【 人形の夢7 】

《無事調査も終了、帰投する》
 青年からの通信は其れだけだった、姿の見えない文章での報告。
 ここのところ数時間おきに通信が入っていなかったかどうかなどのチェックを怠らずにいた男は盛大な溜息をついた。
…否、その気持ちも分からなくはないな、と苦笑して。
(早く、帰ってきてくれ)
 一昨日の晩に起きた“発作”を見てから己の胸中に渦巻くもの。
 早く此を取り除いてしまわなければ、平常心を保つのが難しくなってくる―――あの男の前で。
「……」
 引きずられるな、と何度言い聞かせても同じ事。
 分かってしまうのだ。
 何処かで通じている。
 剰りにも大切で愛しい存在を喪った運命への慟哭に。
 あの瞬間、己が心は同調した。
「……」
 眉根を寄せて書斎の窓から外を眺めた。
 天気は快晴。
 我が心中とは裏腹に。

 青年が帰ってくると連絡した日。
 ゼンガーはウォーダンに森へ或る薬草を取りに行って欲しいと頼んだ。

「薬草?」
「正確に言えば、草では無く実だな」
「…?」
 どんな場所に生えているのか、どんな色なのか等々が書かれたメモにはご丁寧な事に写真まで付いている。
 リビングで本を読むのにも飽きたのか、椅子を窓の縁へと寄せていた男は差し出されたメモに目を落としたが、
また直ぐに視線を上げた。
「お前には普通の解熱剤等の薬が、強めでなければ効かんのだ。
…最初にお前を拾った時に手当をしようとして気付いた事だが」
「ふむ…」
 確かにそう言われれば。
 飲めと言われて渡された薬がやたらと苦かった覚えがある。
 “良薬は口に苦し”と言うものだ、等と誤魔化されたと思っていたのだが―――
どうやらあれは己専用に調合されたからこその味だったのかも知れない。
「大分回復したとは言え、病み上がりだ。念のためにも予備は必要だろう、行ってきてくれ」
「…病み上がりの人間にか?」
 尤もな疑問に依頼者は溜息をつく。
 揶揄めいた隻眼の男の言葉に、同じ様な声音で。
「…ならば訂正しよう…起きてすぐに茶碗飯3杯も食う人間に行ってきて貰いたいのだが?」
「!」
 再度告げられた言葉に、今度は理解を示した様子が薄銀の瞳が笑う。
 此で実はもう一杯欲しかったが我慢していた、と言えば一体どんな顔をされるのか。
 屋敷へ来てからの殆どの時間を眠って過ごし、
ベッドに居ろと言われている間は主食がお粥だったのだから仕方がないと言えば仕方がないのか。
「準備運動、とまではいかなくとも身体を動かす事にはなるか」
「そう言う事だ」
 承知した、と短い返答後。
 薬草籠と厚手の服に手袋、と外出用の装備を調えた上で出かけていく男の姿を眺める。
 心配の色を隠せずにいた銀の瞳を感じたのか、玄関で振り向き様に告げられた。
『そんな顔をするな、俺は幼児か』
『…気を付けろ』
『絶海の孤島に何を気を付けるものがあるかは知らんが…野獣にでも会わぬ様気を付けよう』
『そうしてくれ』
 そうやって。
 戯けた言葉を幾ら聞こうとも。
 胸中に抱く不安は消えない。
「……許せ…」
 微かな呟きが漏れ出る。
 頼んだ薬草は確かに強力な解熱剤にも成り得るし、あの男にも使った。
 だがまだ予備の量としては十分に残っており、余程酷い症状でなければ
――己も彼も大抵の抗生物質で治るが故に――無くなる事はない。
 強めの調合でなければいけないのは真実なのだとしても。
 偽りを述べてまで、男を外へ行かせた理由。
 其れは。
(お前と彼奴を逢わせてはいけない…そんな予感がするのだ…)
 黒き海の箱舟より。
 責務により此処を離れざるを得なかった彼が、帰ってくると。
 其の彼と、彼の男とを引き合わせれば。
 何かが?
「……」
 己が胸中に蠢く想いの正体が“焦燥”と呼ばれる類のものであると気付かないのは何故か。
 盲目に過ぎる、まるで突如見知らぬ世界に放り込まれたかの様に。
(エルザム、お前の事になると…時折……)
 俺が俺では無くなりそうだ、等と笑って。
 壁の時計を見遣る。
 青年からの連絡通りの時刻であれば、後15分もしないうちに到着予定だ。
 久しぶりに戸外へ出かける事の出来た男が、10分程で帰ってくる事も無いだろう。
 そう見込んで男を森へ行かせたのだ。
 小島と言っても歩けば半日以上は掛かる大きさの島である。
 凡そ其の半分が表立っては目に見えない研究施設や格納庫など、緊急事態に備えて改造されてはいる。
 外見上は何ら海洋に浮かぶ小島と変わりはない。
 目視出来るのは森やこの屋敷ぐらいなもの。
 それだけの時間があれば何らかの手段を考える事が出来ようか、と――どちらかと言えば甘い――判断をした。
「…?」
 不意に空気の流れが変わった様な感覚に囚われる。
 自然と足は玄関へと向かい。
 疾うに見慣れた筈の人物の容貌に言い様の無い懐かしさが。
 男は心底安堵の表情を浮かべ、告げた。
「―――お帰り、エルザム」

