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【 人形の夢6 】 |
『久しぶりの休暇だな』
『ああ…』
シャトル搭乗ロビーで、青年はそう言ったが男は曖昧な返答をする。
男にとって生きる場所とは戦場以外に他ならず、休暇などと正直不要だと思っていた。
無論直接の上司から言い渡されたものだからして、断れる筈も無く。
そうとて軍人として生きる時に必ず書けと言われる遺書でさえ、己は書いていない。
(書いた所でどうなるというのだ…?)
己が死んだ後に此を託すべき人などいない。
何かをして欲しいという希望も無い。
死ねば骸になって。
そして土へ還る。
唯、其れだけの事だ。
『…そんな…寂しい事を言うものでは無い』
少し悲しそうな顔をして、瞳を伏せがちに。
此の考えを青年に告げた時。
(お前は何を想った?)
生まれが違う。
育ちも違う。
まるで正反対の存在。
恋、焦がれる事が愚かだと言い聞かせたくなる程。
『君も来れば良いものを…』
青年の声にふと現実へと返ってくる、矢張り何処かぼうっとしているのだろう。
至極残念そうな台詞に、溜息をつく。
『…久しぶりと言ったのはお前の方だぞ? 夫婦水入らず、楽しんでこい』
『妻も君に会いたがっていたのだが』
『―――だから』
言葉を続けようとすると、コロニー行きのシャトル搭乗時刻を知らせるアナウンス。
早く行けとばかりに顎で示唆すると、青年は苦笑した。
『ならば次の休暇には、必ず君を連れて行くとしよう』
『知らん』
『さて…ではまた』
『ああ』
そう言って見送った彼の後ろ姿が、最期の。
「う、あ、あぁぁぁ……っ!?」
目覚めた時には消えてしまう悪夢が、男の叫びを現実へと呼び覚ました。
刻み付けられた傷が熱を発している。
心の奥底。
開けてはならないパンドラの箱。
飛び出したのは絶望。
「!?」
叩き起こされた人物は条件反射的に時計を見てしまった。
日付が変わって数時間―――未だ、外は暗い。
突然の悲鳴。
耳を澄ませてみるが、此処まで届く様な、先程の酷い音は聞こえない。
今この屋敷にいるのは己を除けばただ一人。
(何が…!?)
そう広くもないが小さくもない此の屋敷の廊下を走る。
辿り着いた客室のドアを蹴破りそうな勢いで開けた。
「ウォーダンっ!?」
「…あ、あ、あ…っ……!」
「!?」
部屋に入るなりそう呼びかけたが相手からは到底返事は貰えなかっただろう。
名を読んだ相手、ベッドに横たわる男は大きく目を見開いて此処では無い何処かを見つめている。
己が部屋に入った事さえ、気付かぬままに。
切羽詰まったカイ少佐の声が、全ての始まりだった。
≪ゼンガー! 今何処に居るっ!?≫
『今は書類保管庫です』
≪早く上がってこい! カーウァイ大佐の部屋だ!!≫
『…? 何が―――』
≪駆け足だ! 必ずだぞ、良いな!?≫
『……』
それなり切られてしまった通信に唯ならぬ事態が起きている事を肌で感じる。
一切の説明すら省く程の何か。
しかも集合が掛かったのはカーウァイ大佐の部屋。
余程重大な打ち合わせでもなければ、せいぜい1日の報告に訪れる事しかない部屋で、何を。
男は、言われた通りに駆け出した。
「…あ、あ…あ……」
「…!?」
一体何が起きているのか。
近付いても何の反応も示さず、口は半分程開き。
だからといって意味のある言葉が発せられる訳でも無い。
寧ろその逆。
全ての言葉を忘れ去ったかの様に、震えた声が漏れているだけ。
ゼンガーは男に近づいて再度強く名を呼んだ。
「ウォーダン!!」
「…っ…!?」
虚ろだった瞳にゆっくりとだが確かに理性の光が戻ってくる。
暫くの後、男の瞳がゼンガーの姿を捉えた。
怯えた眼差し。
「ゼン…ガー…?」
「そうだ」
此方へ手を伸ばそうとしたのだろう。
持ち上がった腕が空中で動きを止め、そして。
