【 人形の夢8 】 |
頬に柔らかく、少し冷たいシーツの感触。
「………?」
目を覚ますと其処はいつもの自分の部屋だった。
元々は客室だったものを、とりあえずではあるが己の為にと男が用意してくれた場所。
一番最初に寝ていた部屋は窓ガラスを割ってしまったので――勿論あの後直ぐに修理されており、
今はきちんと直ってはいるのだが――改めて別の部屋を宛われたのだ。
『さて、始めるか』
ラフな格好で袖を肘まで捲り上げ、モップにバケツに雑巾と箒―――と、
明らかに掃除という名の戦闘スタイルで現れた男が開口一番にそう言った。
多少は埃を被っていたものの、剰り人が使っていなかった為に、思ったよりも掃除は短時間で無事終了。
己はと言えばはバケツで水を汲み雑巾をかけて床を掃くなど手伝いはしたが途中でダウンしてしまったのも事実。
『慣れない事で疲れてしまったか? リビングで休んでいると良い』
此処で倒れられても困るからなと揶揄めいた口調で。
後は俺がやっておこうと、男は己を休ませてくれた。
(…情け無い……)
所謂居候という立場に呼ばれる者がこんな所で寝ていては。
そう思い直してはみたものの、何故か目眩がする。
(ね、む…い…―――)
一通りの掃除を終えてリビングへとやってきた男は、無防備にソファで寝入ってしまった男の顔を見る。
静かな寝息をたてて眠る男を起こしはしまいとそっと立ち去って。
それから1時間後。
部屋に案内され、男は言う。
『お前は此の部屋を好きになるぞ』
やけに自信満々と言った表情を浮かべ。
其の自信の根拠は何処から来るのかと、隻眼の男は微かに眉根を寄せて尋ね返す。
『何故だ?』
『…窓の外を見てみろ』
『……!』
不思議な顔をして覗いた窓の外の景色は、海だった。
水平線が視界の限りに広がる海。
全ての命の源と呼ばれ。
全ての者が還る場所とも呼ばれ。
今は唯穏やかに揺れて、太陽光を反射しながら風にさざめいている。
徐々に視線を下ろして、屋敷周りを見てみれば。
海岸まで続く緑野原も同じく風に吹かれてそよいでいた。
―――気付かなかった、今日がこんなにも良い天気だとは。
はっと見とれている己に気付き、後ろを振り返ると満足そうな瞳をした男が立っている。
『気に入ったか?』
『無論…!!』
とは言え此処は未だ仮の部屋に過ぎないが、と付け加えて男は言う。
此の屋敷の正式な主が帰るまではと。
『いつ―――その主とやらは帰ってくるのだ?』
『さて…』
残念ながら其れは分からんと呟き、男は其の部屋を後にする。
一人、部屋に残された後もずっと隻眼の瞳は窓の外、遠くの海を眺めていた。
寂しさは全く感じない。
寧ろ逆に楽しく、心躍る心地になる。
(広くて大きなもの)
「…だが…」
寝起き特有の掠れた声は深刻さを含み。
空の青とは又違った色の青を暫くそうやって眺めていたことを思い出した。
回想を一旦終了して、男はベッドから立ち上がってあの時と同じように窓枠に手をかけて外を眺めようとする。
しかし天気は下り坂らしく、海の波が低く呻りをあげている。
窓を開けようとして鍵に手を伸ばしたが、其の手は固く握られた。
―――何故、俺は此処で眠っているのだ?
記憶が途切れている、と思ったのは確信と言うよりも直感に近い。
このままであれば忘れてしまいそうだった事実をハッキリと刻み付けておいて。
隻眼の男は硝子の向こうに映し出された引き結ばれた表情の中に、焦りや戸惑いの色を見つけた。
薄銀の瞳に浮かび上がる其れは、訴えかけてくるのだ己自身に。
何故。
繰り返し出てくる言葉に更に困惑を覚え。
記憶が、無い?
底知れぬ不安が足下から這い上がってくる。
薬草を取りに行って欲しいのだと出掛けたことは覚えている。
森へ入ったことも。
玄関まで見送って貰い、まるで幼児の扱いだなとか何とか会話を交わしたのも覚えている。
なればこそ何故其の“先”が無いのだ。
森へ入ってから今目覚めるまでの記憶が、全く抜け落ちているのはどうして。
(!? ……う…っ)
疑問を持ってはいけない、疑うことは禁忌だとばかりに、頭痛が突然激しくなった。
何故。
どうして。
―――――思い出してはいけないのだ!?
