第二話『能力封印 前編』
異臭を放つ化け物の正体が、知った人間であったことに驚く。
「空音・・・様・・・なのか? 馬鹿なっ・・・!」
刀を強く握る。とりあえず身構えるが、戦う気はごっそりなくなっていた。
「私の・・・娘を・・・返して・・・よぉ・・・」
「娘? そうか、あなたは・・・空音様! 私の声を聞いてください! 私は、橘家の命によりはせ参じた、数馬と申すもの! あなたを始末したがっている、尼崎家とは異なります!」
「・・・数馬? あのお方の・・・」
少し、意思が戻ってきている。声が伝わっているならば、なんとかなるかもしれない。
「あなたを保護しに来ました。さぁ、どうぞこちらへ」
手を伸ばした直後、くぐもった悲鳴を零し、女の体が海老反りになった。背後から、弓で射られたのだ。別の誰かがいる。警戒しようとした直後、彼は自分のほうにも矢が飛んできている事に気づいた。気付いたが、もう避けられそうになかった。まっすぐに右胸へと飛んできている。やられる――! そう思ったとき、少し離れたところで妖を誘導していたはずの音子が、前に飛び込んできた。
「借りは・・・返したからね・・・」
矢は、音子の左胸を深々と突き刺さる。
「な・・・音子・・・? 音子ぇーーーー!!」
慌てて抱きかかえる。矢を抜こうかとも考えたが、今抜いたら致命傷になってしまうかもしれない。とにかく、病院へ連れて行かなければ――そう焦る彼に、黒い頭巾をかぶった男達が襲い掛かってきた。
音子を抱えたままでは対処できない。彼女を降ろして、まずは真正面の男に挑む。相手の武器は短刀。いなして、潜り抜けて――それでは間に合わない。相手の短刀を左手で掴む。血が吹き出ようが構わない。そのまま相手に肉薄して、腹部を刺し貫く。直後、背中を切られた。焼けるような痛みが走る。歯を食いしばって、背後の男を刀でなぎ払う。
「お前達の姫様だったんだろうが!? なぜ・・・なぜだぁ!! そんなに俺を殺したければ、俺だけを・・・俺だけを殺してくれればよかったものを!! 畜生・・・! 畜生ぉぉぉぉぉぉ!!」
絶望の遠吠え。
その声音の残滓を残しつつ、沙夜は目を覚ました。
先日、謎の少女に導かれて出会った、小泉由紀子と天野神華。その後、辿り着いた不思議な場所。そこで起こった過去の出来事――それが夢の正体。悲しい夢だった。切なくて、苦しかった。涙がポロポロと零れて止まらない。
あの二人は、どうなってしまったのだろうか。夢は、その先を教えてはくれなかった。
視線の先に、携帯電話が映る。古い機種だ。それを手に取り、由紀子のメールアドレスを呼び出す。
「・・・お話ぐらい・・・いいよね」
昨夜、沙夜の祖母が話してくれた。
『沙夜、昔少しお話はしたと思うけど、あなたは『サトリ様』の力を受け継いでいるの。サトリ様は、この町で生活していたと言われているわ。そして、サトリ様の側には、『水及』と呼ばれる巫女がいたそうなの。水及は、サトリ様に力を制御する術を授けたといわれているわ。水及は、この町を守ってくれているとても尊いお方。何百年という時を生きていると、言われているの。沙夜、歌宝山に行きなさい。もし、伝承が本当であるならば、水及は歌宝山にいるわ』
優しく、ゆっくりと祖母は言葉を紡いだ。
『サトリ』、『水及』、『歌宝山』。
能力を制御するなんてことは、最初興味はなかった。だが、今は違う。由紀子や神華という存在が、沙夜を突き動かす。『魔女』と呼ばれていた。しかし、由紀子や神華は、『人』として扱ってくれる。それでも、沙夜の力は『魔女』と呼ばれても仕方がないほど、歪なものであることには変わりない。いずれは、『魔女』と呼ばれてしまうかもしれない。ならば、そうなる前に対処したい。沙夜は、一縷の望みをかけることにした。
