アイリスフィールの応急措置を受けて昏睡状態の舞弥を抱えたセイバーに伴われたアイリスフィールと重傷を負った切嗣に肩を貸した士郎が合流したのは城のホールだった。
士郎達がここまで下りてきたのは、事の張本人に今の切嗣の状況を見て頂く為でもあるが、それ以上にケイネスがやらかした破壊行為が予想以上に広範囲に及んでいた事も関係していた。
逆上し我を忘れていたケイネスの暴走によって二階、三階は戦場跡も同然の惨状を呈しており、大半の部屋が破壊され尽くされていた。
僅かに無事な部屋もあるが、そこを使う為には切嗣が設置したトラップを解除しなければならず、今の負傷した切嗣ではそれも難しい。
一階も一部はひどい状況であるが、それでも上階に比べればまだましである。
ひとまず切嗣を手短で無事な部屋で休ませてから呼び出そうと思ったのだが、その手間が省けた。
「!、アイリスフィールさん、舞弥さんは」
「キ、キリツグ!!」
セイバーの腕の中で力なくぐったりとしている舞弥にやや驚いたような声を発する士郎だったが、それ以上に上半身を脱がされ、右肩には血で赤黒く染まった包帯が巻かれている切嗣の姿を見てアイリスフィールの絹を引き裂くかのような悲鳴が勝った。
真っ青にさせて切嗣に駆け寄る。
「だ、大丈夫なの?キリツグ!大丈夫??」
「ああ、アイリ、心配はいらない。重傷と言えば重傷だけど、しろ・・・エクスキューターのお陰で命に別状はないから」
半分・・・と言うかほとんど泣きそうな妻を安心させるように静かに笑いかける。
「で、でも、どうしたの?一体誰に」
アイリスフィールが発した質問に士郎はこれ以上無いほど簡潔に答えた。
「ああ、これですか、ランサーにやられました」
それに過剰なほど反応したのはほかでもない
「馬鹿な!!」
舞弥を抱えて待機していたセイバーだった。
その声に初めて士郎はセイバーに視線を向けるがその、視線は今までよりも更に冷たいものだった。
「何故否定するんだ?セイバー、俺達とランサー陣営は敵対している。ならばこうなるのが自然かつ当然の事だろう」
声もまた丁寧なものだったが、声は冷たくどちらかと言えば慇懃無礼と言った方が良かった。
「有り得ない!!ランサーが、彼ほどの高潔な騎士がそのような事をする筈がない!!いい加減な事を言うな!」
「・・・ほう」
士郎の声に含み笑いが、その表情には笑みが浮かべるが、笑みは笑みでもそれは嘲笑や冷笑の類だった。
「どうしてそこまで断言できるんだ?」
「当然だ!ランサーとは、崇高なる決着をつけると神聖な誓約をしたのだ!にも拘らず彼がそのような騙し討ちに等しい真似をする訳がない!」
「だから、ランサーに道を譲り、マスターの前に差し向けたのか?自分の手を汚さずにマスターを排除させる為に。おまけにランサーにマスターの事を暴露までして」
「っ!!」
思わぬ言葉にアイリスフィールがセイバーへと振り向いた。
その表情は驚愕に満ち、縋る様な視線をセイバーに向けていた。
しかし、当のセイバーはそんな視線にも気付く事無く更に激高するが
「なんだと!!ランサーを信用して何が悪いと言うのだ!!謂れなき侮辱を言うな!!」
その一言でセイバーは士郎の言った事を肯定していた。
加速度的に顔色が悪くなるアイリスフィールの事もセイバーの視界にはない。
「謂れなき侮辱??同盟相手のマスターを敵に売り渡して、死地に追いやった裏切り者が言う台詞じゃないな」
士郎の容赦無い弾劾にセイバーは顔を真っ赤にする。
舞弥を抱きかかえていなければ、士郎に斬りかかっていただろう。
「う、売り渡す!?裏切り者だと!?一度ならず二度までも!!」
「俺のマスターとアイリスフィールさんは同盟を組んでいるのだから、現状では俺達は敵ではない。対してランサーとは明確に俺達とは敵対関係だ。今俺が言った事が謂れなき侮辱と言うのであればそれを踏まえて一つ聞こう。俺のマスターとランサー、お前にとって味方なのは誰だ?はっ、幼子・・・意味を理解できれば赤子だって正しい答えがわかるだろうよ。それを理解出来るのであれば裏切り者の名に相応しいし、そうでなければ裏切り者と言う名は確かに相応しくないな・・・言うなればお前は敵味方の区別すら付けられないただの阿呆だ。今後は俺がずっと御守りについていてやろうか?」
どこまでも見下した態度を取る士郎を、全身を震わせて怒りを募らせるセイバーだったが、彼女が何かを言う前に今度はアイリスフィールに視線を向ける。