其れでも何とか空白の時間を取り戻そうと抗っていると。
「ウォーダン? 入るぞ」
起きているなら下へ、と続く筈の言葉が出る事は無かった。
突然懐に飛び込んできた気配。
数回のノックの後に入ってきた男に思わず駆け寄った彼は、誰と考えずとも分かる、から。
そして薄銀の瞳も又、同じ想いを抱え。
(お前だと、分かっているから)
「どうした、何か気分でも…?」
「いい…今は…こうして、おいてく、……」
言葉は続かない。
「………」
強く目を瞑り、同じくらいの強さで服の裾を握りしめる。
小さく肩が震えていることに、気付かないままで。
『―――…落ち着いたか?』
『…ああ…』
震えは収まったが声が細い。
弱さではなく脆さが、露呈してきている。
(少しずつ平常心が戻ってきてはいるのだろうが…難しいな……)
判断が鈍る。
どうするべきかを問う。
このまま“彼”に会わせても良いのか。
もう少し時間をおいた方が良いのか。
決め倦ねている男の心が伝わったのか、幾らか意志の強い声が届く。
先程よりもはっきりと。
『行こう、もう…心配無い』
『……』
疑問の眼に男が苦笑する。
『俺はそんなにも信用出来ないか?』
『…心配をしているのだ』
―――有難う。
こつん、と額を肩に置いて男はそう言った。
互いの瞳の中に憂慮の兆しを見つけては、沈黙が降る。
心配する想いと不安に揺れる心。
鍛えられた鋼の刀身は無言の気遣いを。
薄銀の脆い硝子人形は唯一の瞳を一度閉じた。
『すまん…』
こんな言葉しか出てこなくて。
一階へ降りて目にした者に、圧倒されてしまうのは何故か。
ウェーブのかかった長い金糸の髪。
深い森を思わせる翠玉の瞳。
整った顔立ちと発せられる雰囲気がただ者ではないと本能に告げる。
傍らに立って紹介をする男――ゼンガー・ゾンボルト――と同じ職業、つまり軍人だというのに細い指。
但し瞳の奥を除けば分かるだろう。
しなやかで優美な獅子が、内奥に潜んでいるのだと。
「レーツェル・ファインシュメッカーだ、此の屋敷の正式な主でもある」
「宜しく」
軽い微笑を浮かべて差し出された手をおずおずと握り返す。
初めて見る、人物。
以前男が言っていた、此処の主にして最後の住人。
(俺が緊張しているからか?)
彼の全身から漂う気配は警戒と呼ぶ空気に良く似ている気がした。
「もう調理場は覗いたのかな?」
「あ、ああ」
不意の質問に彼の別の一面が見える。
「彼処は私の戦場だ、立ち入る時には注意した方が良い」
あっけらかんと言い放つ。
何気ない冗談で場の雰囲気が一瞬で変わり。
警戒心があっという間に解けて無くなってしまった。
(こんな表情も、あるのか)
少なからずの驚きを胸に抱き。
仲介者である男の軽い咳払いに次は己の番なのだと、緊張が再び巡ってくる。
「ウォーダン・ユミル、俺が鍛錬中に出会った男だ。
傷をしているので手当てをしたが…見ての通り、俺とよく似た顔立ちで記憶を失っている」
一瞬生まれた会話の間に冷や汗をかきそうになったが、青年の表情は何ら変わりがなかった。
納得というよりも先ず情報として覚えておこうといった印象が強い。
何か又別のことを言われるより先に挨拶を。
今こそ先手を。
「此方こそ宜しく頼む」
介在者として二人の間に立つ男は思う。
妙な緊張感漂う対面の場だと、そして我ながら奇妙な紹介だと。
普通に互いを知り合うだけで何故こんなにも緊張するのか、
下手をすれば緊張どころではなく、緊迫感と呼ぶ方が近いかもしれない此の空間。
次の瞬間に何が起こるか分からない恐怖。
触れれば爆発する空気。
張りつめた糸が願わくば間違った方向に切れることがないようにと願い。
漸く不思議な繋がりを持った三人の生活が始まった。
***
新しい生活は波乱に満ちていた。
部屋は特に何も言われなかったのだが、先ず服の問題。
基本的にウォーダンとゼンガーの体格に差は無いが、少々服が足りない。
食器・洗面用具類は客人用に十分な量が置いてあったので、ではと服の買い出しへ。
其処で発覚したのがウォーダンの食趣向である。
ゼンガーが甘いものを苦手とするのに対し、ウォーダンは寧ろ其れを好んだのだ。
試しにと食べさせたブルーベリーパイを危うく丸々一つ分胃袋に収めてしまう所で―――
残りは3時のお昼にしようと言い出さなければおかわりを催促していたかも知れない。
しかも酒を飲んでも平気な様だ。
『…あー…ゼンガー?』
『………』
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている親友に向かって、青年は暫しかける言葉を無くした。
とりあえず無言で肩に手を置く。
後は、生活習慣の問題。
