【 人形の夢5 】

 違える事は無い、その存在。
 唯一の。

『…俺は、お前と共に居たい』

 青年の脳裏にはいつかの記憶が蘇る。
 過ごした時間は短くとも、想いは深く付き合いは固い。
 喋る事を得意とせず、己が心情を吐露する事など滅多にしない不器用な男が、初めて想いを口にした瞬間。
 逸らすことなく視線を此方へ向けて、言い放った言葉の意味を。
(君は分かっていたのだな)
 誓いでは無く、希望を口にする。
 共に居よう、と―――そう言ってくれた人。
 血で錆び付いた心を溶かし、汚れた手に触れる人。
 剛胆な様で居て、優しい。
 強く脆く。
 だが真っ直ぐな心を。
(ゼンガー……)
 青年は気配を押し殺したままでずっと室内の様子を窺っていた。
 途切れ途切れに聞こえる会話が今は随分と大人しくなったのだが、何をしているのか分からない為、
焦りを覚える一方で部屋へ踏み込む訳にもいかない。
 不気味な程の静寂が、廊下には充ちている。
 其れは室内とて同じ事だろう。
『俺に任せてくれ』
 頑固な男が一切譲らずにそう懇願したのだ。
 ならばそうしなければなるまい。
 どちらかが折れなければいつまでたっても平行線のままで。
 それでも互いに退こうとはしない。
 勝てないとは知っていても、反論せずには居られない―――君の身を何よりも案じている。
 だから。
(取り越し苦労で無い事を願いたい)
 静かで穏やかな気配。
 嵐の起こる前触れでは無いのか。
 時がゆっくりと流れてゆくだけのように思える。
 背を壁に預けたまま、組んでいた腕を解いた。
 長い金糸の髪は自身の心に応え、決断と迷いの間で揺れる。
 青年は先程から懐で振動し続ける其れを無視するわけにもいかず、かといってこの場を離れ難く。
 海を渡る黒き方舟からの呼び出しが。
 今この場にあっては尚辛い。
(君を置いていけというのか…?)
 苦渋の選択。
 自身が選ぶべきは。
 今、男に尋ねれば迷う事無くこのような返事をされるだろう。

『俺はお前に守られねばならぬほど、弱い男ではない』

 そしてこうも告げるだろうか。
 初めて出逢った時より何ら変わらぬその意思で。
 君は、私に。

『俺達の為している事が、一個人の都合で簡単に止められるほどのものであるならば―――』

 銀の強い瞳。
 薙ぎ払い、他を圧倒す。
 躊躇い無く斬る事の出来る剣。
 迷いの鎖を、絡められた思考を、その想いさえ。

『―――今までの俺達の行動全てが、無に帰すのだろうな』

 怒るでもなく諭すように。
 男は信念を貫く。
 なればこそ、その隣に並び立つ者として。
 背を預けるに相応しい者として。
 ―――私は行かねばならないのだな。
 青年は翠玉の瞳を細めて笑う。
 信じるしかないのであれば。
 出来る事は、ただ一つのみ。
(武運を、我が友よ!)
 颯爽と踵を返すと己が足を戦場へと向ける。
 約束された死地へと赴く。
 未だ死にはしない。
 死ぬ訳にはいかぬ。
(君を守りたい心に嘘偽り無く)
 決意の為に一度は閉じた瞼を、開く。
 振り返ることはしない。
 歩を速めて。
(だが私の役目を果たしに行こう)
 ―――君に怒られない為にも。

