「志貴、ちょっと出るわよ」
「はい先生」
これは志貴が『千年城』で修行を始めてから数ヵ月後の出来事・・・
ある少女の初恋の相手との出会いの話・・・
十『アトラスの少女』
「・・・先生」
「どうしたの?志貴」
「エジプトまで行くのを『ちょっと』とは絶対に言わないと思います」
志貴は軽く頭を抱えながらそう言った。
今志貴達はエジプトの首都カイロ郊外にある広大な建物に来ていた。
「志貴、男の子なんだからそんなことをうじうじと言わないの。ただでエジプトまで来れたんだからもっと喜びなさい」
「と言うか先生、転移魔術で来たんですから当たり前です。それ以前にこれって密入国と言うのでは・・・」
「志貴、細かい事を気にしすぎると将来大物になれないわよ」
少なくとも先生みたいに大雑把にはなりたくないです。
志貴はそう心の中で呟いた。
万が一聞こえれば後でどの様な特別修行が待ち構えているかわかったものではない。
「所で先生ここは一体・・・」
「ああ、そう言えば君には説明してなかったわね。ここはアトラス院。魔術協会の三大部門の一つよ」
「アトラス院??」
「ええ、魔術協会創立時に存在した三つの大元の部門、時計台に代表される正統的な魔術の探求を目指す魔術院。北欧を中心に活動を続ける『彷徨海』と言う複合協会、そして、三つ目がこのアトラス院なの。ここは他とは違って少し特殊でね、ここで学ぶ魔術師は魔術回路を持っていないのよ」
「えっ?それで魔術師と呼べるんですか?」
「話は最後まで聞きなさい。その代わりに彼らは自分の頭脳の回転を極限まで高めるのよ。それこそ与えられた情報のみで正確な未来予測までも計算出来るほどに、だから彼らは魔術師ではなく『錬金術師』と呼ばれているわ」
「へえ〜そうなんですか。それで先生。何でここに来たんですか?」
「ええ、少し野暮用でね」
「じゃあ何で僕を連れて来たんですか?」
「うーん、なんとなく」
「・・・・・・」
「志貴志貴、無言で踵を返さないで」
「お願いですから先生そんな気紛れに振り回さないで下さい。ただでさえ教授からの宿題も残っているんですから」
「大丈夫よ志貴は飲み込み早いんだから」
「・・・」
何の根拠があって自信満々の言葉が吐けるのだろうか?
志貴はどうしても不安になる。
「まあ、ほんの二時間くらいで帰るから君は少しのんびりしていなさい」
そう言うと青子は建物の中に入って行った。
「はあ・・・仕方ないか・・・先生の言うとおり少しのんびりとしようかな」
それを見送ると志貴は深く、深く溜息をついたのであった。
そんなこんなで志貴はぶらぶらと広大なアトラス院を散策する事にした。
「へえー色んな部屋があるな・・・」
ぶつぶつ言いながら歩を進める志貴であったが、不意に立ち止まった。
「・・・あれ?ここ何処?」
ぶらぶらし過ぎたらしい。
気が着けば志貴は完全に迷っていた。
「どうしようか・・・」
「・・・どうしたの?」
不意に後ろから声が掛かった。
志貴がびっくりして振り向くとそこには志貴と同じ位の歳であろうか?