青年が帰ってくるまでは割と自由な――昼に起きてくるなどの――生活をしていたと話せば、
青年の微笑が少し変わった。
『ぜ―――』
『違う! 誤解だ、誤解ッ』
何となく青年の笑みが先程とは異なっていることが分かっても、
何故其の笑みを向けられて男が怯え、いや慌てているのかが理解出来ない。
どうしていいか分からずにいると青年がやけにハッキリした口調でこう言った。
『明日からはきちんと私達と同じ時間に起きて、朝食を一緒に食べよう』
『あ…ああ、了解した』
有無を言わせぬ迫力。
無意識に其れを感じ、必要以上に頷く。
何故かは分からないがつい反射的にそうなってしまう己が居る事が不思議でならない。
其の次の日から青年曰く、“規律正しい生活”が始まった。
心なしか男が窶れていた様に思えるので青年に尋ねてみたのだが、気のせいだろうと言われた。
(……多分、気のせいではないと思うのだが…)
とは言っても矢張り、青年に再度尋ねる勇気は生まれない。
いや、そんな事を考える暇が無くなってしまった。
青年は事細かに生活についてのあらゆる知識を叩き込み、1日をかけて
部屋の作りや間取りに始まり掃除の仕方やら料理の片づけやら―――晩餐に至っては
時折自分たちは仕事で居なくなるが、必ず片方は残る様にするなどと更に新しい情報が付け加えられた。
当然。
「つ、疲れ…た…」
屋敷の周りが星の光で満たされる頃には力無くソファへと倒れ込む男の姿がある。
体力的に、と言うよりも精神的なものだろう。
大量の情報を頭に叩き込んだ事により少々脳内がパンク気味なのだ。
其処へ聞こえるは無慈悲な宣告―――微笑する青年が。
「此位でねをあげて貰っては困る。明日はこの島内について知って貰わなければならない」
「まっ、未だあるのか!?」
「ああ」
「エ…レーツェル、明日は一日復習という事にして休みを取れば―――…」
半ば泣きそうになっていた男を救った一言。
実を言うと今日の島内探索をしたのは己だけでは無く、青年は男も一緒に説明の相棒として、
時には己と同じ立場として扱いながら今日一日を過ごした。
過ごしたと言うよりも引きずり回した、回されたのか。
己以上に疲弊している様に見える男が出した提案は、ウォーダンにとっても嬉しいものだった、が。
「残念ながら駄目だ。…我々の“仕事”はいつ舞い込んでくるのか分からないのだぞ?」
「わ…かっている」
「ならば明日は引き続き島内探索と行こう」
「「了解……」」
―――全ての希望は断たれた。
瓜二つの男達は揃って力無い同じ返事をした。
***
青年が合流してから三日目の朝。
結局昨日も島中を――恐らくは移動距離が凄まじい事になって居るであろう――
行軍したと言っても言い過ぎではないだろう、と男は心中深くで呟いた。
この時ばかりは大目に見てくれたのか、
青年も昼近くになって目を擦りながら新しい同居人が起きてきた時に何も言わない。
己の場合は容赦なく叩き起こされたのだが…とは思うだけで口にしない。
付き合いが始まった頃から、己の心情を見破る審美眼。
精度の高い観察網を彼は持っているのだから。
此の心情を見破られた日には何が待っているか考えただけでも恐ろしい―――。
ふと。
『……今日は、何も無いのだな?』
期待と不安を綯い交ぜにした隻眼の男の言葉に青年が頷く。
念押しとして数回の確認後に男は安堵の溜め息と共に、昼食兼朝食の終了の挨拶を告げた。
「どうした?」
「……」
紅茶を好むあの少年であれば、もうそろそろ準備を始める時刻に。
鍛錬も兼ねて海岸まで出ていた男は、近付いてきた人物に向かって声をかける。
室内にいる時は長い前髪に隠されて見えない左目の傷。
大きく引き攣れた傷は薄くなりはしても、恐らく消えないのだろう―――未だ男の顔に名残を深く刻んでいる。
潮風に遊ばれる前髪。
視線は刹那交差して。
「お前の髪も一度切らねばならんな」
「…ん…?」
波に消されて聞こえなかったか。
それとも何か別の事を考えていたか。
隻眼の男は顔を上げて此方を見た。
「お前の前髪の話だ」
「ああ…」
男の無骨な指が伸びてきて、風に揺れる己の前髪に触れる。
暫く会話の無い二人の間に、漣の音だけが響く。
繰り返し同じリズムで耳に届く其れは、優しさと寂しさを併せ持っているかの様な。
遠くに近くに、離れては又近付く不思議な音。
男の手が髪から離れていく瞬間を契機にして、口を開く。
意を決した、漸くの行動。
「あいつは、その…お前と……」
「あいつ?」
「…れ、…レーツェルの、事で…」
成る程と納得するよりも先に男の様子がおかしいと気付いた。
妙に余所余所しい。
彼の名前を口にする事を躊躇って、居る。
(―――苦手なのか…?)
