・・・・・はあ・・・・・。
・・・・・気が重い・・・・・。

一哉くんは相変らず口数少ないし・・・っていうか段々と機嫌が悪くなっていくみたいだ。
それに・・・それに顔色が悪い。
毎日夜遅くまで、それこそ休日すらないくらい仕事仕事の日々だ。
帰りが遅くなってあたしにかまえない事については、文句を言わない約束だから言わないけれど、一哉くんの健康管理に問題があることについての文句を言う権利はあたしにもあると思う。
だって、あたしは誰よりも一哉くんを心配している恋人なんだから・・!
それに、あれからデイジーのあたしへの誘いが頻繁になってきたんだ。
断るのも気が引けるし、かといってそんなにそんな付き合う気にもなれないし・・・。
このことを一哉くんに相談もしたかったんだ。
デイジーを傷つけたくないし、一哉くんにも誤解をうけたくなかったから・・・。
でも、そんな話をする暇もないうちに、一哉くんの身体の心配のほうが大事になってきたんだ。
だから、また遅く帰ってきた一哉くんに我慢できなくてあたしは言ったんだ。

「一哉くん! 最近ずっと顔色が悪いよ。 少し休まなくちゃだめだよ!」

「別に体調に問題はない。それに、今は大事な時期だ。休んでいる暇はない」

「そんなこと言ったって、そのままでいたら倒れちゃうよ!」

「俺は倒れたりなんかしないぜ。さあ、もう俺は寝るから、静かにしてくれ・・・」

「・・・・・・・」

蒼い顔をしてこめかみを押さえながら一哉くんは寝室へと向かう。
足取りもいつもよりも重く感じる。
ああ・・・どうしよう、本当に心配だ。
せめてぐっすりと眠ってくれて、明日には少しでも元気になってくれればいいけれど・・・。
そんなことを考えていたので、あたしはなかなか眠れなかった。







・・・・・・疲れている。

さすがに自分でも体調が悪化しているのはわかっていた一哉だった。
しかし、むぎにも言った通り今は一哉の決済がなくては進まない大きな仕事が重なっている。
秘書からも、顔色がよくない、後はなんとかこちらでするから休め・・・と言われている。
しかし、完璧主義の一哉としては今の状況を他人に任せる気にはなれない。
それにそんなことをすれば、今現在このアメリカに滞在しているであろう大伯母の耳にまで話が届く。
自分のことだけならばいざ知らず、むぎにまで矛先を向けられてはたまらない。
それを避けるためにも、今自分が休むわけにはいかなかった。
ぐっすりと眠れればそれで少しは体力も回復するだろう・・・。
そう思いながらベッドに入る一哉であったが、人間というものは疲れすぎていると返って眠れないことが多い。
案の定、一哉も眠りたいのになかなかに眠れない状態であった・・・。

今までは感じたことが無かったのだが、今夜の自分のキングサイズのベッドがやたらと広く感じられる。
むぎが初めてここに来たときに一緒に眠った感触が蘇ってくる。
今、この時、むぎを抱いて眠ることが出来たのなら、自分はぐっすりと眠れるのではないだろうか・・・と、ふと考えが頭を過ぎった。
しかし、先日のデヴィッドの言葉も同時に頭の中を過ぎる。
自分が日本へ帰れと言ったことが、まるで足手まといだと言っているように思われているかもしれないと言う事。
訂正しようにもそれをむぎに確認すること自体が怖い。
日本にいた時も一時期、むぎに対して素っ気なく接していたことがある。
それもむぎに誤解されているのではないか、嫌われてしまうのではないかという恐怖にも似た気持ちから出た態度であった。
今まで他人に振り回されることなどなかった自分が、初めて年下の少女に振り回されている。
完璧と言われ続けてきた、御堂一哉の唯一の弱点。
そんな自分がいたということにある種の感動を覚え、そして好きになった自分。
しかし、そんな自分を理解したつもりであってもまた同じことを繰り返す・・。