紫色の髪を三つ編にした少女が立っていた。
無論であるが見慣れない志貴に対して鋭い眼光で見ている。
「あっすいません・・・ちょっと迷ってしまって・・・」
「そう・・・」
それっきり黙ってしまった。
(えーとどうしよう・・・)
志貴は困惑したがそれ以上に少女の方も困惑していた。
(同じ年の男の子だ・・・ど、どうしよう・・・私話なんかした事無いのに・・・)
(凄く綺麗な瞳・・・黒い髪に蒼い瞳って・・・こんなに凄く似合うんだ・・・)
(凄く優しそうな子だな・・・)
二人とも互いの顔色を伺っていたのだが
「あの・・・」
「何処に行きたいの?」
二人同時に声を発した。
「えっ?」
志貴がオウム返しに聞き返すので少女は
「・・・だから何処に行きたいの?私案内するから」
と、感情の起伏も無くそう告げた。
しかし、彼女を知る者がもしこの場にいたら驚愕した事だろう。
彼女が初対面の者に親切にしようとした事を。
そして、少女の頬が赤みを帯びつつある事を。
(ああああ・・・ど、どうしよう・・・もうちょっと親切に言おうと思ったのに〜)
(あ、あの子、きっと怒っちゃったよね・・・)
(もう!!何言っているのよ!!私は)
「えっと・・・案内してくれるの?じゃあお願いできるかな?」
内心後悔の底で身悶えていた少女は優しげに響いてくる。
えっと振り返ると、そこには志貴が優しげに笑いその場に立っていた。
その瞬間、
(一番ショート)
(二番強制停止)
「あああああ・・・」
少女の当時三つしかなかった分割思考の内二つが陥落した。
もう一杯一杯であった所に無自覚の加害者が止めを加えた。
一応弁護させてもらえれば、本人にしてみれば純粋に心配しただけであった。
いきなり顔を真っ赤にされては誰でも心配すると言うものである。
しかし、加害者には圧倒的に自覚が無かった。
「だ、大丈夫?」
そう言うと、少女の額と自分の額を合わせた。
ようやく立ち直りかけた所に加えられた追撃の一撃によって
「!!!!!」
(一番メモリーオーバー!オーバーヒートにより一時クールダウンに入ります)
(二番メモリーフリーズ!!再セットアップ開始)
(三番強制終了!!・・・起動再開)
この瞬間少女は志貴に陥落させられた。
「ねえ・・・大丈夫?体調悪い様だったらお医者さんの所に行く?」
志貴の不安そうな声にはっと気が付く。
「だ、大丈夫だから・・・あ、案内してあげるね・・・」
「うん・・・じゃあよろしくね」
「え、えっと・・・ここが教室で・・・向こうが錬金術師の個人研究室なの・・・」
少女は志貴と視線を合わせないようにしながらアトラス院を案内する。
しかし、それは当然の事でこのまま視線を合わせてしまえば再度思考が停止してしまう。
それは錬金術師にとっては失格も同然である。
だが、それとは裏腹にこの少年から離れたくないと思う自分がいるのをはっきりと自覚もしていた。
一方の志貴は眼を合わせようとしない少女に次第に不安を覚え始めていた。
「ねえ・・・なんか怒らせるような事した?」
「・・・ううん・・・してないよ」
(ああん、お願いだから顔を見ようとしないで〜)
(彼の眼を見ちゃったらもうおしまいだよ〜)
(見たいけど・・・でも・・・)
そんな少女の葛藤を他所に志貴はしきりに回り込んで顔を見ようとする。
「ねえ・・・大丈夫?本当に」
「う、うん!!大丈夫だから!!!」
余りのしつこさに少女がいささか怒り気味に顔を上げた。
しかし、その瞬間、志貴と眼があった。
もうこれ以上無いほど見事にあった。
自分を見つめる青空の様に綺麗な蒼き瞳。
「そう良かった・・・」
安心したようににっこりと微笑む志貴。
かつて七夜の里で初対面の翡翠・琥珀を一瞬で陥落させた優しげな笑みに
(((全思考完全クラッシュ!!)))