一文字、一文字、慣れない手つきで文字を打ち込んでいく。メールを打つことなんて、今までなかったことであるため、その動作は本当にぎこちない。
電話のボタン音が、ゆっくりゆっくり部屋の空気を揺らす。
鳥のさえずりが聞こえて、我に返る。なんとはなしに、襖を開けなければならないと思い、襖を開けるとそこに一人の少女がいた。少女は、言葉を連ねている。しかし、聞こえてこない。何も、何も――。
「姉様・・・?」
その言葉に反応して、ぼやけていた少女の顔が僅かに見えた。気の強い瞳を有す、綺麗な子である。少女は、優しく微笑んだ。
「私が守るから。いつか、普通に暮らせるようにするから! だから、もう少し待っていて。私が守る。父の好きなようには絶対させない・・・!」
カーテンから漏れる光で、由紀子は目を覚ました。頬を伝っていた涙を拭い、彼女らしくない真剣な表情を浮かべる。
「夢・・・また泣いてた、私。姉さんなんていないんだけど。はぁ・・・また私自身が薄れていく」
夢を見るたびに感じる、食い違い。自分が小泉由紀子であるということが確信を持てなくなる、揺らぎ。そして今日、もう一つ感じたことがあった。
「忘れてはいけない約束を・・・忘れてしまった気がする」
何か大切なものを失ってしまったという、喪失感。あの場所を訪れてからずっと、由紀子は今までに感じたこともない不安を覚えていた。
気を取り直して、由紀子は居間へと降りた。母親がワイドショーを真剣な面持ちで見ている。
「おはよう、母さん」
「・・・おはよう〜。ねぇねぇ、由紀子。結婚するんだって、この人。わぁ、ありえないー」
「あぁ、そう」
由紀子にとって芸能ニュースなど、どうでもいいことこの上なかった。
インスタントコーヒーを淹れ、テーブルの上に転がっている菓子パンを選ぶ。カレーパンか、チョココロネか。
「コロネよね、やっぱ」
コロネの包装を破り、食べようとしたその時――。
「由紀子」
母親が声をかけてきた。わざわざ、彼女の前に座ってくる。
「なに?」
「あのね、由紀子、最近私に隠している事ない?」
「どうして?」
母親が何を言いたいのか、いまいち理解できない。
疑問を疑問で返してやると、母親はなにやら悩みだした。とても言いづらそうである。一体、何をそんなに困っているのだろうか。
「あのね、章吾がね・・・由紀子が、年上の男の人と付き合っているとか言うだもん!」
咀嚼していたコロネが、勢い良くノドにダイブし、むせる由紀子。
「どうなの?! 由紀子!」
「んなことあるわけないないじゃない! 朝から変なことを言わないで!」
「でもね、章吾がね」
「ない。幻覚でも見たのよ。兄さん、病気してそうな顔をしているし」
「・・・それはどうかな」
母親が鬱陶しいので、食べかけのコロネとコーヒーを持って由紀子は二階へと避難した。内心は、冷や冷やしていた。
「兄さんに見られていたなんて、不覚だった・・・今度から気をつけよう」
聡が恋人。それはそれで――慌てて頭を振って、変な考えを振り下ろす。机に向かって、町の図書館から借りてきた記憶についての本を開いた。
「ない。ないない。私は、単に話し相手をしているだけなんだし。ない、ないない。ないな〜い」
再びコロネを口に含んだ時、どこからともなく軽快なメロディーが流れてきた。その音にびっくりして、再び咽る。涙目になりながら、由紀子は携帯電話を探し始めた。
「もう、誰よ。誤嚥で殺す気?」
音源を頼りに本をどけて、埋もれていた鞄を回収し、その中から携帯を取り出した。送り主の名前を見て、驚く。意外な人からのメールだったのだ。
「沙夜ちゃんから・・・?」
