時は遡る。

切嗣の予測通り、ランサー陣営にとって運営側から提示されたキャスター討伐の報奨である追加令呪は喉から手が出る程欲しいものだった。

なにしろランサーの不手際(と、ケイネスは決めつけている)で、よりにもよって令呪を二つ消費せざる負えない事態に追い込まれ、戦況は著しく自分達に不利に傾いてる。

令呪はもはや増える事は無い、それが常識である以上ランサーの無能ぶりを内心で罵りながら今後の戦略を練ろうとしていた所への朗報だ。

早速新たな隠れ家からランサーを伴いキャスター捜索に出撃したのだが、あっけない程容易くキャスターを補足出来た。

時代錯誤なローブ姿を隠す事無く夕暮れ間近の住宅街を闊歩していた時には言葉を失ったものだが、通りすがりのライトバンを強引に停車させてからドライバーを暗示で操り、いずこから連れて来たのか10名前後の子供達を乗り込ませて出発した所でケイネス達も追跡を開始した。

やがて、目的地が郊外の山林地帯・・・アインツベルンの森である事が明らかになると躊躇いを見せた。

さしたる準備も無いまま魔術師のテリトリーに侵入する事がどれだけ危険かつ身の程知らずなのかケイネスは知り尽くしているからだ。

しかし、当のキャスターはそのような事などお構いなしに子供達を引き連れて森の中へと進むのを見て、アインツベルン・・・セイバー陣営に戦いを挑む事は明白である以上、上手くいけば漁夫の利を獲れるかもしれないと判断、意を決してキャスターを追う様にアインツベルンの森に潜入した。

そして程なくセイバーと・・・よりにもよってエクスキューターがキャスターとの間に戦闘が開始された。

尚、エクスキューターの姿を見た瞬間ケイネスの怒りに火が付きかけたのだが、それに感づいたランサーの

「主よ、如何なさいますか?」

差し出がましい進言(ケイネスから見れば)に冷静さを取り戻し、改めて状況を確認する。

自らの領地であるからだろう、セイバーのマスターであるアインツベルンの女魔術師は姿を見せない。

ほぼ間違いなく後方にてセイバーの戦いぶりを高みの見物と洒落込んでいるのだろう。

もう一人、エクスキューターのマスターがまるで見当たらないのには気になるが、ここでケイネスの脳裏に天啓とも言える考えが浮かぶ。

一先ずはそれを口にする事は無く、ランサーにキャスターを討つ事を命じると自分はその足で森の奥に歩を進める。

キャスターを複数の陣営で討ち取れば報酬の令呪は問題なくもらえるが、それでは他の陣営・・・現状ではセイバーと憎きエクスキューター両陣営にも令呪が追加で加わる事になりそれでは報酬の旨みも半減してしまう。

ならばキャスターの討伐と並行してこのままアインツベルンのマスターを討ち取ってしまおうと考えたのだ。

ぜいたくを言うならば、エクスキューターのマスターにエクスキューターが放言した昨晩の謂れなき侮辱の数々を命をもって贖わせたい所であるが、それは後日の楽しみとしておくのも良いだろうし、ランサーでキャスターを討ち取らせ隙をついてエクスキューターを討ち取らせるのも良いだろう。

だが、敵魔術師の領土に侵入しその主たる魔術師を討ち取ると言うのは大胆と言えば聞こえはいいが、一歩間違えれば蛮勇に過ぎない挑戦ではある。

それを承知していたがケイネスには確固たる覚悟と揺るぎ無き自信があった。

アインツベルンがどれだけ防備を固めていようがそれを打ち破れると言う自信があり、そしてどのような防備が待ち受けていようともそれをロード・エルメロイの名に賭けて打ち破る覚悟があった。

何がケイネスを突き動かすかと言えば何のことは無い、ソラウから言われた失点を挽回するただそれだけの為だった。

もしもその心境を士郎や切嗣が知ればもはや失笑すら浮かべなかっただろう。

この男は兵の功と将の功を完全に混合している。

兵は前線で敵兵・敵将を討つのが功であるが、将の功は兵に功を取らせやすく為に状況を整える事にある。

だから、序盤戦で前線をランサーに任せて自分は後方で戦況を把握していたのは正しい判断なのだ。

士郎がケイネスを侮辱したのはあくまでも挑発に過ぎなかったが、ソラウはそのような事も知らずにただ単に罵声を飛ばし侮辱したに過ぎなかった。

ともかくも勇気と蛮勇をはき違えたケイネスは森を奥へ奥へ突き進むが、アイリスフィールが設置した幻惑の術を気にも留めず結界の中枢を容易に読み取り、正確に把握した所は時計塔にて天才児と持て囃されているその名声は決して虚構ではない。

