部屋から飛び出したアイリスフィールを切嗣が捕まえるのにそう長い時間を必要としなかった。

人造人間であるホムンクルスだが、強化されているのは魔術基盤だけに過ぎず、運動神経などの身体能力は普通の人間とさして違いはなく、アイリスフィールのそれは一般の成人女性と同じ。

九年のブランクがあるとはいえ、基本値で致命的な差がある以上、切嗣がアイリスフィールを捕まえられない筈はなかった。

「アイリ!」

逃げるアイリスフィールの手を掴むが、それを

「!!離して!お願い離して!」

常では考えられない程取り乱し、必死に切嗣から逃れようともがく。

だが、それでも離す気などない切嗣は、強引に胸元まで引き寄せるとそのまま抱きしめる。

それでも必死に離れようと身じろぎするが、やがて諦めたのか身動きを止める。

そして

「・・・っ・・・ぁぁぁ」

全身を震わせ、声にならぬ声を漏らす。

スーツ越しに切嗣の胸元を熱いものが濡らす。

「・・・なさい・・・ごめん・・・なさい・・・キリツグ・・・ごめん・・・」

切嗣の耳に微かに聞こえてきた愛する妻はしきりに謝っていた。

自分達一族の愚行で最愛の夫の夢を壊し、理想を穢し、彼のただ一つの拠り所を永遠に奪ってしまった事を。

謝罪して許される筈も無い、謝った所で全てが元通りになる事などある訳がない。

それでも謝らずにはいられなかった。

ただひたすらに壊れた録音盤の様に『ごめんなさい』を繰り返す。

そんなアイリスフィールを切嗣は責めなかった。

いや、責め立てようと思えば責め立てられた。

だが、彼の冷徹な部分がうっとうしく思える程囁きたてる。

『責めた所でどうにかなる訳でもない』と。

『そもそもこのような事こそが無意味だったのだ』と。

それに何よりも切嗣にアイリスフィールを責められる筈がなかった。

自分の夢物語のような理想に殉じてくれると言った妻をどうして責められようか。

偶然なのかそれとも必然だったのか、アイリスフィールを捕まえたのは寝室の近くだった。

未だに謝罪を繰り返しながら嗚咽を漏らすアイリスフィールを抱きしめたまま、切嗣は寝室に入る。

そこには安らかな寝顔の娘が待っていた。

「・・・」

苦渋しかない表情のまま、娘を起こさないよう、静かにベッドに腰を下ろす。

そしてそのまま、アイリスフィールはかろうじて聞き取れる声での謝罪をひたすら呟き続け、切嗣はそんな妻の謝罪を聞きながら行き場のないこの感情を持て余していた。









その頃、二人が出て行った後、士郎とゼルレッチはと言えば・・・

「では蒼崎師もコーバック師もお元気で」

「ああ、二人共無駄に元気にやっている」

昔話に花を咲かせていた。

切嗣に苦悩を、アイリスフィールには絶望を与えておきながらと思えるが、この世界の事はこの世界の人間に任せるべきだと言う意見で二人は一致している。

切嗣とアイリスフィールが聖杯を破壊しようと言うなら全面的に協力するし、万が一、それから眼を逸らし聖杯を取る事を決断しても責める気はない。

どんな結末が待っていようとそれに殉じるつもりだ。

そう覚悟が決まっている以上、気持ちも落ち着きどっしりと構え昔話が出来る余裕がある、それだけの事だ。

後は切嗣達次第なので待つ間退屈だから話を始めていた。

「・・・そう言えば師匠、蒼崎師と言えば・・・例の件は・・・」

不意に士郎の表情が曇った。

「ああ・・・あの件だな」

ゼルレッチの表情も曇る。

「・・・とりあえず折り合いはつけた様だ。久遠寺の魔女との関係については以前と変わらずだ」

「それは・・・ある意味すごい話ですね。あんな事があったのに」

「ああ、女と言う奴の強さと言うか強かさを実感する」

しみじみと呟く士郎とゼルレッチ。

この二人が何を話しているのか?

