時は遡りアイリスフィールがメルセデスで暴走しセイバーと士郎の肝を冷やし続けていた頃、新都にある冬木ハイアットホテル最上階スイートルームでは・・・

つい先ほど序盤戦から帰還したばかりのケイネス・アーチボルト・エルメロイが窓際に設置されたソファに腰を預けていた。

スイートルームに置かれたソファだ、無論だが本革の高級品でその座り心地は万人を満足させるに十分な逸品であるのだが、ケイネスの表情は優れない、と言うか不機嫌そのものだった。

元々、彼はこの部屋に何一つとして好意的なものは持ち合わせてはいない。

真の贅を尽くす、そんな意味も理解せず、ただ高価な家具や食器をただ無造作に設置しただけの俗物の自尊心を満足させる為の物置、ケイネスがスイートルームに下した評価はあまりにも酷なものだった。

また最上階から見下ろす夜景もケイネスから言わせればガラクタをぶちまけただけの見苦しいものに過ぎず心動かされる事も無い。

だが、元々一時だけの逗留場に過ぎないこのスイートルームに対する不満など、聖杯戦争の間だけのものとして割り切っている。

ケイネスの不快の原因は別のものだ、部屋に対する不平不満が再燃したのは飾らずに言えばそれに対する八つ当たりに過ぎない。

全てを手にし、全ての成功を約束された誉れ高きロード・エルメロイ。

その輝かしき経歴に武勲による箔を付けたいと考えて参戦した聖杯戦争。

アインツベルンを始めとする御三家を侮ってはいなかったが、それをも自分は凌駕する事を信じて疑う事も無かった。

万全の準備を整え必勝を期した、従えるサーヴァントも絶対の自信を持っていた筈だった・・・最も無能であり落ちこぼれの門下生がその触媒を持ち去ってあろう事か聖杯戦争に参戦するまでは。

それでもどうにか新たなる触媒の手配にも成功し改めて挑んだ聖杯戦争だったが、その序盤戦の顛末こそケイネスに深刻な怒りを膨れ上がらせるに十分なものだった。

「・・・ランサー」

低く押し殺したような声にすぐさま応答が返る。

「ここに」

短くだが、誠実さと力強さを感じさせる声と共にランサーが実体化しケイネスの眼前に片膝を立て、恭しく頭を垂れていた。

その声、その仕草誰がどう見ても忠義に篤き、理想の臣下に他ならない筈なのだが・・・ケイネスの表情から険しさが取れる事は無い。

むしろランサーの姿を見て怒りが膨れ上がった様に表情を更に歪める。

「・・・随分と偉くなったものだな」

前置きも全て省略してケイネスはランサーを詰った。

「??・・・仰られる意味が判りかねます」

突然の詰問にやや困惑しながらもランサーはケイネスに問うた。

「判らぬと言うのか・・・この低能が!ランサー私はあの無礼者を討てと言った筈だ。それを無視してセイバーとのお遊戯に夢中になるとは偉くなったものだなと言っているのだ!主である私の命令を無視するとはどう言う事かと聞いているのだ!」

ランサーの返答に堪忍袋の緒が切れたのだろう、露骨にランサーを侮蔑し言葉の限りに罵倒するケイネスだが、あの序盤戦を全て知る者から見ればケイネスの怒りは見当違いであり、ぶつけられたランサーの立場から見れば紛れも無いとばっちりだった。

ランサー自身に非は無い。

彼はケイネスの命を忠実に守りセイバーを討つべく全力を尽くしただけだ。

ここで本来であれば無言を貫くべきなのかもしれないランサーだったが、その胸中にあるのは彼のあの言葉だった。

(・・・ランサー、一応忠告。忠義、忠臣は大変素晴らしいと思うが、盲目に付き従う事が必ずしも主君の為になるとは限らないぞ・・・か・・・)