***

「…本当に君は淡泊というか執着しないというのか……」
「何?」
 リビングに温かいコーヒーの湯気が立ち上り、カップを手に取った青年が開口一番に言ったのは其れだった。
 言葉に含まれている刺々しさを感じ取って男は尋ね返す。
 何故か責められている様な気分に陥る、心当たりが無いと思うのは己だけか。
 緩くウェーブのかかった金糸が心なしか乱れている様にも感じ。
 翠玉の瞳には他人には分からぬであろう疲労の色。
 ならば一刻も早く此方の要件をすまして青年には休んで貰うべきだと、考え始めた瞬間。
「……一体、どれだけ」
 青年は立ち上がりテーブルを挟んだ向かい側の男に急接近して囁く。
「心配したと思っている…!」
 陶器が微かに鳴った。
 青年が勢いよくテーブルに手を付いた衝撃で。
 僅かな怒りの色を声に滲ませながら、静かに青年は言う。
 真っ正面からぶつけられた強い感情に思わずたじろぐ男を更に青年が追いつめ。
 背中にソファーを感じているのも嘘ではないのだ。
 背筋に流れたのは冷や汗か。
「少しは自覚を持ってくれなければ、困るのだ」
「……、エ」
「私がどれだけ歯痒い思いをしたのか…君に知って貰おうか?」
 其の言葉を聞き、男は身構える。
 付き合いの長さからすればこんな時には―――。
「「!!」」
 極微少ではあるが、しかし強烈な気配が入ってきた事に青年も男も動きを止めた。
 一刻の猶予も無い程の緊迫感。
 戦場で技量の量れぬ相手と対峙した時と酷似している其れ。
 大きく見開いた瞳で玄関の方向を睨み付け、唇だけで音を紡ぐ。
「早すぎる…!!」
「…まさか」
 唯ならぬ相手の気配に青年も厳しい光を瞳に宿し、次の行動を待った。
 だが想像はついている。
 恐らく。
「彼、なのか」
「間違いないだろう…だが」
「確かめてこよう」
「! お前は…此処で待っていてくれ―――頼む」
 気迫めいた雰囲気でそれでも尚懇願の言葉を口に乗せる。
 銀の瞳を翠玉の瞳が見つめ返す。
 青年の軽い頷きを合図に男は立ち上がり、玄関へと歩み始めた。
 しかし戸惑いがある。
 どうしてこんなにも早くに?
 どうしてこんな気配を纏って。
 分かっているだろうに口にはしたくない恐怖が、確かな現実となって現れていた。