「ふん、アインツベルンの守りの備えはこの程度か。ならば城の守りも高が知れているな」

ケイネスの口からは侮蔑の声すら混じる余裕があった。

やがてケイネスの視界が開け、そこに中世の石造りの城が姿を現した。

一般人であればその異様さに声を失うであろうが、名門アーチボルト家の御曹司であるケイネスは何の感慨も湧かない。

それ所か

「ほう・・・出城にしてはまずまずの出来栄えであるな」

と鼻で笑いながら批評する余裕もある。

「だが、悪くない。アインツベルンを仕留めた暁にはこの城を新たな根城にするとしようか」

何しろ今までの根拠地であるハイアットホテルは何者かの手により破壊され尽くされ今では新都郊外の廃工場の一角に潜伏している。

当然だがケイネスが『豪勢な物置』と酷評した、スイートルームですら今と比べれば天と地、いや、天国と地獄レベルの差があり、ソラウの機嫌は右肩下がりに急降下し、ケイネス自身のプライドが今の現状を許さなかった。

そうと決まれば城の被害は最小限に留めてアインツベルンを討ち取る事を決めるが、第三者から見ればケイネスのそれは『取らぬ狸の皮算用』以外の何物でもない。

まだ討ち取るどころか、敵と戦ってすらいないと言うのに既に勝ったつもりでいるのだから。

しかし、ケイネス本人から言わせればそれは、当然の事だった。

ハイアットホテル爆破で大半の魔道器を失いはしたが、ケイネスの手には未だ彼が最も頼みとする礼装が残されている。

それがある限り自分の勝利は疑いようの無い既成事実なのだ

ケイネスは小脇に抱えていた陶器の大瓶を地面へと置く。

ケイネスの手から離れた途端、瓶の底は柔らかい森の土にめり込む。

それもその筈、ケイネスは重量軽減の術を掛けていたので軽々と持ち運んでいたが、実際は百四十キロ近い。

いわばケイネスは大型冷蔵庫を持ち歩いていたに等しい。

「・・・・・・(沸き立て、我が血潮)」

ケイネスの口からそんな言葉が紡がれたと同時に大瓶に変化が現れた。

大瓶の口から銀色の液体が溢れ出す。

鏡のような金属光沢の液体の正体は水銀だった。

それが次から次へと大瓶から溢れ出し、ケイネスの傍らに球状になって蹲る。

量にして十リットルを超えるこの水銀こそがケイネスの最強の礼装、その名を『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』である。

「・・・・・・(自律防御)」

ケイネスが更に低い声で呪言を呟くと『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の表面が震えだす。

「・・・・・・(自動索敵)」

再び震え出す。

「・・・・・・(指定攻撃)」

三度震えてから城の大扉へと歩き出すケイネスの足元を転がる。

さほど歩く事無く大扉の前に辿り着いたケイネスは、それを一瞥した後に

「・・・(斬)!」

短くだが、鋭い声を発する。

すると、足元の水銀球の一部が伸び鞭状に変形、それがまさしく鞭の様に空気を斬り裂き、大扉に叩き付けられる。

しかし、叩き付けられる直前、水銀の鞭は数ミクロンの極薄の板へと変形、鋭利な刃と化して、大扉を裏側の閂諸共柔らかいバターよりも容易く両断する。

元々、水銀は液体の中でも最も重い物質である。

それに高圧をかけ、更には高速で起動させた時、その運動エネルギーは絶大極まりない。

それを水と風、魔術師としては稀有な二重属性を持ち、この二つの属性に共通する流体操作を最も得意とするケイネスが魔術をもって操るとそれは変幻自在に姿を変え、しかもその破壊力はレーザーをも凌駕する。