少女に成す術などある筈が無かった。
「・・・・・・」
湯気が出るかと思わせるほど色白な首筋まで真っ赤にした少女は、俯いたまま志貴の手を引いて急に走り出す。
「え??えええ???」
志貴が混乱している間に志貴はアトラス院の一室に入っていった。
そこは必要最低限のものしか無い、本当に無機質な部屋であった。
「ね、ねえ・・・」
「ここは私の部屋!!」
志貴の問い掛けを無視して少女はそう言う。
「えっそうなの?」
「うん!!か、感謝してよね・・・ここに連れて来たの君が・・・初めてなんだから・・・」
「そうなの・・・ありがとう」
志貴の屈託の無い返答に更に頬を紅く染めて視線をそらす。
「じ、じゃあさ・・・案内もこれで終わりだけど・・・何処に行きたかったの?」
「あっそうだ・・・正面の入り口まで案内してくれるかな?」
「えっ?正面の?」
「あっ志貴どこ行っていたのよ?もう・・・」
志貴と少女が正面ホールまで行くとそこにはいかにも待ちくたびれたと言わんばかりの青子が待っていた。
「先生、『少しのんびりして来い』と言ったのはどなたでしたでしょうか?」
「それでものんびりし過ぎよ!!用事が終わったから来てみたら志貴がいないものだから探したじゃないの!!」
「すいません先生」
流石に悪い事をしたかなと謝る志貴。
「まあ・・・連れてきた私にも責任があるんだけどね・・・あら?その子は?」
「はい、この子にここを案内してもらって・・・」
「そう・・・やるわね志貴」
「へ?何がですか?」
その返答に志貴はオウム返しに聞き返す。
「・・・・・まあ良いわ。君ありがとうね。じゃあ志貴そろそろ帰るわよ」
「はい」
「えっ・・・」
その会話に少女の表情が曇った。
しかし、青子と共にここを立ち去ろうとする志貴を見て、渾身の勇気を振り絞って尋ねた。
「ね、ねえ・・・」
「??どうしたの?」
「・・・また来るよね?また会えるよね?」
「???」
少女の問い掛けの意味がわからず首を傾げる志貴であったがそこに青子が耳打ちをした
(志貴・・・こう言う時は嘘でもうんって言っておきなさい)
(えっ・・・ですけど自分でも騙せない嘘は他人を不快にするって・・・)
(今回は例外!!さあ、さっさと言うの!!)
志貴にも訳が判らなかったがともかく
「うん・・・きっとまた来るよ・・・大きくなったら」
「・・・」
その答えに少女の表情はぱっと明るくなった。
「じゃあ、また来てね!!」
「うん、・・・それとやっぱり笑っていた方が可愛いよ」
「・・・(真っ赤)や、約束だからね!!!」
そう言うと、少女は元気良く踵を返して走っていった。
「先生・・・あれでよかったのでしょうか?」
「ええ、上出来ね。後志貴、約束したからには絶対に果たす事。良いわね」
「はい、先生」
「よろしい、じゃあ帰るわよ」
「はい・・・あっ」
「??どうしたの志貴?」
「いけない・・・あの子の名前聞くの忘れてた・・・」
少女はそのままの勢いで部屋に戻ると満面の笑顔で部屋に飛び込んだ。
「約束できた約束できた」
それだけを呟く。
ベットの上で身悶える。
「・・・きっと来てくれる。きっと・・・」
瞼を閉じればはっきりと記憶に刻み込まれたあの少年の優しい笑顔と蒼き瞳。
「本当に綺麗だったなぁ・・・あの子の瞳・・・あっ・・・」
その時少女は肝心な事を二つも忘れていた事を思い出した。
「どうしよう・・・名前聞いてなかった・・・私の名前も言っていない・・・」
ただ判るのは彼が『先生』と呼んでいた女性が言っていた『シキ』と言う言葉のみ・・・
「どうしよう・・・きっと判んなくなっちゃう・・・あの子も私の事・・・忘れちゃう・・・」
先程までの喜びは何処に行ったのかすっかり落ち込んでしまった少女。
「こんな事だったらエーテライト使えば良かった・・・」
あの時は余りの緊張にその存在すら忘れ去ってしまった。
再度自分の迂闊さを呪う。
しかし、そこへ彼女の母の言葉が甦った。
(きっと叶うと念じていれば叶いますよ・・・どんなに時がかかっても・・・)
聞いた時にはさして感慨を浮かばなかった言葉だったが今は違う。
「そうだよね・・・お母様・・・うん・・・そうだよね!!うん!!きっと会える!!きっと!そうしたら・・・あの子に・・・」
少女は再び喜色を取り戻す。
そのまま再びベットで身悶え、更にはその脳裏では再会した後の事をしきりに妄想していた。
ちなみにその姿を偶然目撃した同年代の錬金術師は初めて見る少女の様を唖然として眺め、我に帰った後、自分が見た光景を一時の夢と忘却したと言うらしい・・・
これが初恋であった。
シオン・エルトナム・ソカリスの初恋だった。
しかし、その初恋の相手との再会には本人が思った以上の時間を必要としたのであったのだが。