セイバーに対する冷たい怒りの余波なのかアイリスフィールへの声も視線もいささか硬い。
「アイリスフィールさん、もしかして俺達の同盟関係はすでに解消されていましたか?それでしたら今までの俺の発言は誤りだったとセイバーに謝罪しますし、即座にここから姿を消します」
士郎の視線を真正面から受け止めたアイリスフィールは未だ顔色が悪いものの、決然としていた。
「・・・いいえ、エクスキューター私達の同盟関係は何一つ解消されていないわ。エクスキューター、キリツグごめんなさい。今回、セイバーが犯した行為は到底許される事ではないけど、セイバーに代わって謝罪をさせて」
そう言って二人に頭を下げるアイリスフィールにセイバーが一瞬だけ呆然としたが直ぐに慌てる。
「ア、 アイリスフィール!何を!」
「黙りなさいセイバー」
セイバーへと振り返り、今まで聞いた事のない冷たい声で、ぴしゃりと言い放つアイリスフィール。
その視線は士郎よりも冷たく、姿はまさしく冷徹な女帝だった。
「この一件に関して貴女には何も言う資格は無いわ」
突き放す物言いに呆然と立ち竦むセイバー。
そんなセイバーの姿に切嗣、士郎は侮蔑の視線を露骨に投げかけ、アイリスフィールは失望のため息を吐く。
「・・・セイバー貴女何をしたのか理解出来ていないの?貴女はランサーと決着をつけたいと言う自分勝手な自己満足の為にキリツグを、同盟相手のマスターを・・・何よりも私の夫を危険に晒したのよ。一歩間違えれば取り返しのつかない事態になっていたわ。エクスキューターの言うように私達は裏切り者よ。本来であれば私はエクスキューターに即刻斬り殺されていたとしても不思議じゃ無かったのよ。報復として」
「・・・」
言葉も無い様子のセイバーであったが、それは自分の仕出かした事の大きさをようやく理解した・・・のではなく、敬愛するアイリスフィールに、自分が正しいと思っていた事を徹底的に弾劾された事に対するショックだった。
それを理解したのだろう、先程よりも大きく深いため息を吐くと
「・・・理解出来ていない様ね。もう良いわセイバー、貴女は舞弥さんを手短な部屋に運んでおいて。その後、貴女には謹慎を命じます。舞弥さんの治療が終わったら行くからそれまで、サロンで自分の行いをもう一度省みなさい」
「・・・そ、そんな・・・わ、私は・・・ただ・・・」
セイバーから見ればあまりな宣告に、顔面を蒼白にさせながらも言葉少な気に抗弁しようとするが、アイリスフィールはそのような言い訳等聞きたくないとばかりに鋭い視線を向けると
「不服があるの?それとも令呪を使わないと貴女は納得も理解も出来ないの?」
そう言って首筋に手を当てる。
「・・・っ」
唇を噛み締めて俯くがやがて蚊が鳴く様な声で
「わかりました・・・」
そう言うと悄然と一番近くの部屋に入り、それからすぐに出て来るとこちらに振り向く事もなく、肩を落として廊下の奥に姿を消した。
完全にセイバーの姿が見えなくなった所で切嗣、士郎、アイリスフィールは計った訳でもないが同時に深く、重いため息を吐きだした。
「・・・申し訳ありません。アイリスフィールさん、爺さんに続いて貴女にまで憎まれ役を・・・」
士郎はアイリスフィールに深く頭を下げる。
まさか彼女がセイバーに対する徹底的な糾弾に加わるとは予想だにしていなかった。
当初からアイリスフィールだけはセイバーの味方であり続けると話し合っていた分、その衝撃は大きかった。
そんな士郎の謝罪にアイリスフィールは悲しそうな微笑で応じる。
「気にしなくていいわシロウ君、キリツグの妻としても、何よりもマスターとしても今回の事は穏便に済ませる気はなかったわ。理解をしていない様だったけどセイバーはそれだけの重大な裏切り行為を犯したのだから」
これがランサーにただ逃げられたのであれば、皆ここまで糾弾はしなかった。
最速のランサーが逃げの一手を取ってしまえば、まともな追跡など困難である事は承知していた。
仮に見逃したとしても、ただ撤退するだけであれば士郎は目くじらを立てる気もなかったし、切嗣も目を瞑る気でいた。
そう・・・問題は逃した事でも見逃した事でもない。
城に切嗣がいる事を承知の上でランサーに道を譲り、よりにもよって彼を城へと向かわせた事。
切嗣がエクスキューター=士郎のマスターである事をランサーに暴露した事。
何よりもつい数時間前に士郎から個人と陣営の信用と信頼を混合する事がどれだけ危険であるのかを指摘されたにも関わらず、それを無視した事だった。
