時臣との定期報告を終えた綺礼が自室に戻ってからしばらくすると、自室の空気が一変した。

無論良い方向ではなく悪い方向・・・それも最悪に。

何の前触れもなく姿を現したアーチャーは当然のように長椅子に陣取ると手短な酒を手に取り、やはり当然のようにグラスに注いで一口飲むが、その途端顔を顰める。

「言峰・・・なんだこの劣悪な酒は!」

グラスごと綺礼目掛けて投げつける。

それを綺礼は首を軽く傾げるだけでかわすが、直ぐ後ろでガラスの砕ける澄んだ音が響き渡る。

一連の動作だけでアーチャーの機嫌は最悪を更に超えている事を嫌でも理解した綺礼は人知れず溜息を吐く。

「ふん、ずいぶんと酒の目利きが衰えたな言峰、我に供する酒の質の劣化著しいわ。そんな安酒を供した責任どうつけるつもりだ」

勝手に入って、勝手に飲んで、その挙句、もはやチンピラの絡みと大差ない、勝手な因縁をつけられる。、綺礼としてはたまったものではないが、言われっぱなしで済ませるつもりも無かった。

「やれやれ、『酒は味の分かる者に飲まれてこそ、その価値があるのだからな』とは先日の貴様の言葉だったなアーチャー、その言葉そっくりそのまま貴様に返って来たな」

「何?貴様我に楯突こうというのか!」

アーチャーの眼光に紛れもない殺意が生まれ背後の空間が歪み始める。

それの意味する所など綺礼は承知している。

「そうではない。事実を言ったまでの事だ。今貴様が劣悪な酒と称したそれはつい先日お前が勝手に試飲して逸品と賞したものだぞ」

冷静極まりない指摘に思わず言葉を詰まらせるアーチャー。

よくよく見れば確かに自分が絶賛していた酒に他ならない。

忌々しげに酒瓶と綺礼を睨み付けるが、それ以上の事はしてこなかった。

これ以上酒瓶に当り散らすような事をしてしまえば、綺礼以外誰も見ていないとは言え、王としての沽券に関わると言う事はわかっているからだろう。

そして、自身の失態を綺礼にぶつける事もしない。

アーチャーから殺気が消え失せ、空間の歪みもいつの間にか消え失せていたのが何よりの証拠と言えた。

「で、どうかしたのか?アーチャー、やけに不機嫌と言うか怒り心頭のようだが」

アーチャーと対面する形で長椅子に座る。

本音を言えば聞きたくも無いのだが、状況を正確に掴まなければ、どういった拍子に自分にどれほどの被害が被られるかわかったものではない。

一方の聞かれたアーチャーはと言えば、部屋に入ってきた時と比べれば落ち着いてきたようにも思えるが、それは憤怒から怒り心頭になったに過ぎず未だ予断は許さない。

現に綺礼の質問に対するアーチャーの答えは絶対零度に等しい一睨みだけ。

どうやら口にもしたくないらしい。

綺礼はその視線だけで事情を聞く事を諦めた。

聞き出したい気持ちもあるが、それにこだわるあまりに、藪蛇か天災クラスの被害を自分が被る事は火を見るよりも明らか、こちらで注意して慎重に話題を選んでいくしかないだろう。

と、不意にアーチャーの表情が愉しそうに笑う。

だが、綺礼の見立てではそれは上機嫌になった笑顔と言うよりは甚振り甲斐のある獲物を見つけたことの喜びの笑顔に見えた。

それに近いものを綺礼はほんの数時間前にアサシン経由でしかと見ている。

ライダーがアサシンを蹂躙する前に見せたあの笑みだ。

「言峰、貴様随分と上機嫌なように見えるが何か吉報でもあったか?」

「そんなものは無い。強いて言うならば安堵だ。私の仕事の大部分は終了したからな」

そう言いながら令呪が消え失せた左手の甲を見ながら言う綺礼の言葉に偽りは無い。

先刻の聖杯問答でアサシンが完全に脱落した事により綺礼に課せられた仕事・・・脱落を偽装して他陣営の動向を諜報する事・・・は終わりを告げ、偽りの教会での保護生活が名実を伴った。

最後の最後でライダーの切り札『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』を白日の下にさらけ出したのはせめてもの意地だったが、結局エクスキューターに関する事はろくに掴めずじまいだったのが片手落ちだったと自覚しているが時臣から見れば、それは些細なものでこのまま聖杯戦争を制する事が出来ればその最大の功労者は間違いなく綺礼だと断言できる功績を挙げてくれたので感謝しかない。