それについては別件の話に過ぎずここで話される話ではない。

いずれ話すべき時期と機会が来れば語られるだろう。

「そう言えば先程も少し話していたが志貴達も壮健か?」

「ええ、向こうでも生前と全く変わりなく賑やかにラブラブに暮らしています。まあ・・・壮健と言うのもおかしな話ですがね。俺も志貴も既に死んでいる身ですから」

「違いない、・・・そうか志貴も姫様達も・・・壮健であれば何よりだ」

「俺がサーヴァントとして呼ばれたんですから、もしかしたら志貴も呼ばれるなんて事もあるかもしれませんね」

「確かに。並行世界の在り様は無限。もしやすればそのような世界もあり得るだろうな。でお前の方は?」

「ええおかげさまで。皆のおかげで生前と何一つ変わりない時を過ごしています」

そう言って先程とは若干違う苦みを帯びた笑みを浮かべる士郎。

「・・・本当嬉しいですよ『蒼黒戦争』後の俺はほとんど世捨て人の様な生活していた訳ですし、そんな俺の所に人である事を捨てて来てくれました・・・ですけど時々考えてしまうんですよ。俺はそれだけのものを、彼女達に返しているのかって」

「・・・」

返事はない、元々士郎もそれを期待していない。

「割り切ろうとして入るんですよ。皆もう戻る事の出来ない片道切符を自分の意志で手にしたんですから、それに俺があれこれ口出しする資格もないですし・・・それならそれに見合うくらいの幸福をあげなくちゃって・・・でも早々割り切れるものじゃないですね」

「そんなものさ士郎、私とて人であった頃から今日まで迷いもした、悔いも残した。だがな『こうすればよかった』と考えてきたが『これをしなければよかった』だけは考えしなかった。例え方法を誤ったとしても、決断を違えたとしても最終的に自分が決断を下した事。それを己自身が否定しては全てが無意味になる」