「ゼ、ゼン―――うあぁ…っ!?」
「何!?」
一度は意識を此処へ引き戻してきた男は頭を抱えて呻く。
〈―――――以上、スペースコロニー・エルピスで起きた事件の首謀者は、地球至上主義テロリスト集団の……〉
其処で起こっている事を全感覚が一度は否定した。
感情が、現実を拒絶する。
聴覚が感じるキャスターの音声では無く、視覚が捉えた画面の写真に。
『な、に…?』
『……』
肩で荒い息をしながら辿り着いた部屋には、己以外の全員が揃っていた。
否、残るもう一人は画面の中に。
コロニーで起きた悲惨な事件を報道するニュースの中に、居た。
『此は…どういう事です…!?』
沈痛な面持ちをして、全員がその場に立ち竦んでいた。
最後に駆けつけた己だけが、叫んだ。
『どうしてこんな事に!!』
カーウァイ大佐もカイ少佐も、同僚で口数の少ないテンペスト大尉も。
勿論誰一人として答える術を持たなかった。
皆一様に瞳を伏せて、ニュースに耳を傾けている。
〈―――――また、此により連邦宇宙軍総司令官マイヤー・V・ブランシュタイン、
ブランシュタイン家長男のエルザム・V・ブランシュタインと
その妻であるカトライア・F・ブランシュタインの死も確実と見られており……〉
『……!!』
男はその場に崩れ落ち。
言葉が、出なかった。
「嫌だ…!! …もう、何も…っ…!!」
強く目を瞑ったかと思うと、これ以上はないとまでに大きく見開き。
同じ言葉を繰り返す。
震える声と肩が、悲痛な叫びに応えている。
砕けていく、心。
造り物の瞳は其の光を喪いつつあった。
「…もう何も…何も……喪いたくない…っ!」
「……」
「嫌だ…俺を、もう―――」
「…ウォーダン…」
「…もう、俺は、置いて―――――」
(お前は)
此の状況置かれた己が出来る事は唯一つ。
頑に強張らせた身体にそっと触れる。
「…っ!?」
瞬時に反応して此方を見たものの、脅えた表情は変わらない。
そして矢張り焦点は合わずに。
それでも、と。
男に問掛けた其の声は己のものとは思えぬ程穏やかだった様に思える。
「ウォーダン…俺が分かるか…?」
「…あ…?」
記憶が混乱しているのか、初めての人間を見る色が瞳に過ぎった。
目を見開いたまま男は震えている。
だが視線を決して逸らそうとはしない。
問い掛けてくる人物がきっと誰かも分かっていないのに。
「…どうした、恐い夢でも見たか…?」
「……」
『奴らは内部で毒ガスを使用したらしい…其れによってコロニー・エルピスの住人は―――』
『何という卑劣な…!!』
『……』
次の日に送られてきた報告書に目を通したカーウァイ大佐が告げた。
昨日と同じ顔ぶれに。
カイ少佐はその手口に強い怒りを露わにした。
宇宙に住む者なら誰でも知っている。
大地に住む人間には分からないと言うのか、あの箱庭の脆さが。
壁一枚、隔てた向こうに有るのは空気も無く光も届かない絶対無、暗黒の世界。
其れは決して逃げる事の出来ない密閉された空間。
そんな場所で毒ガスを使うなどと。
『恥さらしにも程がある…!!』
『―――此に対する連邦軍の動きは?』
強く心情を押し込めた声で、そう質問したのはテンペスト大尉だった。
彼は今までずっと、自身に尚連邦軍に留まる理由を求め続けている人でもある。
『恐らく…コロニーの治安維持を名目上に、
ID4――スペースコロニーの独立自治権獲得運動――の弾圧が強化されることになるだろう……』
『上層部にとっては、都合の良い展開になりましたな』
『………』
『…失礼しました』
『いや、…いい』
常に年齢など感じさせぬ大佐の顔にも、この時ばかりは年齢を思わせる深い悲しみが刻まれていた。
一つ大きく溜息をつき無理矢理に笑みを浮かべて、テンペストの言葉を受けた。
彼には其の言葉を吐けるだけの理由があるのだ、少なくとも。
ふと視線を泳がせた先に、大佐は俯いた男を見つける。
『…ゼンガー?』
