくれるその迫力感に有ると思います。
この様に、時代と共に炭坑夫の賃金の移り変わりを表示していましたが、
例えば昭和20年は月収で1700円、昭和40年で2万7000円、昭和52年で15万3000円(いずれも坑内作業)と書かれて居ましたが抗内作業の方が平均して抗外作業の2倍の賃金で有ったことがわかりました。
此れは、夕張市で発生した炭坑の災害事故の年表で古くは明治25年(1892年)から昭和63年(1988年の南大夕張炭鉱)までが記録されていました。

石炭への国策に対し多くの犠牲者が出た現実と、戦後に開発された新鉱が生産性を重視した為に安全が犠牲となり、更に石油へのエネルギ-転換の事情から閉山を余儀なくされた北海道の炭鉱の歴史をしっかり知る事が出来大変勉強になりました。
此処が夕張市のメインストリ-トですが、街の民家にはかつての映画の看板が沢山取り付けられていて、毎年全国から映画フェスティバルに集まる人で賑わうことを知ってはいましたが、なるほど夕張を観光の街にしようとする意気込みを感じました

そこで、市役所へ行き夕張メロンを売る店を教えて貰いましたが、通り沿いにその店は有り若い夫婦から夕張メロンを是非お土産にと勧められて家へ直送しました。

そのメロンは確かに一個2500円~3500円と高くこの時期はハウス栽培のメロンでしたが、届いたメロンは家族から絶賛の評価の電話が掛かって来ました。

と言う訳で、夕張は思っていたよりも精気のある町でしたが、その後に行った歌志内や赤平の方が家屋が錆びていたり寂しさを感じる町でした。

夕張の地名は、アイヌ語のユ-バロ(鉱泉の湧き出るところ)で、何となくイメ-ジと一致します。
此の画像が、狩勝峠から十勝平野を観た感激の画像です。手前の山に遮られて右側の景色が観えていませんが、それでも眼中に広がる広大な景色に私はしばし時を忘れて見入っていました。

恐らく、もっと晴れていれば平野の先に釧路湿原なども見渡せるのでしょうが、私にとっては此れで十分な景色です。

近況報告に書きましたので再度転記しますと、

この峠は昭和2年に東西の新聞社が眺望の素晴らしい全国の景勝地を審査した中で、日本新八景の一つとして狩勝峠が選ばれたことが峠に有った看板に書かれていましたので、さもありなんとご紹介しましたがその後調べて見ると眺望が素晴らしいのは、根室本線の狩勝トンネルを過ぎた辺りの車窓からの十勝平野の眺望が選ばれていることが分かりました。しかし、現在の根室本線は急勾配を改善する為に線路を敷き直し新しくトンネルも掘っていますので旧根室本線の方が眺望が良い様です。そこで、現在は廃線になっている旧根室本線の線路跡を歩けば、その眺めに出合うことが出来るとのことでした。しかも、国道から眺めた十勝平野は手前に有る山に遮られて見える範囲が狭くなっていましたが、かつて車窓から眺られた光景は恐らく遮るものの無い180度のパノラマであった事が想像されます。
一方、「日本三大車窓」が選ばれていて、その三大車窓とは、旧根室本線の狩勝峠越えと、篠ノ井線(長野)の姥捨駅、そして肥薩線(鹿児島)の矢岳峠越えだそうで、改めてその絶景を観に行きたいと思うばかりです。
 此処が十勝平野のどまん中、帯広の隣町の音更(おとふけ)町に在る十勝牧場
です。

しかし、行って見ると途中から動物たちへの感染防止の為に関係者以外はこの先
進入禁止の看板が有りました。
それにしても、真っ直ぐに延びる一本道で奥の深さがお判り頂けると思います。

そして、襟裳岬からの帰りに十勝川を渡った辺りの牧場の広がりが後から出て来ますが、やはり此処も北海道で有る事を実感させてくれる景色であると思います。 
十勝牧場から帯広の道央道へ向う途中の牧場に馬が草を食んでいましたので、車を横に停めて一枚撮りました。

もっと馬達に近づいて撮れば良かったのですが、道が延々と続く所を入れたかったので、こうした構図になっています。
 此処が日本中央競馬会が経営する「日高育成牧場」で、フェンスの中では多くの
競走馬が調教中でした。

そして、此処の展望台には今までに優秀な成績を残した名馬達の一覧表が有り、聞き覚えのある馬の名前がヅラリと並んでいました。

撮って来た画像から私が知っている馬名を拾うと以下の様になります。また、その年表には歴代別に馬の写真と共に馬名とその年に起きた国内外の出来事や流行った言葉なども書かれて有りました。

タケホープ、カブラヤオー、サクラショウリ、カツラノハイセイコー、トウカイテイオー、
ナリタブライアン、ディープインパクトなど

競馬が好きな人がこの年表を見たら、たまらなく懐かしく思うことでしょう。
上記の他にも私が判らない馬が沢山載っていましたが、こうした多くの名馬達がこの牧場から育って行ったのだそうです。
日本中央競馬会(JRA)の正門ですが、とにかく広い牧場で事前に申し込めば、場内をバスで案内してくれるそうです。
JRAの他にも周囲に多くの牧場が有り、それぞれの牧場の看板がご覧の通り道端に立っていました。
その一つの牧場に馬の親子が居ましたので、車を停めて撮ったのが此の画像です。

北海道ならではの、何とものどかな光景ですね
此処が歌で知られる襟裳岬ですが、霧が出易い事は事前の調べで分かっていましたがこんなにも風が強いとは予想していませんでした。

霧対策としてフォグランプを取り付けて行きましたが、残念ながら(?)霧は発生しませんでした。

一方、10m/s以上の風が年間290日以上吹くそうで、とにかく行った日(5月30日)は20m/s以上の風が吹いていたでしょう。携帯電話で妻に襟裳岬からの実況中継をやりましたが、耳元でザアザア言う風の音が聞こえると妻から聞きました。

そして、此処の看板によると襟裳岬の岩礁地帯には「ゼニガタアザラシ」が180匹前後いるとのことですが、残念ながらその岩礁を見つける事は出来ませんでした。

しかし、かすかに波間を泳ぐ小さな物体を見つけましたが、多分黒い物体がそのゼニガタアザラシなのでしょう。
その襟裳岬先端の岩礁が左の画像です。そして、岬の上に灯台と無線用アンテナが見えていますが、その右側に見える建物が「風の館」と書かれた展望台で、強風
を避けて太平洋を望むことが出来ると書いてありましたが、私はそこには入りませんでした。

とにかくものすごく風が強く唄で知られる名勝地とは似つかわしくない様に思いましたので、早々に引き上げて太平洋沿いの海岸を白糠目指して走りました。

襟裳の地名はアイヌ語でエンルム(突き出た頭)又は、エリモン(うずくまったネズミ)だそうです。そう言えば、岬の先端がその様な形に見えますね。
白糠へ向かう途中で観たのが左の画像ですが、広大な十勝平野そのものです。遠くまで防風林が続き真っ平らな牧草地が何処までも続いていました。

私は、この画像を含めて何枚ものこうした景色を撮りましたが、とにかく狩勝峠から観た上空からの平原とはまた違って現実に平野の中を走る道の両側がどこでもこうした景色が続いていたことを、此れからも長く心に留めて置きたいと思います。
此の画像は北海道のどこでも見られたサイロと牧舎ですが、良く見るとサイロの右側に黒い円筒形をした物が積まれているのが見えます。そして、その黒い物体こそが乾燥させた牧草が梱包されている飼料置場である事を知りました。

かつては、牧草を収穫するとサイロに貯え、冬場の牛達の食料はサイロの中の干草が使われたのですが、現在は手間が掛かるのでこうしてビニ-ル袋に入れて積んで置き、トラックで必要なだけ牛舎に運ぶのだそうです。

そこで、サイロの役目は終わり、今ではサイロを取り壊す農家が多いと聞きました。そして、サイロを解体すると使われた鉄筋が今は高く売れるそうで、解体費を差し引いても、20万~25万円の利益が出るのでチョットした農家のポケットマネ-になるとも言っていました。

しかし、北海道を語る風物がまた一つ無くなって行くことは寂しいことですね。
そして、襟裳岬と白糠の丁度中間地点で十勝川を渡りましたので、その橋を撮ったのが左の画像です。

処で、「十勝」の意味は、アイヌ語で十勝川の河口が女性の二つの乳房(トカチプ)に似ている所からトカチプを音訳したものだそうで、その十勝川が日高山脈に並行して流れて太平洋に注いでいるこの橋の向こうがそのトカチプなのだろうと思いながら、先を急ぎました。
さて、6日目の5月最後の日にいよいよ釧路湿原へ行きました。

左の画像は、釧路市湿原展望台の建物です。

湿原の中には数か所の展望台と湿原を散策出来る木道がありましたが、まずこの展望台の2階で鮭の一種のイトウと言う大きな魚が水槽の中を泳ぐのを観ました。

私はテレビなどでは見ましたが、本物の生きたイトウに初めて出合い、その大きさにビックリしました。

そして、木道伝いに湿原へと向かいました。
展望台から見た湿原ですが、手前に有るコナラなどの灌木に遮られて、湿原が良く判りませんでした。

そこで、途中に有った資料館の館長さんに聞くと、別の展望台を教えてくれたので、
午後からそちらへ行くことにしました。

館長の話によると、古代の北海道は米が出来なかった関係で、本土の歴史に有る弥生時代(稲作文化)は北海道には実現しなかったそうです。その代り、縄文時代の次に擦文時代が有り、擦文とは土器の表面をヘラでのばして表面を薄くすることで
火の回りを良くする土器が実現したそうです。そして擦文時代の後に、アイヌ時代が来たのだそうです。

 そうした竪穴住居跡が森の中に点在し、資料館の中に住居を復元して展示していました。

釧路の地名は、アイヌ語で3説有るようです。ひとつは、クシュル説でこの地域が古くから交通の要所で人の集まる所をクシュルとアイヌの人達が呼んだという説。二つ目は、釧路川の上流に有る屈斜路湖のクッチャロは咽喉を意味して、そのクッチャロ湖から流れ出すクッチャロ川の下流の地をクッチャロと呼んだと言う説、そして、三番目は、クスリ(薬又は温泉)とクッチャロとの関係からこの地域をクスリと古くは呼び、
それが転じて釧路になったと言う説が有るそうです。
木道を歩いて行くと、ご覧のようにエゾシマリスに出合いましたが、リスは私を見ても驚きもせず逃げる訳でもなく暫くそのまま私が通り過ぎるのを待っているようでした。