昨日までは強制的に一緒だったものの今日は各自自由行動を取る事が出来る。
敢えて室内ではなく屋外へ、しかも今己の居る場所へやってきたという事はつまり。
(避けたのか)
彼の居る屋敷を。
らしくないなという感想が思わず苦笑を零させた。
其れに気付いた男の眉が少し寄る。
「何が可笑しい」
「いや、別に」
「ならば笑う必要はないだろう」
「在ると言えば在る、無いと言えば無い」
「……」
眉が寄って更に不機嫌な顔になる。
だが今までの様な威勢の良い憎まれ口は出てこない。
黙ってしまう。
「…お前は此処にいればいい」
視線を目の前で項垂れている――様に見える――男から少しだけずらして、呟いた。
風に流されて消えてしまいそうな程の声で。
確証は出来ないと理解しているからか。
其の選択肢を取る事に依然として躊躇いが残っているからか。
沈黙の後に己から出た声が酷く弱々しかった事に苦笑する。
「良いのか?」
しかし何とか男の耳には届いたらしい。
言葉の真偽を問う。
否、問うのは相手の心。
序で、我が心。
「邪魔に、ならんと言うのか?」
(本当に―――本当に居ても良いのか。お前は俺を敵だと言った。だが信用したいとも言った…)
再度問おう。
あの言葉が今でも有効かどうかを。
(俺は此処のまま此処に居ても良いのかを)
あの時とは全く逆の心境で隻眼の男は視線を投げかけた。
砂浜の大地は足下を簡単に浚って行く。
打ち寄せる波で掻き乱される、砂。
徐々に侵蝕されて行く海岸は、月の満ち欠けに影響しているとも謂われ。
(もしかしたら)
記憶の不在という恐怖に支配されている己の足下まで、波は迫っているのではないか。
不意に思った。
「ああ…好きなだけ此処にいると良い」
「……」
出て行こうとしても周りは海しかない。
そんな状況で好きなだけと言われた所で他にどうしろというのだ?
あの時であればきっと男はこう言い返しただろう、しかし今は何も言い返さず、男は黙って銀の瞳を睨む。
一方睨まれた方も同じだけの強さで視線をぶつけ合う。
(―――魘されているのか? もっと酷く? それとも……)
青年が帰ってきてからと言うもの次第に陰影を濃くしていく男の影。
其れは最早衰弱と呼ぶに相応しい進行状況で。
陰惨な、薫りがする。
「不安か…?」
「!!」
薄銀の瞳が大きく見開かれ。
隻眼の男は答えず、踵を返しその場を立ち去った。
一人残された男だけが天を見上げ、呟く。
「本当に不安なのは」
お前では無く俺なのかも知れないな―――と。
「行くな…ッ…!!」
そう叫んだ己の声で目が覚めた。
ベッドのスプリングが鳴る、男がベッドから降りた為に。
背中と額を伝わる汗。
荒い呼吸。
理由も分からない、理解出来ない焦燥感。
窓を開けて風が冷たい、と感じたのは全身の汗の所為かそれとも―――?
時計を見れば深夜の零時を過ぎた頃。
眠りについて数時間しか経っていないというのに、またも静かな眠りを遮られた苦しみに襲われてしまう。
心が、衰えている。
眠れない為に。
再び眠りに落ちたくとも、容易に落ちる事が出来なくなってしまった最近。
(怖い、眠ればきっと又)
何かに魘されて目覚めてしまう。
そして其れの繰り返し。
孤独な無限回廊を走っている様な感覚。
男はそっと窓に近寄った。
屋敷の外に在る気配は何かと。
「…? 何だ、人影が……」
海岸へ向かう人影が一つ、月に照らされている。
屋敷から海へと向かう道は一本。
一つと言っても人が踏みならした事によって出来た砂利道。
月だけが皓々と輝く夜道に、影が落ちている。
「………」
―――眠れなかったからか?