僅かな沈黙ののち、思わぬ事を口にしていた。

「・・・では主よ。あの場面で私はセイバーではなくエクスキューターを討つ事を最優先すべきであったと言うのでしょうか」

「その通りだ!私に大恥をかかせたあの無礼者を討ち取りその後セイバーを討てばよかったのだ!それを」

「お言葉を返すようですが、そのような事をすれば私はセイバー、エクスキューター、最悪バーサーカーをも敵に回し敗北を喫していたでしょう」

「!!」

絶対服従の道具に過ぎないサーヴァントからの反発の声に更に怒りが膨れ上がる。

それに気付かないランサーではない筈だが、一切頓着する事なく、ランサーは淡々と自身の考えを口にする。

「セイバーの実力は言うに及びませんが、あのエクスキューターも軽んじる敵ではありません。経緯こそ苦戦したかも知れませんが、結果はバーサーカーを退ける程の武錬を持ち合わせています。その難敵を二名相手にすればどうなるのか?私より聡明である主であれば直ぐに判別がつくかと思われます」

最後にランサーらしからぬ皮肉まで付け加えられた事で、ケイネスの怒りはいよいよ最高潮にまで達した。

「こ、この無能が!言うに事欠いて自分の失態を私に責任転嫁するか!」

「転嫁も何も今回の序盤戦の顛末、全て貴方の責任ではなくて?」

業火の如く燃え盛るケイネスの憤怒を鎮火どころか凍てつかせるほどの冷めきった第三の声がスイートルームに響く。

赤毛の勝気な女性、ケイネスの婚約者であるソラウであるが、ケイネスに向けられたその視線はお世辞にも未来の夫に対して向けられたものではない。

「第三者から言わせてもらえればランサーは貴方の命令を遂行する為に全力を尽くし、それに見合う戦果もあげたわ。それを全部台無しにしたのはケイネス、貴方の方よ」

「な、何を言うんだソラウ・・・」

先程まで猛烈な勢いでランサーに罵声を浴びせていたケイネスは目に見えてソラウにたじろいでいる。

「私から言わせればねケイネス、あの時ランサーの進言に従いセイバーと組んでバーサーカーを攻めさせるべきだったのよ。そうすれば少なくともバーサーカーに対しては有利に戦いを進めた上でバーサーカーを討ち取る事も不可能ではなかった筈よ。まあエクスキューターの言う様にあそこまで露骨にセイバーに負担を強いさせる事までは考えていなかったけど」

「・・・君はセイバーの脅威を理解していないからこそそんな事が言えるんだ」

勢いも弱々しくそれでもケイネスが反論に転じる。

「セイバーのステータスはランサーよりもはるかに上だった!ならば確実にセイバーを討てる時に討つべきだった!」

だが、そんな必死のケイネスの主張もソラウには何一つ感銘を受けなかったようだ。

「そうなの・・・百歩譲って貴方の判断が正しかったとしましょう、だとしてらあれは何?」

「?あれ?」

前置きも何もない問い掛けを今度は使われる立場となってケイネスは困惑した表情を作る。

「エクスキューターを倒せって二つ目の令呪を使用した事よ。それも貴方の最初の命令を受けてセイバーを討とうとしていたランサーに対して」

「あれは!私を侮辱した無礼者を討たぬランサーが悪い!私はあの無礼者を討てと命じたにもかかわらず」

ケイネスの熱弁を遮ったソラウの言葉は極寒のブリザードの如く凍てついていた。

「ケイネス、貴方自分の言動が矛盾しているって事に気付いていないのかしら?今言っていたわよね。確実にセイバーを討てる時に討つべきだったって、ランサーは貴方の意を汲んでセイバーを討つべく全力を注いでいたわ。なのにその舌の根も乾かない内からまた令呪を使ってエクスキューターを討て?そう言うのを何と言うか知っているかしら?ケイネス、『行き当たりばったり』っていうのよ。そもそも、そんなに貴方を侮辱したと言うエクスキューターと、脅威だと言っているセイバーをも討ち取れと言うのなら・・・」

完全に固まっているケイネスに更なる冷ややかな視線と言葉が突き刺さる。

「なんで、あそこにいたセイバーのマスターであるアインツベルンの魔術師を貴方が討とうとしなかったの?無防備にただ立っていただけなんだから討とうと思えば討てたはずよ。だけど貴方がした事と言えば安全な所に隠れていた癖にランサーの足を引っ張って、その挙句にヒステリックにわめき散らしていただけ。エクスキューターの言葉を借りればランサーと言う虎の威を借りて威張り散らす鼠じゃないの?」