そしてこれが一番の問題点だが、セイバーは自分が裏切り行為を犯した事すら自覚していない。
先程のセイバーの態度を見れば一目瞭然だった。
セイバーに切嗣を見捨てた事に対する後ろめたさも無ければ、士郎達の信頼を裏切った事に対する罪悪感も無い、ただ自分は当然の事、正しい事をしたと言う自信と、なぜ自分がここまで非難されなければならないと言う疑念だけだ。
ランサーとは尋常かつ正々堂々とした再戦で決着をつける、ランサーならば卑劣な真似をしない。
セイバーの思考はただそれだけに集約されている。
それに加えて切嗣、士郎への潜在的な反感も無意識に手伝って、今回の行為に走った事は容易に理解できた。
最も、理解出来たからと言えセイバーの行為を容認する理由にはならないが。
「キリツグ、シロウ君、偉そうに言えた立場じゃないかも知れないけど、私に任せてもらえないかしら?セイバーには私から改めて厳しく言っておくから」
そんなアイリスフィールの提案に切嗣は露骨に不満を浮かべ、士郎も少なからず賛同しかねる様子だった。
「・・・僕としてはもうあれを信用する要素は欠片もない。さっさと縁を切るべきだと思うけど、士郎はどうする?」
「・・・難しい所だけど・・・今回は・・・アイリスフィールさんにお任せします。ですが、次同じ事をしたのであれば・・・問答無用で切り捨てます。それでいいですか?」
「ええ、構わないわ」
「・・・わかったよ士郎、今回はアイリに任せるよ」
士郎の言葉に頷く切嗣とアイリスフィールであったが、アイリスフィールの心境は憂鬱そのものだった。
切嗣の台詞と、士郎の表情にセイバーに対する深刻な怒りを感じ取っていた。
特に切嗣の怒りは強く根深いのだろう、もはやクラス名すら口にするのも嫌なのか、『あれ』としか口にしていないし、士郎の妥協案にも渋々了解したのが丸判りだった。
士郎にしても口では了解の立場をとっていたが、その表情や口調からセイバーに対する不信感が露わとなっていた。
万に一つでもセイバーが同じ事をしたのであれば宣言通り、容赦なく切り捨てるだろう。
そうであるならば尚更だが、自分の立場は重要だとアイリスフィールは気を引き締め直す。
確かに、自分達の目的は聖杯及び大聖杯の破壊と聖杯戦争の終焉。
聖杯を手にし、祖国の救済を望むセイバーとは相容れられない。
どうあがこうともその願いは叶えられる事無く、最終的には強制的に退場させてしまうだろう。
だが、短い期間とは言え、主従として過ごしてきたアイリスフィールにはセイバーに対して少なからぬ親近感も抱いていた。
そのセイバーが自業自得とは言えこのまま見捨てられ、切り捨てられるのはあまりにも忍びない。
何が何でも自分の行いを自覚させ、反省してもらわないといけない。
そう、決意を固めた。
この時のアイリスフィールの心情はごく当然のものだった。
しかし、アイリスフィールもまた過ちを犯した。
セイバーと士郎達との間に横たわる亀裂の大きさと深さを見誤ってしまった。
結果論に過ぎないが、この時点でセイバーにたとえ令呪を全て使ってでも自害を命じるべきだった。
そうであれば、その後の事態は引き起こされずに済んだのだが、この時点でそれを知る者は誰もいない・・・
セイバーの件が一先ずの区切りがついたと判断したのか、切嗣が先程よりも遥かに穏やかな声でアイリスフィールに問いかける。
「それでアイリ、舞弥はどうしたんだ?詳しくは判らないが、相当の重傷の様に見えるが」
その問いかけにアイリスフィールの表情が曇る。
数瞬だけ口を噤んでいたが、やがて言葉少な気にだが、事実を端的に伝えた。
「現れたのよ・・・あの男・・・言峰綺礼が」
その名を口にした瞬間、先程とは違う意味で空気が緊張した。
「・・・なんだと?アイリその時の状況を詳しく教えてくれ」
強張った声と口調の切嗣に士郎も緊張した面持ちで頷く。
「ええ、舞弥さんの治療と並行して説明するけど良い?」
それに士郎、切嗣共に首を縦方向へと振った。
一方・・・時をやや進ませ、場所を移す。
「・・・・・・っ・・・・・・」
ケイネスが眼を覚ました時、そこは闇の中にコンクリートむき出しの天井がかすかに見えた。
どこかは直ぐに分かった、ここは不本意ながら仮の隠れ家とした冬木外れの廃工場内だ。
どうにか調達していた安物のパイプベッドにケイネスは寝かされていた。
何故ここにいるのかすぐには思い出せれない。
いや、それ以前に、今まで見ていた夢はなんなのだ?