男の足は自然とその影を追って部屋を出ていた。
「レーツェル…」
「ん?」
驚きで漏れた声は其の人の名を呼んだ。
太陽の下にあっては燦然と、月の下にあっては清冽な反射をする髪。
背中に流れる、緩いウェーブの掛かった其れ。
男の声に反応した彼は振り向き、此方を見た。
「君も―――…散歩、かな?」
「…!」
昼間見ている顔では無かった。
夜の海にも似た笑顔を浮かべて、青年は海辺に佇んでいる。
静寂の夜に木霊する漣の音だけに耳を澄ませて。
深い森の瞳が、笑った瞬間。
突然心臓が大きな音をたてた。
(な、んだ……)
不思議だった。
どうして落ち着きが途端に無くなるのか。
何故此の青年を目の前にする度に、
逃げ出したくなる衝動と逃げてはいけないと囁く声が、己の身一つに存在するのかと。
彼の男――ゼンガー――と一緒にいる時に感じている気持ちとは又違う、感情。
(そう……か、此、は…)
此の感覚は、夢に似ている。
訳もない不安に襲われて目が覚めてしまう時と同じ、感覚に。
突然の閃きは限りなく正鵠を射ている様に思えた。
「なかなか寝付けなかったのでな…つい、出てきてしまった」
きっと後で彼に怒られてしまうだろうと微笑して。
青年は瞳を細めた。
夜に見る彼の姿は昼間とは全く異なっていて。
―――どちらが、本当の。
姿なのかと問いたくなる程の変貌と言っても良い。
島や屋敷を案内している時は恐ろしく多弁でしかも隙の無い言葉遣いをする人間だと思っていた。
だから苦手だったとも。
だから近寄りがたかったのだとも。
ゼンガーの傍は落ち着けた、心地良かった。
だが彼の傍は、今でも。
「そんな格好で出てきては風邪を引いてしまうぞ? ウォーダン」
「い、いや大丈夫だ。もう、部屋に戻る」
「? ウォー―――」
青年は自らが羽織っていたショールを己に貸そうとしてくれた。
途端に縮まる距離に怯え、男は急ぎ足で海岸を後にする。
怪訝に己の名を呼ぶ青年を其処へ置いたまま。
正体不明の感覚を抱えて己の部屋へと急ぐ。
(此、は…な、に……)
落ち着きを知らぬ、我が心よ。
何故汝は暴れ給うな?
***
それから数日の時が流れた。
相変わらず青年の隣は落ち着かないし、男との会話にも張りが無い。
二人共が、外見的にも窶れて見えるのだろう己を気遣ってはくれるが、
己自身で解決しない限りはどうしようもないことだと理解している分―――タチが悪い悩みだと思う。
しかし。
広がってゆく歪みは止められずに。
放置しておいた疵痕は深さを増して。
とうとう。
知らず己が魘されている悪夢の正体が、何かを喪う夢だと気付く。
否、気付かされてしまった。
思い出す夢の断片。
伸ばしても届かない手。
泣き叫んでも、消えてゆく何か。
もう戻らない、戻れない過去の哀哭より。
―――――生まれし、もの。
喪失の夢が現実であるという確信。
其れこそが己の辿ってきた道であったという事。
「…ぁッ!!」
「「!?」」
夕食後。
リビングのソファーでうたた寝をしていた男が突然あげた声。
其れは悲鳴に近い音。
同じくリビングでくつろいでいた二人の耳にも当然聞こえた悲痛な叫び。
「どうした!?」
慌てて男が駆け寄ってくるが、其の言葉も存在も今は何処か遠い。
己の心臓が煩く騒ぎ立てる血の巡り。
荒い呼吸。
―――落ち着け…!
普段であればそう言い聞かせていただろうが今は無理だと。
酷くはないが断続的な頭痛が襲ってくる。
上手く呼吸が出来ないせいか、軽い手足の痺れを生み。
己自身で支えることの出来ない身体が傾いだ瞬間、誰かが肩を掴んで抱きとめてくれた。
呼んでいる。
呼ばれて、居る。
だが遠い。
今は聞こえない。
何も、見えない。
目覚めても尚僅かに残る夢の軌跡が教えてくれた―――記憶の向こうで己は何かを喪ったのだと。
そして其れが如何ばかりに深い悲壮の常闇を我が胸に生んだのかも。
強い意志を宿した銀の瞳を覗く度に。
長い金の髪を揺らした青年の姿を見る度に。
不安は蘇ってくる。
何故?