あんまりと言えばあんまりなソラウの弾劾に全身を小刻みに振るわせるケイネスだが、反論はしない。

自分の非を認めた訳ではない、相手がソラウだからだ。

ソラウが自身の恩師の娘である事もあるが、それ以上にケイネス自身がソラウに恋焦がれているからに他ならない。

ロード・エルメロイと呼ばれた彼がこの世でただ一人の至宝とも呼びうる人、それこそがソラウ・ヌヴァレ・ソフィアリに他ならない。

だが、いくら恩師の娘とは言え、恋焦がれた人とは言え批判、侮辱をされて黙っている事も出来ない。

ソラウでなければとっくの昔に倍、いや、十倍にして返す所だ。

だが、ソラウが相手である以上むやみに手は出せれない。

それであるが故に胸中にぶつけるところのない怒りだけが溜まっていく。

そんな屈折した心の憤懣をいち早く察したのだろう、ソラウは先程に比べれば幾分柔らかな口調で

「ケイネス、貴方は自覚している筈よ、自分が他の陣営に比べてどれだけのアドバンテージを誇っているのかは。マキリが構築させた召喚システムに独自の改良を加えて、マスターとサーヴァントの繋がりを二つに分けて魔術師二人に繋げる。当代随一の天才の名に恥じない素晴らしい発想とそれを実現させた実力、共に疑う余地も無いわ」

「それは・・・無論だろう」

賛辞など聞き慣れ、台詞こそそっけないものだったが、言葉の節々に喜色が滲み出ていた。

だが、その内容は他の陣営、特に御三家が聞けば無関心ではいられないだろう。

ケイネスが行った事は聖杯戦争のルールを根底から覆しかねないものだった。

本来はマスターとサーヴァントの繋がりを意味する因果線は一本である筈。

だが、その因果線をケイネスは二つに分割、本来のマスターと魔力の供給源としての魔術師に繋げると言う荒業を実行、それを成功させた。

そしてその二人目の魔術師こそソラウだった。

つまりランサー陣営は事実上マスターが二人いると言う事になる。

「だけどケイネス、そのアドバンテージを貴方は生かし切れていないわ。ランサーの維持に必要な魔力は私が供給しているのだから、貴方はロード・エルメロイとしての力を思う存分発揮も出来る。なのにそれもせずにこそこそと隠れているだけってどう言う事なのよ。こう言ってはなんだけど魔術師としては超一流でも、聖杯戦争を戦うマスターとしては二流、戦士としては三流以下よ」

三流以下とまで断言され再び顔色が変わる。

「だ、だが、戦いは序盤なのだ、事は慎重に」

「どの口が言うのかしら?ランサーに無茶な要求ばかりして、しまいには令呪を二つも浪費した貴方が言う台詞?」

その言葉にぐうの音も出ない。

「いい加減自覚しなさいケイネス。自分が犯した失態の数々を。そもそも」

だが、ソラウの言葉は最後まで発せられる事は無かった。

「ソラウ様そこまでにして頂きたい」

いつの間にか立ち上がったランサーがケイネスを庇うように間に割って入っていた。

「いくらソラウ様が我が主の婚約者と言えども、ソラウ様は主ではありません。我が主に対するこれ以上の暴言は看過できませぬ」

その眼には確固たる意志と僅かな憤りが存在していた。

それを直視したソラウの変化は誰が見ても劇的だった。

「そ、そんな・・・そこまでは・・・ご、ごめんなさい言い過ぎたわ」

先程まで存在していた不甲斐ない臣下を叱責する女帝の如き威厳が跡形も無く霧散し、若干頬を赤らめ、伏せ眼がちに謝罪するソラウだったが、ランサーの視線の険しさは取れない。

「ソラウ様、私ではなく主に謝罪を」

「っ・・・ケイネスごめんなさい。熱くなり過ぎたわ」

そう言ってケイネスにも素直に謝罪する。

だが、その言葉はランサーに向けられたそれよりも硬く、表情もやや強張っている様にも見える。

それを見て本来は自分とソラウの間を取り持ってくれたランサーに感謝すべき立場であるはずなのだが、ケイネスの胸中は更なる憤懣が満ちつつあった。

未来の夫である筈の自分にはあれほど傲慢かつ高圧的な態度で接したソラウが、ランサーに一言讒言されただけで態度を豹変させあまつさえ素直に謝罪までしてきたのだ、自分にはあのような態度など一度も見せた事が無いのに。

考えてみればソラウが口を挟んできたのはケイネスがランサーを罵倒していた最中だ。

もしやと思うが、口を挟んだのはケイネスに苦言を呈するよりもランサーを擁護する為だったのではないのだろうか?