沙夜が、サトリの力を継いでいること。その能力を、完全に扱う事が出来ていないこと。能力を制御するためには、歌宝山にいると言われている水及に会わないといけないこと。メールには、そんな内容が書かれていた。結構、びっしりと。色々と、思っていることが交錯したのだろう。
由紀子は、大木公園の守り木の前で合流する旨、彼女に伝えた。ついでに、神華にも声をかけておいた。
時刻は十時少し前。由紀子が、大木公園の守り木の前にやってくる。すでに沙夜は到着しており、ベンチに座ってなにやら本を読んでいた。
「沙夜ちゃん、おはよう」
由紀子は、沙夜の事をそう呼ぶようになっていた。
「おはようございます!」
立ち上がって、頭を下げるガチガチの沙夜。そんなにかしこまらなくていいと、由紀子は手を振ってみせる。
「メール、読んだよ。興味深い話ね」
「私自身も、おばあちゃんの話の全てを信じているわけではないけど・・・もし、私の能力がなんとかなるなら、おばあちゃんが言う通りにするのもいいかも・・・て思って」
どこか自信がなさそうに、言葉を綴る沙夜。由紀子はそんな沙夜にベンチに座るように促して、自分自身も沙夜の隣へと腰をかけた。
「『水及』という巫女の事は、私も初耳だけど、巫女がこの町にいたという伝承は地元の人なら誰でも知っている。この守り木だって、千年以上昔に巫女が植えたと言い伝えられているしね」
由紀子は、背後に鎮座する守り木を指差した。守り木を仰ぐ沙夜。実は、彼女もこの守り木に不思議な力を感じていた。ただの巨大な楠のようにも見えるが、わずかな意思を感じるのだ。由紀子の語る言い伝えが正しければ、この守り木はただの木ではないのかもしれない。
「歌宝山には、近寄るべからず。山神を起こしてはならぬ。祟りが起こるぞ。そういう言い伝えもあってね、歌宝山は今でもほとんど人の手が入っていない場所なわけ。そこに沙夜ちゃんのメール・・・興味深いわ」
由紀子は、どことなく楽しそうである。
「あの山には、そんな言い伝えがあるのですね」
いつのまにか、神華が近くまで来ていた。それぞれ挨拶を済ませた後、由紀子は疑問を口にする。
「神華さん、歌宝山の伝承、聞いたことなかったの?」
「そういう話をしてくれる人が、身近にいませんでしたから」
上品に微笑む神華。しかし、どことなく憂いをはらんでいるようにも見えた。そのことに気付いたの由紀子であったが、敢えて口をつぐむ。人間、万事絶好調のはずがない。
――そんな三人の話を、守り木を通じて聞いていたものがいた。
「青き瞳の後継者と、赤鬼を継ぐ者が共にいるとは、どういう巡り合わせだ」
青い髪に、青い瞳。ゆったりとした薄い青色の衣を纏った少女は、不遜に笑う。
「狼命、彼女らをここに案内せよ」
「・・・三人をですか?」
音もなく、姿を現す黒い髪に黒い瞳、黒いジャケットを羽織った男。その表情は、刃のように鋭い。
「不服そうだな?」
「当たり前です。一般人はまだしも、『赤鬼』を招くなど・・・」
「この地が穢れると申すか? ははははっ、笑わせる。この地は、これ以上穢れようもなかろう。それに、勝彦との約束も果たさなければならないしな」
少し、前のことを思い出す。
その日、珍しく客人が来た。白髪で着物を着た、結構いい年のご老人である。凛々しい立ち姿が、とても眩しい。対応する少女は、そっぽを向いており不機嫌そうであった。
「なんじゃ、珍しく会いに来たかと思えば、そんな用事で来たのか」
少女が何故怒っているのか、理解できずに困り果てるご老人。
「いやしかし、『赤飯』の揺らぎは、警戒すべきことかと」
「警戒してどうする? 我は言ったはずだぞ。施術が安定している間に、『赤鬼』と十年前の事件の真相を解明しておけ、と。いつまでも本来あるべきものを、捻じ曲げ続ける事は不可能だ。ほつれる兆候を垣間見たのであれば、月子を急かさんか。全く持って、おもろうないな」