***

 室内。
 窓の外の景色を眺めながら、銀の瞳がある事に気付く。
 廊下に、青年の気配が無い。
 己の肩に額を乗せて黙り込んでいる相手が其れに気付いているのかいないのか。
 先程から大人しいままだ。
 不意に自問自答が始まる。
(……お前が向こうの世界での俺であるならば?)
 一体何を見てきたのだろう。
 何を感じていたのだろう。
 己の考える死別とは戦場に棲む者であれば、皆平等に訪れるもの。
 戦場に生きて、戦場に果てる運命―――寧ろ今までは其れ以外など考えもしなかった。
 胸中に浮かぶ人影が振り向き、普段通りの微笑を浮かべる。
 共に戦場へ赴く時の、風景。
 無論、簡単に死ぬような男では無い。
 死ねる筈も無い。
 だが。
(………)
 男の瞳が、銀の瞳に宿る意思が、揺れた。
 彼女――ラミア・ラヴレス――の話を聞いてから終ぞ消えぬ不安。
 当たり前の恐怖。
 気付かなかっただけで、ずっと傍には。
 あったのだ。
 そこで突然、傷に触れていた指がぴたりと止まる。

 お前の最期を、俺は見る事が出来ない。
 最期に交わした言葉さえ、俺は覚えていないだろう。
 触れた温もりさえ忘れる程の冷たいお前に、俺は会うのかも知れない。

「…?」
 隻眼の男は怪訝な表情をして男を見上げた。
 同じ顔つき、同じ色の髪と瞳を持つ目の前のこの男が一体何に心惑うのかと。
 未だ何に想いを馳せているのかと。
 何故か共有してしまう想いを感じている。
「(…何に―――。?)」
 思考が其処へ向かおうとすると、こめかみに痺れ。
 微かな頭痛に襲われた。
「(これ、は……)」
 失った記憶の断片が発している警告信号か。
 呼び戻すべきではない、再生されてはならない類の事なのか。
 しかしどうして。
 無理やり意識を引き剥がしにかかる。
 沈み掛けた深層の奥底よりかえってくる心。
 微かに震える手で額を押さえ、呼吸を整えようとゆっくりと息を吸う。
 立ち眩みによく似た、軽い眩暈。
「(………)」
 ―――俺は。
 掴んだものが消えてゆく。
 本当にしてみれば、何も掴んでいないのかも知れないが、触れてはいたかもしれない。
 一瞬、何かを思い出しかけたような気がするからだ。
 少なくとも、ほんの切れ端に手が届いたと思う。
 温かいものと、冷たいもの。
 やけに曖昧過ぎるその二つが、今確かに足りない。
 非道く感覚的な記憶の断片に惑わされる。
「記憶など、無くとも…!」
「…何?」
 薄銀の瞳が苦しみながらも決意を込めて、男を睨んだ。
 其れを真正面から受け止めて、続く言葉を待つ。
「記憶など無くとも―――生きてゆける、俺は」
「…そうだな」
 男は小さく微笑した。
 強く揺るぎ無く。
 見るものを貫く。
 昔上司が言っていた言葉を、口に出してみる。
 己へと言い聞かせる為にも。
「今この世に生在る者が、過去に縛られるのは悲しい事だからな」
「ああ」
 男の脳裏には前の戦争で散った同僚の顔が思い浮かぶ。
 悲しみに支配され、憎しみに身を焦がし。
 其れがどれだけ空しい事と知っても尚。
 最期の瞬間まで。
 ―――貴方にとって過去とは自身への苛みでしかなかったのか?
 忘れろと言っている訳では無い。
 覚えていなければならない事だった。
 唯、剰りにも。
 行き着いた先は救い無き終末。
 喪った記憶を、持つが故に。
 上手くその記憶を受け容れる事が出来ず、赦す事も出来ず。
 忘れる事さえ不可能だった哀哭が、彼を復讐の修羅へと変貌させたのだ。
「お前ならば…」
「何だ」
 ゼンガーはウォーダンに向けて言う。
「大丈夫だな」
「…? どういう意味で―――」
 その言葉を受けた隻眼の男には正直戸惑いを隠せない、隠された部分を知りたくて。
 やけに自信に満ちあふれた表情で、銀髪の男は此方を見つめてきた。
 だが肝心の理由が分からないので余計に困惑する。
「……。おい?」
 唐突に、男は立ち上がり部屋を出て行くかに思われた。
 答えが与えられぬままでは気分が悪いと言おうとしたが、男が振り返る。
 その胸に一つの結論を出して。