諭す口調でも無ければ、士郎の独白を咎める口調でもない。

だからこそなのだろう、その言葉は士郎に深く沁み込んだ。

「ええ、こんな事皆には絶対に言えない事です。師匠だから言えた事ですから」

士郎の口調は先程に比べ苦みは薄れ、明るさが戻っていた。

「そうか・・・さてあの二人はどのような決断を下すのか」

「そうですね・・・」

それからしばし無言となったが、気を取り直すように再び昔話に花を咲かせていた。









ふと切嗣は気が付くと辺りは暗闇に包まれていた。

自分がなぜここにいるのか全く思い出せれない。

自分は確か・・・

そう思考した・・・正確には思考しようとした瞬間、それをさせないとばかりに切嗣の鼻孔に潮の臭いが入り込む。

「??」

何故と思うより先に暗闇から辺りの景色は一変した。

何も見えない暗闇から太陽が嫌と言うほど照りつけ、エメラルドブルーの海がきらめく風景。

一見すればそれば見る人に安らぎと心地良い解放感を齎す筈のそれは切嗣にとってその光景は

「・・・そんな・・・」

過ぎ去りし日の悪夢を帯び起こすものだった。

それは紛れもないアリマゴ島、切嗣が幼き日を過ごした島であり、彼にとっては原初のトラウマを呼び起こすべき島。

「ケリィ」

呆然と立ち尽くす切嗣の耳に懐かしい、同時にもう聞けるはずのない声が聞こえる。

振り向きたかった、だが振り向けなかった。

幻影の様に誰もいない事を恐れてではない。

切嗣にとってそれは救いだ。

むしろ、振り向いた先に彼女がいる事の方が恐ろしかった。

それでも何かに操られる様に、ゆっくり、ゆっくりと振り向けば、そこにいたのはアリマゴ島で共に過ごした少女、彼自身あの当時は自覚しなかった初恋の相手がいた。

「シャ・・・シャー・・・レイ」

掠れた声でようやくその少女の名を絞り出すように発した。

家族の様な存在だった、だが見捨ててしまった。

父が作り上げた死徒化の薬によって人外と成り果て自分に殺してくれと頼んできたあの日の光景が甦る。

だが、眼の前の彼女はそんな事など気にも留めていないようにあの頃・・・幸福なあの時のままの姿と笑顔で

「ケリィはさ・・・どんな大人になりたいの?」

あの頃聞かれた問いを口にした。

「・・・僕は・・・僕は・・・」

答えを言おうにも言えない。

彼が少年の頃に抱いた夢は他ならぬ彼自身の手で打ち壊した幻影だった。

自らの手で汚した偶像に過ぎなかった。

自分の手で棄てた残骸だった。

だが、打ち壊し汚し棄ててまで求めた夢もまた堕ちていた事を知った彼に、それは求めてはならない筈なのに求めてやまない希望に見えた。

そして彼は口を開いた。

「僕はね・・・正義の味方になりたかった・・・」

そう口にして今の自分がこの言葉にどれだけ、程遠い人物になっているのかを自覚せざるを得ずその口から自嘲の欠片が零れる。

「・・・でもね、もう僕にはそんな事を求める資格もなくなってしまったよ。僕はもう・・・」

「何言っているんだい坊や。まだまだ青二才だってのに悩む事だけは一人前になって」

そんな切嗣の苦悩を余所に背後から更なる懐かしい声が聞こえる。

その声を聴き切嗣は言葉を失った。

振り向けばそこにいたのはやはりとも言うべき人物。

切嗣が全てを失ったあの日から彼の保護者であり後見人であり師匠とも呼べる人・・・ナタリア・カミンスキー。

「・・・ぁ・・・」

声を聴き、顔を見て切嗣は言葉も思考も失った。

考える事も無く、言葉を発する事も無くその光景を見るだけだった。

「坊や」

そんな切嗣に声をかけたのはナタリアだった。

「あんた、あの時自分がやった事を悔いているのかい」

その問い掛け・・・それも彼自身が手に掛けた本人からの声に切嗣の思考は瞬時に沸騰した。

「っ・・・当然だ・・・当然だろう!!僕は・・・僕は・・・僕はただ、あんたの顔を見たかった!いつかは面と向かって『母さん』と呼びたかった!!だと言うのに・・・僕は・・・僕は・・・」

そこまで言って声を詰まらせ、跪く。

「あの日・・・最後の通信で坊や言っていたね。あたしの事を本当の家族だって・・・ほんと言うとね・・・嬉しかったよ本気で。あたしもああいった稼業やって来たから人並みの家族なんて持てなかったしね。だから坊やを連れていた時は家族が出来たみたいで満更でもなかったよ。でもまあ正直それはあたしだけで坊やは迷惑じゃないかとも考えた時もあったけど・・・あの言葉には救われたよ。いい土産にもなったしね」

「あ・・・ああ・・・」

その言葉に切嗣は声もなくただ咽び泣く。

しばし周囲には耳を澄ませなければ聞こえない程掠れた切嗣の嗚咽だけしか聞こえなくなった。

「・・・もう決まっているんだろう?坊や何を成すべきか」

やがてナタリアの声が切嗣に決断を促す。

「僕は・・・」

「ケリィ」

今まで黙っていたシャーレイの口が開かれる。

「ケリィはまだなれるよ。ケリィが言った『正義の味方』に。その夢を捨ててなければ」

「・・・もう、汚れきっている僕でも?」

言葉にする必要もないとばかりに満面の笑顔で・・・あの当時は眩しすぎて直視できなかったそれを変わらずに向けて、頷く。

「しゃんとしな坊や。自分に胸を張って行きな」

「頑張って・・・ケリィ」

切嗣の生き方を決めた二人の女性の励ましを最後に切嗣の意識は急速に掠れていった。









「!!」

気付いた時切嗣はその胸に妻であるアイリスフィールを抱いていた。

どうやら少し眠っていたようだ。

見ればアイリスフィールもまた泣き疲れたのだろう、静かな寝息を立てている。

だが、時折苦しそうに表情を歪ませるのを見るとうなされているのかもしれない。

不意に腕時計を見るとまだ一時間程しか経っていない。

「・・・夢・・・だったのか」

誰にともなく漏らした呟きに気付いた様に

「んんっ・・・」

身じろぎしながらアイリスフィールが目を覚ます。

「・・・キ・・リ・・・ツグ・・・?」

「アイリ・・・」

最初寝惚けているのか特に抵抗もせずに切嗣を見上げていたが、切嗣の辛そうな表情によって加速度的に思い出したのだろう。

見る見るうちにその顔色は悪くなり再び抜け出ようともがこうとしたアイリスフィールだったがさらに強く抱きしめる切嗣ノ手から脱せれないと悟ったのか直ぐにもがくのを止めた。

「アイリ・・・ごめん、僕は君達の夢を壊す」

「・・・キリツグ・・・」

自分よりも辛そうに泣きそうな表情の切嗣を見上げながら、アイリスフィールは夫が身を引き裂かれるような決断をしたと理解した、そして彼女自身もある決意を固めておりそれを切嗣に伝えた。