男には分からない。
制御出来ない、己の心であるにもかかわらず。
だが此処にいる事は出来ないのだと、誰かが叫んでいた。
「…ウォーダン!?」
男は支えてくれていた腕を振り払いリビングを後にする。
「…っ…」
畏れている事は唯一つ。
此の屋敷に居て、二人の人物と共に居る事で充たされていく想いが。
再び暗く澱んだ檻の中へ沈んでゆく事。
二度と思い出したくも無い。
其れは。
(絶望の嘆きだ―――――!!)
男は玄関のドアを勢いよく開けて駆け出した。
目的も意思も無い。
とは言えども足は止まらない。
止まれない、と言った方が正確かも知れない。
(いっそ此の心臓が破れるまで走ってしまえば楽になれるのか…?)
「………」
大分走ってから、肩で息をしながら周りを見渡した。
気が付けばあの時の海岸線。
変わらない、景色。
『君も―――…散歩、かな?』
あの時と同じ漣が、今日も静かに揺れている。
一定の調子を刻みながら。
『お前の髪も一度切らねばならんな』
大きく異なるのは己ばかり。
己の此の、理解も制御も不可能な心のみ。
「! そ…う、か…」
冷静になって始めて気付く。
言っていたでは無いか。
此処は島なのだと。
絶海の孤島なのだと。
己の莫迦らしさに気付き、悲しみの笑みが浮かぶ―――一体何処へ逃げようと言うのだ。
もう此の身は何処へも行けはしないというのに。
此処しか、居場所が、無い。
唯一の居場所なのに逃げてきてしまった。
どうして…。
「ふ…」
自然と浮かぶ自嘲は悲しくもあり寂しくもあり。
己を慰めるものでもある。
男は黒く揺れている地面を見つめていた。
触れれば折れそうな程に細くなった月影のみを頼りに、反射する光。
波間に消えてゆく泡に思わず心惹かれた。
(もし、このまま―――)
どんなに愚かな道だと言われようが、逃避の為と言われようが。
楽に、なれるのであれば。
男が一歩その海へと近付こうとした時。
「ウォーダン!」
夜の静寂に響く波のさざめき以外の音。
己を引き留める声。
再び其の姿を目にしてしまえば、もう楽になれる道へは足が進まないのだろう。
分かっていても、どうしても。
男は足を止めてゆっくりと来た道へと視線を戻す。
振り返れば、肩を上下させながらこちらへ走ってくる人物が居る。
その後ろに長い金糸の髪をなびかせながら、歩いている人物も。
2つの人影を朧気ながら視界に収めた。
(だが、きっと……)
辛い。
此の心は何度だって。
悲しみ、嘆き。
此の瞬間に諦めてしまったことを思い出す。
―――何を?
「ウォーダン」
「ウォーダン!」
(呼ぶな)
二人の人物は、男の名を呼ぶ。
歩いてきた人物はゆっくりと静かに。
走ってきた人物は焦りを露わにしながら。
男を思い遣る、気持ちを込めて。
(呼ばないでくれ)
もう、俺は。
(喪いたく、無い)
「……」
「何処へ行く気だ?」
「…知らん」
潮風にはためく前髪は、細い月の光と同じ、薄銀の輝き。
全てを断つことの出来る剣であり、今にも切れてしまいそうな琴線でもあり。
後もう二三歩の所で、立ち止まり様に問うた。
非道く投げやりな気分になっていた男は乱暴な言い方をする。
何が、そんな気分にさせたのかは解らない。
―――記憶が戻らないからか?
(違う)
確かに気にはしている。
ずっと、取り戻したいと思っている。
今までの己についての記録。
現在へと繋がる軌跡。
知りたいと思うのはごく自然の事の筈だ。
だが。
―――ならば何故焦らない?
(俺は)
記憶を失った人間というのは、普通己自身の記憶にもっと拘泥するものではないのか。
真に強く切望し続けるのではないのか。
欲しいと、取り戻したいと、全てを知りたいのだと。
不確かな現在に心揺り動かされ、焦りを覚える筈なのだ。
どんなに繰り返し夢に魘され怯えようとも、欲するは我が心。
求むるに敵わず。
「君は、何処かへ行きたいのか」
混迷の渦に嵌り込んだ男を引きずり出したのは凛とした声だった。
近付く気配と、砂を踏みしめる音。
僅かな明かりに照らされて、その瞳が輝く。
深き森の色。
優しさと厳しさを併せ持つ者。
彼の者が告げるは己が名。
記憶という地盤を失った己が唯一信じているもの。
彼の男が教えてくれた、“自分”。
「…ウォーダン・ユミル」
「……」
青年は、己より少し背が低い。
そんなことに今更気付いた。
細身の身体に、彼の男とは又違う、強い意思を秘めて。
見上げる様にして男の言葉を待ち続けている。
引き出そうとしているのだ、言葉を、心が発する真の想いを。
「別に、何も」
「……」
「ただ―――」
咎めるのでも無く諫めるのでも無く。
青年の瞳は静かにこちらを圧する。
男の薄い銀の瞳が、その強さにたじろぐ。
己でもどう表現して良いのか分からない此の想いを口にするべく。
目の前の人物が引き出したものであるならばと。
「どうしても―――俺、は」
「……」
「俺は、お前が」
(お前の傍に居ると落ち着かなくなる)
どうして?