と、そこでアーチャーの興味が変わったのか別の質問をして来た。

「所で言峰、消えた令呪とやらはその後はどうなるのだ?あれほどの魔力の塊消失するはずは無いと思うが」

「理屈上の話だが、サーヴァントを失い資格を失ったマスターの手から離れた令呪は聖杯の元に戻る。あれはあくまでも聖杯の賜り物に過ぎぬからな。そして万が一にも契約を解消しマスターを失ったサーヴァントが存在する場合に限り有資格者に未使用分の令呪が再配布される」

アーチャーの関心が別に移ったと見て綺礼は素直に答えてやる。

別に答えてはならないような機密でもないし、何よりも目の前の爆弾の機嫌を損ねる危険を考えれば機密であっても話さないと言う選択肢は無いに等しい。

「ほう、では今後の展開しだいでは新たなマスターが現れることもあり得ると言う事か」

綺礼の言葉を聞き、見る者に不安を与える笑みを浮かべるアーチャー。

そんなアーチャーに少なからぬ違和感を抱きつつも綺礼は言葉を続ける。

「そうだな。だが、聖杯に認められてマスターとなれる新規の参戦者など万に一つの可能性もない。結局は以前にマスターとなった人物から優先的に選抜するだろう。ましてや『始まりの御三家』は更に別格といっても良い。例えサーヴァントを失ったとしてもその時点で未契約のはぐれサーヴァントが存在する場合にはマスター権を継続して維持出来る。時臣師の話では過去にそう言った事例があったそうだ」

そこでは思わず綺礼は言葉を切る。

自分に嫌な笑みを浮かべて、見つめるアーチャーの視線に何かを感じ取っていた。

「どうした?続けよ、言峰」

だが、アーチャーに静かに急かされて話を再開する。

「・・・聖杯戦争の折、サーヴァントを失ったマスターが監督役がいる教会に保護を嘆願するのもそこに理由がある。はぐれサーヴァントが存在する場合、ほぼ確実に聖杯から令呪が再贈与され敗者復活を果たす事が出来る。だからこそ聖杯戦争の参戦者は敵対マスターの無力化では無く殺害を目指す。万が一の危険を考えれば生かしておく事に一利も無いからな」

「ほほう、その理屈で言うならば言峰、貴様もマスターの権利を再び得る可能性があると言うのか」

「可能性だけを論じればな。だが、その様な機会は万が一にもあり得ぬさ。聖杯が私に期待していた事が時臣師の援護にあると言うならば、私がなすべき事は全て終わっている。時臣師がお前を用いて他陣営の殲滅に乗り出せばサーヴァントもマスターも生き残らぬ、私の出る幕は無いさ。どちらにしろこうやってお前が無聊をかこつ事が出来るのもそろそろ終わりだ。キャスターの首級を時臣師があげ、間引くだけ間引いた後こそがお前の出番になるのだからな」

「我から言わせれば時臣の手ぬるいやり方ではまだまだ先の話だろうさ。それはそうと言峰、アサシンが全滅したと言っていたが例の件はどうなっている」

皆まで言うなと綺礼は頷く。

例の件・・・アーチャーに要請された各陣営のマスターの聖杯獲得の動機などを調べる事だが無論抜かりは無い。

「判っている。一つだけ例外はあるがその他については一通りの調べはつけた。そういえばアサシンからお前に説明させるのを忘れていたな。手間をかけさせた事は詫び」

「いや、それでいい」

不意にアーチャーの口から出てきたのはこれまでに無いほど断固たる口調だった。

「影の言葉は意味も無い。他ならぬ貴様の口から語らなければならぬ事だ」

意図も何も判らぬままであったが、アーチャーに乞われるがまま、綺礼は他陣営のマスターの人物像を列挙して言った。

とは言え、アサシンを動員して調査を重ねたとしても凡その推察でしかない事を前置きしておいてから話し始めた。

ランサー、ライダーのマスターに関しては特に語る価値は無く、聖杯に託す願いは無くあくまでも聖杯戦争の勝者と言う名の名誉を追い求めているに過ぎない。

キャスターのマスターにいたっては更に論外で聖杯の何たるかも魔術師としての矜持も無く、己の快楽を満たす為だけにキャスターと共に聖杯戦争に参戦している。

言葉を飾らずに言えば快楽殺人の延長線上で気軽に参加しているに過ぎない。

バーサーカーのマスターだが、こちらは前者三名とはいささか事情が異なり贖罪を求めているらしく、自らが間桐を放逐した事により間桐に養女として差し出された時臣の次女を解放する為聖杯を得るべく、この血生臭い戦争に身を投じている。