***

 枝に葉の無い木々よりも、尚一層暗い影を落とす木々の方が多い森の中。
 昼間だというのに生い茂る草木が微かな太陽光を遮り、視界を濃緑に染めていた。
(―――――?)
 突然隻眼の男は立ち止まり、辺りを見回す。
 気配を探るが、それでも先程と何ら大きく変化した様子はない。
 だが。
 肌の表面が、感覚の全てが。
(違う……)
 世界が変化したのだと知らせている。
 何故かは分からない。
 何が原因かも知らない。
 しかし確実に世界は変わってしまったのだ。
 己にとって。
「! …う…」
 ぐらり、と身体が大きく揺れて視界が一瞬霞み、こめかみよりも更に奥、頭痛が男を襲う。
 地面に片膝を付き、姿勢を保つが果たしていつまでか。
 辛うじて、倒れずに居られるという程度。
 このままではきっと。
「…っ」
 強くなったり、弱くなったりを繰り返しながら、頭痛は男を嬲り続ける。
 左手で額を抑え、少しでも軽減しようと試みながら。
 しかし。
(帰ら、な…れば……)
 そう考えるよりも早く、足は先に動いていた。
 ゆっくり辿々しい足取りで森の出口へと向かう。
 途中、籠を落とした事さえ気付かずに、歩く。
 必死で帰ろうとする―――彼の屋敷へ。
 この時、微かに鼻孔をくすぐる香りがある事に、男は気付かなかった。
 潮風に紛れて、もう一人の主の帰りを告げる其れに。
 遠き海原より黒の箱舟は或る人物の帰投を知らせる。
 否、気付けなかったのかも知れない。
 それとも。
 逆に、気付いたからこそ?
 男はぼんやりとした思考の向こう側に誰か見知った人影を思い出していた。
 其れは屋敷に居る筈の男では無く。
 長い金糸の髪を背中に流し、優雅に微笑する青年の姿。
(―――誰、だ……お前は…?)
 白濁とした意識の中で其の人物に手を伸ばそうとして、男は名を呼んだ。
 俺はお前を知っているのだろう。
『君が私を知っているのと同じだよ、ゼンガー』
 其の人物は今の名前と違う名を、己に向けて呼びかけた。
 絶えず笑いながら。
 穏やかな声。
 でもずっと前から知っていた様な響き。
 会いたかった。
 ずっと。
 希求するは唯一つ。
「―――」
 重い瞼と度重なる頭痛に耐えかね、遂にその場に倒れ込む。
 声にならず、口だけが動き。
 助けを求める。
(ゼン、…)
 屋敷に居る男へ向かって伸ばされた手は、力無くその場に下ろされた。

