時間を切嗣とケイネスの戦闘が開始された直後まで遡り、場所を城から見て南東の地点に切り替わる。
切嗣の指示を受けてアイリスフィールは舞弥に先導されて城から離れつつあった。
しかし、その空気は重苦しく、先導する舞弥は普段と変わらぬ鉄面皮であるに対して、アイリスフィールのそれは重苦しい。
舞弥の力量に不安がある訳ではない。
確かにセイバーに比べれば数段見劣りするだろうが、切嗣が太鼓判を押すほどなのだ。
相応の相手でない限りアイリスフィールに万が一の事態が起こり得ないだろう。
だが、アイリスフィールの内心は憂鬱だ。
矛盾しているようだが不安だといっても良いかもしれない。
先程舞弥が今の切嗣にとって聖杯戦争を戦い抜くのに必要な人である事は理解したが、それとこれとは別問題だ。
改めてだがアイリスフィールは常に傍にいたセイバーがあの小柄で華奢な体躯に似合わないほどの自信と包容力で安心感を彼女に与えていたのかそれを再認識した。
少なくとも今彼女の傍にいるのがセイバーであったとしたらここまでの不安は感じなかったはずだ。
では何が不安なのか、何がアイリスフィールをここまで憂鬱にさせるのか?
堂々巡りのような思案の尻目に舞弥は周囲への警戒を怠ることなく、無言で辺りを見回り続けている。
舞弥自身が会話を殊更好む性格でないのだが、この徹底的な沈黙がアイリスフィールのさらに憂鬱にさせていく。
話しかけても罰は当たらないのではないだろうか?
この森は戦場であることは確かだが、セイバー達とキャスターの戦闘は正反対の方角で起こっている以上、ここは後方と言っても差し支えなく、ましてや静寂である事を要求される必要性もない。
二言三言、言葉を交わしながら退避しても問題はない筈だった。
しかし・・・いざ話しかけようとすると、躊躇いが生じさせた、喉元まで出かかった舞弥に呼びかける声が出てこない。
何を話すべきなのか、それが最大の理由だった。
二人の共通の話題といえば無論切嗣の事だろう。
だが、何を聞けばいい?
切嗣との出会い、切嗣との思い出、舞弥の知る切嗣の人物評・・・上げていけばいくらでも出てくる。
だが、アイリスフィールの知る切嗣と舞弥の知るそれは天地程の隔たりがあるだろう。
現に初めて出会った九年前の切嗣は、その全身に硝煙と煙草、そして血と死の臭いを漂わせた、まさしく猟犬の様な男で、初めて嗅いだ煙草の臭いが堪らなく不快であったことは今でも覚えている。
それから九年間の切嗣は創り者である自分を、そして娘を心の底から愛し、底なしの愛情を注ぎ続けてくれた。
自分達が彼の夢を理想を全て打ち壊したにも関わらず、それでも自分と共に歩んでくれると言ってくれた。
切嗣は自分達に救われたと事ある毎に口にするがそれは違う。
切嗣に自分達こそが救われたのだ。
人でない自分達を心の底から愛してくれた切嗣に全て救われた。
しかし、舞弥の知るそれはアイリスフィールとはまさしく真逆だろう。
自分が知らない切嗣を知りたいと思う反面、それが自分の中の切嗣像を破壊してしまうだろうと確信に近いものを抱きとてもではないが聞く事は出来ない。
そんな葛藤も知らずに舞弥の歩みには淀みはなく、そのまとう空気は相も変わらず固く重い。
気まずい雰因気である事は判っている筈なのに・・・
もしかしたら彼女には感情も心も無いのでは無いのだろうか?