そこで、小さくて可愛い姿を数枚の写真に撮りました。
さて、午後から行った展望台へ行く途中で、私の車の前を歩く黄色の動物に出合いました。そして、犬にしては鼻が尖っているのでこの動物はもしかすると「キタキツネ」ではないかと思いましたが、それはその3日後に行った知床自然センタ-の大画面で見たキタキツネが数日前のあの動物と同じである事が確認出来てハッキリしました。

最初は、オオカミかな(?)と思ったりもしましたが、尻尾の方の毛が抜け掛けて居てあまり器量良しではなく初めはキツネと思いませんでした。

そして、私がそっと通り過ぎると、今度は私の傍に寄って来て私をジィーット見上げて立ち止まりましたのでその画像も数枚撮りましたが、こちらは野生そのもので可愛くなかったので、少し遠くを歩くこの画像を載せることにしました。
此処が、先ほどのキタキツネを見たあとに行った細岡展望台からの釧路湿原です。確かに午前中に観た展望台よりは湿原の広がりを良く眺めることが出来て、館長のお話の通りであると思いました。

しかし、手前に釧路川が蛇行しながら流れその先に湿原の広がりを観ることが出来ましたが、説明書きに寄ると晴れていれば湿原の更に先に阿寒の山並み(雄阿寒岳や雌阿寒岳など)が見えるのだそうです。しかし、残念ながらその山並みは雲の中で良く見えませんでした。

そして、この展望台を下りたところで、釧路川を下って行くカヤックを見掛けましたがこれは有料のツア-であることが判りました。

釧路湿原を堪能した後は、厚岸漁港へ寄りそして根室半島の付け根に有る風連湖へ行きました。

しかし、その風連湖は白鳥の飛来で有名ですが、この季節は勿論白鳥はいないので行って見ると単なる湖でした。しかも、その駐車場に車は一台もなく寂しい限りでしたので、この寂しい場所を避けてその夜は24時間営業のコンビニの駐車場を借りて休みました。
此の画像が納沙布岬です。納沙布とはアイヌ語でノシャップ(あごの突き出た所)の音訳だそうですが、稚内の近くに納寒布岬(こちらはノシャップ)がありますが、いずれもアイヌ語では同じ意味でしょう。(日本人が区別するために漢字を変えて地名にしたものと思います)

 それよりも大変残念だったのは、この納沙布岬の数キロ先(3km)には歯舞諸島の水晶島を見ることが出来るので大変楽しみに此処へ来ましたが、残念なことにその朝は全く観ることが出来ませんでした。
本来であれば画像の左側に水晶島がはっきり見えるのですが、本当に残念でした。

そう言えば、新しい大臣が北方領土返還の視察にこの納沙布岬を訪れていましたが(8月中旬)、その日は水晶島が良く見えて居ました。残念・・・
此処が根室市歴史と自然の資料館ですが、かつての学校跡を改築して様々な資料を展示していました。

私は北海道を調べる中で、この資料館へ是非とも行って見ようと思っていましたので早速尋ねると、まだ開館前の時間でしたが館長は快く開けてくれて、色々な話を聞かせてくれました。

その中で、ビックリしたのが下の画像のシマフクロウのことと、アイヌの人達が江戸時代に一斉に蜂起した、「クナシリ・メナシの戦い」の話でした。

根室の地名→アイヌ語でニムオロ(木の繁るところ)
まずは、シマフクロウについてですが、シマフクロウはアイヌの人達が「神の鳥」として崇める鳥で、何と背丈が70cmで羽を広げると2mにもなる大きなフクロウですが、
根室~知床を中心に僅かに生息が確認されていて今後絶滅が心配とのことでした。

ケ-スの中にいるその鳥がシマフクロウの剥製で、普通のフクロウと比べてあまりの大きさに驚いてしまいました。

     シマフクロウをアイヌの人達はカムイチカプ(神の鳥)又は、
     
コタンコロカムイ(村の守り神)と呼ぶそうです。(H23年2月追記

シマフクロウは 現在「絶滅危惧種」でその個体数は知床を中心に150羽程度
                                  (H27年10月追記)

シマフクロウの他にも様々な道東に棲息する生き物達の剥製が展示されていましたが、此の他にも古い時代の農機具や近くの遺跡から出土した土器など、まだまだ数万点の資料が倉庫の中に眠っていると館長は話してくれました。

そして、館長は「クナシリメナシの戦い」と題する小冊子を私にプレゼントしてくれましたが、それはこの地方に住むアイヌの人達が和人から受けた搾取や暴行そして強制労働させられたり不当な差別を強いられた中で、特に国後島とメナシ地方(標津地域を昔はメナシと呼んだそうです)のアイヌの人達が、和人を捕らえて殺戮し大きな事件となったのですが幕府の知るところとなり、松前藩を中心とした掃討作戦によりアイヌの人達は殺されたというものでした。

その際に、道南地方に居たアイヌの首長達が松前藩側に付いて道東のアイヌの人達の力を削ぐ働きをしたことも書かれていましたが、恐らく和人の戦力を知り尽くしていた道南のアイヌの人達に対して道東のアイヌの人達はその怖さが判らなかったのだろうと館長は話してくれました。

そして、毎年この近くに住むアイヌの人達は和人とアイヌの人達の慰霊祭を此の納沙布岬で執り行うと言います。そうした事が、頂いた冊子を読んで良く判りました。
此処が中標津にある「開陽台」と呼ぶ展望台の画像です。

此処へ来る間に、根室から厚床(アットコと読み、かつては荷役馬の売買で賑わったそうです)を右折して根釧原野を北上した先に此の開陽台は在りましたが、此処へ来る途中にも広大な農場を幾つも観て来ました。確かに左の画像に見える根釧原野の広がりも見事なものです。

しかし、この展望台から見えるはずの国後島が見えません。やはり、此の日は海上の天気が悪く国後島はおあずけとなりました。
 そこで、屈斜路湖を右手に見ながら美幌峠へ向かいましたが、美幌峠からの眺めも今ひとつで美幌峠と書かれた標識の向こうにうっすら屈斜路湖が見えていましたが此処も風が強く戦後のメロドラマ「君の名は」のロケ地として有名であってもその面影はなく最初は此処の道の駅に泊まろうと思いましたが、この先の美幌町に有る美幌温泉を目指し北海道で最初の温泉に入ったあとで、相生にある道の駅に泊まることにしました。

美幌の語源はアイヌ語で、ビ(水が多く)+ホロ(広大な所)から来ているそうですが、
札幌のサツ(乾いた)+ポロ(広大な所)と共通しています。
この辺りは阿寒国立公園の区域で、阿寒湖も摩周湖も屈斜路湖もそのすべてが
国立公園の中に有ります。

 道東にあるこれらの湖は釧路から比較的近くに有り、特に阿寒湖は釧路市から
50km足らずの距離に有ります。

そして、通常例えば支笏・洞爺国立公園とか、利尻・礼文・サロベツ国立公園など、国立公園の名前はそうした主だった地名を列記して国立公園名としているのが一般的ですが、阿寒国立公園は阿寒湖のみを代表にしていることに気付きましたので、
記念に撮ったのが左の画像です。

此処は、津別町(美幌町の隣町)にある相生と言う名の道の駅に併設して残された旧国鉄時代に北見~相生までを走った相生線のあいおい駅で、地元の人達が此処を鉄道公園にして、当時の駅舎などを保存していました。

此処が かつては阿寒湖へ行く最寄りの駅で有ったそうです。

H23年02月05日追記
 昨年末に南アルプス市へ行く用事が有り、市内にある道の駅に寄ると 津別町と
南アルプス市が姉妹都市である事を知りました。正確には、旧櫛形町とH6年に友好都市を結びH16年に南アルプス市と姉妹都市を結んだのだそうです。私はH20年に此処へ来て相生の事を知りましたが、其の相生が美幌町の隣の津別町にある事を知っていましたので、南アルプス市で津別を知った時は驚きました。そして、早速津別町役場のホームページを開くと、「道の駅相生」に相生駅や鉄道関係の写真が出ています。そして、津別はアイヌ語で「二つの川」と「ツペツ(山の出ばなを通って流れる川)」の2説が有る事も判りました。しかも、相生駅舎と気動車やラッセル車等も下の「写真集」をクリックすると出て来ますので、一度検索して見て下さい。


 上のホームページを開くと、「施設の案内」の最後に「道の駅相生」が有ります
このジ-ゼルカ-は、当時走っていたもの(昭和60年に廃線)を国鉄から払い下げて貰い貨車や客車そしてラッセル車と共に展示していました。

廃線になってから20数年が経つ今も、どの車輛も塗装剝れ等が有りませんので、
途中で手入れをしているのかも知れません。地域の人達が、生活の大切な動脈で
有った此の財産を、今でもしっかり守っている様子が目に見えるようです。

この気動車は「キハ22 69」と言うのだそうです。

   相生鉄道公園の写真集・・・此の写真集の制作者は新潟に住む元国鉄マン
                   の阿部伸一さんと言い、日本中を車で旅をしている
                   方で、メールを入れてお互いに励まし合いました。

併せて安部さんが撮影した「北見相生駅」も紹介します。
    
此れはラッセル車ですが、雪をかき分けて行く腕の開閉部分に圧縮空気が使われていることを知りました。

私は、雪を遠くへ吹き飛ばすロ-タリ-車を以前テレビで見たことが有りますが、
雪をかき分けるラッセル車の実物を見るのは初めてです。


このラッセル車は、「キ703」だそうです。
此処が阿寒湖に有るアイヌ部落で画像はその入口です。

また、その部落は阿寒温泉街のすぐ隣に有り、恐らく観光客が観に来るのでしょう。しかし、古式舞踊が11時からと有りましたので結局それを観ずにビジタ-センタ-へ行きました。
此処が阿寒湖ですが、マリモの唄の歌碑がありました。

その阿寒湖は湖岸に温泉が湧き出て居て入ると火傷をするので入らないようにとの注意看板がありました。

そして、阿寒湖は昨日観た屈斜路湖よりは小さな湖ですが、此処にだけ生きるマリモは湖の水深が浅く太陽光が湖底へ十分届くので生きて行けることをセンタ-の展示で知りました。
此処はアイヌの人達が「ボッケ」と呼ぶ泥が時々ガスと共に噴出していてブクブクと音を立てている場所ですが、かなり高温の様で近付かない様に柵で囲われていました

