注意!
今回の話には、ある程度ぼかしておりますが、性的、性犯罪の表現が含まれております。
苦手な方はご注意ください。
時間は戻る。
残る力を振り絞るように放たれた『翅刃虫』が憎き時臣の喉笛を引き千切り鮮血を撒き散らしながら倒れ付す姿を雁夜は歓喜を持って見届けた。
「はっ・・・はははは・・・あはははは・・・あーーっははははは!ぎゃははははは!ざまあ・・・げほっげほっ・・・みろ、ざまあみろ!ざまあみやがれ時臣!これが天罰と言う奴だ!報いと言う奴だ!」
咳き込みながらも雁夜は笑う事を止めない。
止められる筈が無い。
雁夜にとって桜の悲劇を知った時からずっと願ってきた光景だったのだから。
これも全てはあの男の・・・言峰綺礼のおかげだ。
あの男の影ながらの助力があったからこそだというのは認めるしかなかった。
全てはあの時から始まった。
あの時・・・対エクスキューター連合設立後、雁夜は教会の一室に軟禁同然に閉じ込められた。
ドアには鍵を掛けられ、窓には鉄格子、部屋もベッドと聖書が入れられた本棚一つあるだけの良く言えば教会らしい質素な、悪く言えば何も無い殺風景な部屋だった。
「くそ・・・」
息も絶え絶えにベッドに倒れこむ雁夜だが、その眼光は怒りと殺意に満ちていた。
叶うならば今すぐ時臣の首を取ってやりたい。
だが、戦力は心もとなく、今の雁夜にはドアを破る力も残されていない。
肝心のバーサーカーはあのセイバーが同じ教会内にいる為ろくな役に立たない。
そんな自分の思い通りにならない状況にそしてそれに縛られる不甲斐なき自分に憤りを抱くしかなかった。
そんな思案に身を委ねて暫くするとノックも無しにドアが開かれた。
「間桐雁夜、どうかな?気持ちは変わったかね?」
数刻前とは打って変わった穏やかな声で話しかけてきたのは時臣の走狗である綺礼。
「・・・」
言葉も交わしたくもない、顔も合わせたくないと、無言でそっぽを向く雁夜に肩をすくめる綺礼。
「変わらずか・・・そこまでして時臣師を・・・いや、遠坂時臣を殺したいのか?」
と、雁夜は綺礼の声に今までとは違う不穏な空気を感じ取ったのか、雁夜は綺礼に顔を向けた。
そこに立つ綺礼の表情は静かなものであるが、自分を見つめる視線に何か違う感情が宿っているような気がする。
「そんなに遠坂時臣を殺したいと言うならば・・・一つ取引をしないか」
「取引・・・だと?」
「そうだ・・・そんなに警戒するな。私の要求は唯一つ、対エクスキューター連合に参戦する事だ」
「!なに・・・何だかんだ言って結局それか」
てっきり自分を・・・正確にはバーサーカーをこちら側に引き込むための方便かと思っていた雁夜は短く吐き捨てた。
「焦るな間桐雁夜、本題はここからだ。お前が連合参加の話を呑んでくれればお前の望みを叶えてやる・・・そうだな例えば遠坂時臣と決着をつけたいというならばそれを叶えてやろう。更に言えばお前が遠坂時臣を殺す助力もしてやっても良い」
予想を遥かに超える取引の内容に思わず綺礼を凝視する。
「・・・何が目的だ・・・貴様が何故」
何故、雁夜の心中はまさにこの一言が渦巻いていた。
雁夜の内心に渦巻く動揺が手に取るように判ったのか綺礼は静かに微笑みながら
「・・・お前はこう考えているな。遠坂時臣の走狗に過ぎない私が何故遠坂時臣の敵であるお前に肩入れするのかと?簡単だ。私は既に遠坂時臣を見限っている」
「見限って・・・いる?」
「そうだ。そもそも私があの男と曲がりなりにも師弟となったのは我が父との深き縁あっての事」
とうとう時臣の事をあの男と呼び出した綺礼の迫力に押されるように呆然と凝視する。
「父はあの男を深く信頼し、あの男も父に深い信頼を寄せていたのだと思っていた・・・父の死までは」
そこで一言区切る。