其の優しさに不安を覚える。
そして其れはゼンガーの傍に居る時も同じ。
幼子の様だなと笑われながらも頭を撫でられる時。
泣きたくなる様な、嬉しさと不安、が。
我が胸中には生まれ出る。
何故―――…?
自問自答した末に出た結論が、今回の行動だというならば。
己は其れに従うしか無い。
他に、道は。
「帰ろう…共に」
「!」
青年の掌がそっと男の額に触れた。
大きく引き攣れた傷跡。
其れが何故についたものであるかを知っているからこそ。
言葉を遮り、小さく微笑する。
否、男の思考ですらも留めて。
「帰ろう…我が家へ。此処に居ては、身体も冷えてしまう」
「………」
「まだ、無理か…?」
男が頷く。
ぎこちない首の動きをしていても、肯定の意ではある。
青年の言葉を受けて、驚きに見開かれた薄銀の瞳が決断に揺れている。
己が取るべき道はどちらかと決め倦ねて、居る。
其処へ二つ目の鐘が鳴る。
―――目を覚ませ、お前は。
「お前は何を悩む?」
「ゼンガー…」
「そして何に怯えている?」
「!!」
その呟きに目を見張る。
同じ色をした髪と瞳。
似ている様で似ていないのは其の心なのか。
心が、何れかの差異を生み出したのか。
青年の隣に並び立つ、己よりも少し大きな人影が言う。
「喪う事に怯え、人と触れ合う事を忘れてしまうのであれば…何も知りたくないと願うのであれば」
「……」
「お前はいつまでも満たされず、虚空を彷徨う事になる」
「……」
「来い、俺達と共に。もう二度と」
―――お前を悲しく虚ろな存在にさせはしない。
「独りになる事は無い」
「其の保証が何処にある…!?」
差し出された手は目が眩む程に甘美で。
又、月影の優しさと太陽の強さを併せ持ち。
己を導いてくれる、もの。
しかし淡々とした口調で続く言葉に、男が反駁する。
底知れぬ、不思議な恐怖。
まとわりついて離れない悪夢。
魘され、飛び起きる度に。
震える手を押さえたのは己自身。
大切な者を喪うという本能的な怯えが在る。
消えない傷と同じく。
「だが、私は君と共に居たい」
「…!」
止めろ。
止めてくれ。
そう叫びたいのに声が出ない。
「確かに保証は出来ない。いつこの身が戦場で果てようとも知れぬ」
「ならば!」
「だが―――君が居てくれるのであれば、私達は必ず帰ってくる」
「な…」
男と青年が交互に告げる、想いを、導きの手を、差し伸べて。
己の前に示してくれる、一つの道へと。
けれど。
(嫌だ…!!)