***

 ゆっくりと開かれたドアの前に、俯き加減の男が立つ。
 慎重に歩を進めるが、迫る気配が明らかに別世界を創り出している。
 他を寄せ付けず、圧倒させようとする重厚で澱んだ空気。
 昼の穏やかな平安を打ち破る者。
 一足飛びで相手の懐へ飛び込む事の出来る、位置まで来た時。
「ふ……」
 歪んだ唇から微かな空気が漏れ出る。
 ゼンガーは一気に間合いを詰めようとして失敗した。
 口元に不敵な笑みを浮かべた男が顔を上げて、真っ直ぐに怜悧な刃物を思わせる薄い銀の瞳で此方を捉え。
 光の宿らない、双眸。
 喪った筈の左目が大きな闇への口を開けて、此方を睨んでいた。
 開かれる事の無い両眼が射抜く。
「―――っ!!」
「…久しいな、ゼンガー・ゾンボルト…」
 ほんの1時間程前の人物とは同じと思えない低く高圧的な声音。
 だが左目にある引き連れた疵痕は同じ。
 服装も己が準備したもの。
 理解している、分かっていた筈だ。
「…ウォーダン…ウォーダン・ユミル…っ!」
「くくっ…」
 あの夜以来畏れていた事。
 嘲弄の形に唇を歪めたまま、男は一歩ずつ近付いてくる。
 挑発的で酷く力強い其の視線を受けながらも一歩も引く訳にはいかなかった。
 が。
 胸部に突如、鈍い痛み。
 一瞬、視界が白くなって消えてしまった。
「…か、は…っ」
「弱くなったな、ゼンガー」
 突如間合いを詰められた男により、胸に拳を叩き込まれ、意識が薄れてゆく。
 霞む視界に辛うじて立っている状態だが、倒れてしまう訳にはいかない。
 其れを嘲笑う様に、尚も男は顎を片手で掴むと、そのまま床へと叩き伏せた。
「ぐ…ぅっ!?」
「何だ? 面白くない。俺の魂を震わせた、あのお前は何処へ行った―――――?」
「…っ…」
 其れはまるで悲しみに充ちた言葉。
 一方で呆れた様にも聞こえる男の呟き。
 瞳には一切の感情が見えない。
 じわりと侵蝕される様な夜が待っているだけ。
 ただし、焦点が合わないままでも分かる事は唯一つ。
 今此の男の中に在るのは、光り無き混沌の闇。
(ウォーダン…っ!!)
 己が今まで見てきた“彼”の姿へと立ち戻らせるべく。
 ―――信頼を供したお前に戻らせる為にも…!
 床に仰向けになった状態から、どうにか腕を動かし男の手を払い除けようと。
 立ち上がろうとした、其の行動を。
 読まれた。
「無駄な、事を…」
 片方を足で片方を膝で押さえ込まれる。
 骨が、軋んだ。
「ぐああっ…!」
「本当に、お前は―――」
 そう言って頬に添えられた左手が緩やかに首筋へ降りる。
 慈悲めいた微笑を、男が浮かべた時。
「彼を離して頂こう」
 男の額に冷たい銃口が突き付けられた。
 認知領域外の、第三の気配。
 明らかな殺気を伴う、最後の人物。
「なに…?」
「エル…ッ」
 突如現れた第三の人物――少なくとも男にとっては今目の前に伏している人物しか頭に無かった――に驚く。
 瞳を細めて振り向き、青年の姿を見つめたものの、青年は怯む事無く鋭い視線を男に向けている。
 金糸に揺れる長い髪、深い森を顕した翠玉の瞳。
 己が足蹴にする人物を助けようとする、敵の援軍として。
 王侯貴族を思わせる一種傲慢な響きで青年は告げた。
「退け、ウォーダン・ユミルよ…!」
「貴様…。―――っ!?」
 一触即発状態の均衡が、不意に男によって破られ。
 そして何故か。
 男は青年の姿を薄銀の瞳に捉えたまま、唇を震わせた。
 嘲りや愉悦の色から、困惑と戸惑い、躊躇いの色が男の表情を変えていく。
「お前…お前、が…どうし……何故…」
 突然しどろもどろに意味の繋がらない言葉を喋り始めた男の瞳は、明らかに動揺の色をしている。
 次に零れた其れが、今度は青年の表情を変えさせた。
 男は脳裡に刹那閃いた、或る名を呼ぶ。
「エルザム…ッ…!!」
「!?」
 まるで吸い寄せられる様に伸ばされた手を、青年は見開いた目で見つめていた。
 男の体重が移動した瞬間、素早く身体を起こしたゼンガーが手刀を相手の首、真後ろへと叩き込むまで。
「―――っ……」
 小さな呻きを漏らし、男は倒れ込む。
 伸ばされた手は又しても力無く床へと落ち。
 其の頬に流れていたのは透明の雫。
 二人は暫しの間、視線を交わしていた。

***

 久遠の彼方より蘇るは、懐旧の情に埋もれた、恋慕の記憶。

『私が傍に居るから、君は安心して眠り給え』
 美しい人がそう言った。
 優しい声。
 穏やかな瞳。
 何故、どうして、俺を?
 問うてみたかった。
 ずっと気になっていた事を。
『―――眠いのでは無かったのか?』
『…お前が居ては、逆に眠れん…』
 一度たりとして実行に出来た試しは無かったけれど。
 それでも聞きたかった。
 お前に。
 尋ねておきたかった。
『異な事を』
 くつくつと音をたてて笑う、其の仕草でさえ。
 優雅に思えて。
 背中に流れる長く、少しウェーブの掛かった金の髪。
 深い森を思わせる翠玉の眼。
 軍人にしては細いしなやかな指先。
 人の機微を察し。
 振る舞いは何処か時代が掛かった様で居て、洗練された貴族の其れと同じ。
 大地を愛し、地球を想い。
 変わりゆく四季に情趣を介する。
『こんな雨の日だからこそ』
『…だからこそ?』
 少しの間を開けて、耳を澄まし。
 天より降る水と、その跳ね返る音に心を遊ばせる。
 伏せられた瞼の奥で、想っているのだろう。
 ふと。
『楽しめる事もあるのだ、ゼンガー』
 我が友―――と、呼ぶのでは無く。
 己が名に親しみを込めて口にした。
 軽く、いとも容易く此の心は。
 強く揺さぶられるというのに。
『……そう、か…』
『そうだとも』
 遠くに思いを馳せた瞳が何を、否、誰を想っているのかを知っている。

