昭和23年、入場式
昭和23年甲子園の開会式で入場行進する鹿島高校ナイン
 昭和20年(1945年)、長く辛かった戦争が終わり、日本は復興に向けて新たな道を歩み始めた。昭和23年には学校法が改正され、学校教育においても新たな歴史が刻まれ始める。それまでの鹿島中学、鹿島高等女学校、鹿島農商学校が統合され「佐賀県立鹿島高等学校」が誕生したのもこの年4月である。中学校を第一部(普通科コース)、女学校を第二部(普通科・家庭技芸科コース)、農商学校を第三部(農業・商業科コース)として新たなスタートを切ったのである。そして、これに華を添える出来事が起こったのもこの年であり、12年後それはさらに大きな大輪として花開くのである。
最近の入場行進
 最近の入場行進
選手を待つ入場門
今や国民的行事となった夏の高校野球甲子園大会。その歴史は大正4年に中学校大会として始まる。戦争のため昭和17年から20年まで中断されたが、戦後、「高校野球大会」と名を改めて再開されたのが昭和23年の第10回大会である。”雲は湧き・・・・の歌詞で親しまれいる「ああ、栄冠は君に輝く」の歌が登場したのもこの大会である。そして「新生・鹿島高校」のスタートに華を添えた出来事というのが「鹿島高校野球部」の、この第10回甲子園大会への出場なのである。
戦前の鹿島高女テニス部の全国制覇に次ぐこの快挙が、戦後の暗い世相の中の鹿島の人々に与えた喜びと希望の大きさは計り知れない。
鹿島の野球の歴史を語る時に忘れてならないのが明治時代の大先輩たちが作っていた「藤津倶楽部」である。その創立メンバーには旧制鹿島中学のOBで、のちに金融界の父と言われる田中鐡三郎氏や鹿島町長、佐賀県議などを歴任した前山専一氏らがいる。「藤津倶楽部」は当時佐賀県でも珍しいクラブチームであり、それほど鹿島での野球熱は高かったといえる。
 そんな背景をもつ鹿島高校野球部の復活は、まだ旧制鹿島中学だった昭和21年、芋畑に変わっていた運動場隅のグラウンド作りから始まった。
道具も満足に揃わない時代ではあったが、球児達は久しぶりに持つ白球やグラブの感触に新しい時代の幕開けを感じながら、練習に励んだ。そして、その力は確実に付いていった。
その強さはスグに証明された。昭和22年、鹿島で初めてのバックネット付きの祐徳球場が完成した。早速、こけら落としの試合が行われ、鹿島中はその年の全国覇者・小倉中学と対戦したのである。

                 
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