水銀の刃で扉の用途を成さなくなった大扉は、重々しい音と共に内側に倒れる。

土埃が収まったのを見計らいケイネスは悠然と城内に入る。

城内のホールはシャンゼリアは煌々と輝き、大理石の床には磨き上げられ、先程の大扉の残骸以外汚れは無い。

また城の空気に澱みは無く、人が先程までいた事は明らかだった。

だが、歓迎であれ苦情であれ誰一人姿を現す気配は無い。

そんな無人のホールにケイネスの口上は良く響き渡った。

「アーチボルト家九代目頭首、ケイネス・エルメロイがここに推参仕る!」

威風堂々と胸を張るその姿は少なくとも名門魔術師に恥じぬものだった。

「アインツベルンの魔術師よ求める聖杯に誇りを命を賭けていざ尋常に立ち会うがいい!!」

中世の騎士を彷彿とさせる時代錯誤な名乗りを兼ねた挑発に応ずる声も姿も無い。

無論ケイネスも返答など期待もしていないのでその表情に失望は無い。

だが、敵の臆病ぶりを小馬鹿にしたように嘆息すると靴音も高らかに歩を進める。

そして、ホール中央まで歩を進めた瞬間、足が何かを引っ掛けた様な気がしたと同時にホールの四隅にそれとなく・・だが、実際には周到な計算を基に配備された花瓶が一斉に爆発、夥しい数の金属の礫が中央のケイネスただ一人に浴びせ掛けられた。









同時刻、サロンにて切嗣はケイネスがこちらの仕掛けた罠に嵌る一部始終を、ホールに設置していたCCDカメラで見届けていた。

ケイネスが城に突入するのは城外にも設置したCCDカメラから把握し、すでにキャスターは討伐され、そこからランサーが士郎とセイバーを足止めし、その隙にケイネスが本丸であるここを攻める念密な連携なのかと僅かに疑っただが、前後して士郎からの念話でこれがケイネスの完全なスタンドプレーである事を知った時には士郎共々呆れた。

ケイネス関連で呆れるのも何度目になるか判らなかったが、ともかく切嗣は予定通り士郎にセイバー、ランサーと共にキャスターの駆除を指示し、その後は士郎にその全権を委ねる事にした。

改めて移るモニターは煙によって完全にその視界を遮られているが、その直前の映像を見る限りケイネスが回避や罠の存在に気付いた様子は見受けられない。

しかし事前に察知できなかったのも当然の事、あの花瓶に仕込まれていたのは魔術的な罠ではない。

クレイモア対人地雷と呼ばれる設置式爆弾で、一つにつき直径一.二ミリの鋼鉄球、七百発を扇形にまき散らすそれはそもそも歩兵集団を迎撃する為の代物であるのだから、そもそも一つでも人一人には過剰な火力だ。

それを四つ、それも四隅から中央に向けて撃ち出されたそれを避ける術も防ぐ方法も無く、ケイネスは何が起こったのか自覚する事すら出来ず原型を留めぬ肉塊と果てる筈であった。

そう・・・ケイネスが魔術師でなければ、彼の傍らに最強の礼装が無ければ。

爆発による煙も晴れて視界が回復された時ケイネスがいた場所にあったのは銀色の球体だった。

先程までケイネスの足元にあった水銀の塊が一見すると数倍に膨れ上がった様に見える。

周囲・・・いや、ホール全体にはクレイモアの金属球が穿った弾痕が至る所に存在している所を見るとおそらくあれに弾かれたのだろう。

「こいつは・・・自動防御か」

切嗣は苦々しく呟く。

おそらく、いやほぼ間違いないだろう。

昨夜のハイアットホテルの爆破の際、ケイネスはすんでの所で脱出出来たのではない。

あの呪操水銀の自律防御がケイネスと婚約者の命を守ったのだ。

現に直ぐに銀色の球体は形を変えて再び元の姿に戻るとそこにはかすり傷一つ存在しないケイネスの姿があった。

しかし、その眼光は、そして表情は一変していた。

周囲の惨状に表向きは鼻で嗤いながらも今のケイネスは嘆きと怒りに支配されていた。

ケイネスとしてはどうしても信じたくなかったのだろう、この聖戦の場において彼からしてみれば下賤で卑劣な術しか知らぬ愚物を魔導の名門たるアインツベルンが従えているなど。