彼女らしからぬ批判的な事が脳裏をよぎった時、アイリスフィールの全身を悪寒の様な戦慄が駆け巡る。
「??どうかしましたか?マダム」
全身を強張らせて立ち止まったアイリスフィールにすぐ気付いたのだろう。
訝しげに振り返り問う舞弥に
「さらに新手が来たわ。ちょうど私達の進行方向の先にいる。このままの進路だと鉢合わせするわ」
それに舞弥は驚きもなく当たり前の様に頷く。
元々更なる新手が現れる事を想定してアイリスフィールを連れて避難しようとしているのだから、当然といえば当然の話だった。
むしろ遅過ぎた位だ。
「では迂回しましょう。北側に進路をとれば気付かれずにやり過ごせます」
舞弥の提案は何もおかしなものではない。
最優先事項はアイリスフィールの安全であり、新手との交戦は二の次であるのだから。
しかし、そんな舞弥の提案に
「・・・」
アイリスフィールは無言のまま返答を返そうとしない。
「??マダム」
返事をしない事に訝しむ舞弥であったが、アイリスフィールにとってはそれ所の話ではなかった。
遠見で判明したその新手に眼を奪われていた。
漆黒の僧衣に唯一光る十字架のネックレス、刈り込まれた頭髪に舞弥をも凌駕する厳めしい風貌。
アイリスフィール自身は一度も出会った事はないがその容姿は切嗣が入手した顔写真で嫌と言うほど見ている。
「・・・やって来るのは・・・あの男よ・・・言峰綺礼・・・っ!!」
その固有名詞を口にした途端アイリスフィールは息をのんだ。
目の前の舞弥はその名を耳にした途端、表情を一変させたのだ。
常に見せていた仮面のような鉄面皮は崩れ、怒りと焦りと不安と切迫感が絶妙に混じり合った表情を前面に押し出していた。
それだけでアイリスフィールは悟ってしまった。
舞弥が抱いたのは綺礼という脅威が自分達の目の前にいると言う事よりもここに綺礼が姿を現した事に強烈な危機感を抱いているのだろう。
そして・・・アイリスフィールは全てを悟ってしまった。
何故、舞弥が綺礼に対してここまでの危機感を抱くのかを、そして舞弥が切嗣に対して抱く感情がなんなのかを。
「・・・舞弥さん」
そんなアイリスフィールの口から出た言葉は静かで落ち着いたものだった。
「確認したいけど貴女がキリツグから受けた指令は私を安全に退避させる事よね?」
どこか舞弥の事を試すような声に舞弥は戸惑った。
「は、はい・・・マダム、ですが・・・」
奥歯に物が挟まったようないいようにアイリスフィールは珍しく底意地の悪い人をからかう様な声で
「ですが?もしかして貴女、キリツグの指令よりも言峰綺礼をこの先に行かせない事を優先するの?」
本心を突かれたのか舞弥は口籠る。
だが、続けざまにアイリスフィールの口から発せられた言葉に今度こそ絶句した。
「奇遇よね。私も同意見なのよ」
「!!・・・マ、マダム??」
「舞弥さん、あの男は・・・言峰綺礼はここで食い止める、あわよくばここで仕留める。いいかしら?」
ほんのわずか躊躇ったが、決心した様に一つ頷き、
「お許しくださいマダム、貴女を危機に晒す事を・・・お覚悟をお願いします」
「ええ、舞弥さん、貴女は私の事は気にしないで貴女がしたいようにして。誰の為でも、何の為でもない。貴女自身が必要だと思っている事を貴女の為に」
「はい」
頷きあう二人に数分前までの重苦しい空気はどこにも存在しない。
あれほど感じていた舞弥との溝も壁も存在しない。
いや、そもそもそのようなものは初めから存在していなかったのだ。
アイリスフィールが勝手に創り上げていた幻想に過ぎなかった。
何故そのようなものを創り上げてしまったのか今の彼女ならわかる。
怖かったのだ。
畏れていたのだ
久宇舞弥という人物を畏れていたのではない、彼女が抱く想いを知るのが怖かったのだ。
衛宮切嗣をに対する想いがなんなのかを知るのが。