「何をそんなに怒っていらっしゃるのですか?」
堪らず、ご老人はそれを聞いた。
「お主、この間はいつ我に会いに来た。申してみぃ?」
指折り数えてみるが、どうも曖昧で思い出せないご老人。
「正月の当主会議の折でしょうか?」
「ハゲ!」
思わず、頭を撫でるご老人。ちなみに、立派な白髪であり、剥げてはいない。
「正月は、日本神族会のボケ天使に呼び出されて不在じゃったろうが! 去年の夏の当主会議以来じゃ! かれこれ十ヶ月も放置しておきながら、手土産の一つも持ってこんとは・・・お主、実はこの水及が嫌いであろう?」
「そのようなことは・・・」
「クリスマスの日も一人じゃった・・・正月もボケ天使と一緒で、頭が痛かったわ・・・桜が咲き誇り、巷は賑やかになり始めたというのに、花見の誘いもこん。あぁ、我がどれだけお主のために尽力してやったか・・・ていうか、呪われてしまえ」
よよよよ・・・と、少女は座り込む。顔を隠して泣いているように見えたが、涙なんて一滴も出てはいなかった。
「申し訳ない・・・」
苦笑しつつ、ご老人は述べる。少女の演技には慣れていた。二人の関係は、実はかなり長いのである。
「とりあえず、『赤飯』の施術を時間があるときで構いませんので、確認をお願いします。今度、食事に誘いますから。私の知り合いが、店を構えたのです。なかなかの評判のようで、一度水及様をお連れしなければと思っていたのです」
「まったく都合がいいのう。そうやって、我に仕事をさせるわけか。まったく、クサレ外道やのう。覚えておけ。我は、定期的なお誘いを望んでいるぞ。というか、前にも言わんかったか?」
ご老人は曖昧に笑うだけで、答えはくれなかった。
「・・・服。新しい服が欲しいわ」
少女の口から出た言葉が、まったく違う内容だったため、狼命は困った風に首をかしげた。
「まったくお話が関係ないと思いますが」
「なんだ、狼命。まだいたのか。とっとといかんか、このうつけが」
しっしっと手で追い払う。ようやく狼命は動き出した。少女は、溜息を一つ零す。
「頭が固いのは父親譲りか。兄弟の半分でもよいから、柔らかくなってくれると助かるのだがな」
少女は、けだるそうに机に突っ伏した。
大木公園から、およそ三十分弱程度。『魔の巣窟』とも言われる櫻町ナンバー一の吹き溜まりである飛山団地の裏側に、由紀子たちは辿り着いた。飛山団地の裏は、まばらな住宅街と畑で構成されており、その先に歌宝山が鎮座していた。
「これは・・・まるで難攻不落の居城ね」
畦道から歌宝山を見上げ、由紀子はぼそりと言った。ないのだ。道とか道とか道とかが。畑を過ぎると、ダイレクトに草むらに突入。その先は、もううっそうとした森の中だ。踏み込みようがなかった。
「一つ、案件があります?」
神華がすっと手を上げた。
「案件?」
「はい。この畦道を東に、病院の方へと向かうと、途中に『沢村探偵事務所』という看板があるんです。なにか、ご存知かもしれませんよ」
「へぇー、そんなのがあったんだ。あんまりこっちの方には来ないから、知らなかった。でも、それ悪くないかも」
由紀子が、沙夜に話を降る。しかし、沙夜は話を聞いておらずじっと歌宝山を見つめていた。彼女が何かをじっと見ているその様は、若草山を登っていた時の事を、由紀子に連想させた。
「・・・沙夜ちゃん? またなにか見えているの?!」
また景色が入れ替わるのではなかろうかと、周りをきょろきょろと見渡してみたが、今度は何も起こらなかった。
「あ、大丈夫です」
我に返った沙夜は、苦笑を浮かべる。
「この山、結界が張ってあるなぁ〜・・・て思っていただけです」
「結界? 本当に?」
由紀子は改めて歌宝山を見上げてみるが、やっぱり彼女の目には他の山に比べて緑濃い森にしか見えなかった。