しかし、ハイアットホテルの爆破、そして今の下劣な罠で確信に至るしかなかった。

この神聖なる聖杯戦争において最も相応しくない卑賤なる輩をあろう事かアインツベルンが使役し、その憎むべき相手は今、この城の中にいる。

「・・・そこまで堕ちぶれたと言うのか・・・アインツベルン・・・宜しいならばこれより誅伐を行う・・・」

そう呟き、ケイネスは静かにホールの奥に姿を消していく。

その声も歩調も静かであったが、だからこそ、その表情とはアンマッチで不気味さを際立たせた。

そして・・・その顛末の全てを見ていた切嗣は静かに息を吐くと静かに立ち上がる。

まさかクレイモアの爆風すらも先んじて防衛を取りケイネスには傷一つもつけられないとは流石の切嗣も予測していなかった。

認めるしかない。

いや、正確に言えば遅過ぎた位だ、ハイアットホテル爆破の時点で仕留められなかった時点で認識するべきだった。

ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは『魔術師殺し』衛宮切嗣ではなく『魔術師』衛宮切嗣として相対しなければならない相手だと言う事を。

経歴やら、ランサー陣営のあまりの酷さに切嗣も無意識でケイネス自身の実力をも低く見ていたようであった。

そんな自身の慢心を憤る様に歯を食いしばる切嗣だったが、すぐに気を取り直す。

反省も自責も終わってからでも出来る事、今は目の前の敵に対処するべきだ。

城内に入ったケイネスはおそらく憎き敵(この場合は切嗣)を探し出すべく一階を探し回っている筈だ。

今切嗣がいるのは二階奥のサロン、すぐに動き自分に有利な体勢で迎撃できる地点を確保するべきだ。

既に頭に叩き込まれている城の見取り図出その地点を検討しながらサロンを出ようとドアに手を掛けようとした瞬間その手が止まる。扉のカギ穴から延びる一筋の銀の糸が伸びている。

切嗣の視線が止まるや軽く震えると逆再生を見る様に鍵穴へと吸い込まれ消えて行った。

「・・・自動索敵か・・・」

苦く呟くと同時に背後の際程までいた場所がテーブル諸共円形に斬り抜かれ崩落、銀色の触手が四方の崩落した縁にへばりつく。

そこからせり上がる様に本体を主たるケイネス諸共持ち上げる姿は水銀の海月とも気球とも思わせた。

「見つけたぞ・・・ネズミが」

余裕と侮蔑に満ち溢れたケイネスが攻撃を命じるよりも早く切嗣は手に持つキャレコを発砲していた。

だが、『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の展開速度に叶う筈も無く水銀の盾が銃弾を弾き飛ばす。

五十発の九mmパラべラム弾を使い果たすのに数秒の時間を要したが、切嗣にはそれで十分だった。

「・・・・・・(固有時制御、二倍速)!」

そんな短い詠唱と共に魔力が全身に迸り術者の身体を顧みないブーストと化す。

「・・・(斬)!」

同時にケイネスもまたネズミを駆除すべく必殺の斬撃を命じ、『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』は忠実に切嗣目掛けて刃の鞭を振るう。

「!!ぬっ」

だが、ケイネスの口からは驚愕の声が漏れる。

もはや死の結末しか無い筈であった切嗣がやおら信じがたい速度で鞭の間隙を縫いながら疾走、その勢いのまま切り抜かれた崩落部分へとその身を躍らせたのだから当然の事だった。

しばし・・・と言ってもほんの数秒であるが呆然とした表情を浮かべていたケイネスだったが、すぐに冷笑を浮かべる。

「なるほどな、ただのネズミではないと言う事か・・・ならばますます情けない魔術の薫陶を受け、人智の埒外に至った選ばれし者でありながら下等かつ卑劣な手段に頼るとは・・・魔術師の面汚しめが」

水銀の台座は再びせり下がり、ケイネスを安全に階下へと降ろし、再び球状に戻る。

「屑が・・・死んで身の程を弁えよ・・・・・・(索敵抹殺)」

命令を受けて水銀は至る所に糸のような触手を伸ばし一階全域を捜索、やがて標的を発見したのだろう、転がりながら急行、ケイネスはその口元に嗜虐の笑みを浮かべながらゆっくりと歩を進めた、焦る必要はない。

逃がしはしないし、そもそも『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の追跡から逃げられる筈がないのだから。