また、ビジタ-センタ-へ戻る途中に樹木に金網が巻かれている場面を見ましたが説明書きに寄るとエゾシカが冬場に樹皮を食べてしまうのを防ぐ為だそうです。
此処が摩周湖でその第一展望台から撮ったものです。

さすがに透明度が日本一であるだけに神秘的な湖面をしていましたが、最近の透明度は良くないそうです。

そして、湖面の透明度を定期観測出来る建物が別の場所に有り、そこで湖水を採取して測定をしているとのことでした。
此処は、摩周湖を観た後に急な坂道を降りたその先に有る硫黄山で、ものすごい轟音を立てて亜硫酸ガスが噴出していましたが、その噴き出すところまで近づけたので私も行って見ましたが、ものすごい迫力でした。

そして、大鵬幸喜(第48代横綱)の出身地である弟子屈(てしかが)を通り再び屈斜路湖の砂湯まで行って見ましたが、前日は曇っていて良く見えなかった屈斜路湖がこの日は良く見えましたので撮ったのが次の画像です。
此の屈斜路湖も湖岸の近くに温泉が出て居て、そこだけは冬場も凍らないそうです。

とにかく、北海道のカルデラ湖としては最も大きいそうで 美幌峠からの屈斜路湖の眺めを楽しみにしていたのですが、この砂湯から美幌峠まではまだ30km先と判り、再び峠へは行きませんでした。
以下3枚の画像は、北海道に数多く見られた防雪柵ですが、特に左の画像はしっかりとした構造に出来て居てさすがに風雪に耐えられる様に出来ている事が判ります
此の防雪柵は畳まれていましたが、どうも冬場は上の写真の様に板を起こして使う様です

恐らく風通しを良くして道路に雪が積もらない様にしているのでしょうが、以前青森で見た構造とは異なっていました。
此れは、道路の一部に屋根が有って雪が積った時に一時退避出来る設備の様です

こうした設備が両側に有るものやシェルタ-式になっているものなど色々な構造のものを見掛けました。
遠くに見えるのが斜里岳ですが、知床連山の一部なのだそうです。

とっても形の良い山で、清里から斜里へ向かう道でこの山裾を通りましたが、のどかで走っていて気持ちがすっきりしました。
此処がその翌日に行った神の子池ですが、この池の水面が摩周湖と同じことが判り、摩周湖と地底でつながっているのではとの情報をネットで読みましたが、現地へ行くと摩周湖と神の子池は地底でつながっていて、一日1.2万トンの水が湧出しているとのことでしした。

そうした調節機能により摩周湖の水位は年間を通して変わらないのだそうです。そして、この池から流れ出た水が札弦川となってオホ-ツク海に注いでいると池の説明看板に書かれていました。。

また、此処へ来る途中に「男鹿の滝」が有りそこはサクラマスの遡上で知られていることを札弦の駐在所のおまわりさんから聞きましたが、今年はまだ時期が早いとのことでした。

処で、札弦(さっつる)はアイヌ語のサク(魚)+ル(道)から来ているそうですが、恐らくサクラマスの遡上と関係が有るのでしょう。

また、此の池は道道(1,115号線)を200mほど入った森の中に有り、人影が無く熊が出て来そうな場所でしたので、熊との御対面は遠慮して(?)早々に裏摩周の展望台へ向かいました。
その裏摩周の展望台ですが、丁度前日に観た展望台の裏側に有りました。

しかし、手前に有る灌木に遮られて湖面が良く見えず、居合わせた若いカップルも良く観えないとしきりに話しながらその場を去って行きましたので、私も10分ほど居て立ち去りました。
此処が裏摩周から再び開陽台へ向かう途中に有ったシェルタ-ですが、山間いにあるトンネルではない場所に造られていました。

後ほど出て来るオホ-ツクの猿払へ向かう途中で見たシェルタ-は型鋼材で出来ていましたが、此処は鉄板で出来て居てカマボコ状の半円形をしています。

この様なシェルタ-は豪雪の時にしかも交通量の少ない北海道では車ごと埋められてしまうのを回避するための設備で有ろうと思います。
此処が羅臼町に有る展望台からの景色ですが遠くの島影が国後島で、やっとうっすらですが国後島を観る事が出来ました。

そして此の展望台が、森繁久弥が作った「知床旅情」の中で、・・・飲んで騒いで丘に登れば・・・のその丘であることを知りました。

また、此の画像には眼下に羅臼港が見えていますが、羅臼は昆布の産地としても知られていて、確かに岸壁に昆布が干してあるところを見掛けました。

そして、此処からも知床岬へ行く観光船が出て居ましたが、私は宇登呂から翌日行くことになっていますので、羅臼のそば屋で昼食をとり、午後から知床峠へ向かいました。
その知床峠の頂上で撮った画像ですが、正面に残雪が判る羅臼岳が見えています。そして登って来る道筋にも斜面に残雪が有りましたし、途中で2頭のエゾシカが道端で草を食べて居る所を見掛けたりしました。

それと、此の知床峠はやはり知床旅情の中で・・・君は出て行く峠を越えて・・・と2番の歌詞にある峠だそうですが、峠の頂上で一休みした後は下り坂の途中に在った「知床自然センタ-」で(館内の迫力ある大画面で)、知床の四季や此処に生きる動物たちの様子を知る事が出来ました。

処で、知床とはやはりアイヌ語で、シレ・トク(大地の果て)から来ていますが、一方この峠は羅臼~宇登呂まで約30kmの山岳道路で冬場は凍結するため通行出来ないそうです。

確かに、6月初旬に雪が残っている姿は富士山ぐらいしか私には記憶が有りませんが、差ほどの高所でもないこの峠にこんなにも雪が残っているのはそれだけ自然環境が厳しいからでしょう。
此れが48人乗りのクル-ザ-で、行きと帰りを2人の操縦者が交替で運転し3時間と10分掛けて知床岬までを往復するクル-ジングの旅でした。

処で、知床岬までの運行が6月から解禁されてまだ最盛期には早い時期とのことでしたが、此の日(6月4日)は20名足らずの人が乗りました。そして、人数が不足する場合は同業者が融通し合って乗客をまとめて運航を確保するのだそうです。
宇登呂を10時に出港すると、早速ご覧の様な岩肌が見えて来ました。此れは、知床連山の羅臼岳や硫黄山の噴火で出来た溶岩が冷えて固まった上に、流氷が接岸し岩を削って空洞や奇岩を造り出しているのだそうですが、そうした岩の名前を幾つも聞きましたが覚えていません。
此の滝は宇登呂港を出航して30分程経った時に見た滝ですが「カムイワッカの滝」と言います。

アイヌ語でカムイは神様でワッカは水なので、神の水なのだそうですが、この水には硫黄が含まれていて飲料には適さないそうです。

その硫黄分は上流に有る硫黄山から流れ出た川に硫黄が混じるからだそうですが、
神の水と言うより「魔の水」と言った方が良いと乗務員は話してくれました。
アイヌの人達はこの水を恐れて決して飲まなかった、と言います。
此の画像と次の画像は、知床で見たヒグマを撮ったものですが、ヒグマを発見すると船を思いっきり岸に近付けて暫らく見せてくれます。

左の画像は、最初はクマである事が判らずにシャッタ-を押し続けましたが、確かにあとで見ると中央付近に黒い生き物が映っており、それがヒグマでした。

この様にして、3度熊を観る事が出来ましたが、岩なのか熊なのか良く判らないので乗り合わせた人達とどれがクマなのか指を差して探したり、結構そうしたことも思い出として残っています。
此の画像は、3度目に見たものを拡大していますが、こうして見ると間違いなくヒグマである事が判ります。

此の場所は、先ほどの溶岩地帯を過ぎて岬へ向かう途中の海岸にあり、この場所で熊を良く見掛けるそうです。

そして、こうしたクル-ザ-とは別に知床岬へ行く大型の観光船も有りますが、大型の観光船は岸に近付けないので、料金は割高(8,000円)ですが小型のクル-ザ-を選んで正解でした。
此処が知床岬の先端です。ご覧の様に岬はなだらかな平地で、灯台が有りその先がゆっくりと海に沈んで行くような感じの地形でした。

宇登呂港から此処へ来るのに1時間半が掛かりましたが、最初観た溶岩の荒々しさとは対照的で、実におだやかな地形で予想外でした。
知床岬の左手に国後島がうっすら見えているのですが、此の画像では残念ながら良く見えていません。

しかし、此処へ来るまでに冬場以外は漁師が暮らす番屋が有ったり、結構な建設機械が置いて有ったり、定置網の漁場が有り近くに小さな波止場もありました。

そして、後ろから流れ落ちる滝の水を利用して発電し生活しているなど初めて聞く話ばかりでした。

それに、岬の灯台の明かりはジ-ゼルエンジンで発電している様で、年に一度燃料の補給をしているとのことでした。
知床岬から宇登呂ヘ戻り、午後から網走市街を観た後に紋別まで行きました。

左の画像はその途中で見たサロマ湖ですが、とにかく広く汽水湖として日本で一番大きな湖であることを実感しました。

また、此処へ来る途中で釧網本線の「浜清水」駅を通りましたが、此のJR線には
「DMV」と呼ぶ線路と道路の両方を走る事が出来る車輛が有る事が駅舎内の掲示板に書いて有りましたが、しかし一日3本のみで時間が合わず実物を見る事は出来ませんでした。
 此の設備が、もうすぐ猿払に着く手前で見たパ-キングシェルタ-で、鋼鉄製で
しっかり出来て居ました。

そして、シェルタ-の中に電話とトイレが有り、例え閉じ込められても此処にいれば安心・安全である事が判ります。

また、このシェルタ-の先に猿払(さるふつ)の道の駅が有り、此処のレストランで
食べた天然ホタテのカレ-が大変美味しかったことを覚えています。

とにかく大きくて噛み応えが有り、さすがに此処がホタテの産地である事が良く判りました。
北海道の車はとにかく制限速度をいとも簡単にオ-バ-して走ることを至る所で見掛けましたが、あまりに酷いので運転しながら一枚撮ったのが左の画像です。