 彼がこの場を去った理由。
 去らなければならなかった理由。
 我らが真の役目と、優先させるべき事。
 現在のこの状況と、愛しさによる焦り。
 其れを知った上で―――天秤にかけた上で、きっと。
 でなければ。
(…お前が出て行く筈が無いな…)
 あれだけ散々食い下がっていた人間がいつの間にか姿を消す理由もあるまい。
 帰ってきた暁には一体何を言われるやら。
 今の内から対策を立てておかねばならないだろうに。

 内心そんな事を考えつつ、苦笑をしながら呼びかける。
「ウォーダン」
「何だ?」
「自由に―――なりたいか?」
「!?」
 此の問が如何に危険なものであるかは解っている。
 帰ってきた青年に何と言われるか、今すぐにでも容易に想像が付く程。
(と言って、問わぬ訳にはいくまい…?)
 この男を閉じ込めておく事など出来ない。
 まずは普通に考えても不可能だと思うのだが、
己とよく似た頑固な部分を鑑みると寧ろ禁止されればされる程意固地になって出ようと試みる様な気がする。
 真っ直ぐに強い意志の瞳と、子供の様な好奇心。
 全てを見据え、知ろうとするのか。
 唯一つの瞳で。
 男を追おうとして立ち上がった隻眼の男に再度、問い掛ける。
「外に、出たいか?」
 帰ってきた言葉には明らかな警戒の色。
 此方の真意を取りかねる、と言った硬質的な声音。
 逆に問い返された言葉にも其の意が含有されている。
「……。俺を閉じ込めておきたい筈では無いのか」
「―――。無理だろうな」
「……」
 隠した所でいつかは知ってしまう事実が数多くあるのだ、隠すだけ無駄というもの。
 それでも躊躇うのは義務感。
 世界を陰から見守る者としての責任。
 再び混沌が訪れるのではないかという危惧。
 本来であればこの時点で迷いなど生じてはいけないのだ。
 まず、問う事すら。
『君は正気か…!?』
(お前なら、そう言うか)
 そう言って引き留めてくれる存在も今はこの傍に在らず。
 己のみの判断で、全ての運命が動こうとしている。
 鋭利な銀の瞳に浮かぶのはほんの僅かな、だが全てを突き崩す綻びの為の翳り。
 引き返せない。
 何があっても。
 今この瞬間の判断で、この先の未来が変わる。
 身体の横にあった腕をゆっくりと持ち上げて強く胸の前で握る。
「…難しい、が…」
「が?」
「(―――お前を、信じてみたい)」
 お前の可能性を。
 共に歩む事の出来る未来を。
 其れは無理な願いだろうか、無謀な挑戦だろうか、無駄な事にしか過ぎないだろうか。
 夢でも幻でも、一時の束の間でも良い。
 信じたい。
 男の真っ直ぐな視線と重い沈黙に応え、相手は軽く溜め息をついた。
 苦笑混じりの其れに自然と男の肩が下がる。
「…俺とて命を拾ってもらった相手には逆らわん。大人しくしよう」
「……本当に?」
 半分を挑発、もう半分を真意として放った言葉に隻眼の男が目を細めた。
 瞳を覗き込む等と生易しいものではない、唯一の瞳が全身を射抜く。
 凛とした声で、目を覚まさせる様な音で。
 耳朶を、うつ。
「ゼンガー」
 薄い銀の瞳には一切の感情がない。
 揺らがない。
 迷わない。
 真実だけを今述べよう。
「俺はお前を信じている、だからお前も俺を信じてくれ。…頼む」
 懇願の形を取っては居ても、まるで違う気迫。
 打てば響くが寺院の鐘の音。
 触れれば切れるが白刃の証。
 曇り無き輝きと。
 迷い無き音色と。
 己自身が確かめたかった事は全てすんだ。
 理屈ではない、感情でもない、もっと心の奥底で何か。
 これからに繋げる事の出来る想いが定まった。
 信じる事をお互いに願った。
 きっともう大丈夫だ。
「…承知」
 男が低く呟くと、隻眼の男はベッドに突然倒れ込んだ。
「!? おい―――」
「全く…たったこれだけの確認に……大した神経の張り様だな」
「……ああ」
 呆れた様なその呟きに、男は苦笑する。

