はじめ通信7−0522 石原映画「俺は君のためにこそ死ににゆく」を見る ホンネは”俺は靖国のためにこそ特攻を描く”ではないか ●5月13日、自分の目で見なければ語ることができないと思い、封切り翌日、石原慎太郎脚本・総指揮の映画をみに行きました。 日曜日の朝10時ごろ、座席には三〇人ちょっと、若いカップルもちらほら見えましたが、年輩の姿が多い印象でした。ただ、その映画館では週の一日が貸切になっており、何らかの団体が組織的に観客動員をしているらしいことが気になりました。 ●映画は冒頭、特攻作戦の生みの親である陸軍将校が、作戦を実行に移す決断を部下に伝える場面から始まります。 このときすでに、戦争の当初にかかげられた「アジア解放」の大義名分は、いかに天皇制を頂点とする国体を守るかの至上命題にすりかえられ、負けると分かっている戦争を引き伸ばし、敗戦処理を有利にするために、捨て身の体当たりで敵に恐怖心を与えることが特攻作戦の狙いとされていることが語られます。 その後も、いざ出撃したものの悪天候で多くの機が行方不明になったり、ひき帰した隊長が非難を浴びたり、とにかく死ぬことが最優先とされた特攻の実態が描かれます。 ●駆けつけた妻と泣き別れで無理やり3回目の出撃をさせられた隊員は、あえなく離陸後すぐに失速して墜落。画学生の隊員は食堂にスケッチを持ってきて、死んだら蛍になって戻ってくると約束し、本当に出撃の夕方、蛍が庭に飛んで来ます。 こういう風に見てくると、この映画では、国体防衛のためにひたすら命がけで攻撃する姿を示すため若い兵士の命を犠牲にしてはばからない軍部の実態がかなりリアルに語られていると言えます。 ●後日、日テレワイドショーでのコメンテーター有田氏との対談で石原氏は、これが当時知覧で軍指定食堂を営む鳥浜トメさんの語った事実をそのまま描いた青春群像だと述べ、有田氏も真顔で、だからこの映画は戦争賛歌でも反対でもないという石原氏の発言を紹介しました。 ●映画の中でも、岸恵子演じる鳥浜トメさんが、明日死んでいく若者に門限を押し付ける憲兵に啖呵を切ってなぐられる場面も出てきます。 出演した岸恵子も番組に登場し、「第一稿は特攻を美化しすぎだったが石原氏が直接私の話をメモして直してくれた」と作者を評価しています。 ●有田氏は、この映画が戦争はいけないものだというメッセージになるし「戦争を現代の課題として考えるためにも主婦の方、子どもを持つ方にも見てほしい」などと語るのですが、評論家としてそこまで応援するうらがわに、実は二重の欺瞞が見え隠れしているように思えてなりません。 ●第1に、石原氏がこの番組の対談でも特攻作戦自体を「たたかう日本人としてとらざるをえなかった」と肯定していることを問題にしていないことです。 石原氏は「生きて虜囚の辱めを受けるな」という訓令には「国際法に反する」などと批判してみせます。しかし有田氏が特攻の命中率が16・5%だったなどと水を向けても、彼は特攻そのものを非難する発言はついにしませんでした。 その理由は、特攻という理不尽な作戦がなければ石原氏が描こうとする「美しい青春像」もありえなかったからだと思います。脚本では整備不良機を無理やり出撃させることに「これでは犬死だ」と言わせています。 しかし映画全体からは、石原氏が、生きて家族を守る道を選べないまま命を捨てる若者の姿を”美しく”描くことで、特攻精神を大いに鼓舞していることが露骨に感じられるのです。 ●第2に、若者の死がいかに無理強いされ理不尽で残酷なものであったかを描けば描くほど、その若者の魂をいったい誰が弔ってきたのかという意味で、靖国神社の存在意義が見る人に深く刻まれる仕掛けになっていることに、有田氏は全く触れていないのです。 映画の中でも「靖国神社の鳥居を入って2番目の桜の木で会おう」などというせりふが繰り返し出てきます。 この映画の巧妙さは、鳥浜トメさんのやさしさが最大のキーポイントとして強調されていることです。鳥浜トメさんが特攻兵に愛情を注いだのは、特攻作戦を支持したからではなく、むしろそのむごさへの憤りからであることは明らかで、彼女が鹿児島知覧の地に兵士を弔う灯篭や慰霊碑を建てるために奔走したことと、靖国神社が兵士達を軍の命に従った英霊として祀ることには天と地のちがいがあるにも拘らず、それが巧妙にだぶらせて描かれているのです。 靖国派が内閣を牛耳って9条改憲を策動しているこの時に、有田氏がこの番組で、”靖国”の描き方に敢えて一言も触れなかったのは、私はジャーナリズムに身を置く者としてモラルを根本から問われる卑怯なやり方だと思います。 ●石原氏は、以前外交官宅に発火物が仕掛けられたとき「テロで殺されて当然」とテロを容認する発言をしました。その思想的土台がここで描かれた世界にあるのだとすれば、立場は逆転していますが9・11はじめ、自爆テロの手法でさえ、彼は根本的には否定できないのではないでしょうか。 敵を倒すために自ら命を捨てれば英雄としてたたえられ、その死は美化される。宗教の名であろうが何であろうが絶対に合理化してはならないのだと、私は改めて肝に銘じたいと思います。 ●爆発的とまではいかなくとも、まだまだ多い石原ファンを含めて若者もこの映画をみるでしょう。突っ込んでいく戦闘機に載りこんでいると錯覚させるほどリアルな特攻シーン、生き残った兵士が死んだ仲間の実家を訪ね遺品を届け歩くシーン、恋人のために腕に巻く腕章の日の丸を自らの血で染めて渡すシーン、死に切れず戻ってきた兵士が妻と最後の夜を過ごし飛び立っていくシーン、挺身隊の少女が敵機の機銃掃射でつぎつぎ倒れていくシーンなど、これまでの数々の戦争映画の名場面とどこか似ているエピソードが今日の撮影技術でよりリアルに繰り広げられます。 ただ、私がへそ曲がりのせいなのか、最後のあまりに露骨な靖国礼賛の場面を見て、映画全体に漂う、どこか胡散臭いにおいにきっと少なからぬ観客が気づいてくれるだろうと、少しほっとしたのも確かです。 |