50km/h道路を私は60km/hで走行していましたが、前の軽自動車が全速力(多分80km/hは出て居るでしょう)で私を追い抜いて行きました。

北海道は交通量が少なく早く走りたいのは判らなくもありませんが、道外から来た者にとっては脅威そのものです。

そして、 近況報告の「北海道のぶらり旅を終えて(その2)」で紹介し、洞爺湖の所でもふれた道路の路肩にある赤い矢印の標識が此処でも見えています。

確かにこの赤い標識(夜間は点灯)がないと、雪深い季節は特に道路から飛び出す交通事故が多発しそうな場所(紋別~猿払)でしたが、それにしても この様に制限速度をはるかに超えて走る車が圧倒的に多い事実を北海道のいたる所で見つけました。
此処が日本の最北端である宗谷岬です。この時はたまたま観光客が少なかったのですが、少しすると観光バスが次々に押し寄せて記念写真を撮って行くので、その後は仲々近づけませんでした。

そして、ダカ-ポが歌う宗谷岬の歌がエンドレスに流れていて、道路を挟んで小高くなった丘から本来であれば見えるはずのサハリンが海上の天気の精か全く見えませんでした。
恐らく稚内と礼文島までの距離より近いはずなのですが・・・。

宗谷の語源は、アイヌ語でソ-(岩)+ヤ(岸):つまり岩の岸のことで、似かよった地名に洞爺湖がありますが、洞爺はト-(湖)+ヤ(岸)で「湖の岸」つまり湖畔を意味します。
宗谷も洞爺も似かよった名前ですね。
この様に観光ツア-の人達が大勢集まっていました。
そして、右側の人影の上に立つ銅像が樺太を探検した間宮林蔵の立像で樺太の方角に建てられていました。

宗谷海峡の沖合の海の色が少し濃くなっている様に思いますが、それはサハリンではなく海の色そのものです。光線の加減で色が違って見えるのでしょう。
モニュメントの傍に北海道とサハリンの位置関係が記されていましたが、ご覧の通り宗谷海峡を挟んでその距離は数十kmでしょう。

礼文島へ行った時もバスガイドさんが、晴れていればロシアのモネロン島やサハリンが礼文の島からも見える事を話してくれました。
(因みに、宗谷岬~サハリン=42km )
此処は、稚内の近くに有る納寒布岬でノシャップ岬と書いて有りました。根室の納沙布岬とは字が違いますが、アイヌ語は同じ意味でしょう。
ノシャップはアイヌ語で、「あごの突き出た所」の意味です

しかし、良く見掛ける魚のモニュメント(下の画像)に大した感動は無く、周囲の設備も普通の漁港と変わりはなく殺風景なところでした。

それと、多分稚内からなのでしょう、タクシ-が観光客を乗り合いで此処に連れて来ている所を見掛けました。
此のイルカのモニュメントは有名ですが、実際は少しも良くありません。近くの売店も汚く、そもそも稚内方面から行くと狭い道を通り過ぎるとこの場所に着きますが、本当に目立たない所に有りました。
此処が稚内駅ですが、JR宗谷本線の稚内がどの様な町であるか見ようと思い行きましたが、行って見ると普通の駅でした。

処で、稚内ですが、アイヌ語でヤム(冷たい)+ワッカ(水)+ナイ(沢または川)の一部を音訳して稚内としたようですが、稚内の稚は稚拙や幼稚の字を当てたものですが、若いと言うイメ-ジから此の字が選ばれているそうです。
此処が稚内港に有るフェリ-乗り場で、今年リニュ-アルされたばかりの新しい建物でした。

そして、利尻島と礼文島それにサハリンへ行くフェリ-会社は、それまでは東日本海フェリ-と言う社名でしたが、ハ-トランドフェリ-に変えていました。恐らく、青森~函館を就航しているフェリ-会社が東日本フェリ-なので、イメ-ジチェンジを含めて社名を変えたのかも知れません。

とにかく此処のフェリ-乗り場は使い勝手が良く、乗船客専用の駐車場は照明も整備されていて安全でしたのでここに車を停めて一泊し、翌日から一泊二日の礼文・利尻の旅に出掛けました。
此のフェリ-が島を往復した時に乗ったフェリ-で「フィルイ-ズ宗谷」と言います。

「フィルイ-ズ」の船名は、Feel at Ease の英語から取った造語で、安心するとか
落ち着くと言う意味を表しているそのです。

フェリ-は、結構カラフルに塗り分けられていて車の乗り降りは後部からでしたが、利尻島や礼文島が観光スポットとして全国的に知られるようになったお陰で港は賑わっていました。
総トン数 3,551トン
巡航速度 20.4ノット(約38km/h)
運行能力 乗用車(66台)+8トントラック(21台)
定  員 635名(夏場以外500名)
建造年月 平成13年5月就航
ここが一等船室で、二等船室が下の画像です。稚内から島までは二時間足らずなので二等でもデッキでも良いのですが、下調べでは意外と海上は寒く温かな部屋が良いことと、二等船室は満員になると、室外のデッキの椅子席に追い出されると書いてありましたので、少々高くても一等船室にしました。
この二等船室はかなりの人がいましたが、此の日は海上が寒くなかったので数十人の人達がデッキの椅子に腰をおろして海上を眺めて居ました。
此の様に観光バスをフェリ-に積み込んで出発します。乗船する時は後ろ向きにバスを乗せていましたが、何時もやり慣れている精か上手に運転していました。

画像は稚内港のものです。
此の画像は礼文島へ行く途中で観た利尻島の利尻富士ですが、少し雲が掛かっていますが結果的にはこの時が一番良く見えて居ました。
此れは、礼文島へ行く時に船と共にカモメ(またはウミネコ)が付いて来て盛んに餌をせがんでいる所ですが、中年の小母さんたちが喜んで売店から餌を買って来ては
与えて居ました。


此処が礼文島の香深港ですが、折り返しの船に乗る乗客がすでに並んでいました。

6時20分に稚内を出港して8時20分頃に礼文島に着きましたので、2時間の船旅でしたが風もなく心地良く香深港へ着きました。

礼文島はアイヌ語でレブン(沖)にあるシリ(島)のレブンから来ている島ですが、お隣にある利尻島は同じく、リ(高い)シリ(島)に由来しているそうです。そして、高いは勿論、利尻山の事です。
香深港にはこの様な島内の主だった景勝地や現在見る事の出来る草花などを掲示してありましたが、私は稚内港で定期観光バスの乗車券を購入しましたので、すぐ様バス乗り場へ急ぎました。

そのバスはフェリ-から降りて来るバスよりも車幅が小さかったのですが、その訳が出発して判りました。

つまり、少し車幅の狭いそのバスは、島内の細い山道をかなり高い所まで登り、私達はバスガイドさんの説明を聞きながら坂道を下り、高山植物を観賞します。そして、
バスは回り道をして下で待っている、と言うものでした。

その点、稚内から来たバスは細い坂道を登ることが出来ないので、見学客は坂道を往復して観るために時間も掛り、かなり疲れるとのことでした。

とにかく、高山植物を沢山見る事が出来て礼文島へ行けて良かったと思います。
そして、そうした植物を150枚以上撮った中から、礼文・利尻の草花のペ-ジに
まとめましたのでご覧下さい。

礼文島では昼食に澄海岬でウニ丼を食べましたが、これがまた実に美味しくて、
此の島がウニや昆布の産地である事は知っていましたが、それにしても獲れたてのウニの味は格別でした。
香深港から利尻島の沓形港へ行くフェリ-を待つ乗客の列ですが、かなりの人が
並んでいました。

処で、利尻島には稚内と島を結ぶ鴛泊(おしどまり)港と沓形港がありますが、私は宿へ行く前に利尻富士温泉に入りたいと思い、まず沓形港へ行きそこから定期バスで温泉まで行くことにしました。

しかしその日は午後から生憎の雨と風で、傘の骨が折れる程の天気になり、しかも仲々バスが来ないのであせりましたが、約10分遅れてようやくバスが来た時はホットしました。

その後、30分程で温泉に着き体をゆっくり温めてから小雨の中を徒歩で宿へ向かいました。

礼文島を離れる時は寂しくなりましたので忘れない様に、数枚の写真を撮りました。

何でも礼文島では今年温泉を掘り当てて、北海道への申請許可が降りたら来年は温泉施設を建てる予定との事でしたが、礼文島出身の京都に住む実業家が数億の寄付をしてくれたとのことでした。

礼文島に温泉が出た事は当日のバスガイドさんから聞きましたが、京都に住む実業家の寄付による情報以外は個人情報に関わる事を理由に得る事が出来なかったのですが、その後いくら調べても新な情報は見当らなかったのです。
処が、H22年の秋にたまたまネットでチェックすると、以下の事が判りました。

寄付をしたのは、京都に本社のある「サン・クロレラ」と言う健康食品会社で、現在の社長は中山哲明さんですが、現社長の父親で創業者の中山秀雄氏が礼文島出身でそうした縁で今回多額の寄付をしてくれたとのことでした。
しかし、この情報の先には更に次の様な話が有りました。

現在の礼文町の小野町長が町長選挙の公約に、礼文町に温泉を作り町民の福祉と観光の活性化を図りたいと発案しましたが、当時の「1億円ふるさと創生事業」の資金を充てることを目論みました。しかし、礼文島が火山島では無い事からその成否が問題となり結局中止となったそうです。そこで、たまたま町長が中山社長に会った時に温泉の計画を聞かれ資金が無いと卒直に伝えた所、社長がその費用を全額寄付するので、もし温泉が出たら後の管理は町で運営して欲しいというものでした。結局、賛同者からの寄付を含めて数億円が集まり平成19年に掘削が始まり、初めは硬い岩盤で仲々工事が進まなかったのが、
1300mから50℃で毎分200リットルのお湯が湧き出し、平成21年の秋から「礼文うすゆきの湯」として営業を開始したのだそうです。大変素敵な話であり、礼文島に温泉が出来て本当に良かった、と思います。

因みに、温泉の名は公募により決まりましたが、礼文ウスユキ草から命名したそうで、その花は礼文島に咲く高山植物で別名は、エーデルワイスだそうです。
                             (H22年10月12日追記)
香深港を出港直後に撮ったものですが、港には立派なホテルも有り、礼文島が今後発展する様に思いました。

礼文島の景色として、5枚の画像を追加することにしました。(10月09日追加)

此処は、香深港から最初に行った「桃岩」と呼ぶ大きな岩山で、桃岩展望台からの画像です。そして、此の岩山は桃の形をしている所からその様に呼ばれているようですが、この辺りにはお花畑が有り礼文島の草花でご紹介した中の花の幾枚かは
此処で撮った画像です。

