昭和35年、入場式 それから12年後の昭和35年。先輩たちの遣り残したことが達成される日がやってきた。再度、甲子園の土を踏んだのだ。
この時の監督は、専売公社や満鉄の野球部で活躍していた鞆正明氏である。
甲子園出場後の鹿島野球部はそれ以降も力をつけ、この頃には西九州大会の常連組になっていた。
「監督は、特にこの年のチームに甲子園への手応えを感じておられたのではないでしょうか。何としても甲子園へ、と言う監督としての夢も、当然あったと思います」。
当時、キャッチャーとして出場した亀飼良知さんはこう言う。そして実際、この時の鹿島野球部はとにかく強かった。県予選・西九州大会と、全てシャットアウトで勝ち進んで甲子園のキップを手にしたのである。
昭和35年、甲子園の開会式での入場行進
昭和35年、ホームイン

二度目の甲子園でベスト4の大暴れ
捲土重来。
再び鹿島の町は沸きに湧いた。松浦茂町長を先頭に後援会が組織され募金集めも行われた。
「私たち選手も、高校野球の特集記事の載った週間朝日を頒布して資金を集めました。いまだに、あの時200円出したとよ。300円応援したよ、と言われます」
こう言うのは、エースで活躍した宮崎昭二さんだ。そして再び甲子園へ。ユニホームは国会議員の愛野時一郎氏が新調してくれた。
 だが、そんな鹿島ナインを、甲子園に着いたその日に思わぬ災難が襲った。
水あたりで選手がバタバタと倒れたのである。

下手投げの宮崎司郎(主将)、オーバースローの宮崎昭二の両投手を始め多数の選手が寝込み、元気なのはわずか三人と言う有様。辛い身体をおして六人で練習したこともあったと言う。
だが、神様が味方したのか、降り続く雨で試合が順延になり、そのおかげで選手たちは体力を回復できたのである。
昭和35年、甲子園で
熱闘、甲子園
昭和35年、熱戦が続くグランド

そしてスタンドの歓声が「アッ」と言うどよめきに変わった!

1回戦は熊本商業を5対3で退け、2回戦は名門・平安高校戦である。息が詰まりそうな投手戦で、0対0で九回裏まで来てしまった。そして鹿島は、ノーアウト・満塁、さよならの絶好のチャンスを迎えたのである。
バッターはもちろんバントの構えで待っていた。そして、大きく振りかぶった平安のピッチャー大崎。ところがである。高めにはずそうとしたその球は、キャッチャーのミットをはじいて、バックネットへ・・・・・・。
それまでのスタンドの歓声は、一瞬の間があって「あっ」と言うどよめきに変わった。小躍りしてホームインする鹿島の三塁走者。何と言うあっけない幕切れだろうか。
その4   その6