太古の風景、輝かんばかりの宴、そしてケルト神話に名高きフィオナ騎士団が誇る一騎当千の勇士達。
だが、それもすぐに見当がついた。
マスターは極稀に契約を結んだサーヴァントの過去を夢と言う形で垣間見る事が出来る事例を思い出したからだ。
話は聞いていたがまさかあそこまでリアリティに迫ったものとは思わなかった。
あたかも自分がそこにいるかのような錯覚すら起こさせるほどの。
疑問を一つ解決させた所で、どうしてここで自分が寝かされているのかその疑問の解決を図ろうとした。
報酬を目論みキャスターを捜索しキャスターを発見、そして・・・
そこまで思い出すと記憶がフラッシュバックの様に次々と甦る。
ロード・エルメロイの誇りを胸にアインツベルンの魔術師を討ち取らんとその居城へと攻め込み、聖杯戦争の大義に汚物を擦り付ける魔術師崩れの屑を発見し・・・
「っ!!!!」
身を焦がすような憤怒が一瞬で湧き上がり飛び起きようとしたのだが・・・飛び起きれなかった。
自分の身体がまるで言う事を聞かない。
首はどうにか動くのがそこから下は何一つ反応する事は無い。
憤怒は瞬く間に消え失せ、ケイネスはパニックに陥りかける。
だが、そこへ計った様なタイミングで
「眼を覚ましたの?」
愛おしい婚約者の声が聞こえる。
声の方向に視線を向けるとそこにはやはりソラウがいた。
「ソ、ソラウ・・・私は」
「ランサーが運んでくれたのよ、彼に感謝する事ね。後数分、手当てが遅かったら間違いなく貴方は死んでいたわ」
「ラ、ランサーが・・・」
「ええ、貴方の危機を救ったのよ。何があったのか覚えていないの?」
「いや・・・覚えている」
小細工しか能の無い屑を処刑しようとした。
しかし、何故ここにいるのか?