また、此の桃岩展望台の岩山と反対側を下りた所に一軒の民宿が有り、その民宿には日本全国から夏場だけ若者が集まり、此処でアルバイトをしながら礼文島を
楽しんでいる人達がいるとバスガイドさんが話してくれました。
此処が「猫台」ですが、海中にぽっんと浮かんでいる小さな岩が猫に似ているところからその名が付けられた様ですが、此の猫台は桃岩の先にありました。

礼文島の西海岸(香深港と反対側)は、この様な断崖になっている所が多く特に此処から次の澄海岬迄は車が通れる道がないので、一度東側へ回って行くなど険しい
地形になっていました。
 その澄海岬(スカイミサキ)が左の画像ですが、バスガイドさんの説明に寄ると以前テレビドラマの撮影で此処が使われたそうですが、そのドラマを見ていない私は題名を聞きましたが覚えていません。(後日調べると、「Drコト-」と言うテレビドラマでそのエンディングで、この地の映像が流れたようです)

しかし、実に素晴らしい景観で、私は此処の売店で美味しいウニ丼を食べた思い出の澄海岬です。

そして、澄海岬の先にレブンアツモリソウの群生地が有り、バスから降りて見学した後にスコトン岬まで行きました。
 此処は、バスから降りて高山植物を見ながら山道を下る途中の景色ですが、この坂道の先に回送されたバスが待っていて、また次の場所へ向かうそうした4時間半の観光コ-スでしたが、お陰で疲れる事も無く快適でした。
此処は礼文島の最北端のスコトン岬ですが、日本最北限と書かれていました。
そして、海の向こうに見える島が海馬島(トドジマ)で、鯔やアザラシが生息している様です。

しかし、日本の最北端は宗谷岬で海馬島は残念ながら最北端ではなく最北限と微妙な言葉にしているのが残念・・・と、バスガイドさんが話してくれました。又、香深港では礼文島を、「最果ての夢の島」と紹介していました。

スコトンの地名は、アイヌ語で「シ・コッツ・ウン・トマリ」から来ていると言う説が有り、支笏湖と同じ、大きな窪地のある(泊地)から来ているとのことです。また、宗谷バスの停留所には、「須古屯」の文字が有りました。
フェリ-の後方から撮った画像ですが、礼文島が少しづつ小さくなって行くその島影を眺めていました。

バスガイドさんからの情報

1)利尻島と礼文島には、クマやシカやキツネはいない。

2) ウミネコとカモメの違い
  ・足の色がピンク色→カモメ
  ・足の色が黄色  →ウミネコ
此処が沓形港から30分ほどバスで行ったところに有る利尻富士温泉ですが、利尻島にはまだ数か所温泉が有るそうです。

処で、利尻島は利尻富士の噴火で出来た島で、利尻とはアイヌ語でリィ(高い)+シリ(島)だそうです。因みに礼文島はレブン(沖の)+シリ(島)だそうです。

雨の中を歩いてこの温泉へ行きゆっくりと体を温めてから、15分ほど歩いて宿に
着きました。
此処は宿の窓から見たペジ岬と呼ぶところですが良く見ると、海面の下の方に一双の小舟が見えますが、この船はアワビを取っているそうで海の中をのぞきながら櫓を操作していました。
此処が、利尻島の玄関口で鴛泊(おしどまり)港のフェリ-タ-ミナルです。
最初、鴛泊をオシドマリと読むことが出来ないので地元の人に聞いて覚えました。

 そして、宿泊先の宿が経営する二階の食堂で、その日の夕食と翌日の朝食と昼食を食べましたが、さすがにウニやアワビの刺身は美味しくてもっと食べたいのを我慢したほどです。
 此の2階建てバスで島内を一周しましたが、利尻島は礼文島より高山植物が少なく観るべき景色も差程でもなく4時間のコ-スでしたが、印象に残るものは少なかった様に思います。
 此の船が、礼文島へ行く時も礼文島から利尻島、そして稚内へ戻る時にも乗った
フェリ-ですが、インタ-ネットで乗船券を事前に予約して置きましたので、窓口ではプリントアウトしたQRコ-ドで簡単に手に入れる事が出来ました。

そして、3回乗ったフェリ-の代金は合計で8,000円ほどでしたが、2回乗った観光バスの方が7,500円でしたので、フェリ-料金が割安に感じます。
いよいよ利尻島を離れる時が来ましたが、此の日も利尻富士は裾野を少し見せているだけで、山の姿は雲の中で見えませんでした。

こうして、稚内港に6月4日に泊まり、6月5日の朝礼文島へ渡って、4時間半の観光コ-スで高山植物を観ながら歩き、午後に利尻島へ移動し温泉に入り利尻島でその日は休んだ翌日はやはり観光バスで4時間のコ-スで島内を観て周り、16時に利尻島を出港した後は17時40分に稚内に戻ると言う稚内港を含めて2泊3日の楽しい旅が終わりました。
此処からが、ぶらり旅の後半になります。

此処は、羽幌から留萌に向かう途中の小平(おびら)に在ったニシンの番屋ですが、
大きくて立派な建物でした。


此の番屋の隣には小平町営の資料館が有って、番屋の構造を模型にして展示していたり、クマの剥製があったりと、かつては繁栄した町である事が窺がえました。
この建物は、小平の番屋よりひとまわりこじんまりとしていましたが、留萌市役所の
警備員の方に教えて貰って行った留萌の番屋です。
此処が、JRの留萌駅で、休日のためか駅前広場ではミュ-ジシャンが演奏をして人を集めていました。

処で、留萌の地名はアイヌ語でルルモッペツ(潮が奥深く入る川)から来ているそうですが、留萌と言う言葉の響きは心地良く、私は若い頃から一度留萌がどの様な町なのか訪ねて見たいと思っていました。

其の街並みは中央に大きなバイパスが走り町は賑わっていましたが、一歩道を入ると、狭い道路が入り組んでいて、そうした中に留萌市役所は有りました。

そして、留萌の町は新旧が混在している様に思いましたが、教えて貰った番屋が仲々見つからず時間が掛かってしまったので、留萌の南に有る増毛へも行きたかったのですが行けませんでした。

そこで、留萌から高速道を使い、旭川の先(北東方向)に有る大雪山系の層雲峡へ
向かいました。
此処が、層雲峡温泉の中に有るビジタ-センタ-ですが、層雲峡の地形がどの様にして出来たのか、此処の地形が数億年前の造山運動で隆起した事や、旭岳などの大雪山系の火山の噴火による溶岩が急速に固まり柱状節理の岩を造り出したことや、その岩の間からは幾筋もの滝が流れ落ちて居てその滝にはそれぞれの名前が付けられていること、そして滝から流れ出た水が石狩川であること等を、センタ-の女性から聞くことが出来ました。

そこで、まず黒岳に有るロ-プウエ-で黒岳の中腹まで登りましたが、生憎曇っていて大雪山の山々が観えなかったことと、かなり寒かったので30分ほどで降りて、教えて貰った滝へ行って見ました。
此の画像と次の画像がその滝で、全部で7~8本有るようです。

この流星の滝は、柱状節理の溶岩の間から一気に流れ落ちて居ましたが、手前の
灌木に遮られて下の方が良く観えませんでした。
その点、少し離れた所に有る銀河の滝はご覧の通り木々の間から滝の全景が良く見えて大変迫力が有り、流れ落ちた水がゴウゴウと音を立てて流れていましたが、全体の印象はこちらの滝の方が良かったと思います。

そして、まだ先に幾つか滝が有るようでしたが、この2つの滝を観てから、やはり道央道を使って旭川へ戻りました。
此処がJR旭川駅ですが、今まで観て来たどの駅よりも大きく立派でした。しかし、
駅前の駐車場は混み合っていて構内へ入ることが出来ず少し離れた所から写真を撮り、旭川の道の駅へ行きました。
この信号機は旭川市内で撮りましたが、ご覧の通り「東1南13」と書かれています。

こうした標識が至る所に有り、この交差点の場所を表しているのでしょうが、倶知安でも札幌でも見掛けました。恐らくこの地を開拓した当時に、場所を記す目的でこの様に決めたのでしょうが、初めてこの地を訪れた者にとっては、方角が判らず結局どちらの方向へ行けば良いのか判らずにあまり便利なものではありませんでした。(他の所でも同じことを書いたように思います)
此処が旭川市内から30分の所に有る動物園で、とにかく全国的に有名な動物園ですが、10時の開園前の7時過ぎに着いてしまいましたので、車内の整理などをして過ごしました。
此処がアザラシ館ですが、円筒形のガラスの中をアザラシが垂直に上下に泳ぐ場面を良くテレビで見ますが、あれは床下にもアザラシが泳ぐスペ-スが造ってあって、
遠くにいたアザラシが居なくなったかと思うと、突然下からアザラシの頭が見えて上方に(垂直に)泳いで通り過ぎて行く(その時見学者は一斉に歓声を上げる)単に、アザラシが円筒形のガラスの中を泳ぐと言う演出だけではなく、突然アザラシが顔を出してキョロキョロと周りを見回しながら泳ぐユ-モラスさを提供している点が人気の秘密なのだろうと思います。

左の画像は、丁度アザラシが上から下へ泳いでいる所を撮りましたが、こうした時に皆が一斉に歓声を上げて居ました。
アザラシ館の地下を少し離れて撮ったのですが、殆どの人が中年以上で、観光バスで大勢来て居ました。
此処は、ほっきょくぐま館ですが、熊が水に飛び込む場所を撮ったものです。そして、熊が飛び込むと水しぶきが上がりそのダイナミックさに歓声が上がり、しかも、この様に地下から水族館方式で飛び込んだ北極熊が泳ぐ様子をガラス越しに観る事が出来たり、途中の覗き窓からも見える仕掛けや、とにかく360度方向+地下や上方からも見る事が出来る工夫がされていることが人気の秘密なのかも知れません。
此処はぺんぎん館ですが、ご覧の通り頭上を泳ぐペンギンをガラスのトンネルの中から見えるような工夫がされていました。しかし、今回の旅は動物達を観るのが
目的ではない事と、動物より人間の数(殆んど大人たち)の方が圧倒的に多いことに疲れてしまい、一時間いて動物園を後にしました。
旭山動物園を引き上げて、旭川にあるイト-ヨ-カド-で下着と靴下等を買い、午後から富良野へ行きました。