 恋い焦がれる、君に。
 求め流離う、想いを。
 願う事を罪とも呼ぶ。

***

「…そんな事が私の留守中に……」
 あの夜に起こった出来事を話し終えると、青年はそう呟く。
 驚きに充ちた表情が、徐々に思案深い顔へと変わり。
 沈黙が二人の間に降りる。
 男は深い溜息をつく。
「本人に覚えは全く無い…奴に…問い質した所で無駄だ」
「……ゼンガー」
「俺は彼奴を知ってしまった、彼奴も俺を知ってしまった。互いを認めて普通に会話を、した」
「……」
 青年が切り出そうとした話の内容を知っているからこそ、先手を打った。
 先に言っておきたい事がある。
 知って欲しいのだ、此の想いを。
 本来であれば気付かずにすんだ鏡の中に居た、もう一人の自分。
 触れられる距離にありながら何と遠く、近い存在。
 あの時に感じた己が想いを。
(どうすればいい? 俺は彼奴に―――――)
 青年の瞳は暗く、其れと酷似した悲しさが男の瞳の中にも有る。
 静かに淡々と男は喋り。
 言葉を遮った理由を唯の一言では表せないもどかしさが示し。
 斯うして言葉にして漸く最後に、知る事が出来るのだ―――己は一体どうしたいのかと。
(お前の言いたい事も分かる、だが)
「エルザム、不思議だろう…人間ではないのにまるで人間の様に、ああやって感情を示した事が」
「……ああ」
 脳裡で倒れて行く男の瞳に何処か嬉しそうな、悲しそうな色をした雫があった事を思い出す。
 長い間離れていた親子が出逢ったときのような複雑な感情。
 少なくとも機械が一朝一夕に出来る類のものでは無い。
「俺は戸惑うしかなかった。幼子の様にあどけない純粋な瞳が、俺を惑わせる。
分からんのだ、どうしたら良かったのか…! 此処は戦場では無い、彼奴は彼奴であって彼奴ではない。
俺達の知らない、だが俺は彼奴を知っているのだ、確かに」
 普段より饒舌な口調でまくし立てる男の様子を、青年は黙って見、そして言葉を聞いていた。
「はっきり分かった、先程の様子を見れば十分だろう? 彼奴は確かにもう一人の『俺』だ、お前を喪い、
更に戦場でしか死ぬ事を許されぬ『俺』なのだ…!! エルザム…っ…」

(例え彼奴の中に“ウォーダン・ユミル”という恐るべき可能性が秘められていたとしても)

 もう一つの可能性。
 考えたくなかった現実。
 直視せざるを得ない、己自身。
「ゼンガー…」
 男は青年の腕の中へ倒れ込んだ。
 強い意志で折れぬ剣たる輝きを宿すいつもの瞳では無く。
 戸惑い躊躇い何かに怯える者の目。
 其れは銀の瞳に浮かぶ零れそうな程の水が。
「俺は嫌だ、無理だ…ッ…どんなにお前に頼まれようとも、お前が直接手を下そうとも―――」
「!!」
 深緑の瞳が見開かれる。
 図星だった。
 相談はしようと思っていたが、より正確に彼は自身の決意を見抜いていた。
 最悪の事態を防ぐ為に、どんなに辛くともその可能性は。
 ―――消しておくべきだ。
(もしも…本当に、真に、君が嫌だと答えた時は私自身で終わりを決める)
 そう、考えていたのに。
 此方では悪夢と呼ぶべき現実。
 向こうでは確かに起こった過去の事実。
 ねじ曲げられた運命が交錯し、今此処に存在している其れ。
 男の手が青年の胸を叩いた、弱く、小さく。
「知っている、俺には分かっている…彼奴の孤独も悲しみも虚しさも寂しさも…
お前をどれだけ想っていたのかでさえも!!」
「…ッ、ゼンガー―――!」
「……エルザム、お前が好きだ…お前だけが、お前の存在が……」
 縋り付く手は強く肩を揺さぶり、訴える。
 激烈な同調。
 同じ者であるが故に。
 違う者であるが故に。
 間違いなく男が感じている事は正しく、だが其れは青年にとって複雑な忌避すべきもの。
「好きだ……」
「……」
 ―――君は信じているのか、彼を…!?
 信じられる、と言うのか。
 恐ろしい程の直感だった。
 限り無く深い。
 彼を、彼の男を受け容れるのであればどうなるか分かっているだろうに。
 似て非なる存在を自らの側に置く事が。
 どれ程に。
 久しく見る事の無かった、男の泣き崩れる…否…此の場合は何と呼ぶのだろう。
 分かる事は唯一つ。
「……」
「……」
 嵐の様な不安と混乱。
 深く激しい同調。
 感情と記憶がもたらした繋がり。
「ゼンガー…?」
「な、に…ぅ……っ!?」
 青年は漸く探り当てた睡眠薬を口に含ませたまま、男に口付けた。
 当然男も其れに気付いて抵抗しようとしたのだが許す事無く。
 唇から一筋雫が首筋を伝わり。
「…君に必要なのは、安静だ」
「エ…、ザ…」
「……おやすみ」
 何かを言いたそうな瞳をしていた男は降りてきた瞼によって視界を遮られ、
リビングはほんの数時間前と同じ様な静けさを取り戻した。
 膝に男の頭を抱え、癖の強い銀の髪を撫でながら、青年は呟く。
「…大丈夫だ…ゼンガー」
 と。
 目覚めれば君もいつもの君に戻っている事を願う。
 朝が来れば心が自然と澄んでいくから。
(本当に其れで良いのか、そう在る事を望むのか―――…?)
 もし君がそのように。
 望むのであれば。
 願うのであれば。
 決して反故にはしないから。