***

 並べられた機械の棺に収まる人形を睥睨しては、舌打ちをする男。
 一方その事に注意するのも飽きてしまって、だが男を放っては置かない女。
 静寂が支配する研究室で又今日も。
『不安定、だと?』
 紅い髪の男が発した台詞に、同じ色の髪の女が頷く。
 内容に比べてその所作は軽い。
『…どんなに調整しても直らないのよ。“彼”を安定させる為にはメイガスの存在が必要不可欠だわ』
『矢張り失敗作だったか―――』
『あんまりそう簡単に言わないでくれる?』
 男のさもあらんと言った態度に、腹を立てる様子を見せながら特に拘泥もなく女が言う。
 どんなに感情を表に出そうとしても、何処か作り物めいている。
 真に迫る事の出来ない、彼女の限界が其処にはあるのか。
(…分かってはいるのにね)
 落ち着き払った声しか出せない、感情的にはきっと一生なれないまま。
 だがそれでも振る舞おうとする。
 ―――其れ、人間らしく。
『定期的にメイガスと接続さえ行えば、後は大丈夫よ? 
運営するに置いては支障無し、戦力的には十分って所じゃない?』
『確かにあの攻撃力は、ベーオウルフ達をも怯ませたが…』
 此方の世界での実績は既にある。
 目の前で、この存在は如何に通用するものであるかを知っている。
 向こうの世界も似た様な物であるならば、きっと同じ結果が生まれるはずだ。
 同時に博打めいた抑止性を期待する事ともなるのだが。
 更に淡々とした口調で言葉が続く。
『攻撃性は上げてあるのよ』
『なに?』
 暴走した場合のリスクが大きくはないかと、男が言おうとした。
 其れを遮る形で彼女の説明は続く。
 研究者にとっては如何に研究が続けられるかが焦点になってくるのだ、必死になるのも至極当然。
 そう易々と他者に自身の研究成果を否定されたくない事もあるだろう。
 とりあえずは大人しく聞いておく事にした。
『彼の第一原理は“メイガス”と“命令”―――貴方でもあり私でもあり、あの人からでも良いの。
そして“命令”は“メイガス”を守る為に必要なものとしてインプットしてある』
『……』
『反逆という名の暴走は有り得ない。彼の剣は決してこちらへは向かない、折れる事も無い。
彼が“メイガスの剣”たり得るのは私達に従う時のみ』
『“メイガスの剣”?』
『思考プログラム整理中に見つけた、彼の意思』
『…下らん』
『……そう、簡単に言えるかしら?』
 吐き捨てた言葉に、疑問を投げかければ。
 女の視線を男は受け止めた。
 何かを言いたげな瞳を睨む。
『兵士に闘う理由は要らなくとも、人間には闘う理由が要るでしょう?』
『―――こいつらは“人形”だ! 其れ以外になる必要が何処にある!?』
 男は机に拳を叩き付けた。
 その恫喝に怯むことなく女は喋り続ける。
 何度こんな言い合いを繰り返してきたのか、答えは疾うの昔に出ているというのに。
(知って、居るんでしょう…? 分かって居るんでしょう―――それでも貴男は抗おうとするのね…)
 無益だとも知りつつ、この討論を中断させた事は一度たりとして無い。
 知っていても、分かっていてもやらなければならない事がある。
 傍目から見れば、愚かで滑稽な行為。
『命令に従い、任務をこなす! その画一的動作の何処に…!?』
『兵士は“人形”であればいい―――でも、永遠の闘争をし続けるのは、人間だけよ?』
『……!!』
『どんなに技術が進歩しても、“人形”の思考には不変的ランダム性など生まれない。
人間だからこそ、次の手を又更に次の手を思いつく』
『だが…』
『勿論、人形は必要だと思うのよ…でも其ればかりあっても、きっと駄目だわ』
『兵士が…兵士は、人間でなければならんと言うのか…お前は?』
『でなければ―――』
 途切れる言葉。
 俯く顔。
 低く呟かれた言葉が男を更に。
『あの人も《扉》を開こうとは考えない』
『―――!!』
『人間だから、そんな事を考えつく…私はそう思うのよ』
 男に反論の言葉が生まれる事は無かった。
 女が真に吐露したい気持ちさえ。
(貴男を羨ましいと想う、人間らしくて)
(どんなに抑圧的に振る舞ってはみても、感情的で)
『アクセル』
『レモン、忘れるな。俺にとって…人形は人形だ』
『そう…でしょうね』
『……』
 再び、室内には静寂が訪れた。