富良野へ行く途中に美瑛を通りましたが、この辺りは道東とは違った丘陵の大地に広い農場が有りました。
そして、漸く富良野に着いたのですが、残念なことに期待した富良野のラベンダ-畑はご覧の通りで、6月のこの時期はまだ花の咲く時期が早い事は知っていましたが、ラベンダ-が上富良野から中富良野に掛けて一面に植えられているものと思い行きましたが、ラベンダ-畑はほんの一部で、しいて言えば田圃の休耕地にラベンダ-が植えられているのを数か所見たぐらいなのです。

 良く話題になるテレビドラマの「北の国から」のロケ地やラベンダ-畑の富良野が全国的に知れ渡り、その分期待が大きくなっていることも有るのでしょうが、情報の怖さを知った気がします。

富良野の地名は、アイヌ語でフラ-ヌイ(臭う炎又は、臭いにおいのする所)だそうで、あまり良いところではないのでしょうか(?)
そして、此処が歌志内の街並みです。

かつては、近くの炭鉱で大勢の人達が生活し大変栄えた町ですが、ご覧の通り石炭景気が去った今は寂れていて人通りもなく商店の壁は錆び付いていて見る影もないゴ-ストタウンでした。

そこで、市役所へ行き資料館を教えて貰いましたが、行って見ると見学者が来ないのでしょうか(?)休館中でした。

それではと、近くの人に開館日について聞いて見ると訪れる人がいないので何時も閉めっぱなしとのこと。仕方なく隣町の赤平(あかべら)に有る資料館へ行くと、こちらは完全に無人でした。

余りの寂れ様にガッカリして、近くに残されている住友鉱山が経営していた赤平立抗に寄った時の画像が以下のものです。

歌志内の地名は、アイヌ語でペンケ(上流)+オタ(砂)+ウシ(多い)+ナイ(沢)で、オタがウタに音便し、ウタウシナイとなり、歌志内となったと言います。これに対して隣町の砂川は、オタウシナイを和訳して「砂川」としたそうです。
此の炭鉱は、住友赤平立抗と言い昭和38年に完成した新しい炭鉱ですが、20数年を経て石炭から石油へのエネルギ-転換の国策により閉山に追い込まれた炭鉱でした。

下の看板の概要
工 期 昭和34年9月着工~昭和38年2月完成
立 抗 6.6m(内径:コンクリ-ト)×650m(深さ)
ヤグラ高さ 43.8m(H鋼構造)
年間揚炭能力 140万トン
建設費用 20億円(当時)
その中心の設備である立抗の詳細が左の画像です。

赤平(あかびら)鉱は歌志内の隣町に有りますが、この町(赤平市)も寂れて居ました。最盛期には6万人が住む炭鉱の町(1960年代)でしたが、現在は1万3000人にまで減少しているようです。

そして、町の南北を空知川が流れこの街は落ち着きのある静かな町でしたが、此処の資料館も無人で入り口のドアは錆ていて、もう何年も開けられていない様でした。

しかし、立抗の設備は大変立派で、住友が社運を掛けて昭和30年代に建設したのですが、やがて時代は石炭→石油へとエネルギ-転換して行くその潮流を、誰も読み取ることは出来なかったのでしょう。

敷地内には「住友石炭鉱業(株)」の看板を掲げた工場がひと棟だけ操業していました。
此処は、函館本線のJR美唄駅で最初は駅舎と思いませんでしたが、近づいて見ると大変モダンな駅でした。


また、此処へ来る前に滝川と言う街を通りましたが、滝川はアイヌ語でソ-ラプチ(滝下る川)を和訳したもので、音訳したものが空知(川の名前や支庁の名前)として残っています。
此処が三笠市の市立博物館ですが、此処には世界一大きなアンモナイトの化石(直径が2.5m)が有ったり、幌内に有った幌内炭鉱のことなどが紹介されていました。

そして、三笠市は 幌内村と幾春別村それに、市来知村の一部が合併する時に村の名前を検討したそうですが、幌内炭鉱で強制労働させられていた囚人達の監獄の裏山が彼等の故郷の奈良に有る三笠山(別名、若草山)に似ている所から誰言うともなくその裏山を三笠山と呼んだ逸話から三笠山村と名づけられ、そしていつしか山が取れて三笠村となったとのことです。

また、炭鉱で働いた囚人たちは明治政府に従わなかった政治犯が多く、炭坑夫としての労役の他に札幌と幌内を結ぶ鉄道を建設する作業にも従事させられたそうで、そうした記録を此の三笠市立博物館で知ることが出来ました。

此処が、かつての幌内炭鉱に有る立抗で赤平よりは規模は小さいのですが、
此処にもかつては炭鉱が有ったことが判ります。

そして、私のメモによると明治12年から平成元年に閉山するまでこの炭鉱は続いたとのことです。
此処が幌内炭鉱の社員住宅で、この様な長屋形式の住宅が沢山建っていました。
しかし、それぞれの家には赤い帽子の煙突が有りその数が半端ではないので、何かゴ-ストタウンの様な異様さを感じました。(今も若干、住んで居る人がいました。)

此の川が、幾春別川ですが、此の「幾春別」の言葉の響きが素晴らしく、車から降りて一枚撮りました。

幾春別とは、アイヌ語でイク(かなた)+シュン(流れる)+ペツ(川)を音訳したものだそうで、北海道には・・・別の名が沢山ありますが(例えば、登別、紋別、然別、etc)別はアイヌ語のペツ(川)を漢字に置き換えたものですが、別ではなく標津(しべつ)や
壮瞥(そうべつ)等の名で残っているものもあります。いずれにしても、アイヌの人達が河口や川の流域に住んでいた関係で、別が多い事が想像出来ます。

 一方、札幌も サツ(乾いた)+ポロ(大きな)+ペツ(川)から来ているそうで、此れは石狩川に注ぐ豊平川が度々氾濫し、現在の札幌市内の流域で川筋が何度も変わり乾いた土地が出来て行く中でその後豊平川の治水工事が終わり氾濫が治まって行く中で、この乾いた平地の上に札幌の街が出来た事により、乾いた大きな土地から「札幌」と名付けたそうです。
此処が、札幌の市街を一望出来る「羊ヶ丘展望台」ですが、好きですsapproの左手にサッポロド-ムも見えています。

しかし、手前に見える牧草地に羊がいないのに気付いたので聞いて見ると、現在別の場所で食事中とのこと。

仕方無くある建物に入ると、そこには第一回から現在まで毎年開催されるサッポロ雪祭りの雪像等の写真が飾られていました。

 しかし、去年と今年の分が飾られていないので受付の女性に尋ねると、毎年飾る位置をずらすのだが新しく飾る場所が無く出番待ち、なのだそうです。私が出番待ち(?)と首を傾げると、その女性はニッコリと照れくさそうに笑っていました。
此処が、札幌駅で隣にデパ-トの大丸が有りました。
私は20年以上前に出張で札幌へ行きましたが、しかし、その時とは大きく様変わりをしていました。

 それに、札幌は大都会で大道りなどが車のラッシュで大変混雑しており、ゆっくりと観たかった時計台も駐車場が無いので車内から画像を撮ってその場を離れました。そして、その後行って見たかったレンガ造りの旧北海道庁舎へも行きませんでした。
此処が北海道大学の正門です。さすがにかつての帝国大学としての威厳が有り
しかし、札幌駅から実に近い距離にキャンパスがあることに驚きました。

 そして、キャンパス内は周囲の喧騒から離れて楡(エルム)の並木が続き、構内は大変静かで重厚な建物にも感心しました。

そこで、早速クラ-ク博士の胸像を観てから博物館へ行き、黒田清隆や新渡戸稲造が残した業績を観たり、学食でカツカレ-を食べたり問題のポプラ並木を観にも行きました。

北海道大学のご紹介 [07年5月時点 (Campus Guide Mapより)]
敷地面積 177.6万㎡ [53.8万坪 (東京ド-ム約38個分]
学生数 約 18,000名
職員数 3,958名
駅からの場所 JR札幌駅から正門まで徒歩10分
そのクラ-ク博士の胸像が左の画像ですが、戦時中に供出し一端は無くなったのですが戦後復活して出来た2代目の胸像なのだそうです。

そうした事が、左隅のレリ-フに刻まれていました。
此処が北大のキャンパスですが、正門から入りクラ-ク博士の胸像のある場所を
右に曲がるとこのメインストリ-トが其処から始まります。

右の画像がその場所ですが、楡の並木道のこの通りは1km以上続く奥行きが有り、その左手の途中に博物館は在りました。

 そして、ポプラ並木は博物館の先を左手に折れたキャンパスの外れに有ることが判りましたので早速行って見ました。
此れが、ポプラ並木の被害の様子を説明した掲示板ですが、此の掲示板には次の事が書かれていました。

1.平成16年9月8日に台風18号が北海道を襲い、51本有るポプラの内19本が
  根元から折れ、8本が幹を残し傾いたそうです。

2.此のポプラ並木は、明治45年に当時の札幌農学校の学生達が植えたもので
  あること。

3.現在、此のポプラ並木をどのようにするか検討中で、これも自然現象(台風)が起
  こしたものなので老朽化しているポプラにあえて手を加えない方が良いとの意見
  や、一方では、何とか歴史あるこの並木道を復旧させたいとする意見などが寄せ
  られているとのことでした。、
ポプラ並木は、キャンパスの外れに在って、現在は並木道への出入りは禁止されていました。

確かに自然発生的に起きた被害ですが、私としては新しいポプラを植えて後世に伝えて行って欲しいと思います。

そして、このポプラ並木の先に農場が有り、その隣には北大の愛唱歌「都ぞ弥生」の歌碑や寄宿舎跡などが在るようでしたが、時間の関係でそこへは行きませんでした。

しかし、北海道大学は、久し振りに文化の薫り高く歴史を感じさせてくれる素晴らしい
キャンバスでした。

NHKのアナウンサ-の森田美由紀さんを北海道の報道テレビ番組で見掛けましたが、彼女は北海道大学出身で、東京からどこかに転勤した事は知っていましたが、現在は札幌の放送局にいる事が分かりました。彼女も北海道に戻り充実した仕事をしていることでしょう。

私も、爽やかで品格のある森田さんの笑顔と共に、北海道大学が大変好きになりました。
此処が1972年(今から36年前)に札幌で行われた冬季オリンピックのジャンプ場で大倉山にある90m級(現在はラ-ジヒルと言いますが)のジャンプ場です。