「誰かがこの山を管理しているのは間違いないと・・・思います。管理している人に出会えれば・・・」
沙夜は言い淀んでいる。さすがにそれ以上のことは、彼女にも分からないのだろう。由紀子は、携帯電話を開く。実は、由紀子には一つ心当たりがあった。除霊屋をしている、橘椿である。彼女なら、この町の伝承について詳しいのではないか。そう思いはしたが、仕事の事になると、仲が良いとはいえ椿もさすがに口が重くなる。どうしたものかと思っていると、沙夜が『あっ』と呟いたのが聞こえた。
「どうしたの?」
沙夜は、また一点を見つめていた。その視線の先にいたのは、黒い髪を首筋で結った黒い切れ長の瞳の、黒いジャケットを着た男。じっと、沙夜の事を見つめている。
「誰? 知り合い?」
沙夜は首を横に振る。
「あの人・・・人じゃないです」
「えっ?」
どう見ても人に見えるが、沙夜の瞳にはまた違う姿が映っているのだろう。この山の管理者なのかもしれない。由紀子は、乾いた畑に降り、男に話しかけた。
「あの、すいません・・・」
男の冷たい瞳が、動く。だが、何も語ろうとはしない。
「『水及』という人を探しているんですが・・・」
「様を付けろ。お前たち如きが、呼び捨てにしていいお方ではない」
いきなりそんなことを言われても、対応に困る。由紀子もどうしたものかと、目をぱちくりさせていた。
男は、再び沙夜を見る。どこか懐かしいものを見るような――由紀子には、そう見えた。
「主がお待ちしております。私に付いてきてください」
男は、歌宝山へと歩いていく。
「どうする?」
由紀子は正直、考えあぐねていた。彼を信用する要素は、何一つとしてない。大人しく付いていくべきなのか。
「私、あの人のこと、知っているような・・・気がします。由紀子さん、ありがとうございます。ここからは、私一人で行きます」
乾いた畑に、沙夜も降りた。
「ここまで来たら、一蓮托生。ね、神華さん?」
「はいはい。どこまでもお供いたしますよ」
「あの・・・」
「いいからいいから」
沙夜の手を取り、由紀子は男を追いかけた。神華もその後を付いてくる。沙夜は、また困ったような笑みを浮かべっていた。
男は、森の前で持っていた鐘を一定のリズムで鳴らす。静かで定期的なその鐘の音は、心の底の何かを呼び覚ますかのような、冷たい音色だった。すると三人の目の前で、深い森に切れ目が走り、左右に別れた。切れ目には石段が配置してあり、曲がりくねって山の中に消えていた。
「凄い・・・」
由紀子は、素直に感嘆していた。
「まるでモーゼのようですわね」
と、神華も驚いている。物珍しそうに、周りをきょろきょろと見ながら、由紀子達は男に付いていった。
「あの・・・この先に、えと、水及様? はいらっしゃるんですか?」
由紀子の言葉に、男は答えなかった。黙々と登っている。
「気難しい人みたいね」
溜息を一つ。沙夜が、隣で苦笑していた。
「不器用な人みたい。大丈夫です。この先、いると思います。とても、不思議な力を感じます」
沙夜は、森を見つめていた。彼女の瞳には、由紀子や神華には見えないものが、見えているのかもしれない。
石段は、それほどまで長くはなかった。登りきると今にも崩れ落ちそうな廃屋が鎮座した、少し開けた場所に出る。廃屋の大きさは、視界で補えないほど広い。かなりの年代物なのだろう。大部分が、木や蔦などに侵食されていた。由紀子達は、言葉もなくそんな廃屋を見つめていた。
男は左折した。廃屋を迂回するようである。迂回した先は、人の手が加わっており、整然と木々や草花が並んでいた。迂回を始めて二分も経たないうちに、大きな木が見えてきた。幹の太さは、大木公園にどっかりと座り込んでいる『守り木』に匹敵するものである。その大木の前では、太陽の光さえまだらにしか届いてこない。木漏れ日が、大地で泳いでいる。
