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はじめ通信7ー0215

教育再生会議への批判あいつぐ
「結局教育には予算をかけず、しめつけるだけ」が共通の声


 教育問題の記者のコラムなどでまともな記事が増えてきた。
 とりわけ1月に教育再生会議の答申がでてから各新聞に論評が出ているが、学校現場を取材などで観て来た記者や研究者の評価が共通して厳しく、しかも多くは的を射ている。
●1月22日の毎日新聞の小さいコラム「記者ノート」に、国が都教委の「主幹」制度をまねして全国に広げることを検討していることを紹介しながら、都では少し給与が増えても板挟みで仕事だけ増えてなりてがいないことから「お金の使い方を間違っている」と批判。それより教育予算を3から4倍に増やして優秀な教員を育て小人数学級をやれば全国の教室は一変するだろうと述べている。まさにその通りだ。
●2月6日の毎日の「記者の目」という大きめのコラムは、いじめの問題で再生会議の結論が勇ましい言葉が並んでいるが、子どもに寄り添っているのかと問う。いじめで自殺まで行きついた子の絶望を知るべきで、教師が子どもに目を行き届かせる余裕と学校や地域ぐるみで粘り強く取り組めるようにして行くことが必要だが、答申にはそれが入り込む余地がないと指摘する。
●翌日の同じコラムの記事は、もう少し屈折している。支持率急落の阿部政権で珍しくゆとり教育見直しとかいじめた子の出席停止などに若い世代の共感があるという事実を踏まえて、政府が目の前の実績作りの「突貫工事」になろうとしていると指摘している。学校の現場はもっと慎重さが必要で、再生会議や政府のやり方が、現場の混乱を助長しないかと危惧している。
●朝日では2月1日、日大の学者による評論で、マスコミの責任にも触れている。あまりにひどい教師や学校の不祥事の過熱報道が、実は大半がまじめに子どもと向き合って子ども達のいじめや学力不足を注意深く芽のうちに解決している身近な教師への親や世間のまなざしを塞いでいないかと警告する。国が進めようとする教員の管理強化や免許更新はこういうまじめな教師を追い詰め、上昇志向の者だけ重用される学校職場の荒廃を招きかねないと示唆する。鋭い指摘であり、東京では既に現象化していることだ。
●1月29日の「教育の森」(毎日)は、文科省のいじめ調査の見直しに注目しながら、「学校現場の事務量軽減がなければ、このいじめ調査も、また事務量増加になってしまう」という専門家の声を紹介している。

●5つの論文はそれぞれ角度は違うが、いずれも教育再生会議が、子どもの教育に金はださずに口や手を出してしめつけることばかりだとういう点を厳しく批判している。
 これは立場はかなり違うが、いじめに厳しい対処を求める人からも言われている。

●また、子どもに寄り添って何が必要かを考えているかに疑問を呈している。いじめた子への出席停止などの厳しい措置も、子どもの立場に立てば、その後のフォローや一律におしつけることの危険を考えなければならないし、いずれにしても劇薬治療のようなやりかたは難しい問題だと言うことなのだ。

●もう一つはすぐれた教員を育てるとか、学校が子ども達にきちんと向き合えるようにするためには、学校や、教員を締め付けるだけでは、一時的に効果があるように見えても絶対長続きしない。子どもに向き合える余裕を保障することが必要で、それには教員を信じて、その自由裁量を拡大する事だという考え方だ。

●これらの指摘に共通の土台に、私は、フィンランドで実証された新しい教育のあり方への理解の広がりがあるように思うのだが、それは次の機会に。

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