ジャンプ場は札幌市街から車で30分の所に有り、駐車場から長いエスカレ-タ-に乗ると行き着いた先にご覧のジャンプ場は有りました。

そして、右手には記念館とレストラン、そしてジャンプ場に併設して左手にはリフトがあり誰でも利用出来るようになっていましたが、かなり上に有る踏み切り台へは行きませんでした。
それに対して、大倉山から車で10分ほどの所に有る宮の森ジャンプ場(左の画像)は無人になっていて、誰一人いませんでした。

しかし、此処がかつてのオリンピックで笠谷幸生達が金・銀・銅を独占したあの記念すべきジャンプ場(70m級で現在はノ-マルヒル)なのですが、36年経つとこの様になってしまうのかと、少し寂しい思いがしました。

それは、大倉山ジャンプ場から宮の森ジャンプ場へ行く途中の道が鬱蒼と茂る深い森の中でジャンプ場はその先に在り、宮の森が現在マイナ-なのはその地形の精なのかも知れません。しかし、かつての日の丸飛行隊が3本の日章旗を揚げた此処が間違いのない宮の森ジャンプ場である事をいつまでも知っていて欲しいと思います。
此処は、札幌から中山峠へ向かう途中に通った定山渓と言う温泉街ですが、この先で私は大変怖い思いをしました。

それは、中山峠へ行く登り坂で、私の車の後ろにピタりと付いて走る大型トラックが
もっと速く走れと催促しているのですが私が制限速度+10km/hを守って走っている
と一度後方に離れたので諦めたものと思いましたが、今度は後方でジグザグ運転をして自分の存在を分からせ様と無茶な運転をしたかと思うと再び急接近して来ました

私は此れ迄北海道の車が制限速度を無視して走る事に呆れて居ましたので、今度は私がそのトラックを無視し続けましたが、あまりに長くその状態が続くので危険を感じ退避ゾ-ンに入りました。すると、そのトラックはクラクションを何度も鳴らして、蛇行運転をしながら走り去って行きました。

北海道は大変自然が豊かで良い所ですが、道民の車の運転には絶望しました。
此処が羊蹄山で、蝦夷富士と呼ばれています。

富士山よりは小型ですが、山の形が実に富士山に似ていて気に入りました。しかも、
此の日の羊蹄山は実に良く見えて北海道で初めて素敵な山に出合えましたので、
幾枚もの写真を撮りました。
此処は、前日泊まった京極の先に有る倶知安市の交差点ですが、旭川でも紹介した東西南北と数字を組み合わせた標識です。
恐らく、北海道にはまだまだこうした標識が沢山あるのでしょう。
此処が小樽市役所ですが、立派な建物でした。かつて小樽が繁栄した事が良く判ります。

そして、市役所で小樽運河の事を聞き、駐車場の場所についても聞きましたが運河の近くに駐車場は沢山有るけれど出来れば駅前の無人の駐車場に停めて運河まで歩くと、小樽の風情が良く判ると受付の女性が教えてくれました。

その話の通りに小樽駅まで行きましたが、小樽駅も立派な駅でした。

そして、右側に少し見えている駐車場に車を停めて坂道を下ると、その先に小樽港と運河が見えて来ました。

小樽の地名の由来
アイヌ語で、オタ(砂浜)+オル(中の)+ナイ(沢または川)から、最初はオタルナイと呼んでいたのを後世小樽と名付けたそうです。しかし、現在小樽市の中に該当する川は存在しないとのことでした。
此処が名高い小樽運河ですが、運河は全長が1,300mあると承知していましたが、何とその内の300mが整備されていてあまりの短かさに呆れました。

そして、運河を観ながら裏側の道を歩くと、小樽倉庫の社名と共に小樽資料館と書かれた建物が有りましたので行って見ると、普段は鍵が掛けられているようで、中年の男性社員の方がわざわざ鍵を外して中を見せてくれました。

その資料館は、今まで会社で使って来た古い事務機器や倉庫に関する資料が展示されていましたが、其の小樽倉庫は歴史のある大きな倉庫会社で古い石造りの倉庫は小樽市に寄贈し、現在はビ-ル店がテナントとして営業をしていました。

何でも、石造りの倉庫は、この地方に特有の強風による火災を防ぐために耐火構造の倉庫が必要でしたが、総石造りでは建築費が高く付くので、木造で建物を造り、その周りを近くの山から切り出した石で全体をかこっている、とのことでした。

そこで、その部分を撮ったのが3枚目の写真です。
と言う訳で、小樽運河は橋から橋までの300mを整備しご覧のように遊歩道を造り、そこには露店が並び此の歩道には多くの観光客が集まり、最近テレビなどで有名になったかなりの数の人力車が客待ちをしていました。

しかし、情報と言うものは怖いもので、もっとスケ-ルが大きいと感じさせる話が行って見ると案外話題とは違うことを富良野と同様に感じました。
此の画像の2枚前からこの橋迄の300mが整備されていますが、この時はたまたま観光客がいない時に撮りましたが、この橋の上はいつも大勢の観光客でごった返していました。
この建物が旧倉庫ですが、その側面を見ると左側から、石は1m(長さ)×550mm(高さ)×330mm(厚さ)のブロック状でその石が幾段にも積み上げられていました。(端面は別の化粧石が使われていました)

そして、その内側には鉄製の引き戸が有り普段は使用されていないようです。次に木造の建築物(構造物)があり、現在は更にその内側が出入口になっていますが、倉庫として使っていた頃は木造の建築物(構造物)までで、現在の出入口はなかったそうです。

それにしても、耐火建築法として経済的な工法を取り入れて来た先人たちの知恵には頭が下がります。
此処からが、小樽の次に行った余市に在る漁場ですが、此の漁場で獲ったニシンを加工したり、番屋では東北地方からの出稼ぎの若い人達(若衆)と寝起きを共にしながら、漁場の経営者(大宅と書いておおやけと読む)が座ったままで浜を見たり、
若衆達の働きぶりを監視したりする独特の造りになっていました。

ニシンは大漁の年と獲れない年があり、この漁場も明治の初期から大正にかけて
3人の経営者が代わっていることが記されていました。

そして、此の漁場は現在は余市市が買い取り修復後に国の指定を取り一般公開をしているとのことで、数人集まると受付の小母さんが場内を案内してくれました。
此処が、ニシンを肥料にするための作業場です。

そもそも、ニシンは2割が食料で残りは作物の肥料にしたそうです。そこで、肥料にするニシンを干す丸太を組み合わせて作った乾燥場(屋外)があり、今度はニシンを煮るこの大きな釜や更に油を絞り出す木造の圧縮機などが展示されていました。

更に、若衆達に十分なご飯(白米)を食べさせる為の米蔵や、貴重品をしまって置く倉なども漁場の中に有りました。

若衆達は白米が十分食べられることに満足して喜んで働いたそうです。
此処も漁場にある建物ですが、そもそもニシン漁は3月~5月の100間のみで豊漁の年とそうでない年が有り、漁場の経営は当り外れが激しく経営は厳しかったそうです。そして明治25年辺りがピ-クで昭和9年で一端取れなくなり、昭和16年~30年に再び獲れ出しますが、昭和30年以降は全く獲れなくなったのだそうです。

 此処の経営者の3人目(大正元年から川内氏が経営)もニシン漁だけでは経営が難しいと考えて、漁場の周りに畑や田圃を作り多角経営を始めたとのことでした。

余市にはニッカウイスキ-の余市工場が有りますが、昔仕事で仙台工場(同)で知り合った方が余市に来たら是非寄って下さいと話してくれたことを思い出しました。
しかしそれは25年も前の話で現在もいらっしゃるかどうか判りませんので、どの様な工場かを知りたいとも思いましたが結局工場には行きませんでした。
此処からが、余市の先に有る積丹半島です。

この半島はかつて上部から大きな岩がトンネルの上に落ちて来て、たまたま子供を学校に送り届ける為にトンネルに入った母親と子供が押し潰されて亡くなった悲しい事故が有った所です。

そして、この半島には神威岬が有り一度行って見たいと思っていました。
そのトンネルがご覧の通りで、確かに切り立った岩盤をくり抜いて幾つものトンネルが有りました。

そして、現在も工事中のトンネルもあり、恐らくかつての事故の教訓として今も新しい安全なトンネルを造っているのでしょうが、通って来たトンネルの中には対面通行が出来ない規格が狭いトンネルも有り、此処を通過する時はどうか反対側から大型車が来ないことを願いながら走りました。

そして気が付くと、神威岬を通り越していましたが、多分標識の見落しではなく新しく出来たトンネルが岬を迂回していることを知らずに来てしまったのであろうと思い、
残念ながら戻ることを諦めました。
此処が函館山の頂上ですが、積丹半島からは岩内へ行きニセコを通って長万部へ出て、噴火湾沿いを南下し恵山から函館まで来ました。

此の函館山は、昼間は車で頂上へ行けることを知らずにロ-プウエ-で登るものとばかり思っていましたが、車で行けてラッキ-でした。
函館山から函館市街を撮った画像ですが、両側に有る海岸線は一番狭い所は1kmも無いそうです。

それは、函館山は大昔は独立した島でしたが、陸続きになったのは永い間に海流により運ばれた砂で埋め立てられて陸続きになったのだそうです。しかしその場所が今は函館で一番の繁華街だそうで、そうした函館のことを翌日再び函館を見学をした折りに地元の人に教えて貰い函館の事が色々と分かりました。
此処が五稜郭跡ですが、市内のど真ん中に在りました。

私は此れ迄五稜郭は五角形をした建物と思っていましたが、中心の奉行所を囲んで5角形の土塁で防御した城郭であることを知り百聞は一見にしかずであることを改めて知った次第です。

そして、新撰組の土方歳三が函館戦争で戦死した此処が彼の終焉の地であることや、平成22年度中にかつての奉行所の完成を目指して現在再建中であることを知りました。
そのかつての奉行所が左の画像ですが、確かに現在工事中でした。(足場の中にかなり大きな建物が建築中でした。)

函館の地名は、珍しくアイヌ語ではありません。それは、江戸時代に幕府が道南の北部を警備することを目的に12ヶ所の館を築き主に東北地方の南部藩や弘前藩などが警護に当たったそうですが、そうした館の多くは単純な柵の構造のものなど様々であったその中で、取り分け大きな箱型の館が有り、箱の形をした館から「箱館」と呼ばれるようになったのだそうで、明治以降に箱の字が現在の函に変わって行ったのだそうです。幕末に起きた函館戦争は、正式には箱舘戦争と書くのだそうです。
此処は、函館の郊外に在るトラピスト修道院で、男子のみの修道院だそうです。