だとすればソラウの中では夫婦としてこの先の人生を共に歩む事が確定している自分よりも高々一月も満たぬ間しか現界しないサーヴァントの方が大切だと言うのだろうか?

一度疑念に囚われればそれは際限なく膨れあがり、ケイネスは知らず知らずの内に自分を庇ったランサーを親の仇の様に睨み付ける。

そんな視線に気付いたのか気付いていないのかランサーは溜息なのかただの呼吸なのか判断がつかない程小さく息を吐き出した。









スイートルームで行われたある種の幕間劇、それを直線距離にして数百メートル、高度差百五十メートル離れた場所から聞いていた人物がいた。

ホテル近くの有料駐車場に止めたライトバンの車内で運転席の座席を倒して横になってイヤホンをしている人物。

そのコードは懐のポケットの中へと延びており、傍目にはバンの運転手が休憩と暇つぶしを兼ねてラジオを聴いているとしか見えないだろう。

「なるほどね。面倒な事をしてくれるものだ」

だが、その人物はぼそりと小声で意味不明な事を呟く。

「仕掛けておいて正解だったようだな」

そう独り言を呟き、起き上がる人物・・・切嗣はイヤホンを外す。

それは携帯用のラジオではなく盗聴器の受信器だった。

そう、今まさにハイアットホテルスイートルームでなされていた会話は、包み隠す事無く切嗣の耳に届いていた。

前にも記述したが、ホテルと言うのは不特定多数の人々が絶えず出たり入ったりを繰り返している場所だ。

ましてやスイートルームを一月余り貸し切る以上当然だが、部屋の清掃に不特定多数の人物が入るだろうし、ルームサービスで軽食やアルコールを頼む事もあるだろう。

ワンフロア丸ごと即席の工房に改造を施しているだろうが、そう言った一般人を進んで工房の餌食とする事は皆無だろうと切嗣は見ている。

資料を見る限りではケイネスは典型的な魔術師だ。魔術を目撃してしまった人物を消す事に躊躇いは無いだろうが神秘の隠匿、そちらに力を注ぐ事は疑いようも無い。

そこまで見通して切嗣は先行していた舞弥を使いホテルのボーイや清掃業者に密かに接触させ金での買収や暗示を使い、ワンフロア全てに盗聴器を仕掛けさせておいた。

ケイネスらも魔術や使い魔に対する警戒は厳に行うだろうが科学技術であるこいつにはてんで無頓着だ。

見事に現状のランサー陣営の亀裂の確認も出来た。

いや亀裂と言うのも生やさしい、ランサー陣営は明らかに破綻しかけている。

ケイネスはランサーに強く出れるがソラウには弱く、ソラウはケイネスには高飛車に接するがランサーには女性らしく接する。

かろうじてランサーがケイネス、ソラウ両者に敬意をもって接しているからまだ表面化していないが、一つでも箍が外れればあっという間に崩壊する事は疑う余地も無い。

だが、何よりも、今回の事でランサー陣営の最高機密の情報をも手に出来た事は大きかった。

「全く恐れ入るよ。もう一人は助手ではなく、魔力供給者とはね」

序盤戦の折、ケイネスの暗殺を選択肢に入れたのは一人のサーヴァントに一人のマスター、それが常識であり、切嗣も士郎も例外があるなど疑っていなかったからだ。

だが、マスターと役割を分割させたもう一人のマスターと呼びうる人物があるとすればその前提は崩れる。

たとえあの時ケイネスの暗殺に成功したとしてもケイネスの令呪はソラウに移っていただろう。

そうなればランサーは健在、ランサーはセイバーの首をせめて墓前へと全力を尽くして討とうとした事は疑いようがない。

つまりは全く無駄骨になっていた事だ。

そう言った意味ではその情報を入手できた事は極めて有意義だったと言える。

最もそれも、もうすぐ無意味になるだろうが。

懐から携帯電話を取り出し、手慣れた手つきで番号をダイヤルする。

近未来においてはもはや一人一台はもはや当たり前、中に二台三台保有している人物もいるだろうが、この時代においてはようやく普及し始めた最新機器で、持ち歩いている人も未だ多くは無い。