小細工の銃弾は『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』で完全に防御してのけた、あの屑の処刑に心を躍らせていた。
だが、その瞬間から記憶が途切れ途切れになっている。
最初に記憶が途切れる寸前全身を激痛が走ったような気もしないでもない。
その次にランサーが姿を現していたような気もするし、何かを口走っていたような気もするが記憶もおぼろげで自信は持てない。
気が付けばここで寝かされていた。
ソラウがケイネスの身体に触れて触診する。
だが、ケイネスには触れられていると言う感覚がまるでない。
「ソラウ・・・わ、私はどうしたのだ?一体・・・これは・・・」
未知の恐怖に怯えながら・・・その実薄々感じている最悪の予測を拒否する様に声を震わせてソラウに尋ねる。
「・・・全身の魔術回路が暴走した形跡があるわ。内臓はほぼ壊滅、全身の神経、筋肉も細部に至るまで悉く寸断されていたわ。心臓と脳は幸運にも無事だったけどそれを差し引いても即死しなかった事が奇跡よ」
静かに告げられる言葉の意味を理解するに従い、ケイネスから血の気が失せ、全身を絶望が覆い尽くそうとしていた。
魔力の暴走により生じた自傷。
魔術師としては初歩の初歩とも言える失態であり、最も身近なそして最も致命的な大失態。
ケイネスにとってそのような無様な醜態など今まで無縁であったのだが、それが起こった事による魔術師の末路はよく知っている。
知っているが故にありえないと否定した。
自分が・・・全ての未来と栄光に選ばれたロード・エルメロイたる自分にこのような事が起こる筈がないと。
「一先ず、応急治癒は施したけど内臓の再生が限界だったわ。時間を賭ければ筋肉もどうにかなるかもしれないけど、神経はもう手の施しようがないわ」
半ば現実逃避しているケイネスを知ってか知らずか、ソラウは淡々と事実だけを口にしていく。
そして、ソラウはケイネスが耳にしたくない最悪の・・・だが、当然の結末を口にした。
「何よりも致命的なのはケイネス、貴方の魔術回路は破壊し尽くされている。もう魔術の行使は二度とできない」
無慈悲と言えば無慈悲と言えるソラウの宣告にケイネスの眼から涙が零れ落ちる。
「っ・・・っ・・・っ・・・」
泣き叫びたくてもあまりのショックで声すら出てこない。
「・・・ば、ばぁだじ・・・ばぁだじばぁ・・・」
この時、ケイネスにはなぜこの様な事になったのか理解も納得も出来なかった。
これまでも自分行き先には成功と栄光と名誉が常に用意されていた筈だった、それなのに何故このような事になるのか?
何故こんな仕打ちを受けるのか。
世界は何故自分を見捨てるのか?
今まで自分の傍らに当然の様にあった栄光は消え失せ、名誉は崩れ去り、輝かしい未来も木端微塵に砕け散り、見る影もなく四散する。
声もなく・・・正確には声を出せれないほどのショックで・・・顔を覆う事もなく・・・手も動かせれない状態でそれは当然であったが・・・泣き咽ぶケイネスの頬を優しく撫でる。
「まだ諦めるのは早いわケイネス。私達はまだ負けていない」
囁きながらケイネスを慰めるソラウだったが、そのタイミングは聊か遅れた。
最もこれは彼女の常であるのでケイネス自身、泣きながらそれを不審に思う事は無い。
「貴方が仕込んだ策のお陰よ。魔力供給源である私がいる限りランサーとの契約はまだ継続しているわ」
「ゾ・・・ソラウ・・・」
「そして聖杯を手にするのよ。聖杯は万能の願望器、ならば貴方の傷を完全に癒す事も造作も無い事よ」
言葉通りでとらえるのであれば今のソラウは絶望のどん底で咽び泣くケイネスに希望と言う名の蜘蛛の糸を垂らす菩薩だった。
しかし、この時のケイネスの胸中には先程とはまた違った説明しがたい不安と焦燥がじりじりとにじり寄ってくるような気がしていた。
それを証明する様にソラウの視線はもはや動く事のないケイネスの右手に向けられた。
もっと正確に言えば残り一角だけとなった令呪に。
それを察した時、ケイネスははっきりと自身の不安の源を悟った。
そして次のソラウの台詞でそれは確信と化した。
「でもねケイネス・・・今の貴方には戦う事は無論の事、自衛する事も出来ないわ。だから・・・だから令呪を私に譲って。これからは私がランサーを指揮して戦っていくわ。貴方に聖杯をもたらす為に」
その語尾に重なるように
「だめだ!!」
ケイネスは声の限りに叫んだ。
「だめだ、ダメだ、駄目だ!!これだけは・・・これだけは決して渡せない!!」
彼の本能が令呪を失ってはならない、今の自分にとってはこれが最後の糸なのだと訴えかけている。
これは自分と何かを結びつける最後の縁なのだと。
