昭和35年、応援スタンド 1回戦は思わぬ不戦勝であった。そして、そのことが今となっては笑い話のような、ある事件を引き起こしたのである。
5日目に食糧が底をついたのである。だが、そのピンチを救ってくれたのは、鹿島中OBで、当時甲子園球場の近くで鉄工所を営んでいた川添さんである。川添さんはヤミで仕入れたパンを選手に届けてくれた。
「嬉しかったですね。私たちは水道の水を飲みながらそのパンを食べました」。
吉牟田さんは、今もその光景をよく覚えていると言う。
昭和35年、甲子園応援席で
8月16日。
甲子園初試合になる明日の2回戦の相手は、東海の雄と言われた享栄商業高校である。のちの大投手金田正一氏が一年生の補欠で入っていたのはこの時である。
食堂のおじさんのプレッシャーにも、アルプススタンド下の蒸すような暑さの合宿所でのザコ寝にも、そして食糧難にもめげず、鹿島ナインは明日の勝利を期して、地元鹿島に「享栄を倒す自信あり」の電報を打ち、眠りについた。
奇しくもこの日は、世界にその名を轟かせたアメリカの大リーガー、ベーブ・ルースが亡くなった日であった。翌17日には、その活躍を称えるとともに冥福を祈って、甲子園球場ではサイレンとともに一分間の黙祷がささげられたのである。
 そして正午。満を持しての試合開始である。ところが、である。すり鉢型の球場に大音響となって響くスタンドの声援。初めて見るピッチャーズ・プレート。
初物づくしに鹿島高校ナインはコチコチになってしまった。そのため、先頭打者の放った打球をエラーしてしまうなど、全く試合にならず、ついに0対11という大差で破れてしまったのである。
「意気消沈での帰路でしたが、鹿島駅では松浦茂町長以下、多くの人々に暖かく迎えていただきました」と前山さんは言う。残念な結果ではあったが、甲子園出場を果たした鹿島ナインの奮闘ぶりは、鹿島の人々に夢と希望を与え、鹿島の誇りでさえあった。当時、鹿島の小学生の間では「一番愛野、二番徳島、三番太田・・・・」と、スターティングメンバーを諳じるのが流行ったとも言われ、女子の間にソフトボールが盛んになったのも鹿島球児の活躍があったからである。
  
甲子園名物「ツタ」
甲子園名物「ツタ」
スタンドで観戦する進駐軍の野球選手
昭和28年、スタンドで観戦する進駐軍の野球選手たち
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