『……』
呼びかけられた事に気付かず、名を呼ばれた人物は深く視線を下ろしたままで、虚空を見つめていた。
「…何に脅えている?」
(答えなくとも良い、唯お前の心が此方を向けば其れで十分…)
何よりも危ういこの精神を引き戻す為に。
その為には何度も呼び続けなければならない。
意識を、此方へ。
「…だ…」
「?」
男はどうにか喋ろうとしているのだろう、必死に口を少しずつ開閉させた。
と同時に、呼吸が上手く出来ずにいるのかも知れない―――喉から漏れる様な高い音。
漸く辛うじて聞こえた言葉に耳を傾ける。
「…嫌、だ…」
「…何が…」
其れは拒絶の言葉。
何かを否定する為の。
瞳だけは強く見開いた状態で、男は再度呟く。
「も、う…もう置いていかれる…のは……」
「!」
「独りにさせるな……!」
「!!」
とす、と胸に当たったのは男の手だった。
無意識に握られた拳が、胸を叩く。
駄々をこねる子どもの様に。
如何に断片的な台詞であったとしてもゼンガーには其の意味が解る。
何が此の男の胸中を支配し、脅えさせているのかも。
否、分かってしまった。
(お前は……)
引き留めれば良かった。
あの時、泣いてでもどんなに辛くとも想いを告げてしまえば良かった。
此の想いを。
如何に引き裂かれようとも尚、消える事無く在り続ける言葉を。
我が胸に潜むのは禁じられた恋。
最後の審判が下る日には必ず裁かれる罪。
『お前が、好きだ』
愛している、と。
告げたかった。
誰よりも何よりもお前が大切なのだと。
『エルザム…俺はお前が好きだ、だから』
行かないで欲しい。
傍に居て欲しい。
離さないで、ずっと共に。
一緒に。
―――――そう。
彼女と過ごしていても良いから一緒にいられるだけで良かったから。
生きて傍に居たかった、お前とずっと一緒に居たかった。
「…あいつがお前を置いていく訳が無い…」
「…っ…!?」
ゼンガーの苦笑めいた言葉に男は反応した。
何に反応したのかは分からないが、此を逃す手は無い―――しっかりと相手の瞳を見据えて、言葉を選ぶ。
「お前はもう独りでは無い…俺たちが居るのだぞ…?」
「……」
「一体どうした? お前程の男が」
優しく、男の頭に手を置き、撫でる。
(落ち着け…お前は、大丈夫だから)
何度も何度も言葉の調子に合わせてそっと男の髪を、梳く。
同じ顔、同じ髪質、だからきっと。
(同じ、心)
一つの想い。
抱える此の脆さが何よりの証拠になるだろうか。
(俺とお前を繋ぐ共通点)
最後にして最大の繋がり。
其れは多分。
ウォーダンの瞳に弱々しく光が宿った。
「…本、当か…?」
「無論」
「…ほ…う、ぁ……っ」
「ウォーダン?」
再び苦しみ始めた男にゼンガーは思わず身構え、先程とは違う何かに益々警戒の色を強くした。
「…!?」
男の気配が変わっていくのが分かる。
全身の肌が総毛立ち、脳内に警告の明かりが点滅する。
本能的な危機感に硬直する身体。
(何だ!? …何かが―――)
苦しみに伏せった男から、微かに声が聞こえた。
しかしまるで。
「貴様……そうか…ゼンガー、お前…」
地の底から響く様な低く重たい声。
何処か聞き覚えのある。
知っている、声。
「…まさか…!?」
「…っ…あああッッ!!」
「!?」
瞬時に間合いを取るべく離れたものの、男は苦しみ続けている。
悲鳴を聞き、駆けつけた時と同じく。
駆け寄り名を呼んでやりたい。
今にも儚く砕け散りそうな其の心を、早く引き戻さなければ。
其の予断を許さないのは脳裡に最悪の事態が予想されているからだ―――
即ち、敵である“彼”が甦ろうとしているのだと。
男が喪った記憶の向こうにいる“彼”が、もう一人の“ウォーダン・ユミル”が。
きっかけは恐らく。
(…不安が、恐怖が…)
彼に焦がれる想いが、彼を求めた其の心が。
脆く儚く。
拮抗を崩した。
(…お前を弱くしたのか…!?)