「だがそれは間違いであった。あの男は父の死を知るや、それを悲しむ素振りを見せる事も無く、それを利用し聖杯戦争での自分の立ち位置を更に有利なものにせんと画策する。間桐雁夜、お前も気付いている筈だ。今回の対エクスキューター連合、不審とまではいかずとも不自然な事が多すぎると」
綺礼の問いに静かに頷く。
エクスキューター陣営を犯人とする根拠があまりにも乏しすぎるし、証拠に至っては皆無な状況。
だが、それも時臣は半ば強引に押し通して今回の連合を立ち上げた。
であれば・・・
「奴は・・・時臣はこの一件を利用したと言うのか?無実のエクスキューター陣営を嵌めてまで」
「そこまでは判らぬ。実際父の死は間違いなく射殺。そしてエクスキューター陣営はその足取りは途絶えている。現状では黒とは言わぬが白とも言い難い。しかし、それを差し置いてもあの男は現状を己が有利に保つべく策動を続けている事もまた事実。その様な男に利用されつくされて死んだとあっては父も浮かばれぬ。それだけの事だ」
その言葉だけ取れば雁夜にとって綺礼の助力は天の助けと呼ぶに相応しい。
身内も周囲も・・・いやそれどころか自分が使役するサーヴァントすら味方とは言いがたく孤独な戦いを続ける雁夜には頼もしすぎる援軍だ。
ただし、それは綺礼の言葉を鵜呑みにすればの話だ。
時臣への怒りに身を委ね、そして衰弱しきったにも拘らず、雁夜の直感が先程から嫌と言うほど囁いていた。
この男は危険だと・・・
表情こそ時臣に対する憤りに満ちているように見えるが、なにかが引っ掛かる。
それこそ普通の沼だと思い込んでいたが、本当は底なし沼に足を踏み入れるかのような愚を犯そうとしている様な・・・
だが、この男の助力なくして時臣に勝利をもぎ取る事はおろか、再戦の機会も与えられるとは思えない。
しばし思案していたがやがて
「本当だな?もしもこの連合に参加すれば今言った事を実行してくれるんだな?」
「ああ、約束しよう、聖杯戦争の監督役の名において」
こうして雁夜は綺礼から差し出された手を取った。
その時はまだ時臣に対しては半信半疑であった。
だが、その心境が変わったのは『柳洞寺の戦い』の後、時臣と士郎のあの会話を聞いた後だった。
「ぁぁぁぁぁ・・・」
二人の会話が終わってから雁夜は地面の顔を伏せたまま呻き声を上げていた。
だが、その声には苦悶でもなければ諦観でも悔恨でもなく・・・今までに無いほどの憤怒と怨嗟が篭っていた。
「ぁぁぁぁ・・・とぉ・・・きぃ・・・おぉ・・・みぃ・・・とぉきぃおぉみぃ!」
顔を上げた雁夜の形相は亡霊、怨霊も尻込みするのではと思うほど。
「なにが・・・何が桜ちゃんの未来の為だ・・・親の責務だ・・・詰まる所貴様は自分の為に桜ちゃんを生贄にしただけって事か!」
その声には生命力が篭っていた。
もう立ち上がれるはずがないというのに近くの木に縋るように立ち上がった。
とてもではないが数分前まで死の淵を彷徨っていた男とは思えないほどだった。
それだけ許せなかった、許す事が出来る筈がなかった。
桜を自分の欲望の為に間桐の地獄に送り込んだその所業をどうして許せるものか。
この時雁夜は、士郎の発した言葉を完全に信じ込んでいた。
時臣は桜の未来を拓く為ではなく、桜の犠牲を利用してじぶんの利益を得ようとしたのだとそうに違いないと。
今雁夜が抱く心境はケイネスが切嗣に監督役殺害を擦り付けようとした心境そのものだったが、そんな事など自覚していない。
自分の考えこそが正しいのだとそう思い込んでいた。
「死ねるか・・・死んで・・・たまるかこのままで死ねるかぁぁぁ」
そんな誤った殺意を燃え滾らせる雁夜だが、それとは裏腹にようやく立ち上がった足はがくがく振るえ脂汗を流す顔色は死人そのもの。