「・・・・進歩がないといつもあいつに言っていたが、一番進歩がないのはこの俺だな・・・」

ふと、一哉はそう呟きながらベッドから起き出した。
少しふらつく。
どうやら、微熱があるようだ・・・。
バスローブをまとって寝室を出る。
一哉もむぎも夜の自然な明かりが好きなのは共通していて夜用カーテンを閉めないので、窓から蒼い明かりが入り込んでいて電灯を点けずとも歩くのには困らない。
蒼く美しく照らし出されているリビングを抜けて台所へと入る。
喉が渇いたので何か飲み物をと思い、冷蔵庫を開ける。
むぎが来る前はほとんどからっぽだった冷蔵庫の中だったが、今はいろいろな食品で溢れている。

「また随分と買い込んであるな・・・」

苦笑いをしながら、ジュースのパックを取り出す。
この食料品を買うの一つにしても、英語が苦手なむぎがどれほど苦労して買い込んできたか想像がつく。
努力などしたことがない一哉にとっては、むぎのその直向さにはいつも感動させられている。

側にある小さな食器棚からコップを取り出す。
パックから液体を注ぐ。
薄明かりの中なので何色の液体なのかはわからない。
パックにはGrapeと書いてあったから、きっとグレープジュースなのだろう。
そんなことを考えながら一哉はそれを一気に飲み干した。

「ふーーー」

喉がいくらか潤ったことで、熱っている身体がいくぶん冷めてきた気がした。
飲みおえたコップをシンクに置いたところで背後から声がした。

「・・・・一哉・・・くん?」

「ああ・・・お前か」

「・・・どうしたの? お腹でも空いたならなんか作るよ?」

「いや。ただ喉が渇いたから飲みに来ただけだ」

「・・そう。ジュースならオレンジとグレープと冷蔵庫にあるよ」

「ああ・・・もう飲んだ」

「・・・そう」

何気に気まずい雰囲気が電灯もつけない薄明かりの台所に充満していた。

「お前も喉でも渇いたのか?」

「あ・・・うん」

「そうか・・・・なら、俺は戻るぜ」

「う・・・・うん」

そう心にもないことを言って、一哉はむぎの横を通り過ぎた。
・・・が、ふと振り向くとむぎの背中越しに声をかけた。

「・・・・むぎ」

「え?」

驚いたようにむぎは振り向く。

「俺の・・・・・・・・」

「・・・・?」

「・・・・いや、なんでもない。・・・・おやすみ」

「・・・・一哉くん?」

呆然と見送っているであろうむぎを背後に感じながら、一哉は寝室へと戻る。

『・・・・・・俺の部屋に来ないか?』

そう言うつもりだった。
言っても構わないだろう。自分とむぎは恋人同士なのだから・・・。
松本でも、ここに最初に来た夜も一緒に眠ってはいる。
ただ、なにもなかっただけで・・・。
自分はいつでもむぎを抱きしめて眠りたかった。
きっとそう言えば、むぎは拒むことはなかったかもしれなかった。
しかし、あの怯えたような瞳で自分を見られては、とてもそういう気持ちにはなれなかった。
いつの日か自然とそういうことになればいいと思っていた。
おそらく、今言ったとしてもあの怯えたような瞳をされるだろう、いや、もっと悪いことに疑いの瞳で自分を見るかもしれない。
そんな顔を見ながらむぎを抱きたくはなかった。

「ふーーー」

一哉は再びベッドへと潜り込むと、大きく息を吐いた。
そして、眠れないとわかっていながらも目を閉じていた。












翌朝の一哉の顔色は良くなるどころかますます蒼かった。
むぎは黙っていられず、再び一哉に進言する。

「ねぇ、やっぱ顔色悪いよ? お医者さんに行ったほうが良くない?」

今朝はさすがに食欲が無く、コーヒーだけを飲みながら一哉は答える。

「大丈夫だと言っただろ? それに今日は大事な会議があるんだ。医者に行っている暇などない」

「・・・だって! 倒れちゃったら大変じゃない? ちゃんとお医者さんに行って診てもらわなくちゃ。それからでも仕事は出来るでしょ?」

ガチャン!
食器が乱暴に触れ合う音にむぎは一瞬、ビクッとした。
一哉がカップを置いた音であった。

「・・・平気だと言っているだろう。しつこいぞ・・・お前」

「・・・一哉くん」

こんな言い方をするつもりはなかった。
むぎのこんな顔を見たくないからこそ日本へ帰れと言ったはずなのに、今、自分の言葉でこんな顔をさせてしまっている。一哉の自責の念はますます彼に気持ちとは反対な言葉を語らせていく。