「……うっ…ゼン、ガー……俺は…」
意識が戻ったのか、男はゼンガーの名を呟いた。
僅かに上げた視線が、宙を彷徨う。
「ウォーダン!? ウォーダン、しっかりしろッ!」
「い、や…だ……っ!」
『葬儀は三日後…連邦軍総本部にて執り行われる』
『……』
仰々しい式だった。
唯一、天気が頭上に広がる限り、突き抜けんばかりの蒼天だった事は幸いだと思った。
彼の制服に似た、深い蒼の色。
いつだったか―――あれは宇宙から此の惑星を見た時の色だと教えてくれた。
外に出て眺めてみれば分かるのだと。
此の華奢で美しい大地の尊さが。
ならばどこまでも空は高く青く澄んでいて欲しい。
彼を送るに相応しく。
『…ざ、む…』
もう二度と彼の人の名を呼ばぬと決めた。
己の心に誓った。
同僚や大佐との会話以外は、決して口にしない様に。
自ら呼ぶ事を固く禁じた。
名を呼べば、零れてしまう。
封じ込めた、想いが。
『…好きだ…』
一滴頬に流れた水は、大地へと還っていった。
男は抗っているのだ。
虚空を掻きむしり懸命に名を呼び続け。
必死に、此方へ戻ってくる為の細い糸を手繰り寄せようと。
途切れ途切れになった言葉は最早何にも縋る事すら出来ずに。
「違っ…! 置いて…、俺は……!!」
ウォーダンの言葉は全く何の意味も成さなくなっていた。
切れ切れに苦しみを訴え、その一方で何かに負けまいとする。
叫ぶ事しか知らない。
叫ぶ事しか、出来ない。
「あああ…っ!!」
「!」
ゼンガーは目を見張る。
男の頬にたった一筋、流れた其れは。
「…も、う、独りは嫌だ…!」
無論その事に男は気付くべくも無い。
意識などしていない、本当の心の奥に隠れた言葉が、瞬間吐露された。
男に隠されていた想いが暴かれる。
否、無理矢理に暴かれてしまった、願い。
「貴様が、お前が…っ…。違………や、だ…!!」
吹き荒れるのは想い。
悲しくも形を成さない嵐の言葉。
ずっと秘めてきていた。
誰にも言わずに。
告げられずに。
―――隠さなければならなかった。
本当の気持ち、だから。
突如、ウォーダンがゼンガーの腕を掴む。
「!?」
「…こ…以上、俺を……」
「……」
「…も、う独り、に…!!」
荒く呼吸を繰り返して途切れた言葉の続きは安易に予想出来た。
知っている、分かっているから。
大丈夫なのだと、囁く。
「俺が傍に居る…お前の傍に…」
「…い、…!」
優しい低めの声が耳に届くと、男は静かに其の言葉を、止めた。
「寂しいのだろう…? 無理はするな…」
「……」
「眠れ…ウォーダン」
徐々に理性の光が宿ってきた事を確認して、微笑を浮かべる。
他人が見れば分からぬであろう、此の男の笑い方。
緩やかに、静かに。
「眠り、…たくとも…俺は……」
「…心配するな」
ゼンガーが男を腕の中へと誘う。
掴まれた腕と逆方向の肩に手をかけて。
「……!?」
「眠れ、お前は独りでは無い―――」
「……」
「―――その証拠に俺が居るのだから」
「……」
「大丈夫だ、ウォーダン」
子供をあやすのと同じ要領で、先程と同じ様に男の頭をゆっくりと撫でた。
耳朶に直接降ってくる、低い声。
安心出来るのは触れた身体から伝わる心音。
抱きしめた其の手に、おそるおそる男が掌を重ねてくる。
「…ゼンガー…?」
「安心しろ」
「…!」
「…眠れ、そのまま…」
「……」
男は瞼を下ろした。
耳元で囁かれた低い声が心地良く。
そう、確かに安心出来る―――一体この空白が何かも知らぬまま。
(…これが本当の……お前の姿なのか…?)