***

「外に出ると行っても此処は孤島だからな、生憎と周りは海だけだ」
「孤島? 海? ―――一体何をしたんだお前は」
 一人はベッドに腰掛けて説明をし、もう一人は完全に俯せの状態で話を聞く。
 ほんの数分前までの緊迫した雰囲気は何処へ行ったのか、今は随分と軽快な空気だ。
「違う、ただ…」
「ただ?」
「表舞台には立てんだけだ」
「やっぱり何かしたんだろうが」
「……」
(確かに許されざる事ではあったが、こう何か上手く説明が)
 世間的には隠れ家と呼ぶべきこの場所。
 ここを使用する事になった経緯を何とか上手く説明出来ないかと試行錯誤したが無駄だった。
 己の説明不足を呪いつつ、面白そうに瞳を細める相手へ言う。
 いつの間にかベッドの上でくつろいでいる辺り、どうにも幼さが感じられる。
 本来持つ筈だった性格が現れ始めているのか。
 今更ながら、己の分身つまり己の可能性を直接目の当たりにするというのは不思議な事だと思う。
 この髪も瞳も―――男は無意識に手を伸ばして触れた。
「ウォーダン…ユミル…」
「ん?」
(出来の良すぎる、模造品)
 創られた存在。
 誰の、為に?
 何の為に?
(お前は生まれてきた? 俺の前に現れたのだ)
「?」
「……」
 無表情であってもその瞳の奥に憂いがある事をウォーダンは知っている。
 ただし肝心の相手は何に迷っているかを答えてはくれないので、対応に困るだけだ。
 無言で見つめられた所で、返せる言葉はない。
 むしろ必要ないのかも知れないが。
「(何に迷う? ゼンガー)」
 その胸の内を口にして、言葉として示す事は滅多に無い。
 否…する事が出来ないというのに近いのか。
 不器用だ、とても。
 抱え込むだけ抱え込んで。
「(耐えられるものか)」
 隻眼の男が伸ばされた腕を掴んで、強く引いた。
「ゼンガー!」
「…っ」
 漸く我に返った様な面持ちで、焦点の合う銀の瞳には己の姿。
 心配という、焦燥の色。
「結局、俺はこれからどうすればいいのだ?」
「あ…ああ、それか」
「其れ以外に今何がある」
「すまん。…少し、ぼんやりと」
「考え事でもしていたか」
「……」
「目の前にいる当人を放っておいて余裕のある事だ」
「………」
 皮肉めいた言葉にさえ反論しない。
 黙って非難を受けている。
 大仰に溜息をつくと、肩を叩く。
(何故逆の立場になっているのだ―――)
 不思議な事ではあるが、そうならざるを得ない。
 目の前で沈黙を続ける――表には出なくとも落ち込んだ様子の――男がこうである限りは。
 額をぶつけそうな程の至近距離に、視線を投げつけて告げる。
「お前が動かなければ何も始まらん。俺は、お前の言う通りに動くのだから」
「……。承知」
 ゆっくりとだが銀の瞳には英知の輝きが宿る。
 本来の姿へ戻ってゆく。
 その事に安堵を覚えつつ、次の言葉を待った。
「幾つか、注意点がある」
「制限か」
「無論…。この屋敷でお前が生活する上で重要な事だ」
「確かに―――。未だ、俺に対する嫌疑はあるだろうからな」
「……。一つ目は、調理場に踏み入らない事」
「…何?」
 真面目な顔をして何を言うかと思えば故事曰く“男子厨房に入るべからず”と。
 別段男子に限っている訳ではないが、とりあえず立ち入り禁止と言い渡されたのだという事に、
耳から脳までの到達に数秒かかってしまった。
 予防策としては。
「…俺が包丁でも持って暴れ出すからか」
「いや、それだけでは無い」
「?」
 他に一体何の理由が存在するのか。
 そう問おうとした瞬間。
「あの場所は…戦場だからな」
「? …?」
 額に脂汗でも浮かびそうな程、重苦しい雰囲気で放たれた言葉には相も変わらず納得が行かない。
 思わずその雰囲気に呑まれて質問出来なくなったまま、続いて言い渡された事も矢張り。
「二つ目は書斎に入らない事」
「書斎? そんなものまであるのか」
「…必要最低限の物しか置いては居ないが、元々は別荘だったらしい」
「その名残、か」
「此でも最初と比べれば随分と家具が増えたのだがな…。とりあえずはその二つだけだ」
(後は臨機応変に対処するしかあるまい―――)
 実際には随分と改修を行ったと聞く。
 余り手入れをしていなかった事もあり、未だ開けられていない部屋もあるのだから。
 己とてこの屋敷について詳しい訳では無い。
「ふむ…」
「何か質問は?」
 己が入る事の出来ない理由を是非問いたいのだが、そう言う雰囲気でもない。
 多分問い返した所で“入るな”と繰り返し念を押されるだけだろう。
 もっと厳しい事を言われるかと思っていた割には案外楽な制限だった為、逆に拍子抜けしてしまう。
「…無いな、特には」
「そうか」
「後は、この屋敷を見て回るくらいか」
「では」

