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はじめ通信・夏のこだま0609

赤羽北地区再開発事業まち開き式典
これからは住民自身でよりよいまちづくりを


●6月8日、赤羽北地区の再開発事業まち開きの式典が行われ、ちょっと複雑な思いで参加しました。この事業は、私の地元駅前の開発事業であり、にもかかわらず一貫して反対の立場だったからです。

●赤羽北地区は、1985年に都市計画決定された東京都の第2種再開発事業(地権者が地元に残る第1種と違い、自治体が事業主体で、転出希望の地権者から権利を買い取る、いわば「去るものは追わず」の開発)による駅前再開発の第1号です。
 都は、この赤羽北地区を皮切りに十条駅西口、池袋など「駅前シリーズ」で次々第2種開発を進めようとしましたが、バブルによる地価の高騰と、続くバブル崩壊・長期不況の中で、十条をはじめ以後の開発はいずれも頓挫。第2種駅前開発はついに「シリーズ」になりませんでした。

●赤羽北地区も、もともと駅があったわけでなく、埼京線の北赤羽駅ができた当時、周辺は庶民的な50店舗ほどの商店街と30軒ほどの工場街でした。商店街は、浮間や赤羽北の工場街で働く労働者の利用する飲食店やおかずやさんなどで、大半が借家で店をやっていたので、再開発後に残れた人はわずかでした。

●地権者の中で反対者は弱小零細な人に多く、抵抗を続けましたが、最後はバブル崩壊後の地価の下落でこらえきれずに続々と土地を売って転出しました。反対運動のリーダーの自殺という事態もあり、地域住民にとって苦渋の選択の中で事業が進んだのです。

●しかし住民運動の力で再開発住宅を実現、都が最初拒んでいた代替地を転出者に用意させたり、区民センターも実現するなど数々の改善も勝ち取りました。
 最終的には、都が亀有・大島や白鬚など全ての第二種再開発でつくった赤字総額1500億円のうち、5分の一の250億円が赤羽北地区から生じ、開発面積あたりでは、平米あたりダントツの73万円という途方もないものになったことを暴露しました。(2001年4月4日の決算委員会質疑)

●都が設計してつくった駅からのアーケードの商店街も、その先にあるスーパーライフに絶対かなわない欠陥構造で、生活用品がほとんど売れずテナントの入れ替わりの激しいことなどまでつっこんで批判しました。
 駅前広場も、店舗への搬入や一般車両の出入りがスムーズに行くよう要望しましたが、きわめて出入りしにくい形になりました。これらは都主導の街づくりの粗雑さを物語っています。

●式典では、都の建設局幹部や区長、議長のきれいごとの挨拶に続いて、地元の町会長さんがただ一人、「去っていった人」のことにふれました。開発地域にあった旧袋小学校の記念碑を除幕し、駅前交番をお披露目して式典は終了しました。式典のオープニングで、東京消防庁音楽隊の最初の曲は奇しくも「地上の星」。
 「みんなどこへいった。見守られることもなく。地上にある星を誰も憶えていない。みんな空ばかり見てる。」・・・まちのオープニングにはあまりに皮肉なこの歌詞を都や区の幹部連中は一顧だにしなかったでしょう。救いだったのは、最後の曲が「いい日旅立ち」だったこと。これからは、とにもかくにも地元の住民であるわれわれ自身がいいまちを創っていくしかないという思いで、私もこの曲を聴いていました。


 

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