「ここに来ても俺はお前に構えないとわかってて、お前は来たんだろう? だから俺は危なっかしいお前の面倒をデヴィッドに依頼した。毎日、デヴィッドに誘われているんだろう? 俺になど構わなくていいからお前は出かけてくればいい。まだまだアメリカで経験するべきこともあるだろう」

「そんなことはわかってるよ! だから今までだって文句言ったことないじゃない!? でも、今の状態の一哉くんをほっといて出かけるなんて、出来るわけないじゃない!!」

「俺は今までお前がいなくてもこういう生活をここでしてきたんだ。何も動じることもない」

「・・・・それじゃあ、あたしが来たからそんなふうに具合が悪くなったわけ?」

「・・・そんなことは言っていない。第一、俺は平気だと言っているだろう?」

「そんなわけないじゃない! そんな今にも倒れそうな顔してて・・・」

「何度も言わせるな。自分の身体は自分がよく知っている。さあ、俺はそろそろ出かけるぞ」

そう言って席を立った一哉と一緒に席を立ちながら、むぎは肩を震わせる。

「・・・・一哉くんってば、あたしが他の男の子としょっちゅう出かけてても気にしないんだ」

「デヴィッドには俺からお前の面倒を見てくれと頼んだんだ。何故そんなお前たちを気にしなくてはいけないんだ?」

「・・・そんなに仕事が大事なんだ。あたしが他の男の子と仲良くしてても気にならないほど・・・。そう・・・わかったよ。やっぱデイジーが言ったとおり、一哉くんはあたしがここにいると大伯母さまや親戚の人達からいろいろと言われて仕事に差しさわりがあると困るから、あたしに帰れって言ったんだね」

「・・・・なに?」

「・・・あたしは・・・きっと一哉くんは、あたしに構ってやれないって自分の事責めてて・・・。あたしが一哉くんの周りの人たちにいろいろと言われて、つらい思いしているのを助ける暇もないから・・・だから、帰れって・・・。一哉くんは誰よりも優しいから、そんなつらい思いをあたしにさせたくなくて・・・だから、帰れって言ってくれていると思っていたのに・・・」

むぎの大きな瞳からポロポロと涙が零れ落ちていく。

「・・・・むぎ」

思わず一哉がむぎの側に近寄ろうとした時、むぎはテーブルの上に置いてあった何かを取る。

「もういい!! あたし、日本に帰るから!!!」

「一哉くんの馬鹿!!!」

ガツッ!!

一哉の左胸に衝撃が走り、一哉は思わず蹲る。

バタン!

むぎはそのまま大きな音を立ててホテルの部屋から出て行った。
一哉は追いかけようとしたが、胸への衝撃が激しくて暫く動けなかった。

ようやくと動けるようになったが、まだ胸の痛みは取れない。
どうやらむぎが一哉に何かを投げつけたらしい・・・。

「・・・・あの馬鹿、思いっきり投げつけたな・・・つっ」

投げつけられた物が側に落ちていた。
それはむぎの携帯電話であった。

「あいつ・・・俺を殺すきか?・・・まあ、顎に当たらなかっただけましか・・・」

一哉は携帯を拾い上げた。
その携帯はむぎが日本で使っているものではなく、こちらに着いてから何かのためにと一哉が渡しておいた携帯である。
これを置いていっては、なにかあっても簡単には連絡がつかないだろう。

