そしてなんと、この試合を1対1で引き分けたのだ。さらに、この年の秋の九州中学野球大会で鹿島中野球部は、当時佐賀県内では最強と言われていた宿敵・龍谷中を破った。そして、この試合こそが、後の鹿島高校の甲子園出場のキッカケとなったと言っても過言ではないのである。
翌23年。 |
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鹿島中学校出身者・在校生による、鹿島で最初の 野球チーム「藤津倶楽部」のメンバー (明治36年) |
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昭和23年3月、赤門前の鹿島高校職員。 | 昭和23年に発行された教科書 | |||||||||||
命じたのは、衆議院議員の愛野時一郎氏である。愛野氏はまだ物資の乏しかったこの時期、ボールやバット、グラブはもちろん、練習後の饅頭の差し入れなど、物心両面で野球部を支えていた陰のスポンサーなのであった。もちろん、命令とはいっても強制力があったわけではない。だが、結局全員が高校へ進学することになった。 「愛野先生の言葉は、冗談だったのか本気だったのか、今でも分かりません」。 当時メンバーの一人で、ショートを守った前山嶢(たかし)さんは、こう語る。こうして、部員数80人の「新生・鹿島野球部」の甲子園を目指した特訓は始まったのである。 |
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その1 その3 | ||||||||||||