しかも、時臣の話を聞く限りでは彼の妻である葵と過去にいささかならぬ関わりがあるらしく、ある意味では今回参戦している陣営の中では最も世俗的な動機での参戦とも言える。

セイバーのマスターに関しては、口が堅く、アサシンの調査をもってしても判明する事は叶わなかったが、とりあえず、アインツベルンの宿願である聖杯の成就、ただその一点の執着のみと伝えた。

虚言と言えば虚言であるが全てが全て偽りと言うわけでもない。

アイリスフィールは既にその願いを見限っており現在では聖杯の完全破壊を目論んでいるが、アインツベルンが未だに聖杯の成就を求めているのは、事実だったが、その様な事綺礼自身は知りようもない。

そして、エクスキューターのマスターに関しては、綺礼は正直にマスターが判明しなかった為、不明と伝えた。

何しろ、エクスキューターに関してはほとんどを単独での活動、若しくはセイバー陣営と行動を共にしており、肝心のエクスキューターのマスターに関しては尻尾すら掴む事は叶わなかった。

そのあまりの完全な秘匿ぶりに、一時綺礼はアイリスフィールがセイバー、エクスキューターの使役を行っているのではと疑ったが、先日のアイリスフィールとの交戦を見る限り、二騎のサーヴァントを使役しているような疲弊は見受けられない。

やはり、エクスキューターのマスターは別にいると見た方が無難だ。

この時、綺礼にはエクスキューターのマスターに関しては一人、心当たりがいた。

アサシンを動員した徹底した諜報活動を完全に掻い潜った手腕と周到さ、それを持ち合わせた聖杯戦争の関係者は綺礼が知る限りただ一人しかいない。

だがそれをアーチャーに言う事はなかった。

未だ確証の無い憶測に過ぎなかったし、この男にそれを話す気はないし、何よりもなれなかった。

少なからぬ疑念が生じつつあるが、綺礼が無意味とも思える聖杯戦争の参戦に意味と意義を見出した、切嗣との対峙と対話、これは人に容易く話す事ではないし、何よりも目の前で踏ん反り返る男の暇潰しの為に話してやる義理も筋も無い。

そんな綺礼の心中を察したかどうかは不明だが、アーチャーはと言えば表情を良い意味でも、悪い意味でも変える事も無く、退屈そうに綺礼の言葉に耳を傾けていた。

そうして話し終わった綺礼に対してアーチャーの第一声は綺礼への労いではなく

「は、期待外れも良い所だな。見所のある奴がいるかと思えば所詮は雑種やごみ虫の集まり、下らぬ理由で我の宝を狙おうとはな酌量の余地も無い」

侮蔑と自分勝手な言い草だった。

「・・・人に徒労を強いておいて挙句にはその言い草か」

何処までも厚顔無恥、傲慢なアーチャーに溜息を吐く綺礼だったが、次のアーチャーの言葉に浮く無からず眉を顰めた。

「徒労だと?おかしな事を言うな言峰。お前とアサシンの労苦には十分な成果が得られたではないか」

全く意味不明な事を言うアーチャーの顔にはいつもの無垢なものを堕落へと誘惑するような笑みを浮かべている。

「私をからかっているのかアーチャー」

その不快感に思わず言葉を荒げかける綺礼を制するように、やや笑みを引っ込める。

「からかってなどはいない。確かに今回の貴様らへの労苦、我の無聊を慰める意図もあったがもう一つ重要な意味も持ち合わせていたのだぞ」

「何?」

「判らぬか?まあ仕方あるまい。自身の心を己のつまらぬ規範で縛るような男だ。良いか人は本能的に愉悦、娯楽を好む。それは自覚していなくとも魂もまた求める。例えるならば獣が獲物を追う時に血の匂いを辿るようにな。それ故に言峰よ。貴様がアサシン経由で見聞きし理解した事柄を貴様自身の口から語らせたのだ。貴様が最も言葉を尽くし最も熱を込めて語った事、これこそが貴様が最も興味を持った事に他ならぬ。更に愉悦を知りたいならば人を語らせるのが最も効果的だ。人を、人生を弄ぶ、これに勝る愉悦は我も知らぬからな」