 ゼンガーが屋敷を一通り案内した後にウォーダンが尋ねた。
 よくよく考えれば普通の事ではある。
「お前以外の人間がいるな」
「ああ。だからこそ、大人しくしていなければならない」
「さっき言っていた厨房の主がもしかして―――」
「うむ」
「成る程、戦場か…」
「わざわざ己が不得手な場所へ飛び込む事も無いだろう」
「ああ、特に興味も無い」
 廊下を歩きながらそんな会話を繰り返す。
 少しずつではあるが、口数が増えてきた様子。
 だが、突然後ろを歩いていた男の足が止まったのを感じて振り向く。
 一瞬だけ、薄銀の瞳が細められ。
 不意に何故かとても懐かしい気分に襲われた事を見過ごして。
(何だ…心が、ざわめいている…?)
 一度は閉じ込めた筈の記憶の蓋が、動く。
 瘡蓋が張ったばかりの傷の痕の様に。
 足下から忍び寄り、蠢く何か。
 不安に、陥る。
「ウォーダン?」
「大丈夫だ」
 怪訝そうに顔を覗き込んできた相手を気遣うが、払拭出来る筈も無く。
 今まで歩いてきた場所を振り返る。
 己の寝ていた場所は客間なのだと知った。
 ドアを開けてすぐ左には階段があり、2階にはこの男ともう一人の人物用寝室があるという。
 後は殆ど物置状態らしく、埃が舞うのでやめておけと言われた。
 下へ降りるとすぐにあるのはダイニング。
 右奥に先程の厨房、玄関近くに書斎。
 一体何処で此の心はざわつき始めたのだろう……。
 気を紛らわせる為に、別段取り留めの無い事を喋る。
「古い建物だな、今時珍しく」
「(今時、と来たか―――)」
 踏みしめれば音の鳴る床に対しての感想に、ゼンガーは考える。
 ウォーダンには何の兆候も顕れない。
 単なる記憶喪失で、自身に瓜二つなだけの人物になってしまっている。
 既に特殊な条件が二つも挙がっているのだが、それ以上に危険な要素が表に出てこないのだ。
 そうならそうと、危惧していた事が外れであればいい。
 そう願わずには居られなかった。
 男が呟く。
「古い物には、古い物の良さがある」
「……」
「全てが新しくなければならない道理は、何処にも無い」
「…そうだな」
 立ち止まり、古びた柱に触れながらそう呟かれた言葉に首肯する。
 優しく穏やかに想いを馳ながら紡がれたもの。
 其れは風情、と呼ぶべきものか。
 情緒、とでも言うのか。
 忘却の彼方に置き忘れた、懐旧の慕情か。
「良い所だな」
「…ああ」
 満足そうに、隻眼の男が微笑する。