もう嫌だ、もう喪いたくないと。
大切なものを得て。
大切なものを喪う。
そんなことを繰り返したくないから、今、こうやって。
唇が、震える。
「君が、私達の生き残りたいという意思の一つになる」
「守るべき者の在る戦いは、何よりも生き残る為の戦いになる」
―――生き延びろ、帰る為に。
『またこうして互いに逢いたいものだ』
『逢いたいと想うからこそ、生き残りたいと想うのだろう?』
『そうだな』
懐旧の彼方で交わした、契約。
己が己自身に課した言葉。
どくん、と心臓が大きく脈打つ、今初めて目覚めたかの様に。
少しずつ心に流れ込んでくる、温かな何か。
「だから帰ろう。私達の場所へ」
「お前が居るべき場所へ」
示された館には温かい光。
男を迎え入れるべく待ち侘びているかの様に。
(俺はどうしても)
無意識の何かが反発する。
言葉の端々に想いを感じていても。
何処か、警告灯が鳴り止まない。
いつか。
きっと。
そうだったとしても。
今は。
(この手を―――俺は、とりたい)
この手をとる事で新しく開かれる未来の結末が残酷に過ぎるものであったとしても。
きっとこの二人と一緒にいるのであれば。
「ウォーダン」
「行こう」
「…ああ…」
そっと青年の掌に触れ。
一歩を踏み出して、歩き出した。
先導するのは銀髪の男、一切振り向きもせずに。
手を引くのは金髪の青年、時折微笑を投げかけながら。
誘いの囁きが耳へと滑り込んではいたものの、最後に男が続いた。
お前が選んだのは悲しみの道。
新たな絶望の鎖を持って。
―――――いずれ又我らは再び相見えん。
海の漣か、通り風か。
然れども。
其の囁きは今の男には届かぬもの。
***
「…困った事だな」
ベッドの傍にある灯りを消す前に青年が呟く。
三人で揃ってホットミルクを飲んだ。
『君は猫舌なのだな』
其処はゼンガーと同じなのだなと談笑し合い。
瞼が自然と落ちてきた男をベッドまで運んで、本当の眠りに落ちるまで二人一緒に手を握っていた。
穏やかに、安らかに。
幸せそうな顔をして。
『久々の眠りだろうな…』
男は部屋を出る時にそう言った。
「だが同意の上だ」
そうだろう? と確認の意味を込めて男が言い返す。
「……確かに」
青年は苦笑を浮かべながら、窓から見える月へと視線を移し、其の茫洋たる輝きを眺めていた。
泣きたいのに泣けない、人形。
自らの意思では泣く事が出来ないのだ。
彼にとっての涙とは、悪戯な雨の様に気紛れな唯一粒の雫が生まれるだけ。
人であれば誰でも当然の感情に戸惑い、苦しみ。
理解出来ない、言葉にすることの出来ない心を持て余して、一人孤独に打ち震え。
そうして彼は今まで―――?
ぽつりと呟く。
「彼は確かに君に似ている。だが、君ではない」
「無論」
「強く脆く、限りなく純粋な魂」
「………」
時折見せるあの脆さは現在への警告なのだろうかと男は考える。
本来であればもう二度と交わることの無かった道を、己は選び取ってしまった。
あの時。
彼が目の前に現れた時に。
決断するべきはもう一つの選択肢だったのか。
あれ以来何も言わない青年は、だがしかし依然として最終的な選択肢を捨てはしないだろう。
己ばかりが迷い続けているのかも知れない。
「危ういが逞しいな」
小さく微笑を浮かべた青年の言葉に一瞬困惑の表情を浮かべ。
「…其れは褒め言葉か?」
「ああ」
返ってきた答えに対し。
複雑な面持ちで腕を組んでいた男に、青年が近寄る。
気付いた時にはもう遅い。
正しい間合いを取る事の出来なかった己の迂闊さを呪う。
「―――それよりも」
「何だ」
「久しぶりに帰ってきたと言うのに。淡泊だな」
危険な薫りのする、雰囲気。
己の脳内では警告信号が点滅している―――早く、どうにかしなければ。
しかし青年の瞳に射抜かれて身動きがとれない。
無駄とは知りつつ微かな抵抗を試みる。
「いつもの事だろう」
我知らず、後退りを始める身体。
視線だけは逸らさずに。
翠玉の瞳の奥には挑戦的な光が覗く。
「普段? こんな緊急事態でも?」
「……其れは」
「どれだけ私が」
「ん…っ…」
相手が言い淀んだ隙を狙って。
反論を赦さず、青年が相手の唇を奪った。
啄む様な一瞬の口付けの後で青年は続けて言う。
「心配したと?」
「だ、か…っ、やめ…!」
「―――今夜は其れを解って頂こうか」
「…っ…!!」
男は力無く口を開閉させたが、青年の微笑の前に掻き消える。
「も、もう二人きりでは無いのだぞ…ッ!?」
「分かっている。其れがどうしたと言うのだ?」
「!!」
あっさり。
開いた口がふさがらないというのは正にこの事か。
男が最終兵器だと思っていた台詞でさえ、青年の前には何の役にも立たなかった。
寧ろ逆に痛い所を突かれてしまい。
「…剰り大声をあげると……彼を起こしてしまうかもしれんな?」
「っ!」
「すまないが…涙目で抵抗されても、今夜は手加減出来そうにない」
「ちょ…待てッ、えるっ―――」
「ふふ…」
久しぶりに目にした艶やかな微笑を伴って。
そっと青年の唇が、男の反論を塞ぎにかかった。
此は始まりなのか終わりなのか。
誰も知らない。
待っているのが絶望か希望かも分からない。
けれど願うは皆等しく。
共に在る、事を。
切に。
<了>
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writing by みみみ
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