「水及様、お連れいたしました」
大木の傘が届かぬ場所、太陽の光が何にも邪魔されず差し込まれている縁側に、彼女はいた。青い髪は腰までまっすぐに伸びており、まるで癖がない。一本一本が、美しい繊維のようである。瞳の色も、湖の青さを思い起こさせるような澄んだ青色で、見ているだけで心が穏やかになる。ゆったりとした薄い青色の衣を身にまとった彼女は、年の頃はぱっと見、沙夜と同じぐらいにしか見えない。それぐらいの童顔であったが、普通の人とはどことなく違う雰囲気があることに、由紀子もさすがに気付いていた。
「お待ちしておりました。どうぞ、中へ。狼命、もてなしの準備を」
とりあえず、彼女の言葉に甘える事にした。
縁側からお邪魔して、中に入るとそこは十二畳程度の畳の部屋となっていた。物といえば、小さな高さ五十センチ程度の机が置いてあるぐらいで、とても広々とした印象を与える。イグサの匂いが強く、由紀子は畳を踏みしめながら『これ、本物・・・』と呟いていた。
狼命と呼ばれた案内をしてくれた男が、茶菓子や茶を用意してくれる。意外にも、普通に御櫻神社の櫻饅頭が出てきた。現代社会から切り離された、別世界のようであったが、その瞬間、ここは現代なのだと再確認できた。
「どうぞ、大したものではございませんが」
狼命が部屋を出て行く。由紀子は、『いただきます』と言って、とりあず茶を一口啜った。
「遠路はるばる、よくお出でになられました。私は水及と申します」
本当に水及だ。本物の水及だ。唖然としながらも、由紀子は名前を告げる。
「小泉由紀子です」
続いて、神華と沙夜も名前を名乗った。水及の瞳は穏やかであるが、どことなく冷たさも感じる。彼女の瞳を見れば見るほど、由紀子は不安を感じていた。
「あの・・・失礼な事を聞きますが、水及様は、本当にあの伝承の巫女なのでしょうか?」
とりあえず、由紀子は確認する事にした。
「巫女は廃業いたしております。仕えるべき神がいないのに、巫女がいるのも変な話でしょ? どの伝承の事かは分かりませんが、この町の伝承なら十中八九、私のことだと思います」
由紀子が沙夜に教えた守り木の伝承は、千年以上昔の話だと言われている。涼しい顔で、水及は千年以上生きている事を肯定したことになる。本人にそう言われたところで、眉唾な話であることには変わりはない。由紀子が、信じられない――そう思っていると、突然、くすっと水及が笑った。
「なんて、冗談です。私は、水及の知識を受け継ぎ、それを守り、伝えていくもの。名前も、ただ世襲しているだけで、本名は別にあるんです。この目もアイコンタクトで、髪は染めているの。水及は、千三百年も前の人です。さすがにそんなに長くは、人は生きられませんよね」
ただ、からかわれていただけのようである。由紀子も表情を崩した。
「そ、そうですよね。さすがに、千三百年はないですね」
しかし、隣に座っている沙夜は、由紀子と違って表情を崩していなかった。
「・・・あの水及様、私の能力を封印していただけませんか?」
急に沙夜が話を切り出した。
「初代のサトリさんも、水及様に能力を制御する方法を学んだと、伝承であります。私、この能力に・・・もう振り回されたくないんです」
「異なる力は、異なるモノを呼ぶ。異なる力を有するものは、力を有さない者達にとって害そのものである。苦しんできたのですね。少しお手を」
水及が、沙夜の右手を両手で優しく持ち上げる。沙夜は少しビックリしていたが、手を引っ込めることはしなかった。
「変ですね」
水及が戸惑いを示す。
「変・・・?」
「あなたには、『堰』がない」
「セキ?」