それも当然の事、バーサーカーが消滅した事で一命を取り留めたが、雁夜の刻印虫は使い潰される半歩手前まで追い詰められ瀕死状態。
それ故に雁夜の口から発せられる言葉と漲る決意とは裏腹にその身体は刻印虫同様死にかけ、もはや何時生命活動を止めても可笑しくないほど。
それでも雁夜は一歩踏み出す。
あの人の皮を被った悪魔を滅ぼす為に。
刺し違えてでも本懐を遂げる為に。
と、不意に右手が燃えるような熱さと激痛を感じそれは疼く様な鈍痛に取って代わる。
懐かしいような感覚に思わず痛む箇所を見てみれば、そこには信じ難い事に数分前に消滅した筈の残り一画の令呪、それは再び姿を現していた。
「な・・・これは・・・」
「ほう、これは驚いた。どうやら聖杯はあの男よりも雁夜、お前に相当の期待を寄せているようだな」
心底から驚いたと言わんばかりの表情で雁夜の前に現れたのは綺礼。
実際綺礼は驚いていた。
自分とは違い雁夜は『始まりの御三家』のマスター、その特例として令呪の持越しとマスター権の維持は十分にありうる話であるが、それはあくまでもはぐれサーヴァントが存在する場合のみに限る。
自分と同じくその状況で雁夜の手に令呪が戻るとは・・・
綺礼が言うように聖杯は雁夜に何かを期待しているのか、それとも・・・
それはどちらでもいいだろうと頭を振ると懐から取り出したそれを雁夜の口に強引に押し込む。
突然の固形物の感触に思わず吐き出そうとするが
「飲め」
有無を言わせぬ綺礼の手で強引に飲み込まされた。
「げほっげほっ!・・・あ、あんた何を・・・っ!」
激しく咳き込みながら綺礼に抗議の声を上げようとした雁夜だが、身体の内部の焼き尽くすような灼熱感とそれに伴い全身を襲い掛かる激痛の数々に止められ
「!!!!!」
その代わりに声なき絶叫を上げてのた打ち回る雁夜に綺礼は一つ頷く。
「ご・・・ごればっ・・・」
これも雁夜には覚えのある痛みだった。
憎き臓硯の手によって死に掛けていた自分が生還した時と同じ、死に損ないである刻印虫が過剰な活動を始めた事によって生じた痛み。
「お前にとっては不本意であろうが、あの男から私に渡された魔力を込めた宝石だ。身体の調子はどうだ?」
綺礼の言葉に視界が真っ赤になりかける。
無論それは間接的に時臣の手で助かってしまった事に対する憤りであり、その様な事を勝手にやらかした綺礼に対する怒りだった。
「何をっ!」
『余計な事を』と綺礼に罵声を飛ばしかけた雁夜だが、先手を打つように
「こうしなければあの男を殺す事はおろか対峙する事すらままならぬと思ったのだが」
冷静な指摘に言葉を詰まらせる。
綺礼の主張に理がある事位は理解しているが納得出来る訳ではない。
だが、綺礼が自分の援護をしてくれた事も事実。
結局雁夜は綺礼を忌々しく睨み付ける事それしか出来なかった。
「調子は良さそうだなそれは結構。では行くとしようか。準備は整っている」
そう言って差し出された綺礼の手を雁夜は
「ああ・・・約束どおり奴を殺す手助けをしてくれるんだな?」
綺礼に短く問いながらも、迷う事無く取った。
「無論だ」
その問いに表面にこやかに断言する。
未だ綺礼への疑惑は解決した訳では無いが、それでもこの男の手が悪魔の手であったとしてもそれで時臣を殺せるならば構わない、雁夜はそんな覚悟を固めていた。
自分は既に代償は払い尽くしていると、その時はそう思っていた・・・
だが、この時の雁夜の認識は甘く、間違いえていた。
雁夜が手を取ったのは代償を支払えば契約を守る悪魔ではなく、代償を支払っても契約を守るどころか、更なる代償を要求し、最終的には全てを奪い取る狡猾で残酷で非情な人間だったと・・・。
そして雁夜には未だ払っていない代償が存在していた。
雁夜にとっては最後の拠り所と言うべき代償が・・・
