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はじめ通信9−0304
飯田幸平さんの葬儀に当たり
おもいをこめて弔辞を読ませていただきました


●2月27日、雪が降りしきる中、飯田幸平さんの通夜が、板橋区の戸田斎場で行なわれました。
翌日に予定していた弔事を、そのよる、書きながらふとテレビを見ると、「朝まで生テレビ」で、政策委員長の小池晃参議院議員が、大活躍していました。
 朝の5時過ぎまでとうとう見終えてしまいましたが、なんとか弔辞を書き上げて、飯田さんの告別式に行くと、なんと小池議員が着席していたので、ビックリ。

●以下に、飯田さんとの思い出を込めた弔辞を紹介します。


  飯田幸平さんを送ることば      曽根はじめ

 昨年の夏、飯田さんが骨折して手術を受けたと聞き、帝京病院にお尋ねすると、飯田さんはリハビリが少し辛そうで、「曽根君、これは生きるか死ぬかというほどだよ」と冗談を言いながらも、気力十分という印象を受けました。

 やせてはおられましたが、きっと以前のように元気になって、お正月か、節分の豆まきの頃にはお会いできると思っていました。

 最近も、亡くなる前日まで少量ながらお酒も楽しまれていたとお聞きし、あまりに突然のことに茫然とするばかりです。

 私が飯田さんに初めてお会いしたのは、大学を出て、北区の職場に勤め始めたころ、弥生館という旅館の建物をそのまま使った共産党地区委員会を訪ねたときでした。

玄関横の路地で、薄着の格好で体操しておられたのが、弥生館の家主であり、既に区議会議員だった飯田さんでした。

飯田幸平さんは、水害でも生活相談やトラブルでも、現場に行って実態をつかむという政治姿勢をつらぬき、またそういう風に人を育てる政治家でした。

私は当時、まさかその恩恵に一番浴することになるとは思いもしませんでした。

 3年後、飯田さんが塩谷アイさんのあとをついで都議選に出馬され、見事に当選されたとき、私は地域青年むけの「若き友へ」というニュースを作っていて、飯田さんにインタビューすると「都議としてまず東京都のいろんな施設を見て廻りたいね」とおっしゃっていました。やっぱり飯田さんは現場が好きだと感心しました。

その16年後、今度は私が都議に初当選したときも、飯田さんのプレゼントは、やはり一日かけて都の障害者施設や環境研究所などを廻り、全てきちんと説明をうけるという、新人の私にできないベテラン都議ならではの企画でした。

 区議会初質問のときにも、飯田さんは多忙な都議会の合間を縫って質問原稿づくりにつきあってくれました。

廃止計画が浮上した国立王子病院を、存続させろというだけでなく、私自身、娘が小児ぜん息でそこに入院した経験から、当時すでに不足していた小児科の夜間救急の充実を求めるという点を非常に評価されました。

もうひとつは、私の政治活動の原点であり、飯田さんご夫妻にたいへんお世話になった平和と核兵器廃絶の活動経験を生かして、平和の区民世論を広げるため、戦争体験記を募集するという提案でした。

この質問は間もなく「真っ赤な空は忘れられない」という北区の戦争体験記として実現し、私の区議時代の大きな実績のひとつとなりました。

 ほんとうに飯田さんのすごさを知ったのは、私の都議会初挑戦にはじめから最後まで可能な限り一緒に行動していただいたことです。「まるで慈父のように」と、普段は辛口のローカル新聞が論評した記事をうれしそうに見せていただきました。

 それから早くも16年がたち、私もいよいよ飯田さんが都議を勤めた4期目に並び、この夏には5期目に挑戦します。毎回全力でたたかっているつもりですが、飯田さんには、まだ合格点はいただけていないと思います。

 「この間のテレビは良かったよ」とうれしそうな感想をいただく一方、手抜きがあれば厳しく指摘されました。

今年の二つの大きなたたかいは、私にとってはもちろん、日本共産党と日本の歴史に刻まれる激しいものになるでしょう。

飯田さん、ご一緒できないのはほんとうに残念です。

「幸福と平和の飯田幸平」というあの張りのある声、都議会壇上での知事を見据えての質問、初めての衆議院小選挙区候補として、雨の初日、少年特攻兵の経験から共産党員の今日までのすべてを注いだような第一声演説、数限りない記憶のなかにつらぬかれた飯田さんの政治家の魂をうけつぎ、その夢である平和と幸福が実を結ぶ日をめざして、私もまた新たに出発します。

 飯田さん、長い間、お世話になりました。ありがとうございました。

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