だが、言峰綺礼という脅威はそれを億の言葉よりも雄弁にアイリスフィールに教えてしまったにも関わらず、アイリスフィールの心はいっそ晴れやかなものだった。
そんな思いがかすかに漏れ出たのだろう、死闘は間もないと言うのに楽しげな笑い声がかすかに口から零れ落ちる。
「??」
可聴域ぎりぎりだったがそれでも聞こえたのだろう、舞弥が不審げに横目で見遣った。
「ごめんさない・・・・でも不思議よね人の心って・・・」
独り言にも似たアイリスフィールの言葉に首を傾げる舞弥であったが、気を引き締めなおして手持ちのキャレコとグロッグ、そして白兵戦用のサバイバルナイフの状態を確認する。
そんな姿が、そして舞弥の想いがアイリスフィールにはこの上もなく頼もしかった。
衛宮切嗣と言う男の為に己の全てを賭す事の出来るのは自分だけではないという、ほんの数分前であれば受け入れがたい筈だった事実がこの上もなく頼もしく、何よりも嬉しかった。
アサシンを用いて全ての陣営の動向を把握している綺礼にとって、キャスター陣営とセイバー陣営の次の動きを予測するのは難しい事ではなかった。
セイバーをジャンヌ・ダルクであると誤認しているキャスターは遅かれ早かれ友好的であれ、非友好的であれセイバーに再び接触してくるだろう。
そしてキャスターがこちらに来る以上、セイバー陣営は下手に動く事無く、自らの本拠地である郊外にあるアインツベルンの領地で手ぐすね引いて待ち構える、これが最上の戦略だ。
そう判断するや綺礼の動きに淀みはなかった。
父の目を盗んで教会を抜け出すと、アサシンを斥候として先行させ、自らもアインツベルンの森に向かい、どう言う訳か冬木側から離れた森の東側に待機する。
仮にセイバーとキャスターとの間で戦闘が行われたとしてもそこに介入する気のない綺礼にとって東側に陣取るのは当然の選択で、冬木方面からくる陣営は普通に考えれば冬木側である森の西側から侵攻するだろう。
そして西側で戦闘が始まった時点でその隙を見計らいここからアインツベルンの城に潜入を目論んでいた。
言うまでも無い事だが朝方、時臣から無断の出撃を咎められたにもかかわらず、それを破るように再び外に出たのだ。
これが時臣に知れれば軽い叱責程度で済む筈もない。
おそらく父である璃正とも掛け合い、この聖杯戦争中、教会敷地内すら自由に歩くなくなるだろう。
だが、綺礼からしてみればそれも全て覚悟の上での行動だった。
元々璃正と古くから交友のある時臣からの依頼であるにしても、聖杯戦争には何一つ興味も関心もなかったし、参戦するために情熱を傾けていた訳でもなかった。
それでも形式上は魔術協会と聖堂教会からの転属命令に従い時臣の弟子として魔術の薫陶を受けたのは彼の中の形容しがたい虚ろが満たされてくれる事に雀の涙ほどの期待を寄せたからであるのだが、結果は散々たるもので、外面では、誰よりも真剣に真摯に魔術の修行に打ち込む姿が時臣の信頼を集めたが結局はそれだけ、彼の身の空虚を再認識させるだけだった。
そんな表には出せぬ失意と絶望の日々を過ごしながらいよいよ聖杯戦争が始まろうとしていた時彼は、知ったのだ、あの男の事を。
そのきっかけは時臣が協会に頼んで調査して貰った件だった。
『魔術師殺し』衛宮切嗣。
純血を誇りにしていたアインツベルンがそれを曲げてまで聖杯を得るために迎え入れた男。
そして、時臣が聖杯戦争においてアインツベルン陣営のマスターになるであろうと目星をつけた魔術師だった。
綺礼も名前だけはかつて教会で要注意人物として耳にしていたが、その時はさほど興味を示す事はなかった。
しかし、再び耳にした時切嗣に興味を持ったのは時臣が今まで見た事も無いほど不快と嫌悪を露わにしたからだった。
まあ、届いた資料に目を通せばそれも判る気もした。
狙撃や毒殺はもちろんの事、公衆の面前で爆殺、挙句の果てには標的を旅客機諸々上空で撃墜と魔術師らしい戦いに切嗣が臨んだ形跡は一切見当たらない。