最初は中に入れるものと思って行きましたが、事前予約が必要でしかも男性のみとの掲示板が有りました。そこで、門扉の間から修道院を撮りました。

 此処の修道院は、神に使えながら昼間は畑を耕したり酪農による乳製品を市場に出荷したりして生活しているのだそうですが、朝と夕方は礼拝と読書の毎日を送っている様です。

また、ご覧の通り修道院は綺麗に手入れが行き届いていて、門扉の手前に在る長い石段もゴミなどもなく掃除が行き届いていました。

此の日は松前に行く途中で、修道院の看板が有りましたので寄って見る事にしたのですが、函館本線の線路を渡ると程なくして修道院の尖塔が見えて来ました。
此処が松前藩が治めた城下町の松前です。この町は、北海道にしては本州の匂いのする町でしたが、やはりお城が有るからでしょう。

それにしても、以前は函館から松前まで鉄道が通っていましたが、線路が知内から青函トンネルへ直接入るに及んで、知内~松前間が廃線となり鉄橋だけが今も残っていました。

その点、江差へは江差線(知内~江差)が現在も通っていますが、かつては蝦夷地の中心であった松前だけが取り残されているように思いました。

松前の地名の由来はアイヌ語で、マッオマナイ(女の住む沢)で、和人の婦人が住む沢の意味だそうです。[マッ(mat)=女、それに対してピン(pin)=男]
しかし、それにしてはその松前の街は生き生きとしていて活気が有りました。

明治の前まではこの地が北海道で唯一の城下町で、しかも政治と文化の中心地であった事は事実で有り、そうした郷土への自負がこの街を支えているのかも知れません。
城内に武田氏の事が書かれて有りましたので、撮ったのがこの画像です。
処で、松前藩の15世紀頃の藩主であった武田信廣はアイヌ達の蜂起(コシャマインの戦い)で勝利した人物で、甲斐の武田氏と血がつながっているようです。

H21年度に受講した「甲斐源氏・・(生涯学習講座)」を基にネットで調べると以下の系譜に辿り着いた。(09.11.19追記)

1)甲斐源氏の系譜の中に、武田信繁(若狭武田)とその先に武田信廣(松前藩)及び武田元重(安芸武田)がいる(信廣は、蝦夷地でコシャマインの戦いに勝利し、蠣崎氏(松前)に召し抱えられて後に松前藩の初代藩主となった人物)

2)若狭武田(武田信繁)と松前藩主(武田信廣)と甲斐源氏の関係は、武田信武(甲斐源氏の祖である新羅三郎義光より10代目)で分かれる。又、武田信繁(若狭武田
氏)の数代後に武田信廣がいるが、更に信廣の従兄弟に武田元重(安芸武田)がいる。

3)以上の様に、甲斐源氏は途中(武田信武)で本家から全国へ散った各武田が、松前藩、若狭武田、安芸武田となって本流とは分かれて行った。
江差市役所の守衛さんに江差の見所をたずねると、かつての回船問屋である中村邸を教えてくれましたので行って見ましたが、やはり土曜日の夕方は受付に人がいないので仕方なく周囲を撮ったのが左の画像です。確かに、威風堂々としていてかつての繁栄ぶりを偲ばせています。

江差の地名は、アイヌ語でエサシ(昆布または突き出た岬)を音読みしたもので、
発音そのものだそうです。

また北海道には、江差の他にオホ-ツク海側に枝幸がありますが、江差と同じ意味なのでしょう。
江差は、民謡の江差追分が有名ですが街中では一度もその曲を聴きませんでした。

しかし、にしん街道の文字の通り、かつてはこの町もニシンで栄えたことでしょうし、
更に北前船の寄港でも栄えた町である事でもあり、小樽と共に往時を偲ばせる歴史のある町でした。
此の画像は、北海道で最後の夜を過ごした江差で浜に沈む夕陽を撮ったものですが、今回の旅は海上の天気が悪く良く見えなかっただけに、此の日の最後の夕陽は想い出として強く残っています。

しかし、今から考えると海の彼方に奥尻島が見えているはずですが、画像の中にはその島影は有りません。
江差で泊まった翌日は再び函館へ戻り、青函連絡船が出る前に函館の街を観て歩いた時の画像です。

最初に、北方民族資料館を観て、次にハイカラな洋物を扱った金森洋物店の2人の男性から函館が栄えた幕末から明治のころの話をたっぷりと聞くことが出来ました。
此処が函館市立公会堂ですが、明治の頃の鹿鳴館そっくりの建物で上流階級の人々の社交場であったことが判ります。

そして、此処では千円でドレスを貸し出していてそのドレスに着替えて館内ならどこでも写真を撮って良いそうで、かなりの年配の小母さん達(?)までが赤いドレスを着て嬉しそうに階段を上り下りしている光景を目にしました。

また、此の公会堂では昭和29年9月26日に起きた洞爺丸事件の海難審判が開かれた場所で、館内の壁に当時の審判の様子と共に事故の詳細が記されていました。

内容のご紹介
青函連絡船の洞爺丸(4,337トン)は乗員乗客1,314名を乗せて函館港を青森港に向けて出港直後に、台風15号の風雨に曝されてまだ湾内を航行中に風に流されて座礁、転覆し、1,155人の犠牲者を出したもので洞爺丸同様他の4隻の船の転覆を含めて30回の海難審判が此処の大広間で開かれたことを知りました。

海難事故ではタイタニック号の事故が有りますがタイタニック号の犠牲者は1,513人で、洞爺丸の事故はその次に大きな事故だったそうです。
10時半に函館市内を引き上げてフェリ-乗り場に来ましたが、左の画像は競走馬を輸送するトラックで10台以上が順番待ちをしていたでしょう。

それにしても、さすがに北海道は競走馬の産地であることを実感しました。
此の画像は乗船するフェリ-ですが青森から着いて接岸直前のフェリ-で、いやに海面が渦巻くと思ったらこのフェリ-はスクリュ-式ではなく海水をジェット水流にして噴き出して推進する船でした。

 船室が3階に有り、1階と2階は車を積むスペ-スで私の車も2階から乗って途中のスロ-プで1階に降りる仕組みになっていました。

しかも、ナッチャンReraと呼ぶ此の船は双胴型の高速船で、普通のフェリーの1.5倍の速度で航行します。
             フェリ-の仕様
総トン数 10,700トン
航行速度 36ノット(66.7km/h)
搭載能力 350台(乗用車換算)
定 員 774名
推進方式 ウォ-タ-ジェット推進機×4基
 いよいよ北海道とさよならして本州に戻る時が来ましたが、実はこの日の前日に東北地方に大きな地震が有ったことを妻からの連絡で知りました。

しかし、幸いに北海道の行程はすべて終わっていましたのであとは東北の被害状況を良く見て行動することにしました。

そして、いよいよ乗船し13時45分に出港、青森港へは15時45分に着きました。
函館のフェリ-ターミナルの画像ですが、良く見ると数人の警察官の姿が映っています。

これは、洞爺湖サミットの警備で下船してくる車を一台づつチェックをしているところでしたが、かなり厳重に車内を調べて居ました。
此の画像は船内を撮ったものですが、日曜日の精か乗客はかなり乗っていました。そして、船室は全て椅子席で指定されていましたが、かなりの人が自分の席には座らずに窓際に集まっていました。

 そして、船内には売店やエスカレ-タ-が有り、ちょっとしたビルを思わせる豪華なフェリ-でしたが、函館~青森を2時間で結ぶ高速船で通常のフェリ-は3時間掛るとのことでした。

しかし、新潟~苫小牧と、函館~青森の料金がどちらも2万円なのですが、料金は航行距離ではなく、運行経費から決まっていることが何となく判ります。
此の画像は、同じ型の船(ナッチャンWorld)が今春完成し、その船と一時間後にすれ違った時に撮ったものですが、津軽海峡の丁度真ん中辺りでしょうか。

私の乗ったナッチャンReraは昨年就航した高速フェリ-ですが、ほとんど揺れる事が無くまたエンジンの音と振動が全く有りませんでした。

それは、推進方式が海水をジェット水流にして後方に噴き出して進む最新式の船で、エンジンが無いために音と振動がないことが判りました。
此処からが青森に着いてその夜は浅虫温泉に泊まり、翌日行った奥入瀬渓流の画像です。

北海道の帰り道に、八甲田山と酢が湯温泉そして奥入瀬渓流を観たいと思っていましたが、八甲田山はロ-プウエ-の始発迄1時間以上待たねばならず登るのを諦めて、酢が湯温泉に立ち寄り山から湧き出ている水を汲んでお土産を買い、奥入瀬へ向かいました。
奥入瀬渓流の案内図ですが、十和田湖から流れ出る子の口(ねのくち)から14kmの間を奥入瀬渓流と呼ぶことが書かれて有りました。

そして、奥入瀬川に沿って走る道は時折り川を渡り流れが左右に変わりながら景色を楽しむことが出来るので、本当はゆっくり車を停めて歩きたかったのですが、先を急ぐ都合から車をゆっくり走らせながら流れ落ちる滝の所では車を停めて車内から写真を撮るなどして楽しみました。

いつか行こうと思っていた奥入瀬渓流に行けて本当に良かったと思っています。
此処は十和田湖畔ですが、3年前の時は雨と風で少しも良くありませんでしたが、此の日はよく晴れていて十和田湖をゆっくり眺める事が出来ました。
十和田インタ-に正午スレスレに入線して山梨へ向けて走りましたが、此処は初めて東北道を走った3年前に八幡平へ行くために降りた「鹿角八幡平」のインタ-チェンジの標識ですが、あまりに懐かしかったので幸いにして他の車が走っていない間に、
ゆっくり走行して車内からシャッタ-を押しました。
此処が、岩手山のサ-ビスエリアで休んだ時に撮った画像ですが、道路の向こうに岩手山が良く見えて居ました。

此のあと、一関辺りを走っていると、高速道路の上空を自衛隊のヘリコプタ-が編隊を組んで地震の被害地方向に飛んで行くのが見えましたので、途中で寄り道をせずに休み休みしながら一気に山梨へ帰ることに決めました。

そして、此の日は久し振りに911km走り、曜日が変わる少し前にようやく家に着きました。
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