こうして綺礼の助力で致命的な隙が生じた時臣の喉笛を『翅刃虫』は見事に切り裂き、鮮血を撒き散らしながら仰向けに倒れる。
遠目から見ても判る。
時臣は死んでいると。
遂に本懐を遂げた事に雁夜は歓喜を爆発させ続ける。
「はははははっ!あーっははは!」
雁夜は笑いながら涙を流す。
自分は成すべき事を成したのだと。
愛する葵を凛を桜を苦しめる元凶をこの手で葬り去り、これで皆元に戻る。
皆わだかまり無く幸福に過ごしていたあの日に返れるのだと。
そんな個人的な報復心と、自己満足な未来を確信し一人悦に入る雁夜だったが、背後から聞こえてきた何かの物音に反射的に後ろを振り向き、雁夜は己が目を疑った。
何故ならばそこにいたのは葵だった。
己が目を疑い呆然としていた雁夜だったが、直ぐにその口元に笑みが浮かぶ。
「は、はははっ、何処まで・・・何処までついているんだ俺は」
その笑みは紛れもない歓喜だった。
何故隣町の実家にいる筈の葵がここにいるのか気にはなるが、些細な事だ。
重要なのは今ここに葵がいると言う事だ。
自分は胸を張って伝えればいい。
『時臣は死んだ。もう貴女を縛るものは無い』と。
『これで凛ちゃん、桜ちゃんはまたかつてのように一緒に遊べるんだ』と。
そうすればきっと葵の笑顔を見る事が出来る。
あの幸福な日々が帰ってくる。
自分はそれを見る事は出来ないけどその橋渡しに、礎となったのなら、自分は満足だ。
そんな甘い夢想・・・いや、妄想に浸りながら雁夜は葵に近寄る。
だが、純真なだが、誰も顧みない自分勝手な妄想に支配されているが故に雁夜は気付かない。
葵の表情が最初呆然としていたものから徐々に悲しみに満ちたものに変わるのを。
そして雁夜が近寄ると同時にそこに怒りの色が加わるのを。
「あお」
「・・・でよ・・・」
ゆっくりと近付きながら葵に声を掛けようとした雁夜だが、それを遮るように葵の口から発せられた声に足と口を止める。
断片しか聞こえなかったその声が今まで聞いた事が無いほど堅く、そして拒絶の意思に満ちていた。
そう・・・あの時と同じ若しくはそれ以上に。
「な、何を・・・」
その声が何を意味しているのか理解できず更に一歩近付き、葵に手を伸ばす。
「近寄らないでよ!!この化け物!!」
その瞬間葵の罵声と同時に伸ばした手がはたかれて拒絶される。
女性の力では差し出された手を弾く事しか出来ないが、衰弱し、予想もしていなかった葵の反応に雁夜は完全に虚をつかれたのかバランスを崩してその場に尻餅をついた。
「あ・・・ああああ・・・ああああああ」
混乱して意味を成さないあの単語を口から漏らしながら、それでも葵に手を伸ばすが、そんな雁夜に眼もくれず時臣の亡骸に駆け寄り、しばし、その亡骸を見つめた後人形の糸が切れたみたいに膝をついた。
おそらくその亡骸は愛する夫のものでは無いと信じたかったのかも知れない。
だが、間違いなくここで死んでいたのは時臣であると理解してしまった瞬間
「嘘・・・よね・・・あなた・・・嘘だと言って・・・あなた・・・眼を覚ましてあなた・・・あなた、ねえあなた!いや、いやよいやあああ!あなたああああああ!」
鮮血で自分の服が汚れる事も厭わず時臣に縋り付き希う様な声で囁いていたがやがて悲嘆を固めたような声泣き叫んだ。
その様を尻餅をついて手を伸ばしたままの体勢で雁夜はただ見つめていた。
雁夜の思考は真っ白になっていた。
彼には理解出来なかった。
訳がわからなかった。
何で彼女は泣いているんだ?
(モウナクヒツヨウハナイハズナノニ)
何で自分は彼女から、あんな憎しみを篭った眼で見られたのか?
(オレハカノジョヲクルシメルゲンキョウヲハイジョシタノニ)
(マタアナタハリンチャントサクラチャンミンナシアワセニクラセルノニ)
なのに・・・どうしてあれほど憎まれ、拒絶されると言うのか?