魔術師である事に、そして自らに課した掟を厳守することに誇りを持ち合わせている時臣から見て、切嗣のそれは到底許容出来ないのだろう。
だからこそ綺礼は興味を持った。
璃正や時臣の様な人物ばかり見てきた綺礼にとって真逆の様な人物に一方ならぬ興味を抱いたのだ。
そしてその資料を・・・あくまでも切嗣の経歴ではなく、『魔術師殺し』としての戦闘履歴に過ぎなかったが、それを調べていくうちに綺礼には確信を抱いた事がある。
いや皮肉な事だが、このような無味乾燥した資料だったから判った事だった。
切嗣が行った行動の数々があまりにもリスクを取り過ぎている事を。
時臣は金銭目的の殺し屋と蔑んでいたが、切嗣の経歴を見ればそれは違う事がわかる。
あまりにも短い仕事と仕事の間隔、準備や計画立案を考慮すれば複数の仕事を同時に進行させていたと考えなければ説明がつかない。
おまけに傭兵として各地の紛争地にも姿を現しているが、その時期はすべて戦況が最も苛烈かつ絶望的な時ばかりだ。
とてもではないがこれが金銭目的とは信じられない。
その時、綺礼は切嗣の破滅的な行動に自分の影を見た。
得られぬ答えを得る為にあらゆる苦行を望んで受け入れた自分と同じ臭いを嗅ぎ取った。
切嗣の自殺行為の様な戦いはアインツベルンに迎え入れられて終わりを告げている。
時臣は一生遊んでも使い切れぬだろう富を得たのだから当然だと言っていたが、金銭目的とは思えぬ綺礼にはそれは得られぬ答えを得たのではないのかと確信に近いものを抱いた。
この時綺礼は興味も熱意もなかった聖杯戦争に初めて参戦する意味を見出した。
彼は切嗣に会わねばならなかった。
そして問わねばならない。
何の為に今まで戦ってきたのか、そして何を求めて、この戦いに身を投じたのかと。
それが綺礼にとって望むような答えでなくとも、彼は聞かねばならなかった。
たとえその為に、切嗣との戦いが待ち構えていようとも。
綺礼が森の東側に待機してさほど時間を置かず、斥候として放ったアサシンからキャスターが姿を現した事と、セイバーとエクスキューターが戦闘を開始した旨の報告が届くと躊躇う事無く、綺礼は森に足を踏み入れた。
たとえ気配遮断を持つアサシンであろうとも結界の中心部である城まで潜り込ませるのは不可能だが、森の深部まで潜入させる事は可能だったからこその芸当である。
暗く鬱蒼とした森の中を綺礼は平然と歩いていた。
その歩みには淀みはなく木の根や石に足を躓かせる気配はない。
代行者として鍛え上げられた彼にはここの何倍も鬱蒼とした、しかも死徒の手で異形の怪物と化した猛獣が闊歩する森を一人で踏破した経験を持つ。
そんな彼にしてみれば幻惑の術程度の障害など無いに等しいものだった。
アサシンからの報告では戦闘において姿を現したのはサーヴァントのみで双方共にマスターの姿は見当たらないとの事だが、おそらく自らの領地での迎撃戦ゆえに城の中でセイバー達の戦況を見つめているのであろう。
ならば尚の事、好都合だった。
おそらくサーヴァントがいない状態のアインツベルンのマスターを護衛する為に切嗣もまた、城にいるに違いない。
このような絶好の機会、そうそうない。
もしかしたら最初で最後のチャンスではとの思いが綺礼の足を早めさせる。
その途中、ランサーがキャスター戦に乱入、さらにはマスターであるロード・エルメロイもまた城に向かっているとの報告を受けても綺礼の足に鈍りはない。
むしろその表情には焦燥の色が濃くなり早歩きと走るの中間の速度で森をひたすら突き進む。
ロード・エルメロイが城に向かっていると言う事は十中八九セイバーがいない事で手薄となったアインツベルンのマスターが目的だろう。
そうなれば護衛を務めている事は確実な切嗣との間で戦闘が起こる事は火を見るよりも明らか。
万が一にも切嗣がロード・エルメロイとの戦闘で命を落とすようなことにでもなれば、綺礼の目的は果たせられず、その喪失感は今までの比ではないだろう。