「・・・・まったく」

そう思ったときに、一哉の携帯のほうが鳴った。
秘書からだった。
すでにホテルの下に車が来ている。

「・・・仕方が無い」

日本に帰るとは言っても、荷物も金も持たずに出て行って帰れるはずはない。
暫くすれば落ち着いて帰ってくるだろうことを信じながら、一哉は仕事に向かった。




しかし、一哉は落ち着かない。
一時間事にホテルへと電話を入れてみる。
まだむぎは帰ってきていないらしい。
すでに、昼を過ぎた。

「・・・どこをほっつき歩いているんだ・・・あいつは・・・」

そう呟く。
今すぐに捜しに行きたい衝動に駆られるが、午後から大事な会議がある。
夕方まではかかるだろう・・・・。

「・・・社長。そろそろおいで頂かないと・・・」

「・・・わかっている。五分ほど待たせておけ」

「・・・はっ」

一哉は暫く考えていたが、やがて自分の携帯を取り出した。


「・・・・・・ああ、デヴィッドか。俺だ」

『やあ、一哉。暫くだったけど、元気・・・ないみたいだね?』

一哉の声の調子でデヴィッドは何かを感じたようだ。

「・・・ああ。さすがに察しがいいな。君に頼みばかりで悪いが、また力を貸してほしい」

『・・・むぎのことか?』

デヴィッドの声の調子も変わる。

「・・ああ。今朝、ホテルを出て行ってからまだ帰ってきていない。俺はこれからどうしても抜けられない会議に出なければならない。頼む、心当たりを捜してくれないか?」

『・・・・OK。詳しいことは見つかってから聞くよ』

「ああ、頼む。夕方には合流できるようにする・・」

『OK。なにかわかったらすぐに連絡する』

そこで電話は切れた。
先日デヴィッドとはあんなことがあったばかりだが、さすがは昔からの旧友。
すぐにこちらの気持ちを察して協力してくれることに感謝していた。
しかし、ふと今朝のむぎの言葉を思い出すと、デヴィッドにある種の疑問が浮かんでくる。
むぎとデヴィッドの言っていることに矛盾が生じたためだ。
デヴィッドが一哉にああいった自分の感情を言った以上、こういった矛盾が生じるのもある意味仕方ないのかもしれない。
だが、昔からの旧友にこういった部分があるのを一哉は今更に知ったのだった。
とりあえず、デヴィッドに夕方までむぎのことを頼むことにして、一哉は会議室へと向かった。


しかし、夕方までにデヴィッドから連絡が入ることはなかった。
外はそろそろ暗くなり始めている。
やっと会議が終わり、一哉はすぐにデヴィッドに電話をかけた。

「・・・俺だ。どうだった?」

『ああ・・一哉。連絡できなくてごめん。二人で行った場所やらスーパーにも行って見たけど見つからなかった。取り合えず店員に見かけたら連絡をくれるように頼んでおいた』

「ああ・・助かる。それで、今どこにいるんだ」

『ここまでは来ないとは思うけど、念のため美術館まで来てその周辺を捜していたところ。これからまたそっちに戻るよ』

「そうか。それじゃ、マンハッタン・カフェの前で待ち合わせよう。今から俺も行く」

『OK。それじゃ、また』

一哉はスーツの上にコートを羽織ってオフィスを出た。
秘書が慌てて追いかけて来た。

「社長・・・この後重役たちとの会食の予定がございますが・・・」

「俺は体調が悪い。欠席するから後は宜しく頼むと言っておいてくれ・・」

「は・・・・はい。かしこまりました」

一哉からこういった言葉が出ることはめったになかったのだろう。秘書はすんなりとその言葉を受け入れていた。
実際、一哉の体調は最悪だ。
昨夜までは微熱であったが、今は更に身体が熱くなった気がしている一哉であった。

(・・・・お前、俺が心配だなんて言いながら俺をぶっ倒れさせる気かよ。お前に何かあったら、俺は倒れるだけじゃすまないんだぞ・・・わかってるのか・・・)

ビルの外に出る。
冷たい風が一哉の熱くなっている身体を吹き抜けていく。
むぎはセーターを着ていたとはいえ、コートは羽織っていなかった。
アメリカの夜はこれからどんどんと冷えていく。
むぎはどこでどうしているのか・・・。
一哉の心配は次から次へと浮かんでいく。

一哉の専用車に乗り込む。
待ち合わせ場所まではそれほど遠くはない。
車窓からむぎを捜し続けながら、むぎに語りかけるように呟く。

「どこの世界に自分の恋人が他の男と出かけることを喜ぶやつがいるんだよ。松本で俺が言ったことをお前は全然覚えてないんだな・・・」

「どこの世界に自分の恋人が国を越えて逢いにきてくれて喜ばないやつがいるんだよ。誰よりもお前を離したくないと思っているのはこの俺なんだぜ・・」

「・・・馬鹿むぎ」

マンハッタン・カフェの前で車は停まった。
一哉が車から降りて、そのまま車は走り去る。

「・・・・いや、一番の馬鹿は俺だろうな・・・」

そう最後に呟きながら、一哉は店に向かって歩き出した。






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第八話 「消えた赤い蝶」