本人の無意識的産物。
決して適わない願い。
何度こんな叫びを繰り返したのだろう、此の男は。
何度夜に夢に脅えたのだろう。
(眠れ、ウォーダン…お前がお前である為に…)
永遠の闘争を創り出す為に生み出された人形ではなく、意志ある者として、確固たる己を生きる為に。
本当のお前がこうであるならば。
(しかしそれは又不幸な事なのか…)
ゼンガーは想い寄せる。
糸の切れた人形は何になるのか、何として生きるのか。
「……」
(…お前は…)
安らかな寝息をたてて眠る男を見て、深いため息をついた。
どうかもう一度だけで良い。
名を呼んで。
其れで終わりにするから。
―――エルザム。
お前の名をもう一度呼ばせて欲しい。
***
次の日。
久しぶりに書斎にこもって本を読む人物はしかし全く手に持つ本の内容が頭に入ってこなかった。
「……」
そもそも書斎に来た理由はと言えば、少し考えてみたい事があったからで。
序でに言えば一人になれる場所だからでもある。
忠実に約束を守り、男は此の場所へは近寄ろうとはしない。
用が有れば扉をノックするのみ。
食事に関しても、己の手料理が運ばれてくるのを待っている。
不味いとも美味しいとも言わずに黙々と食べ続ける男の姿を見ながら。
(彼奴が帰ってきたら)
贅沢になるだろうか、と妙な心配をしてはいるのだが。
分厚い皮の表紙をした本を閉じると、机に置く。
暫し其れを眺めてから、溜息をついた。
『覚えて、居ない…?』
『ああ』
昨晩のあの非道い魘され様を、男は全く覚えていなかった。
何か悪い夢を見た、と言う程度にすり替わっている。
思わず漏れ出た呟きも、その想いも全て記憶からは消去されていた。
寧ろあれが夢か幻かと言わんばかりにあどけなく、
『それよりもどうしてお前が俺と同じベッドで寝ているのだ?』
等と間の抜けた問いをしてくるので――男にしてみれば昨晩別々のベッドに入った筈だろう、
と言う程度の疑問なのだ――脱力も程々に退室し、だが普通に考えれば困った話だ。
記憶が無いから知らないと簡単に言える話では無かった。
真夜中に己が見たあの光景を、当人が覚えていないのだから。
悲惨などと生温く表現は出来ぬ。
心が切り裂かれ、血の涙を流しても未だ余りある無情の叫びと哀哭。
残酷にも暴かれた心が冷たく晒されて。
だと言うのに。
「………」
深く椅子に腰掛け直し、背を預けて瞼を下ろす。
半ば睡眠不足の身体には、此の部屋の静寂が心地良かった。
だが安易に眠りへ落ちる訳にもいかない。
もしあれが度々起こる様であれば、何か対策を講じなければならないのだ。
銀の瞳は悲しげに目を伏せた。
(綻び、だな―――)
過去と現在に対する明らかな亀裂。
途絶えてしまった分、其れは必ず何処かで修復されるべきもの。
今の彼の状態が如何に不安定なものなのか、二十分に思い知った。
だからといって何か良案が思い浮かぶ筈も無く。
まるで永遠の迷路へ迷い込んだ様に。
男は悩む。
「……ひとの心は簡単なものでは無い」
先の戦いではそれ故に倒れた少女もいる。
心とは何だ。
曖昧に過ぎる。
それでも存在している、もの。
人間である限り、ひとがひととして生きている限り、心を持っている。
迷っては傷つき、悲しみの後に喜ぶ。
憎しみと怒りに身を焦がし、恋い求める。
其れは生きるという事。
其れが生きているという事。
組んでいた腕を解き、掌を見つめる。
確かにあの時この手が彼を捉えていた。
紛れも無い真実を、知っている。
己が。
「例え世界がお前の危うさを忘れても」
俺がお前を覚えている。
そう言って、男は拳を強く握りしめた。
***
忘却は罪か?
痛みも辛さも全てを呑み込んで。
己が物と化すが良い。
弱さが罪になるのか?
強くあれ。
剣たる為に。
人形に、ならない為にも―――?
『お早う』
『…眠い』
『そう言うな、ほら』
『…あぁ…』
夜明け前に叩き起こされて何かと思えば。
未だ天に残る星達を退けて、昼の主が目を覚ます。
夜の王は世界の裏側へと帰ってゆく。
(例え記憶が無くなっても)
(俺の心がお前の事を忘れないだろう)
(例えこの身が滅びても)
(心だけならお前の元へとゆけるから)
『ん? どうした』
『何でも無い―――未だ、眠いだけだ』
『せめてもう少し起きていて欲しいものだが』
『…ならば、頑張る事にしよう…』
その姿を刻み付けておくのは瞼の裏では無く。
その言葉を覚えているのは耳では無く。
形も声も熱も纏めて。
心がお前を忘れはしない。
<続く>
<戻る>
writing by みみみ
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© 2003 C A N A R Y
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