トップページへ  はじめ通信目次へ   

はじめ通信8−0701

「蟹工船」はなぜ今の若者に広がったか
樽商大のエッセーコンテストをヒントに

<今の時代が、いくつもの偶然で蟹工船をよみがえらせた>

●昨年、小樽商科大学は、開学100周年を3年後に控え、同大学の前身、小樽高等商業学校に入学し、後に共産党員作家となった小林多喜二の代表作「蟹工船」を題材にエッセーコンテストを行い、題材は小説でもマンガ版でもよいとしたうえ、Upto25(25歳以下)部門と、ネットカフェ部門に分けて応募を募るという、ユニークな募集をかけたところ、120点の応募があったといいます。
 今年1月の選考会で各賞作品が選ばれ、2月には入賞作品が、審査員の講評とともに新書版で「私たちはいかに『蟹工船』を読んだか」が発行されました。

●同じころ、今年1月9日の毎日新聞には、雨宮処凛・高橋源一郎対談で、学生ゼミで蟹工船が共感を呼んでいるという話題が出されています。
 蟹工船ブームはその後も下火になることなく、新潮文庫だけでも35万部、その他の出版本や漫画版も含めると50万部に迫る勢いで売れているのですから、この小説自体の内容に、今の若者をひきつける何かがあるということは間違いありません。

●ブームを加速させる上で、マンガ版「蟹工船」の果たした功績は大きいと思います。コンテストでも先にマンガを読んだという入賞者が複数いました。
 たしかに群像劇として書かれた原作より、感情移入しやすい主人公の設定や、過酷な労働現場をイメージしやすいビジュアル表現などが相乗効果を発揮していると思います。
 それにしても、「現在の若者にも理解できる」という程度ではブームは起きません。樽商のエッセーコンテスト作品をヒントに、少し考えてみたいと思います。

<現代とオーバーラップする労働実態の発見と衝撃>

●コンテスト入賞作品を読んでまず目につくのは、「最後にもう一度言わせてほしい。私の兄弟たちが、ここにいる」とか、「もう一度言う。『蟹工船』を読め。それは、現代だ」などというように、今の日本社会と蟹工船の時代をオーバーラップさせて捉える思い入れの強い言葉が、殆どの作品に出てくることです。
 20歳の佐藤亜美さんは、蟹工船を読むまでは「過労死」という表現に「仕事しすぎで死ぬことなどあるのか」という疑問をもっていたが、読み終えてからは、満員電車で今にも倒れそうなスーツ姿の男性が「疲労」という言葉を体中から放出しているのに気づかされ、多喜二の時代と現代とに大きな共通点を発見したと、率直に書いています。

●蟹工船からオフィスに舞台が変わっても、ヒトがモノ扱いされる労働で肉体も精神も破壊されていく人間の姿が、80年を隔ててなお存在することを、小林多喜二の世界が気づかせてくれたというのです。
 また、最近急速に増えてきた人材派遣会社が、あくどい”使い捨て”労働を若者達におしつけているやり方もまた、蟹工船の世界と酷似していることも、応募者の多くが語っている共通点です。
 蟹工船の労働と現代のワーキングプアの労働・・。「歴史は繰り返す」という法則が、これほど典型的にあらわれている例は、他にはなかなか見当たらないかもしれません。

●先日首都圏ユニオンの集会で、「ショップ99」で働き始めたばかりの青年が店長を任され、深夜早朝かまわず呼び出され、4日間で80時間の勤務など、過労死寸前で医者から強制入院させられた経験を聞きました。
 北区の衆議院予定候補の池内さおりさんも街頭労働相談で、「日雇い派遣で爆発事故に巻き込まれたら、病院に送るどころか、使い物にならないと金属バットで殴られた」という話も聞いたといいます。
 今の若者にとって、こうした体験は決して遠い世界の出来事ではなく、殆どが自分でなくとも身近にそういう目に遭っている友人がいるところまで来ているため、友人の愚痴を聞いて「それって『蟹工』じゃん!」という風に会話が成り立ってしまうというのです。

●蟹工船の冒頭部分に、周旋屋に騙されて稼いだ金を全部すられてまた無一文になり、命をすり減らす蟹工船に乗らざるを得ない日雇い労働者の姿が描かれています。
 この「周旋屋(=人買い業)」は、間違いなく戦後民主社会において非人道的雇用方法として10年前まで禁止されていたはずですが、今日、”日雇い派遣”の解禁とともに、ごく身近な存在として、復活してしまったのではないでしょうか。
 北区の駅近くでも毎朝30分おきに、それとなくたたずむ若者達を乗せてどこかへ走り出すマイクロバスがあります。程度の差こそあれ、これが現代版博光丸でないと誰が言い切れるでしょう。

●日雇い派遣の過酷さを自分達だけの苦しみと思い込んできた若者達にとって、実はそれが蟹工船の浅川監督が使う熱した鉄棒の代わりに、別の強制手段を使って、21世紀の今でも本質的に同じ目にあっているのだという事実は、かなりの衝撃ではないでしょうか。
 冒頭紹介したように「そこに現代がある」「そこに兄弟がいる」と見る視点は、まさにこうした具体的な体験と、そうした世界を怒りを持って告発した作者への共感から来ているといえるでしょう。

●そして必然的に「なぜなんだ。なぜ時代は100年近くも逆転したんだ」という疑問がふつふつと湧いてくるはずです。
 この大きな疑問と怒りが、最後には時代のくびきを超えて自らを解放するたたかいへのエネルギーになっていくことを期待しているのは、私だけではないでしょう。

<見えない出口を模索するエネルギーの秘密>

●しかし日本の若者による「蟹工船」の受けとめとして、もう一つの共通点を指摘しないわけには行きません。
 それは、戦前と同じかそれ以上に苛烈な現代の労働実態への驚きと怒りを共通して語りつつ、その現状を乗り越えていくうえで欠かせない人間の連帯をどのように構築していくかという点では、蟹工船時代よりもむしろ現代のほうがはるかに困難であり、もはや絶望しか見えないとする感想や、せめて自ら社会を「鳥瞰図でみる」ことや精神的強さをめざすことに解消したり、悪徳政治家や企業家に「改心」を期待したりする安易な結論が非常に目立つということです。

●卑近な例を挙げれば、韓国では米国産の輸入牛肉の偽装問題で、大統領の対米追随の姿勢を怒って、国民的大運動が繰り広げられているのに、全く共通の問題を抱えた日本ではそれが全く起きないことに失望して「もう日本人は立ち上がれない」とあきらめてしまう感覚とも共通しているでしょう。

●しかし蟹工船を読んで、結局今の日本に絶望したりあきらめるだけだったら、蟹工船は今の若者にこれほど読まれなかったでしょう。
 コンテストの応募者達が、具体的には語りきれないながらも、だれもが絶望のままでエッセーを終わらせることがなかったように、若者に、蟹工船を読まざるを得なくさせている、その模索するエネルギーが、たたかいの道筋をつかみかかっていることに、次回は着目してみたいと思います。

トップページへ  はじめ通信目次へ