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10−0731はじめ通信

社会保険病院守る会で自治会長の山本健二さん
突然の死去に対する哀悼の言葉

山本健二さんを送る言葉   二〇一〇・七・三〇 曽根 肇

山本健二さん。

「ヤマケンさん」と親しみをこめて呼ばれていたあなたは、あまりにあっけなく、卒然と旅立たれてしまいました。

ヤマケンさんは、私たちに何を残していかれたのか。何を頼んでおきたかったのか、私にはまだよくわかりません。

ただ、ひとつだけ言えることは、国立病院の労働組合専従として四〇年、医療現場を守る先頭に立ってこられたこと。

そして全くの偶然からでしょうが、退職された後に移り住んだ、わが赤羽台四丁目団地のすぐ隣りで国立王子病院が統廃合対象となったとき、あなたは一住民として、再び病院と地域医療を守るために二〇年以上たたかいつづけ、国立病院の後に社会保険病院を実現させ、そしていままた社会保険病院の民間売却を許さぬたたかいの真っ最中に、自ら守ってきた病院で息を引き取るまで、その生涯を医療を守ることに捧げてこられたことです。

つぎつぎ降りかかってくる難題を一つひとつ乗り越えながら、めったに成功したためしのない、住民の力で国の病院を守り抜く運動を、明るくねばりづよく導いてこられたそのエネルギーと人柄に、いくら感謝しても足りません。

 そして、ヤマケンさんは、少し頑固で人のよいカラオケとお酒の好きなオヤジさんでした。

 同じ北海道生まれの私が、ヤマケンさんとカラオケに行くときは、二十年先輩のあなたがいつも「小樽の人よ」を申し込むので、私は遠慮していたのをごぞんじでしたか。

 もしかしたら私と同じように、この歌を歌うとき心に浮かんでいたのは、吹雪の小樽海岸を走る鉄道の汽笛か、或いは函館までのはてしない雪の原野か、あなたが十代半ばで上京するまで子ども時代を過ごした北海道の冬の姿が、ヤマケンさんの原風景ではなかったでしょうか。

 わたしが議員を引退したら、今度は遠慮なくカラオケの点数を競いあって歌いたかったのに、もう間に合わなくなりました。

ヤマケンさんが赤四団地に入居したとき、私の議員活動をみて、いちばん気に入ってくれたのが、私が後援会で取り寄せたアジの開きを団地内で売り歩いている姿でした。「こんな議員はめったにいない」といってほめられてしまい、以後私は、誰に押しつけるわけにもいかず、今もアジを売りつづけています。

「この人は本当に現場主義なんだなあ」と感心したものです。

あなたが二〇歳で共産党に飛び込んだ一九五二年の日本は、まだアメリカ軍の占領が終わったばかりで、共産党はマッカーサーの命令で再び国会や職場を追放され、分裂したままの厳しい時代でした。

しかし、その年に生まれた私が、同じく二〇歳で入党したときは、共産党は躍進のさなかでした。

それからさらに四〇年近く、いま私たちのたたかいは先の見えないいちばん試練のときだと思います。

だからこそ共産党の政治家は、住民の最も身近にいて、地域で何かの役に立っていることが、何よりも大事なんだというヤマケンさんの頑固な現場主義が、私への最大の教えです。

ヤマケンさん、あなたの遺志をついで、隣りの病院と地域の医療を必ず守り抜くとともに、わが赤四団地を、花の咲く日本一の集合住宅にしていきたい。

そしてさがらさんを五たび区議会に送り出し、私も都議会に戻って、私たちの党の運動も、日の当たる場所に、這い上がってみせる決意です。

安らかに眠って欲しいといっても、あなたは納得しないでしょうから、どうかしっかり見守っていただき、雲の上から小言のひとつも言ってください。

長い人生を、人に役立つために、一心に歩いてこられた山本健二さん、本当におつかれ様でした。そしてありがとうございました。

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