***

 其の翌日。
 ゆっくりと重い瞼を持ち上げて、男は目を覚ました。
「…う…」
 いつの間にか己がベッドに寝ている事に気付き。
 時計を見れば薄暮の時刻。
 カーテンの向こうでは未だ日も昇りきっては居ない―――と。
「!?」
 つい訳もなく慌ててしまったのは隣にいた人物の所為だろうと勝手に言い訳がましい事を考えた。
 呼吸に合わせて上下する身体と、寝ていても端正な横顔を。
 ぼんやりと眺めている。
 玄関で会い、窮地を助けられ、そして?
 少しずつ蘇ってきた昨晩の記憶に男の顔は固まっていく。
「……」
 己に似合わぬ振る舞いをしたと、男は頬をかいた。
 照れ臭い、と素直に表現出来ない頑迷さを持つが故に。
 其れに、驚いているのはこの微睡む青年だけではなく、己自身も含んでいるのだ。
 どうしてあんなにも感情を制御出来なかったのか不思議で仕方が無い。
(尤もな事だ、無理も無い…とお前なら言うだろうか)
 己が起きた事に気付かないのか青年は未だ夢の中にいる。
 今は余程でなければ感情は揺らがない。
 彼の傍に居るから。
 彼が傍に居るから。
 其の顔を見ているだけで、安心してしまう。
(だが―――)
 己の中にまた別種の信頼がある事もまた事実。
 理解出来る。
 其の想いを分かち合えるからこそ。
 通じている何かが在る。
 あの男と。
「………」
 思わず溜息が出た事に苦笑しながら、さてこれからを思いやって少々の頭痛が。
 後悔がない訳では無く。
 一体何度不安に襲われ、その度に悩むのか。
 しかしおそらくは大丈夫だろう。
 もうあんな不安に駆られる事は無いから。
 どんなに感情が揺れ動いたとしても。
 青年に吐き出してしまった事で大分心は軽くなったし、逆に決意も出来た。
 もう惑わない。
 幾度の不安に駆られ、眠れぬ夜が来ようとも。
「―――お前がいれば…大丈夫だ…」
「……何が、かな?」
「!! お、起きているなら起きていると…っ!」
 ふふ、と慌てる男の顔を見て――泳いでいる、焦点の合わぬ視線ながら――青年は微笑する。
「…お早う、ゼンガー?」
「お、お早う……」
 男が不意打ちは卑怯だと、呟いたのを軽く無視し。
 青年は其の首筋にそっと口付ける。
 無事に取り戻す事の出来た日常に感謝を込めて。


<続く>

<戻る>
 
 writing by みみみ

 戻る。 
© 2003 C A N A R Y