新たに引っ張り出してきたワインで喉を潤しながら語るアーチャーの言葉に綺礼は虚をつかれる思いだった。

今まで目の前の男の余興代わりでしかないと思っていた事がよもやこのような形で自身へと跳ね返ってくるとは思いもよらぬ事だった。

「知らぬもの、話さぬものに関してはどうでもいい、自覚ある興味、関心はただの執着に過ぎぬ。では残りのマスターでお前が最も言葉を尽くしていたのは誰か?」

そこで言葉を区切り、意味深な笑みを更に深くする。

「バーサーカーのマスター・・・確かカリヤとか言ったかな?言峰、すいぶんこの男の説明には時間を割いたようだが」

「・・・先ほども言っていたように時臣師とも因縁浅からぬ相手ゆえに詳細な説明をしただけだが」

「そうか?我から言わせれば違うな。貴様は『そういった浅からぬ因縁が見えるまで詳細な調査』をアサシンに強要した。貴様自身の無自覚の興味のままに」

そう言われ綺礼は思案する。

確かにアサシンには雁夜の事は特に詳細に調べ上げるように命じた。

それは時臣、葵の遠坂夫妻と雁夜との関係性もさることながら、バーサーカーのあらゆるものを自らの宝具に変える能力による所が大きい。

だが、全体で見た時バーサーカー陣営は最警戒すべき相手かと思案すれば綺礼は否と断ずる。

バーサーカーは元々消費魔力が他の六騎よりも段違いに多く、普通の魔術師ですらその負担は桁違いだ。

しかも、マスターの雁夜は俄仕込みで魔術師に強引に仕上げたのだろう、医学の心得の無い綺礼が見ても明らかな死に体。

真っ向から戦う事は無く持久戦に持ち込めば勝ち得る。

いや、極論を述べてしまえば、相手にする事無く放置しておけばそれだけで事足りる。

その様な相手をここまで調べ上げたのは、綺礼から見れば極めて軽率な不合理な行動だったと言える。

「お前に無用な詮索を強いた事を事を詫びよう。長期的に見ればどれだけバーサーカーの存在が脅威であろうともマスターである間桐雁夜はそれで補いきれぬほど脆弱な存在、その様な男を上っ面の情報だけで過大評価してしまった。これは明らかな私の判断ミスだ」

自らの非を非と認めぬような綺礼ではなくアーチャーに素直に頭を下げて謝罪の意を示した。

「なるほどそう来たか」

そんな綺礼の謝罪を受けてアーチャーは笑うがそれは自尊と言うよりも苦笑を割合のほうが強いように思われた。

「では言峰、ここより先は仮定の話だ。万に一つの奇跡と悪運と僥倖の積み重ねによってこのカリヤと言う男が最後まで勝ち残った場合何が起こりうるか想定出来るか?」

意味の無い話だが、一応仮定として考えて見る。

間桐雁夜が最後まで勝ち残る事、それはすなわち遅かれ早かれ時臣と対峙する事だ。

もとより歴戦の魔術師と俄仕込みの魔術師モドキでは話にもならないがそれすらも勝ち残り聖杯を手にした時、何が起こりうるか・・・

言うまでもないそれは自身の矛盾だ。

遠坂の次女、桜・・・葵の娘であり凛の妹を取り返す為に葵の夫であり、凛と桜の父親である時臣を殺すと言う究極の矛盾。

最後まで勝ち残ると言う事はすなわちそう言う事だ。

だが、雁夜はそれに気付いていない。

もしかすれば気付いている上でそれを覚悟しているのかも知れないが、アサシンの報告から吟味してその可能性は極めて低い。

気付いていないと言うよりは気付こうとしない、矛盾の存在すら自覚していない。

聖杯を手にし、桜を取り戻したとして今の雁夜に待っているのは葵や凛と桜が再会し、また一緒に暮らし始めると言うハッピーエンドなどではなく、夫を、父を失った母娘の慟哭、場合によっては雁夜に対する怨嗟の声が満ちるバッドエンドだろう。

ましてや一度は養子として出された桜が、そして桜の事を口にする事も出来ぬ凛に葵が何も無かった頃のように再び同じ屋根の下で暮らす事が出来るだろうか?

