三回戦は明石高校との準々決勝。明石は上がり気味の宮崎昭二の立ち上がりを攻め、5回までに2対0とリード。 そして夕闇せまる6回、6基のライトに灯が入った。鹿島ナインにとっては始めてのナイトゲームである。 「キャッチャーのサインが見にくくて参りましたネ」と宮崎氏は降り返る。追い込まれたこの回の鹿島の攻撃。 デッドボールの織田征洋を手堅く3塁に送ったあと、バッターは”当たり屋”古賀竜郎。カウント2−0と追い込まれた後の、真中に入ってきた直球を思いっきりたたくと、その球は意外にもぐんぐん伸びてフェンスへ転々・・・・。 3塁ランナーがホームインした後も3塁コーチの腕はぐるぐるまわり、打ったバッターも思いっきりホームを駆け抜けた。結局、この大会2号のランニングホームランで同点に追いついたのだ。 これで調子に乗った鹿島は8回にも4球や相手のエラーなどで3点を追加し、2回戦同様逆転勝ちを納めたのである。 |
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昭和35年、祝勝パレード | |||||||||||
準決勝は、元巨人の柴田がいた法政2高だった |
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準決勝の相手は、のちに巨人(東京読売巨人軍)で大活躍する柴田勲選手以下、強力打線で勝ちぬいてきた法政2高。 その強力打線が火を吹き、宮崎昭二投手の力投もむなしく、0対6で敗れた。 この後、法政2高は決勝も制し、この年の夏の甲子園の頂点に立ったのであった。 時代は、激しい安保闘争が展開される一方で、高度経済成長期に入る。高校野球が鹿島市のテレビの普及率を押し上げたかどうか真偽の程は分からないが、鹿島野球部の活躍が鹿島をこれまでになく熱狂させたことだけは間違いない。 鹿島高校を「鹿城」、小城高校を「黄城」、そして佐賀西高校を「栄城」と、鍋島藩の旧藩校を佐賀県の人は今でも、愛情を込めてこう呼ぶ。そして、3校の野球部OB達は、往年を偲びながら、毎年一回「三城戦」と呼んでいるOB戦を行っている。 野球に明け暮れた球児達の青春は、今も続いている。 (完) |
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その5 その1 | 甲子園物語トップへ | ||||||||||