トップページへ  はじめ通信目次へ   

10−0520はじめ通信
スポーツの森公園までの軍事基地解放の道のり
5月15日スポーツ会場集会室での学習会の発言から
●北区学芸員の黒川さんから江戸末期に始まる北区の軍都の歴史を教えていただきました。私も江戸幕府が黒船に対抗して大砲造りのために築いた反射炉が醸造試験所跡あたりだったとは知りませんでした。私は、黒川さんが話した後の自衛隊基地の経過について報告します。
 戦前の陸軍施設が終戦後いったん米軍に接収され、現在西が丘サッカー場の場所にアメリカ戦車修理工場が置かれ、当時謎の死を遂げた下山国鉄総裁がGHQ関係者に殺害され、現緑道公園の貨物引込み線を通って赤羽から田端、常磐線の綾瀬まで運ばれたという松本清張「日本の黒い霧」の推理は有名です。

●その後、十条地区に航空自衛隊のミサイル支援部隊が、赤羽地区にその補助部隊が「一時使用」という名目で入り長く居座ることになります。
 十条地区の隣りに米軍王子キャンプがあり60年代末のベトナム戦争激しきころ、一時野戦病院が造られ、沖縄を経由したヘリが毎日多数の傷病兵を運び込み、そこで治療や遺体処理にあたったため街中騒然となり、区長や美濃部知事も参加する大反対運動に広がり、区立中央公園と文化センターに無償で解放されました。残るは2ヶ所の自衛隊駐屯地24万平米だけになったのです。

●73年ハノイ協定で米軍がベトナムから撤退、75年春にサイゴン陥落・米かいらい政権崩壊でベトナム戦争が終結し、かつて修理した米軍戦車の走行テストをしていた赤羽地区も静かになりました。
 あとはわざとらしく朝鮮戦争当時の戦車やジープなどを並べていましたがポンコツばかりで駐屯地が“遊休”状態であることが浮き彫りになってきた時、80年代に入り共産党や民主青年同盟で「実態調査し解放を要求しよう」との声が高まりました。

●83年正月頃、ついに3日間の連続調査活動を決行。十条地区は正面ゲートの向いの家を借り、赤羽地区は路上駐車の車内から交代の寝ずの番で車や人の出入りを逐一記録しました。
 その結果、時々出入りする自衛隊ジープは十条と赤羽を同じ車が行き来しているだけ、常駐隊員は赤羽が数十名程度。十条でも百名ちょっとだと分り、遊休状態が立証されました。

●赤羽では駐車違反で取り締まられそうになったり民青同盟員が交番に連れて行かれ警官から「自衛隊が嫌がっているから」やめるよう説得されたりたりハラハラする場面もありましたが、苦労した調査を基に中島武敏議員が国会で追及すると、政府は「より有効な活用を図る必要」を認め、解放への大きな入口が開きました。

●ところがその4年後、偶然私が区議に初当選した夏の区議会に、北本区長が突然、防衛庁から説明があったとして、「市谷の東部方面総監部に防衛本庁が移り、そこから玉突きで三自衛隊の補給本部が十条に移転」してくる計画を報告したのです。それからまた、95年ごろまで、十条基地増強反対のあらゆる分野を巻き込んだ大闘争があり、私も22年の議員歴で経験のない2時間近い議会質問で徹底的に計画の問題点を追及しました。

●残念ながら自衛隊補給本部は建設されましたが、旧駐屯地の赤レンガ建物を軍都の遺産として中央図書館の一部に残させるなど成果も勝ち取ってきました。
 そして赤羽地区にも軍事施設の移転が狙われましたが自然観察公園などへ全面開放を実現させ、先日24日のスポーツの森公園で全て新たな平和的公共施設として完成させたわけです。

●私は自衛隊をいずれは解消させ、十条の補給本部の巨大ビルと電波塔は、北区役所など最も区民が喜ぶ利用ができる日をめざしてがんばろうと思います。

トップページへ  はじめ通信目次へ