だが、それでもいつでもどこでも電話で連絡が取り合えると言うのは、特定の人物しか使えず隠蔽を大前提とする通信用の魔道器に比べればその有益さは非常に大きいし、何よりもおおっぴらに持っていても不審の眼で見られるとはない。

羨望の眼差しは存分に浴びるだろうが。

数回のコール音で相手は直ぐに出て来た。

『はい』

「舞弥、目標は既に工房にご帰宅した」

『こちらも丁度目標地点に到着、これより監視に入ります』

「判った。十分後、事を始める。そのまま待機」

『了解』

短い会話を済ませ切嗣は通話を切るとバンから下り早足で闇の中に消えて行った。









それからきっかり十分後、ハイアットホテルでは混乱の渦に巻き込まれていた。

ホテル内で突如火災が発生した為だ。

規模は小火程度でそれほど大騒ぎするものではないかも知れないが、数か所に分散されている上に火災現場は明らかに火の気が無く放火である事は疑いようも無かった。

その為に宿直のスタッフが総がかりで宿泊客をホテルからやや離れた屋外駐車場に避難させていた。

だが、全員完了したと思った瞬間、スタッフの表情が凍り付く。

あと一組宿泊客の存在が確認出来ない。

「アーチボルト様!アーチボルト様はいらっしゃいますか!」

必死に確認の取れていない宿泊客を呼ぶスタッフ。

スイートルームを丸々ワンフロア、それを一泊二泊どころか一月近く借り切ったのだから上客も上客。

そんな人物が万が一にもトラブルに巻き込まれたとなれば最悪ホテルの信用問題にも及ぶだろう、それだけは避けたかった。

「アーチボルト様!ケイネス・エルメロイ・アーチボルト様!いらしたら返事を」

その語尾に流暢な実に落ち着き払った日本語が重なった。

「私です、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは私です」

そこにいたのは手入れもしていない黒髪、くたびれたロングコートに冴えない風貌の日本人、彼らの記憶の中のケイネスとは似ても似つかない。

「ちょ・・・」

悪ふざけは止めるよう声を荒げて男に詰め寄ろうとしたが、台詞のほとんどが口の中で消え失せ数秒だけその眼に光が消えるが、すぐにはっとした表情になる。

「えっと・・・ケイネス・エルメロイ・アーチルト様ですね」

「はい、既に妻のソラウも避難は完了しています。」

「そうですか、はい」

そう言うと安堵したようにスタッフはリストにケイネスとソラウの避難完了とチェックを入れて足早にその場を去っていく。

その様を見て一つ頷く切嗣。

自分をケイネスだと思わせる欺瞞の暗示で彼には今会話をしたのがケイネスだと思い込ませた。

一時的なものだが、今回に関してはこれで十分。

不安や寒さ、寝起きでの不平不満が渦巻く屋外駐車場を人知れず離れ、ホテルから一区画離れた建物の物陰に隠れると再び舞弥に連絡を入れる。

「そっちは?」

『三十二階に動きはありません。目的は未だ寛いでいる模様いつでも大丈夫です』

「判った」

舞弥の言葉に一つ頷く。

盗聴器からの受信でもケイネス達の会話が聞こえていたからまだホテル内にいるだろうとは思っていたが、舞弥からの報告に確信を持つ。

おそらくケイネスはこのぼや騒ぎで無人化したホテルで第二戦が行われるそう信じて疑わないのだろう。

現に盗聴器からはランサーに敵をここまで引き摺り込むように指示を出している。

即席とは言え、協会で高名をはせるロード・エルメロイの工房だ、そこを真正面から攻めるなど自殺行為に等しい。

だが、それ以上にお笑い種なのはケイネスが既に勝ったつもりでいる事だ。

ソラウに自分がマスターとして二流、戦士としては三流以下と言う評価を直ぐに改めさせると断言している辺りその証左だ。

自分の工房に相当な自信を持ち合わせているようだが戦争は何が起こるのか判らない、お上品な決闘や研究室とは違うのだと言う事を骨身にしみて理解してもらうとしよう。

その代金は彼自身とその婚約者の命だが。

舞弥との通話を切った後、切嗣は手慣れた様子で携帯に新たな番号を押してダイヤル。

表向きは架空の登録をされたポケットベルだが、実際には密かに、巧妙にホテル内の柱に取り付けられたC4爆弾の起爆装置を起動、ホテル内に小さな、だが、決して見過ごせない柱を爆砕する音が響き渡る。