綺礼の見立てでは無理だ、どうやっても離れ離れになっていた事、もはやいないとして扱われていた事が棘となって全員の心に突き刺さるであろうし、何よりも時臣の死と引き換えに桜が戻ってきたと言う事実が、時臣を犠牲にして母や姉とまた一緒に暮らせるという事実がどれほどの影を三人に落とすのか・・・

その時雁夜はどうなるのか・・・自らの罪の深さを自覚し絶望のどん底に叩き落とされるのか?

それとも・・・

「なあ言峰、いい加減自分を欺くな。貴様は既に気付いているのであろう。我の問い掛けの本当の意味に?」

そんな綺礼の思案をアーチャーの実に愉しそうな声が遮った。

「アーチャー、夢物語にも等しい無意味な間桐雁夜の勝利とその後を想定する事の本当の意味とはどういう事だ?」

「まだ自覚できていないようだな。今貴様が言っていたではないか『夢物語にも等しい無意味な』と。その様な無意味な想定を元に仮説に仮説を重ねて思案していた事、それにこそ意味があると思わぬか?」

アーチャーの笑みは嘲笑と悦楽の笑みが絶妙にブレンドされたもので、綺礼はその笑みに当然だがおぞましさと嫌悪感、そして何故だか共感をも覚えてしまった。

何故このような笑みに共感を覚えてしまったのか綺礼自身も意味が判らなかったが、これ以上思案に暮れてもアーチャーを無意味に喜ばせるだけだと言う事だけは理解出来たので、思考を放棄すると椅子の背もたれに背を預けアーチャーを睨み付けた。

「戯言はどうでも良い。説明しろアーチャー」

「ではお前に質問しよう。言峰。もしも他のマスター・・・そうだな例えばランサーかライダー、このマスターについて同じ事を思案したらどうだった?同じように思案に暮れたか?」

「・・・」

綺礼はそれに反論しなかった。

反論出来なかったと言うのが正しいのかもしれない。

綺礼は無論だと言い返そうとしたのに、何かが口ごもらせたのだ。

「しなかっただろうな。お前はおそらく直ぐに無意味な事決めてかかり、早々に切り上げて詮無き物と一蹴しそれで終わっていただろうな。だが、お前はカリヤに関してはそうしなかった。お前が言う所の無駄かつ無意味な妄想に延々と耽っていた。無意味であるにも関わらずそれを忘れ去り、徒労であるにも関わらずそれを苦とも思わなかった。それこそが遊興、すなわち娯楽だ。言峰、お前はようやく愉悦の基礎を知ったのだ。カリヤの末路を思い浮かべる事をきっかけとしてな」

「・・・娯楽、愉悦だと・・・私が・・・」

「その通りだ言峰」

呆然と呟いた綺礼の言葉に当然とばかりに頷くアーチャー。

そんなアーチャーの言葉を否定するように綺礼は激しく頭を振る。

「間桐雁夜の生に娯楽も愉悦も一欠けらすらない。もはや生きる事それ自体が拷問であり責め苦だ。むしろ一刻も早く命脈を絶ってやった方が情けだ」

「言峰。何故そうも愉悦、娯楽を狭く捕らえるのだ。視野を広く持て」

アーチャーは苦笑を浮かべながら深く嘆息する。

だが、それは軽蔑や落胆ではなく、例えるならば、お気に入りの生徒の出来の悪さを嘆く教師の姿にも思えた。

「人の苦悩、悲嘆、憤怒、絶望、悔恨を何故愉悦として捕らえてはならぬのだ?娯楽、愉悦に決まった形など無い。人の世でも言うであろう『人の不幸は蜜の味』だと。これは真理の一端だぞ。それを理解せぬからお前は迷い悩むのだ」

「っ!!その様な事、許されてたまるか!!」

アーチャーの言葉を否定するように綺礼は叫ぶが、それは怒りの咆哮というよりは悲鳴に近いものに思えた。

少なくともアーチャーはそう捕らえたのか、殴り殺さんばかりの綺礼の剣幕を見ても笑みを崩す事はなく、それ所か笑みを更に深くしている。

「アーチャー、いや、英雄王ギルガメッシュ。貴様のような人あらざる存在であるならばその様な生き方も許されるだろう。だがな!!人の世ではその様な生き方は罪深き悪徳であり、最も罪深き罪人の生き方に他ならぬ!ましてや私が奉ずる教えでは最悪の悪徳と言って良い!!」

