監督には荒井武氏が就任した。荒井氏は仙台育英高から國學院大學へ進み、同大学の全国制覇に貢献したピッチャーである。この時、祐徳バスの運転手をしていた。 「目標は甲子園でしたから練習は厳しかったですね。監督はノックがうまくて、守備は特に鍛えられました」。と語るのは、マネージャーだった吉牟田精一さんである。 選手の補強も図られた。水泳部の野田正樹さんは自由型で全九州三位と言う水泳界のホープだった。 |
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投手の補強も行った。すでにノンプロに進み活躍していた野口利治さんを復学させることにした。今では考えられないことが出来た、古き良き時代ではあったのだ。 いよいよ、甲子園を目指した県予選開始である。だが、予選の直前、とんだハプニングに見舞われた。ノンプロからの助っ人、野口選手が大会規約で出場できないというのだ。急遽登板したのは二番手投手の北原達也さんである。だが、北原さんの連日の熱投で県予選4試合を突破。いよいよ佐賀・長崎・熊本3県による西九州大会である。 戦前の下馬評では熊本勢優勢が伝えられていたが、それに反して佐賀県勢が他県勢を一掃し、決勝戦は鹿島高と佐賀高の間で争われることになった。決勝当日はどちらが勝っても佐賀勢が代表というので、球場は超満員。 |
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昭和26年当時の水泳部員 | |||||||||||
「佐高の選手は鉢巻姿。喧嘩腰だった」という熱戦も結局、強力打線を誇る鹿島が11対5で佐高を破り、念願の甲子園へのキップを手にしたのである。 | |||||||||||
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いざ、甲子園へ。だが・・・・・ | |||||||||||
そして甲子園である。武雄駅から急行「雲仙」で、野球の道具より重い”米”を持っての出発である。だが、甲子園球場に着いた途端、鹿島ナインは初めて見るその大きさにまず度肝を抜かれる。加えて、球場の食堂のおじさんのこんな言葉もいやな予感を感じさせるものであった。 「鹿島?鹿児島じゃないの。鹿島には市電(路面電車)は走ってるの?走ってないの。今まで市電のない県のチームが勝ち進んだことはないんだけどね」。・・・・・・・・ |
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その2 その4 | |||||||||||