その爆音は周囲には聞こえなかったが、代わりに外の人々の耳に飛び込んできたのは不気味な軋みの音だった。

それが冬木の誇る高級ホテルの末期を示す断末魔だと誰が予想出来たか。

ホテルの下の階層が紙の様に押し潰されると同時にホテルは垂直に下降、真上から得体の知れない力によって押し潰される様に倒壊していった。

最初こそ目の前で行われた非現実的な光景に老若男女関係なく呆然として見やっていたが、周囲に巻き上がった粉塵やら砂埃に飲み込まれ、ようやく我に返ったようだ。

口々に悲鳴や泣き声をあげて四方八方に逃げ惑い周辺はあっという間に阿鼻叫喚の騒然とした現場と化した。

爆破解体と呼ばれる建造物破壊の高等技術である。

建造物を支える支柱をいくつか爆砕する事で建物自体の自重をもって崩壊させるこれの最大の利点は周辺の建造物に被害がほとんど及ばない事だろう。

爆破する柱の位置を調整する事で目的の建造物は外側ではなく内側に崩壊する。

この事によってガラスやコンクリート等の破片は内側に飛散してしまう。

現に道路を挟んで一区画しか離れていない他の建物には被害はほとんど見受けられないし、粉塵等に呑み込まれた宿泊客やスタッフは全身埃まみれで真っ黒、時折咳き込みながら逃げ惑うが目立った外傷は見受けられない。

崩壊と粉塵と風圧が一先ず収まった所で再び舞弥と連絡を取る。

「どうだ」

『崩壊まで三十二階に動きはありません。目的は最後までいた模様です』

その報告に一つ頷く。

ほぼ間違いなくケイネス破あの瓦礫に婚約者諸共埋まったのだろう。

ここでランサー陣営をホテル諸共圧殺などと言う力業に出たのは『必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)』で負傷したセイバーの存在が大きい。

親指を動かす事が出来ず、剣を両手で握れない以上、セイバーの宝具『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』は使用する事は出来ない。

士郎の言葉ではないが、ランサーはあの一刺しでセイバーの戦力をほぼ半減させてしまった。

正直に言えばセイバーがどれ程の苦境に立とうが、途中で敗北しようが切嗣にはどうでも良いのだが、彼女にはアイリスフィールの護衛と言う大事な仕事がある。

監督役が半ば敵である以上セイバーはアイリスフィールを守護する最大にして唯一の鎧だ。

ただでさえ士郎を可能な限り秘匿させて戦うと言う基本戦略があっさりと崩壊してしまった現状では、そうも易々と退場して貰っては困る。

だからこそこれほどの荒業に打って出たのだから。

そんな思案に暮れる切嗣の視界に宿泊客だろう、寝間着のままで全身真っ黒にして逃げる若い母親の姿を捕えた。

その手には母親に縋り付いて泣きじゃくるまだ幼い女の子を抱いている。

「・・・」

その姿を見て僅かに表情を歪ませるが、すぐさま苦笑を浮かべる。

自覚していた。

この小火騒ぎ、ケイネスにホテル内での戦闘を行わせる計略を誤認させホテル内に留めさせる罠であると同時に無関係の宿泊客らを逃がす為の甘い措置である事を。

これが聖杯をもって世界の救済を求めていた時の切嗣であれば、この判断を度し難い堕落と受け取っただろう。

だが、今の切嗣の目的は狂った聖杯戦争を今回で終焉させ、その後の人生を最愛の妻と娘の幸福の為に捧げる事であり、心理的にも若干の余裕があった。

この戦争の時だけは往年の『魔術師殺し』に戻らなければ勝てないのではないかと言う若干の不安は存在していたが。

母子から眼を逸らすとまだ繋がっていた電話で舞弥に

「直ぐに撤収を開始しろ。その後城に向かった士郎達と合流する」

撤収を指示したが返事は無い、その代わりに聞こえるのは甲高い金属音だけ。

それだけである意味十分だった。

何か異常事態が起こったのだと。

切嗣は通話状態を維持しつつ直ぐに路地裏にその姿を消して行った。

ActⅡ-Ⅲ                                                                    ActⅡ-Ⅰ