***

 繰り返し繰り返し、その声に呼ばれている。
 誰なのかは分からない。
 何なのかも知らない。
 知っている様な気もするし、知らないのかも知れない。
 男の夢の中には届く言葉がある。
 響く、声。

 思い出せ 貴様の名を
 貴様の真たる使命を
 我等が剣は未だ折れず
 思い出せ 貴様が役目を!

「う…」
 ベッドの上でシーツを握りしめ、呻く。
 全身が硬直し、苦痛の表情が浮かんだ。

 お前は戦う事を宿命付けられた者
 決してその輪から逃れる事叶わぬ
 戦わなければならない あの男と

「(―――あの男?)」
 気が付いている、俺は戦う者なのだと。
 逃れる事など出来はせぬ。
 きっと此の身滅びる場所は、戦場。
 血塗られた骸が塵になる場所と決まっている。
 だが、しかし。
「(誰と、戦うのだ?)」

 一度は敗れし我等が主
 影たる宿命の楔を破る為に
 倒さなければならない 己の為にも!

「う、あ…」

『俺は、お前を信じている』
『…君と私が、敵になるとしても?』
『無論』
『甘いな…戦場で相見えるとき、君は私に殺されたいのか?』
『そんなつもりは毛頭無い』
『ならば、何故そんな科白をはけるのだ―――』
『お前に対し…迷いは生じん』
『…そうか』

 会話。
 恒久の懐旧。
 遠からず近からず、時は満ちるだろう。
 本当は幾つも思い出した事があるはずなのに、其れは掴む前に消えてゆく。
「…!」 
 男は浅い眠りを繰り返していた。
 何度と無く、寝返りを打ってみても眠ることが出来ない。
 あれだけ長い間眠っていたからだとも思うが、実はそれだけが理由ではなかろう。
 魘される夢を見続ける、何度も。
 酷く喉が乾いて、目が覚める。
 嫌な予感、不快感ばかりが募る一方で、夢については何も覚えていない。
 悪循環。
 たった1時間が永遠のように思えた。

「………」

 何が眠りに誘ってくれるだろう。
 今までどうやって眠っていたのだろう。
 寝返りを一つ。

(あいつがいれば、もしかしたら…?)

「―――っ!」

 突然の頭痛、眩暈、吐き気。
 世界がひっくり返る。
 平衡感覚が無になる。
 正気が、消えて。

「う、あ、あぁぁぁ……っ!?」


<続く>

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 writing by みみみ

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