混乱し困惑し思考が滅茶苦茶になり、茫然自失の状態でただただ号泣する葵の姿を見つめていた雁夜だが、不意に
(アオイサンハコンランシテイルダケダ)
(オレガアオイサンノメヲサマシテヤレバイインダ)
奇妙な事を考え始めた。
(ソレイゼンニナニヲタメラウヒツヨウガアル?トキオミハイナイ。コレデアオイサンヲドクセンデキルトイウノニ)
「は・・・」
そんな奇妙な思案に感染したように雁夜の口が禍々しく釣りあがる。
「そうだ・・・」
時臣のような屑に葵はもったいない。
「俺は・・・時臣を殺した・・・次は聖杯を手に入れて・・・桜ちゃんを救う・・・そして・・・」
そして残された時間の全てを葵の凛の桜の母娘の為に捧げよう。
その為には時臣の呪縛に囚われた葵を救わなくては・・・
その為には・・・葵を自分が独占すれば良い・・・
他者から見れば雁夜の論法は明らかにおかしい。
おかしい筈なのに雁夜はそれに疑問に感じない。
それが正しいとそうするべきなのだとの思考に支配されていた。
ゆっくり・・・ゆっくり立ち上がると葵の元に近寄る。
泣きじゃくる葵はそれに気付かない。
ようやく背後に迫る嫌な気配を察し、振り向いた時には雁夜の手は葵の腕を掴み強引に時臣から引き離すや葵を押し倒す。
「きゃ!な、何する」
葵が何か言いかけたが、それを遮る様に力任せに葵の服を引き裂く。
布地を引き裂く音にやや遅れて
「え?きゃ、きゃあああああああ!」
葵の絹を裂くような悲鳴が交差する。
「いや!いやいや!いやぁぁぁ!」
本能で目の前の化け物が自分に何をするのか理解したのだろう、必死になって暴れる。
ぼろぼろの雁夜であれば葵でも跳ね除けられる筈なのに何処に力が残っていたのかびくともしない。
それどころか暴れる葵をものともせず更に服を引き裂き、遂にはぼろぼろの布地を若干肌に纏わせただけで葵は生まれたままの姿になる。
その姿に雁夜は一層昂ぶる。
夢にまで見た葵の姿に呼吸を荒げて、葵を蹂躙する。
このままでは最悪の事態になる事を察した葵は貞操を穢される恐怖に駆られ、その視界の端に映った愛しい夫に手を伸ばす。
「助け・・・助けてぇ・・・あなたぁ助けてぇ!」
そんな葵の必死の懇願に応じたのは無論だが時臣ではなく
「はははっ、無駄だよ!葵さん・・・いや葵!時臣は死んだ!あの屑は死んだんだ!もう、もう貴女は、お前は俺のものだ!俺のものになるんだ!!」
獣の如き形相でとうとう葵を本格的に穢し始めた雁夜の声だった。
「えっ?」
その声を聞いた瞬間、葵の頭は真っ白になった。
自分の貞操が穢された事も夫が殺された事も思考の片隅に追いやられた。
今の声は紛れも無い彼の声・・・
でもありえない。
彼は今でも日本を駆け巡っている筈・・・
ここにいる筈が無い。
でもあの声は紛れも無く・・・
思考が停止したまま葵は今自分を汚そうとしている獣の顔を始めて見た。
老人のような白髪、狂死したような苦悶の左半分の貌。
そして興奮で血走っている右半分の貌を見た時自分が来た声は間違いないのだと思い知った。
どれほど変わり果てても見間違える筈がない。
筈が無いからこそ葵は自分を陵辱する獣の正体を認める事が出来ず
「か・・・り・・・や・・・く・・・ん?」
ただ呆然とその名を呼ぶ事しか出来なかった。
時臣を除けば最も親しく、そして最も頼りになる幼馴染の彼が・・・こんなにも変わり果てた姿でそこにいた。
どう言う事なのか?
何故雁夜がここにいるのか?
何故雁夜が時臣を殺したのか?
どうして雁夜はこのような変わり果てた姿になったのか?