固有時制御の反動による苦痛に表情を歪めながら切嗣は廊下を疾走していた。

だが、その表情には余裕もある。

ケイネスは歯牙にもかけてはいないだろうが、既に切嗣を殺せる最初にして最大の好機である、初見での礼装攻撃を逸している。

ましてや未だ追跡してくる気配は無い。

幾ら呪操水銀の索敵能力に絶大なる信頼を置いていると考えてもそれは過信であり慢心でもある。

礼装の正体と能力を見せつけて、更には対策を思考する時間的余裕まで与えている、どれほど魔術師としての格は上であってもこれほど狩り易い相手もそうそういない。

既にキャレコのマガジン交換は完了している。

コンテンダーは既に通常弾を込められている。

士郎から魔弾を受け取り総数は大幅に増えたとはいえ、無限ではない。

ましてや確実に仕留める事を考えれば魔弾の使用は速過ぎる。

疾走しながらも切嗣の思考は既にケイネスの『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の性能を正確に把握していた。

レーザーにも匹敵する切れ味誇りかつ変幻自在に繰り出される攻撃、瞬時に展開して主の身を守る自律防御システム、更には自動索敵まで兼ね備えた『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』は確かに万能だ。

しかし、決して無敵ではない。

攻防、そして索敵、その全てにおいて切嗣は弱点を正確に把握していた。

ある程度距離を稼いだ所で切嗣は曲がり角で身を隠す。見れば行く先はすでに銀の触手が待ち構えているし、頭上からも銀の雫が垂れ落ちようとしている。

「・・・・・・(固有時制御、三重停滞)」

切嗣の詠唱と共に切嗣は自身の機能全てを三分の一へ鈍化させる。

心臓の鼓動が呼吸が全てが緩慢となり切嗣の体温は低下、周囲の気温とさして変わりなくなる。

行く手から現れた水銀の網も天井から垂れ下がる銀の雫も切嗣に一切反応しない。

(やはりか)

内心で切嗣はほくそ笑む。

通常、物を認識、感知する為の機能は視覚、聴覚、嗅覚とあるが『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』は構造が単純明快な液体金属だ。

認識する為にはそれらに特化した知覚装置が無ければ機能する筈がないし、そんなものを付ければ最大の特徴である変幻自在な万能性能を殺してしまう以上除外していいだろう。

後は触覚も考えられるが、先程切嗣に触れる事無く補足した。

そうなると考えられるのは呼吸や人体の動きによって生じる空気の振動を捕捉し聴覚の代用にすらなりえる、すなわち特化された触覚機能が予測される。

また、それだけ過敏だと仮定すれば熱源探知もあるかも知れない。

その読みは見事に的中した。

『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』は切嗣はいないものとして認識、逆再生を見る様に天井へ、ないし元来た美知恵と消えて行く。

三分の一にまで停滞させたとは言っても、僅かに呼吸も心拍脈拍もあるが、自然界の雑音の中に紛れて識別出来ないのだろう。

完全に水銀の姿が消え去るや今度は切嗣が来た道から靴音がけたたましく響き渡る。

敵は無しとの報告を受けて、ケイネスが無警戒に接近してくる。

「・・・・・・(制御解除)」

今まで三分の一に減速していた切嗣の身体機能は即座に回復されたが、切嗣の身体にとっては三倍に引き上げられたに等しく全身を激痛が走る。

毛細血管は突然生じた血液の奔流に耐えきれず至る所で破断、内出血を生じさせる。

しかし、そんなものには一切頓着せずに切嗣は靴音からケイネスの距離を正確に推察。

おおよそ十メートルから二十メートルの範囲で物陰から飛び出す。

切嗣の予測通り、ケイネスとの距離は推定十五メートル弱と言った所だろう。

いる筈の無い場所から突然現れた憎むべき相手に愕然と目を見張るケイネスだったが、相手が先程の焼回しをするような銃撃と判るや落ち着きを取り戻し冷笑を浴びせる。

「はっ、馬鹿の一つ覚えとは無駄な事を」

しかし、その冷笑もすぐに打ち崩される。

突然、『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の中央にぽっかりと大穴があいたと思うや彼の右肩に衝撃が走り、大きな力によって押し出された。