「どうしてなの?確かに刻印は無いけど私も魔術師の端くれ、貴方には数段劣るけど十分戦える。それに私は貴方の妻となる女よ。その私がロード・エルメロイの代理人として聖杯戦争を戦い抜く、その事に何の不思議もない筈よ」
ソラウの言葉は一見すれば理にかなう。
ソラウ自身が言っていたように、そしてケイネス自身も自覚しているが、もはやケイネスに戦闘はおろか自力での移動すら出来はしない。
であるならば代理の司令官を立ててその人物に戦況を見てもらうしかない。
そしてそれが出来るのはケイネスにはソラウしかいない。
何よりもサーヴァントと言う怪物共を屈服させるには令呪の存在は必要不可欠だ、それも理解できる。
だが、どんな理屈を並べてもケイネスの脳裏を過るのは初戦後・・・いや、召喚直後からランサーをまるで恋人を見るような熱い陶酔の眼差しを向け続けるソラウの姿。
その姿がケイネスの嫉妬を一層掻き立てる。
自分には一度所かそのような素振りすら見せた事も無いだけに猶更だった。
おまけにランサーは女性が見とれるだけのただの美丈夫でないのが更に問題を深刻にさせる。
そんな心情を押し殺すような静かな声で
「ソラウ、君はランサーが君に忠誠を誓うと思うのか?」
そう尋ねるがソラウは何一つ迷う事無く頷く。
「当然よ。彼も聖杯に願う事があって召喚に応じた筈、それならばマスターが交代するなんて細事に過ぎない筈よ。不服があろうとも必ず受け入れてくれるわ」
それがケイネスの危機感を更に煽る結果になった。
ソラウは疑念も何もなく、ランサーに全面的に信用しているようだったが、奴はそのような男ではない。
思い出すのは召喚してすぐにケイネスの質問に対する答え・・・
聖杯を手中に収めた暁には何を求めるのかと言うケイネスの問いにランサーはその願い自体を否定したのだ。
聖杯に何も求めないと・・・騎士としての本懐を遂げる事こそが自分のただ一つの悲願だと。
どれだけ手を変え品を変えようともランサーはその言を覆そうとはしなかった。
この時からケイネスの心の奥底にはランサーに対する不信と疑念が芽生えていた。
神話や英雄譚に歌われる英霊が魔術師であるとは言え人間に無償での奉仕をするなど冗談にもならない。
ケイネスはランサーの言葉を己の本心を隠すための欺瞞と決めてかかった。
だが、昨日・・・正確にはアインツベルンの城に攻め込むまでのケイネスであればそれを一笑に伏せれた。
所詮ランサーは聖杯戦争を戦い抜くための道具の一つに過ぎず、ましてや令呪がある以上こちらを裏切る事など不可能。
どう思おうが考えるだけであるならば自由であるのだから、聖杯戦争を戦い抜き自分い聖杯の栄光を齎すのであればそれで良し、そう判断していた。
しかし、令呪以外全てを失った今のケイネスには昨日までの寛容もしくはその形をした傲慢などすでに無い。
ましてやランサーに対する無条件の信用をソラウが見せている今となっては別の不安が頭をもたげる。
もしも奴の本心が別の所にあるとするのであれば・・・それがソラウに関する事であるのであれば・・・
(そうだ・・・奴は気を許してはならぬ英霊・・・どれだけ美辞麗句で塗装されようとも奴は主君の許嫁を略奪した背信の英霊・・・)
「令呪は・・・渡せない・・・」
絞り出すように、だがきっぱりとケイネスは言い切った。
「令呪は魔術回路とは別物、今の私でも使える・・・私が今でもランサーのマスターだ!」
半ば吠える様に叫ぶケイネスを一瞥するとソラウは静かにため息を吐く。
「ケイネス理解していないの?私達にはもう後がないって事を」
その語尾と枯枝をへし折るような音が重なった。
ケイネスの右手から小指を躊躇もなくあっさりとへし折ったのだ。
痛みはないが、その無感覚こそケイネスの恐怖をいやがおうにも膨れ上げさせる。
ソラウはこうしてケイネス自身気付かぬうちに右手どころか全身の骨を悉くへし折る事も可能なのだと言う事を見せ付けられた。
「ケイネス・・・私の霊媒治癒の力量じゃあ令呪を強引に引き抜くのは不可能なの。本人の同意があってこそ無抵抗に無事に摘出出来るの」
声こそ静かで優しげなものだったが、そこには何の感情も無い。
その時漸くケイネスはソラウの表情から感情破消え失せ、その眼には光も無い事を理解した。
「どうしてもと言うのであれば・・・貴方の右手を切り落とすけど・・・それでもいいの?」
その時だった。
いる筈のない第三の声が響いたのは。
「・・・どなたの手を切り落とされるのですか?ソラウ様」
「「!!」」
弾かれたようにソラウが振り向くとそこには
「・・・もう一度お伺いします、一体どなたの手を切り落とされると言うのですか?ソラウ様」
静かな声の中に明確な怒りの感情を滾らせたランサーが立っていた。