綺礼に返って来たのは実に愉しそうな笑い声だった。

「愉悦自体を罪、悪徳と捕らえたか。どういった生き方をしていけば良くも悪くも、そこまで屈折するのか。だが、面白い。つくづく面白い男だな言峰」

綺礼の怒号を受けても眉一つ動かさないアーチャーに更に言い募ろうとした瞬間、突然焼け付くような激痛が襲いかかった。

「ぐっ!」

普段の綺礼であれば表情を変えても呻き声を漏らす事は無かったかもしれない。

だが、何の前触れも無く突然の激痛に思わず、短い呻き声を漏らして、板にも発生元である左腕を押さえてしまった。

いきなり何事かと思ったが、それは直ぐに熱を帯びた疼きに取って代わる。

その変化が綺礼に更なる混乱をもたらした。

何故ならば突然の焼け付くような激痛、そして激痛から疼きに変わるこのような経験を今から三年前に味わっている。

だが、これはもはや二度と味わう筈が無い痛みの筈。

混乱しながらも綺礼は痛みの原因を探るべく痛みの発生源を確かめるべく左腕の袖を捲り上げた。

「!!」

それを見た瞬間、綺礼の思考は完全に凍結した。

そこにあったのは紛れもない令呪、それも数時間前、アサシンに使った一画を失ったそのままの状態で。

違う事を上げれば左手の甲に存在していた令呪が、今度は左肘のやや上に出現した事だろう。

「ほう、もう出て来たのか。我の予想よりはるかに早い」

感心したような納得したような声をアーチャーが発するが

「・・・馬鹿な・・・」

綺礼の耳にはその様な声が入る筈もなく呆然と再び姿を現した令呪を見ることしか出来ない。

先刻、綺礼が言っていたように、生存しているマスターに令呪画再贈与され、聖杯戦争への再参加が出来る可能性はある。

しかし、それはあくまでもマスターのいないはぐれサーヴァントが存在し、マスター枠に空きが生じた場合のみ。

マスター枠に空きも無く、はぐれサーヴァントも存在しない現状で再贈与されるなど過去に前例など無い。

ましてやこれが御三家の誰かであれば強引に納得もするが、外部の、聖杯に何一つ願いも意味も意義も見出していない脱落者に与えられるなど前代未聞としか言いようが無い。

「聖杯はお前を相当見込んでいるようだな。喜べ綺礼。お前は自覚していないだけで聖杯を、万物の願望器を求めるに足りる理由を既に持っている。それを聖杯は認めたのだ」

アーチャーの言葉はも救いをもたらす救世主のそれであるが、その声は聖者を堕落させる欲望と誘惑に満ちていた。

「・・・私が・・・聖杯を求めている・・・だと・・・」

アーチャーの声に呆然と呟くように返答を返す綺礼だったが、余裕は皆無のようだった。

現に綺礼は今しがたアーチャーが自分の事を始めて名前で呼んだ事にも気付いていない。

「そうだ。聖杯を手にして己の心が秘め、お前自身も気付こうとしなかった願望を聖杯の力を使い明確な形として示させろ。時臣を始めとする他の雑種共の、稚拙で凡百かつ低俗な欲望よりお前の切なる願いの方がよほど価値があろう。綺礼、今のお前は自縄自縛のジレンマに陥っている事に何故気付かぬ?その倫理、常識、良識に囚われた思考こそお前を虚無たらしめている元凶に他ならぬ。今のままでは何処まで行ってもお前はお前自身が満足できる答えを得る事は叶わぬ。であれば」