「・・・キリツグ、私ね夢をみたの」

「夢?」

「ええ・・・ご先祖様・・・リズライヒ様の・・・」

かつて大聖杯の基盤となり第三魔法の礎となったアインツベルンの『冬の聖女』。

「・・・その夢でなんて・・・」

「・・・この聖杯は壊してしまえと・・・自分が礎となったのは再びアインツベルンの手に杯を取り戻す為であって杯を汚す為ではないと・・・千年探求をしたのだからまた千年かかろうと問題ではないだろうと」

「・・・」

切嗣は思わず考え込んだ。

自分にはシャーレイとナタリアがアイリスフィールには『冬の聖女』リズライヒが夢に現れ、それぞれに聖杯破壊を後押しした。

これも何かの導きなのでは、そう思わずにはいられない。

だが、科学的、と言うか精神学で今回二人に起こった夢の説明は出来ない事は無い。

二人の内心で鬩ぎ合っている、聖杯を手にして理想を実現させたいと言う思いと、聖杯を、アンリ・マユを顕現させてはならないと言う相反する想い。

それがぶつかり鎬を削る中、心の奥底では何が最も正しいのか既に判っていた。

そして、それが大きくなり遂には二人の中で最も影響の大きな人物に擬人化するまでに至り、その姿をもって二人を説得した。

説明は出来るがそれは野暮とも言える。

彼女達の魂が夢に現れて切嗣とアイリスフィールに決断を促した、時にはそれで十分な時もあるのだから。

「・・・キリツグ、私もそうよ。私はイリヤをそんな汚れた杯の贄にする気はないわ」

「僕もだ・・・僕も同感だよアイリ、イリヤをそんなものにしてたまるか」

そう言っている間にアイリスフィールの血の気が失せたような顔色は血色を取り戻し切嗣の表情からは僅かに残っていた迷いが消え、全ての決心を固めていた・・・その視線の先にある愛娘であるイリヤの安らかな寝顔を見つめながら。

「アイリ・・・」

「・・・キリツグ」

「「聖杯を破壊しよう(しましょう)、そして大聖杯も無に還そう(しましょう)」」

結局、二人をアインツベルンへの背信と呼ぶに相応しい行動に動かす事を決心させたのは正義の為だとか人類の為、世界平和の為でもない。

二人にとっての何よりの至宝である愛娘を破滅しか待っていない未来に差し出さない、そんなちっぽけなだが大切なかけがえのない理由によるものだった。

そして、これにより第四次聖杯戦争はその経緯と結果を大きく変更させる事が確約させたのだが、それを知る由は無い。









士郎達の元に切嗣達が戻って来たのは二人が飛び出してから二時間後の事だった。

出て行った時とは違う決意を固めた表情の二人を見て士郎は一つ頷く。

「爺さん・・・決めた様だね」

「ああ、これはアイリと共に決めた事だ。僕は・・・僕達は・・・聖杯を・・・大聖杯を・・・破壊する」

切嗣の言葉を継ぐように

「馬鹿げた理由と思うでしょうけど私もキリツグも正義の為だとか人類の為世界平和なんてどうでも良いの。ただ、イリヤを・・・私達の大切な宝物であるイリヤをそんな聖杯の為に差し出したくないそれだけなのよ」

アイリスフィールの独白を士郎は静かに頭を振る。

「馬鹿げてなんていませんよアイリスフィールさん、大切なものを護りたい、それは人として抱く当然の心です。どんなものよりもそれを優先したお二人はさすがだと思っています、だから卑下する必要なんてないんです。胸を張ってその理由を誇ればいいんです。笑いたい奴には笑わせておけばいいんです」

「エクスキューター・・・」

「さて」

感傷じみた空気を振り払うように士郎は話を変えた。

「早速ですけど、今回聖杯の破壊を行うに当たり、いくつかクリアしなくてはならない問題があります。ですが、これからその中でも最優先でクリアすべき問題を解決しましょう」

「??それは一体・・・」

訝しげな切嗣に士郎はきっぱりと告げた。

「聖杯の器の回収です。アイリスフィールさん、おそらく・・・いえほぼ間違いなく、あなたの体内に宿っているのでしょう?」

もう慣れたとはいえアインツベルンの秘密を何度も、尚且つこうも見事に言い当てられて、改めて二人共声を失った。

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