何よりも、どうして・・・雁夜は自分を穢そうとしているのか・・・
本来葵は物静かな佇まいとは裏腹にその芯は強い女性だ。
一つ一つの出来事であれば彼女も冷静であろうと努め、理解し呑み込もうとしただろう。
だが、葵は修羅場を掻い潜った歴戦の勇士では無い。
魔術師の夫に嫁ぎ、非日常の世界をそれなりに知ると言うだけの女性に過ぎない。
そんな彼女が一度に襲い掛かってきたそれを対処する事など出来る筈が無く、
「が、がああああああ!」
「!!いや、いやよいやいやいやいやあああああ!」
呆然としている内にとうとう雁夜によって自分の中までもが穢された瞬間、全ての現実から眼を背け
「・・・ふふ・・・うふふふふふふ」
壊れたような笑みを浮かべる事しか出来なかった。
「はっはははは!そうだ葵!お前は笑っていてくれれば良いんだ!俺だったら!俺だったらあの屑野朗の様にお前を泣かせはしない!悲しませない!桜ちゃんも必ず救い出す!そうすればそうすれば!」
「ふふふふふふふふ」
葵の微笑みを見た雁夜は歓喜の咆哮をあげながら雁夜にとっては愛の営みを続け、葵にとっては心を閉ざさなければ受け入れられない陵辱の時間をただ耐える。
だが、それを自分に酔っている雁夜は気付かない。
葵の笑顔が壊れきった人形の笑顔だと気付かない。
雁夜が何よりも欲して止まなかった葵の本当の笑顔を得る事は未来永劫訪れる事は無い。
いずれはその事を突きつけられるだろうが、そのような事に気付く事も無く雁夜は目の前の偽りの幸福に身を委ね、神の家において背信の行為に何時までも耽っていた。
「・・・」
その一部始終を見届けた綺礼はその表情にやや驚きの色を残していた。
「ほう、綺礼、貴様以外にも脚本家としての才能もあるではないか。初めてでこれ程の見世物を見せてくれるとは」
そんな綺礼の背後に至極ご満悦な表情で現れたのは私服姿のアーチャー。
「・・・別に私の功績では無い。舞台役者が予想を覆す動きをしただけだ」
それに対する綺礼の返答はそっけない。
何しろ綺礼自身が言ったようにこのような結末は全く予想していなかった。
途中までは綺礼の予測通りだった。
雁夜によって時臣が殺害されるのを葵に見せ付けた事で拒絶される所までは。
綺礼の筋書きに沿っていけば『逆上した雁夜は葵を殺そうとする』事を予想していたのだが、よもや葵を陵辱するという雁夜にとってはある意味最悪手とも言える暴挙に出るとは思わなかった。
それほど葵に対する歪んだ想いが強かったのか、それとも・・・
「予想を覆す動きを役者がしたか・・・そう言う割には色々仕込んだのでは無いのか?」
そういうアーチャーの言葉も正しい。
確かに綺礼は柳洞寺で雁夜に宝石を呑ませた時ちょっとした暗示を仕込んだ。
だがそれもちょっとしたもの・・・『自分の思いを正直に吐き出せ』・『己の欲望を素直に受け入れろ』と言う程度の代物であり、それがここまでの化学反応を示すとはとても思えない。
「買いかぶりすぎだアーチャー。あの程度の悪戯程度でここまで変わるものか」
「甘いな綺礼。貴様にとっては些細な悪戯でも、相手からしてみれば運命すら逆転させるほどの大事である場合もある。そういった人間どもの生きた感情こそがこれだけの傑作を創り上げたのだ」
「そう言うものか」
上辺は関心なさそうなものだったが内心はアーチャーの言の正しさを認めるしかなかった。
一連の見世物で時臣が雁夜がそして葵が見せたそれらは紛れも無い生きた人間の生々しい感情のぶつかりあいだった。
それは綺礼に奇妙な興奮を齎し、その臨場感は綺礼から息をする事も忘れさせた。
「・・・ああ、それと綺礼、もう一つ聞かねばならぬ事がある」
そんな綺礼の内心を正確に推し量ったのか満足そうな笑みを浮べたアーチャーだったが、不意にその視線が険しくなる。
険しさから察するに余程の不手際があったのだろうかと綺礼は内心で身構える。
が、アーチャーの問いは予想もしていない事だった。
「綺礼、貴様何故謀反人が誅される過程をあの雌に見せなかった?」