そこで言葉を区切りいつもの悪意と誘惑と堕落に満ちた笑みを綺礼に向ける。

「・・・聖杯を得ろと言うのか?」

その通りだと言わんばかりに満足げな笑みで頷く。

綺礼は半ば呆然とアーチャーの言葉を脳裏で反芻していた。

命を賭けるに値する願いがあるから聖杯を求めるのではなく、己の願いを知る為に聖杯を求める・・・

まさに逆転の発想に他ならなかったし、今までの綺礼には思いもつかぬ事だった。

答えを得る術としてはこの上も無いほど有効で効果も覿面だ、しかしそれは・・・

「・・・だが、それは他のマスターを・・・六つの願望を潰した後で得られる願いだ・・・何よりもそれは時臣師を敵に回す事を意味している・・・」

綺礼の懸念はそれだけではない。

時臣と敵対すると言う事は目の前にいるサーヴァント・・・英雄王ギルガメッシュとも敵対する事を意味している。

それはすなわち綺礼が自身の願いを知る為には、ギルガメッシュに勝てるサーヴァントを見繕えるのかと言う事だ。

現実問題でいるのかと言えば、はっきり言って絶望的だ。

アサシンを使って徹底的な諜報を行ったからこそ判る事だ。

ギルガメッシュと比べれば・・・

キャスター・・・論外、バーサーカーよりも狂っている事は疑いようも無く、綺礼が使役出来る可能性は、聖杯を用いずに自らの願いを探し当てられる事よりも低く、万、いや、兆に一つの天文学的な幸運で使役できたとしても、ギルガメッシュの手にかかれば瞬きほどの時間で殲滅されるだけだ。

ランサー・・・セイバーと互角に渡り合えるその武錬に、宝具殺しの『破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』、不治の傷を負わせる『必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)』は確かに脅威だが、それはあくまでも個の話。

ギルガメッシュがわざわざ相手の土俵で戦う筈も無い、ランサーは自分の力を発揮する事も叶わず叩き潰されるだろう。

バーサーカー・・・こちらもランサーと似たり寄ったりでセイバー、ランサーを凌駕する武錬にあらゆる物を宝具に変える能力は厄介極まりない。

現に序盤戦では本気でないにしろギルガメッシュの『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』の正射を二度に渡り凌いでいる。

しかし、バーサーカーを使役するにその消耗度はアサシンと比べる事もおこがましいほど激しい。

その上、ギルガメッシュが万が一にも本気で潰そうとした時、バーサーカーが耐えられるかと問われれば否としか言い様が無い。

ランサーよりは持ち応えるだろうが、ギルガメッシュの群の力の前に、やはり磨り潰されるだけだろう。

セイバー、ライダー・・・現状生き残っているサーヴァントの中では最もギルガメッシュと互角に渡り合える可能性を秘めたサーヴァントと言える。

無論セイバーはランサーに負わされた傷を癒す事が大前提となるが、セイバーがアーサー王である事は疑いようも無く、であればその宝具は『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』である事は間違いないだろう。

それはギルガメッシュの群の力を凌駕する軍の力として『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』を軒並み吹き飛ばすだろう。

またライダーに関しては言うの及ばず、ようやく露呈した『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』は『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』と同格の宝具だ。

嫌、綺礼の見立てでば『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』の方が僅かであるが優勢だ。

宝具の格や質ではない、思考ある人と思考なき物の差だ。

だが・・・だが、足りない。

ギルガメッシュがその誇り故に使う気もない真の奥の手の前では後一歩足りない。

あれを凌駕する何かが存在しなければギルガメッシュの牙城を崩す事は叶わない。

そしてエクスキューター・・・情報がほとんど集まらなかった為不明。

希望を見いだせれるという点では最も見込みがあるかも知れないサーヴァントだが、そこまでの話だ。

現状判明している力で全てという可能性も否定出来ない。

そうであれば眼も当てられない悲惨な結末になるだろう。

だが、この時綺礼は令呪再贈与という異常事態に巻き込まれたからなのか、それとも気付きたくもなかったのか不明だが、後一つ可能性があった事を完全に思考から放棄していた。

それは・・・綺礼が・・・から・・・を・・・う事・・・そう・・・をこ・・・てでも・・・

そんな綺礼の苦悩と内心の葛藤が手に取るようにわかるのかアーチャーは実に嬉しそうな笑顔でまだ試飲していなかったワインを取り出すとグラスに注ぎ、これまた実に美味そうに飲み干す。

そこに入ってきた当初の不機嫌の極みと言える姿は微塵も感じられない。

「綺礼、本心から求めるものを得る為に動いてみよ。それでこそ娯楽となり悦楽となりそして愉悦となる。ふふふ・・・綺礼お前は見ていないだけで既に道は拓けているのだ。これ以上も無いほど明確にお前の前にな。後はその道を進めばいいだけよ己の望むままにな」

そんなアーチャーの声も今の綺礼には届く筈も無く痴呆のようにただ呆然と令呪を見つめ内心の、恐怖に等しい葛藤を抱き続けていた。

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