ロード・エルメロイとの戦闘すら覚悟していた綺礼であったが、歴戦の代行者としての本能は周囲の警戒を微塵も怠ってはいなかった。
ロード・エルメロイが先んじて城に到着したとなれば当然アインツベルンのマスターは城から脱出するだろう。
元々荒事には致命的に不向きであるがゆえに、戦闘に特化した外部の人間を迎え入れたのだから、当然と言えば当然の事だ。
それはすなわち今、城に向かっている自分に向かっていると言う事に等しい。
そうなれば自分と鉢合わせになるのは必然とも言える事であり、下手をすれば遭遇戦になる事も考慮していた綺礼だったからこそ察知できた。
突然感じた突き刺すような殺気を。
咄嗟に身をかがめる綺礼の頭上を縦断の雨が横殴りに降り注ぎ、背後の樹木に歪な斑模様を穿っていく。
フルオートでの奇襲を受ければいかに歴戦の猛者であろうと冷静な判断力は失われるものだが、綺礼の場合は掻い潜ってきた修羅場の数が違う。
冷や汗所か眉一つ動かす事無く、冷静にかつ正確に事態の把握に努めていた。
フルオートでの銃撃だが敵はおそらく単体。
穿かれた弾痕から判断するに九ミリ弾。
貫通力には欠けるため遮蔽物の多い森の中では油断は禁物だが、高い脅威とは言えない。
一瞬で判断するや銃声から相手の場所を判断、黒鍵を二本投擲するが、応ずるのは硬い音のみ。
樹木に命中しただろう。
(・・・??)
手応えの無さに内心首を傾げる綺礼に再び殺気が突き刺さる。
再びの銃撃を交わすが今度はすんでの所だった。
無理もない、何しろ最初の銃撃と今の銃撃とでは場所があまりにも遠すぎる。
敵は単体だと判断していた綺礼は完全に虚を突かれた。
妙だと綺礼は疑問を抱いた。
単体だとすればあまりにも移動が速すぎる。
だが、複数いたとすれば、時間差での襲撃というのも妙な話だ。
やろうと思えば十字砲火の餌食にする事も出来た筈。
だが、相手は綺礼に疑問を解決させる暇も与える気はなかったらしく続いて同時に四つの気配が綺礼を包囲する。
それに左右合わせて四本の黒鍵を構えながら綺礼は閃いた
(幻覚か・・・)
内心で舌打ちする。
考えてみればここはアインツベルンの領地、それもかなり深部だ。
綺礼一人に限定してその知覚を錯乱させるのは容易い筈だ。
切嗣と相見える事に執着し過ぎたが為の失態の苦い味を噛み締めながら綺礼は寸分の淀みなく黒鍵を気配の方向四か所へ同時に投擲、様子を窺う。
予想出来ていたがやはり反応はない。
このままでは埒が明かないと苛立ちながら舌打ちしたその時、綺礼の背中を銃撃が襲い掛かる。
今度は気配すら察知出来なかった。
むしろ先ほどの二射は綺礼を惑わすための偽りの殺気だったのだろう。
よける事も出来ず、背中に銃撃を受けた綺礼は悲鳴を上げる間もなく、身体をふらつかせるとそのまま仰向けに倒れる。
痙攣もせず、苦痛も呻き声も発しない。
狙撃場所から立ち上がった舞弥は、背中・・・特に脊髄を狙い通り撃ち抜いて即死させしめたのかと慎重にキャレコを構えながら綺礼へ歩み寄ろうとしたが、
(舞弥さん!!)
アイリスフィールの警告よりも早く、綺礼は仰向けの体勢のまま黒鍵を投擲、舞弥の右脚のふくらはぎを切り裂いた。
信じ難い命中精度だった。
綺礼は舞弥に視線を向ける事無く、気配だけで正確に位置を把握、しかも腕の一振りしただけの投擲を命中させたのだ。
突然の奇襲に次にとるべき動作を遅らせた舞弥を尻目にバネ仕掛けのごとく飛び起きた綺礼は舞弥目掛けて猛然と突進を開始する。
だが、舞弥もすぐに体勢を立て直し、キャレコをフルオートで発砲するが、綺礼は避ける素振りも見せる事無く頭部を両腕でガードしたまま、突進の速度を全く緩める気配はない。
そのまま銃弾の雨は綺礼を撃ち付けるが、そのどれもがはじかれ地面に転げ落ちただの一発も貫通しない。
それを見て舞弥は悟った。
(あの僧衣は!!)