思わぬ事と言うよりも全く想定していなかった問いに思わず思考が停止する。
だが、直ぐに我を取り戻すと
「他意は無い。単純に奥方が姿を現す事で起こる事に予測が付かなかったからだ」
そう言う綺礼の言葉に偽りは無い。
決闘の直前に姿を現した事で時臣と雁夜がどのような反応を示すのか全く予測がつかなかった。
だからこそ『葵が教会に入って来た時、雁夜が時臣を殺す瞬間』を目撃するように時間を上手く調整した。
綺礼はそれが最善の判断だと思っていたのだが、アーチャーにとっては違ったらしく、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「やはりまだまだだな綺礼。そういった不測の事態もまた余興を愉しませる素材の一つになる。良いか綺礼、不測の事態を恐れるな。むしろそれすらも取り込み利用する事を考えよ。そうすれば更に見識は深まり、ひいてはそれが貴様の求める答えへの導ともなるだろう」
言っている事はライダーに勝るとも劣らないむちゃくちゃな論法であるが、綺礼はアーチャーの言に圧倒されていた。
この男は自分にとって不都合な事になりかねない不測の事態すらも愉しもうと言うのだ。
その呆れるほどの器の大きさはまさしく王なのだろう。
セイバーやライダーとはまた違う・・・
「なるほどな・・・では私は不合格と言う事か」
どこか悟りきった綺礼は静かに溜め息をつく。
自分としては全身全霊をかけたつもりだったが、肝心のアーチャーの不興を買ったと言うならばこの見世物は失敗・・・すなわち己が命を以って償うと言う事だ。
無念ではあるがそれも仕方が無い事だとその沙汰を受け入れようと思っていたが、そんな綺礼に掛けられたのは
「やれやれ、綺礼、直ぐに早合点しただけに留まらず、悪い方向に考えるのは貴様の悪い癖だぞ」
アーチャーの呆れたような声だった。
「??アーチャー??」
「合格だ綺礼。反省すべき点は多々あれど、初めてでこれ程の余興を仕立て上げ、我の無聊を慰めたのだ。今後成長の見所があるのも実に良い」
そう言ってアーチャーは実に良い笑顔を浮べた。
「・・・いいのか?」
「ああ、前にも言った筈だぞ綺礼、我は貴様を気に入ったとな。飽きさせぬ限りは貴様の行く末を見届けてやる。だがな」
そこでアーチャーの視線に冷たいものが加わる。
「貴様が我を失望させる事があれば、あそこで転がっているゴミと同じ運命を辿る。その事だけは肝に命じて置けよ」
その言に偽りは無い。
間違いなくアーチャーは自分の意にそぐわぬのであれば、一分前までのお気に入りであろうとも容赦なく切り捨てる、サーヴァントとして扱うには強大であるがあまりにも傲慢不遜、あまりにも危険な存在であるがその緊張感が綺礼には心地よい。
今まで綺礼が歩んだ事も無い悪徳の限りが待ち構えているであろう修羅道においてこの男ほど道標を指し示すのに相応しいサーヴァントはいない。
だからこそ綺礼は静かに頷く
「ああ、お前を最後の最後まで愉しませよう英雄王ギルガメッシュ。それが私の追い求める答えを得る為の唯一の道であるならば、私は道化でも裏切りのユダでも何でもなろう」
そう言って綺礼はカソックの袖を捲り上げる。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に、聖杯のよるべに従いこの意、この理に従うのならば」
「貴様の供物、我の血肉と成す名誉を与えよう。新たなるマスター言峰綺礼」
その瞬間契約の証として綺礼の令呪が鈍痛と同時に光りだす。
その瞬間、この聖杯戦争においてエクスキューター陣営に匹敵する最強最悪の一組が誕生した。
「さて、綺礼貴様はどのような采配で我を満足させてくれるのだ?それが我を愉しませれば愉しませるほど、貴様は聖杯に近付くぞ」
「それに関してだが、アーチャー」
と、綺礼が不敵な笑みを浮べる。
「もしお前が見たいと言うならばこの見世物の第二幕を上げる用意があるが、どうする?」
その言葉にアーチャーの赤き瞳は更なる悦楽の予感に細めた。