「流れを堰き止めるもの、ようするに制御する部分が見つからないんです。これは困りましたね」
「同じ能力、というならサトリにも『堰』はなかったんじゃ・・・?」
由紀子の疑問に水及はかぶり振る。
「いえ、彼女にはありました。だから、『変』なんです。サトリと同じ能力、同じ目の色、同じ顔をしているのに、『堰』だけが存在しない。どうして・・・理解できません」
沙夜の手を離し、水及は考え込む。今は、彼女が素晴らしい案を出してくれることを祈るしかない。
「仕方ありません。封印をいたしましょう」
「封印できるんですか?」
「それが出来るなら、手っ取り早いわね」
気楽に言う由紀子と違って、水及の表情は優れない。
「しかし、氷女さんの場合はとても難しい工程になります。本来封印とは、その人の中にある『堰』を外部から力を加えて開かないようにすること。もしくは、開き方を忘れさせることになります。でも、沙夜さんには『堰』がありません。すなわち、彼女の意思とは関係なく、能力は発動してしまう。これを発動させないようにするには、能力があることを忘れさせるしかありません。精神に直接手を加え改ざんするのは、人格が壊れるリスクを伴ってしまいます。大変危険です」
「そんな・・・」
落胆する由紀子。しかし、沙夜は少し違っていた。人格が壊れるかもしれないリスク。それでもこの能力が発動しなくなるのなら――そう考えていたとき、水及が『あっ』と呟いた。
「私としたことが失念しておりました。一つだけ、安全で確実な方法があります。少し、待ってもらえるかしら?」
水及は、三人の返事を待つことなく立ち上がり、廊下へ。
「狼命、狼命」
と呼びながら、彼女はどこへともなく歩いていってしまった。水及がいなくなると、部屋の空気は一気に軟化した。
「はぁ、なんか疲れる、あの人」
「そうですか? 私は特に何も」
神華の視線は、沙夜が手を付けていない饅頭に向けられている。
「あ、どぞ。私はいらないので」
それに気付いて、沙夜はあっさりと饅頭を彼女に渡した。神華はとても嬉しそうである。
「あらまぁ、沙夜ちゃんはやっぱりいい子ですね」
「そんなに食って、太るよ」
「大丈夫ですよ。由紀子さんと違って、お腹には溜まりませんから」
「腹のことは言うな! てか、なんで知っているの?!」
お腹の肉のことは、由紀子にとってはタブーである。誰にも話したことはないことなのに、それを知っている神華とは一体何者なのか。侮りがたし、神華。
「つぶさに観察していれば、大抵の事は見えてくるものです」
にやりと笑う神華の顔が、悪魔の笑みのように見えた。
「じっくり観察されているモルモットの気分が、今分かった気がした」
げんなりと呟く由紀子に、苦笑する沙夜。そんな話をしていると、水及が部屋に戻ってきた。
「さて、話がまとまりました。今から、橘家に向かってください」
「橘家に? うわ、櫻町縦断・・・」
歌宝山は、櫻町の北。橘家は、櫻町の南に位置する。まさに櫻町の縦断であった。
「狼命に車を出させます。安心してください」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
沙夜の言葉に、水及は笑顔を浮かべる。
「気になさらないで。ただ、これだけは忠告しておきます。沙夜さんの能力は、非常に危険です。一度封印したら、二度と使わないことをお勧めいたします。あなたの力は、利用価値が高い。よこしまな輩を近づけないためにも・・・くれぐれも他言無用です」
最後の言葉は、神華と由紀子に向けられた。二人は静かに頷いた。
「もし、何かあればまた私を訪ねてください」
「はい、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げ、由紀子達は山を降りた。 |