舞弥の憶測は完全に正しい。
綺礼の身にまとう僧衣は銃弾に対して抜群の耐性を誇るケプラー繊維製。
しかも代行者特製の防護呪札の裏打ちまでされた代物で、その防弾能力はもはや鎧に等しい。
キャレコのパラべラム弾程度では貫通は望める筈もない。
だが、秒間十連射の銃弾の豪雨は金属バットで滅多打ちされるに等しい激痛を綺礼に与える。
普通であればあまりの激痛に動きが鈍ったり体勢を崩してしまう所であるのだが、代行者として鍛え上げられたその肉体と精神は銃弾の豪雨を耐えしのぎ、その動きにはいっさい鈍りはない。
銃撃は無効だと判断すると舞弥はキャレコを投げ捨て、サバイバルナイフを太腿のホルスターから引き抜くと右脚の傷など頓着せずに綺礼に接近戦を挑む。
綺礼もまた銃撃が止んだとみるや黒鍵を構え斬りかかるが、それを舞弥は見事に弾き飛ばし、さらに接近する。
黒鍵は形状こそ見れば剣であるが、あくまでも投擲に特化された武器、投擲に適した短い柄も近接戦では握る事が出来ず不向きであり、舞弥のナイフの方が有利。
更には、ケプラー繊維は銃弾に対する耐性に反比例するように、刃物による切断には極めて脆弱な特性を持つ以上舞弥の選択は当然と言えた。
(ここまで距離を詰めれば!)
相討ちをも想定に入れて、舞弥は猛然と突き掛かる。
綺礼もまたカウンターを意識してかナイフとすれ違う形で黒鍵を突き出した。
しかし、予想の範囲内の行動であったそれを舞弥は首を反らす事で回避、懐に潜り込んだ。
このまま綺礼の咽喉笛を切り裂かんとした時、舞弥は幻視してしまった。
自身の敗北を。
黒鍵を突き出したはずの綺礼の手が空いている。
おそらく黒鍵を手放したのであろうが何故という疑問はすぐに氷解した。
初めからカウンターでの黒鍵はフェイクに過ぎなかった。
そのまま綺礼の右腕は舞弥の右手首に絡まり、綺礼の長身は蛇のごとくしなやかにその身をかがめ、次の瞬間には舞弥の右腕を自身の肩に背負い込む。
それはあたかも怪我人に肩を貸すしぐさに酷似していた。
しかし、次の動作は怪我人を助けるというよりも怪我人を作り出すものだった。
綺礼の身体が舞弥の腰に密着したと同時に舞弥の軸足を左脚で刈り払い、左腕の肘が舞弥の鳩尾にも一撃を入れる。
見事に決まった八極拳『六大開・頂肘』攻防一体の套路だった。
受け身を取る事も出来ず、地面に倒れこむ舞弥。
迂闊だったと言う他無い。
黒鍵使いの代行者と言う先入観に完全に支配されていた。
これほどの中国拳法をも会得しているとは思いもしなかった。
しかし、この件について舞弥を責めるのは酷である。
何しろ綺礼が八極拳を体得したのは代行者時代よりも前、璃正の手ほどきによるもの。
その腕前も拳士としての格も、代行者時代の死闘を経て殺人拳へと昇華させた、綺礼をもってしても足元にも及ばないと言わしめるほどの達人による。
受け身を取れずに地面に打ち付けた為だろう、両腕両足がもぎ取られたような錯覚に陥った。
だが、肘打ちの直撃を受けた鳩尾は意識を焼き尽くすような激痛が舞弥の意識を苛む。
間違いなく肋骨が三、四本は叩き折られたはずだ。
ただの一撃で舞弥を戦闘不能に追いやった綺礼に、もはや彼女への関心はない。
切嗣の所在が明らかな以上、生かしておく必要も価値もない。
速やかに止めを刺そうとしたその時背後から、新たな気配を察知する。
さして興味も持たず気配の方向に目を向けた時綺礼は一瞬その眼を疑った。
そこにいたのは銀髪、赤眼の女・・・アイリスフィールだった。