吹き飛ばされた訳ではないがバランスを崩してたたらを踏む。

それを同時にケイネスの右肩に激痛が走り、ぬるりとした感触が右肩から右腕へと広がりを見せ始める。

思わず左手で右肩を庇うように覆い、視線を右肩に向ける。

ケイネス自慢の濃紺のコートの右肩部分が不気味にどす黒く変色し始めている。

ここに来てようやくケイネスは、あのネズミの馬鹿の一つ覚えの様な銃撃で負傷した事を理解した。

だが、理解出来なかった。

完璧である筈の『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の防御幕を突破するなどあり得ない。

これが自分と同等もしくはそれよりも高位の魔術師の秘奥によってならば納得もするし畏敬の念も現す。

だが、相手は魔術の薫陶を受けていながら、卑劣な道具に下賤な小細工を弄する事しか知らぬ魔術師の面汚し。

その様な相手は自分の礼装の防衛を突破するなどあり得ない。

これは単なる不条理と言う名の偶然であり、一生分の幸運があのネズミに気まぐれに微笑んだだけの結果なのだとケイネスは自分に言い聞かせるが、彼は知らない。

これは不条理と言う名の偶然でも一生分の幸運が気まぐれに微笑んだ訳でもなく、切嗣が冷静に『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の防衛システムの穴を突いた必然の結果だと言う事を。

神速とも言えるあの展開速度の秘訣は水銀にかかる圧力の賜物だと言う事を切嗣は見抜いていた。

これは物理を学んだ者であればある程度冷静になって考えれば理解出来る事だ。

だからこそまずはキャレコでの奇襲であえて防御幕を作り出してもらったのだ。

そこへコンテンダーを発砲。

パラべラム弾の防御に最適な形状になってしまった防御幕にスプリング・フィールド弾を防ぐ手立ては無い。

球状の塊から幕になるのは容易いだろうしその速度も神速であろうが、そこから更に圧力をかける事は困難を通り越して不可能だ。

コンテンダーの一撃は見事『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の防御幕に大穴をこじ開けたが、切嗣はこれでケイネスを仕留められるとは露ほどにも考えていない。

標的が見えない射撃だ、負傷させれば僥倖であり、それ以上の事は不条理と言う名(ケイネスにとって)の偶然か、一生分の幸運がそれこそ気まぐれに微笑んでくれることに期待するしかない。

事実幕の向こう側からはケイネスの苦痛の悲鳴が上がり、それはすぐに切嗣への罵声へと変貌し、

「・・・(斬)!」

先程よりも殺意が明確な叱咤と共に水銀の鞭が再び切嗣を襲うがそれを紙一重ながら、見事に回避、牽制のキャレコの銃撃で『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』を足止めしてから再び疾走する。

これが攻撃面での弱点、確かにその動きは高速であるがそのパターンは実はとても単調なものだった。

先程の鞭状の形態がいい例だ、猛スピードで動いているのは本体だけで末端のそれには驚くほど力が無い。

それでもあれほどの破壊力を発揮できるのは本体の速度によって生じた遠心力によるものだ。

戦いの心得が無い者であれば、それでも致命的な脅威であるが切嗣程の近接戦の心得があれば回避するのは難しい話ではない。

無論距離を取って『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の必殺範囲に入り込まない事が前提条件に入るが。

(さて、どう出るか)

再び距離を取り、手頃な柱の陰に隠れると後方を確認しながら切嗣はそんな事を考えていた

もしもケイネスが負傷の手当をする為に待機するか、今の攻撃で切嗣を侮りがたし敵と認識して撤退を決断するとすれば挑発したりないだろうし、面倒が更に増える。

しかし、即座に切嗣を追跡すると言うならば事態は切嗣の計算通りに進んでいる。

そして事態は切嗣に微笑んだ。

後方から絶え間ない破壊音が響き渡りそれは確実にこちらに近寄ろうとしている。

それを何の感情も無く聞いていた切嗣は一切の関心を寄せる事無く、コンテンダーからからの薬莢を排出、新たなる弾丸を装填、再び疾走を開始した。

先程の三重停滞のダメージは未だ彼の身体を蝕み全身の苦痛は耐える事無く彼を責め立てるがそれを鞭打って切嗣は走る。

さほど時間を置く事無く、ケイネスは自分で自分の首を絞めるだろう。

いかにしてその縄を取り上げて木に括りつけて土台に乗せ、それを蹴り飛ばして首を吊らせてやるか。

『魔術師殺し』衛宮切嗣の魔術師狩りは現状においては順調に推移していた。

ActⅡ-Ⅹへ                                                                                                                                          ActⅡ-Ⅷへ