第三話『能力封印 後編』


 

 橘家の離れ。橘勝彦は、久しぶりにその場に立ち寄った。

「珍しいですね・・・・」

 白髪が混じる、病的に痩せた女は、儚く笑う。勝彦は、眉根を細める。彼女の笑う顔は、何よりも辛くて痛い。

「鎮めの契りを・・・譲って欲しいと、水及(みなの)様から連絡があった」

 事の経緯を彼女に告げる。どんな顔をするのだろうか――身構えた勝彦であったが、彼女はただいつものように笑い、木箱に収められた鎮めの契りを差し出してくれた。

「あの人なら、きっと『譲ってやれ』と言うことでしょう」

「・・・すまない」

 彼女の言葉に同意しようかと思ったが、思いとどまる。自分に、彼女の言う『あの人』のことをどうこういう資格はない。そう――息子を捨てた親に、その資格はないのだ。

 

 山を降りたとき、神華(しのか)は背中に猛烈な痛みを感じた。由紀子(ゆきね)や沙夜に気づかれないように、後ろを振り返る。

「・・・あそこは、聖域なんかじゃない。羽が・・・歪む」

「神華さん?」

 感がいいのも考えもの――由紀子が何か気づいたようで、神華はごまかすように笑った。

「ごめんなさい。少し・・・そう、用事を思い出したの。今日は、帰るね」

 逃げるように走り出した。

 背中が痛む。行き先を失った悪意を食べてしまったために、苦しい、吐いてしまいたいと――痛みを訴える。

 神華が帰ってしまった。色々と思うことがあったが、由紀子は神華の言う『用事』という言葉を信じることにした。それが、一番楽だったから。

 由紀子と沙夜だけで橘家へと向かう。水及が車を出す――というから、どんな車かと思えば、なんと軽トラック。あまりのギャップに驚く二人に、狼命は『(あるじ)の実益と嗜好の産物だ』と説明してくれた。確かに、水及一人乗せるには問題ないし、荷物もたくさん乗る。税金も安いし、車検代だって安い。言っていることは、確かによく分かる。だが、納得がちっともいかない由紀子だった。

 乗り心地は最悪だった。櫻町の道は、もう本当に谷あり山あり。一体、いつから舗装されていないんだ? というぐらいに、道が荒れていた。なので、車がよく跳ねる。車が跳ねれば、由紀子たちも跳ねる。そして、尻を打つ。踏んだり蹴ったりである。

 車でおよそ十五分程度の行程を追え、ようやく軽トラックは目的地である橘家が管理する橘神社の、石段の下にたどり着いた。

「ありがとうございます」

 由紀子と沙夜が礼を言うも、狼命は何も答えずに帰っていってしまった。なんとも付き合いの悪い男である。

 橘神社。櫻町に古くからある神社であるが、住民に慕われている御櫻神社と違い、ほとんど誰も近づかないそんな神社である。由紀子は、この橘神社を管理している橘家が行っている本当の家業を知っている。

 『除霊屋』。魔や妖を払う仕事。由紀子の友達である椿もまた、その仕事に従事しており、彼女が高校へと進学しなかったのも、仕事に専念するためであった。

 長い石段を超え、息絶え絶えで境内(けいだい)にたどり着いた、由紀子と沙夜。境内では、椿が彼女達を待っていた。

「あ、来ましたね。お疲れ様です、由紀子さん。それに、初めまして。橘椿です」

 仕事着の巫女装束を身に纏った椿。おしとやかに頭を下げる。

「は、はじめまして。氷女沙夜です。よろしくお願いいたします」

 緊張している沙夜は、深々と頭を下げていた。

「ども・・・椿さん、はぁ、シンドイ。あの石段、減らせないの?」

「それは無理ですよ。ダイエットになって、丁度いいでしょ?」

「だから、太ってない、て。皆が痩せすぎか、絞りすぎなのよ」

 椿は、嘆息を吐く。

「運動をしてください。由紀子さんの不摂生振りは、目に余ります。氷女さん、由紀子さんと付き合うのは別に構いませんが、彼女に引きずられて同じ生活をしないように。出来るならば、首に輪でも付けて外に引きずり出してください」

「あ、はい! 気をつけます!」

 沙夜は、かしこまってそんな返事をしていた。

 椿に案内され、神社の裏の母屋(おもや)へと通される。母屋は、古い木造建築。江戸時代にでも迷い込んだような錯覚を抱かせるような、そんな建物である。

 木張りの廊下を、椿に付いて歩く。すると、反対側から一人の少女が歩いてきた。年の頃は、沙夜と同じぐらいか。髪型は、ポニーテール。瞳は鋭くて、野犬のよう。桜色の美しい着物を身に纏った彼女の事を、由紀子は知っていた。

 橘櫻。椿の妹である。

「・・・櫻、お客様よ」

 歩みを止めて、椿が声をかける。櫻は、頭を軽く下げていた。由紀子は、黙っている。どうもこの櫻という子は苦手なのだ。話さないなら、話さないことに越した事はない。由紀子は、彼女と言葉を交わす気は最初からなかった。

「こんにちは。お邪魔しています」

 礼儀正しい沙夜は、ちゃんと頭を下げていた。この時――沙夜の能力が発動した。沙夜の意識が、櫻の瞳に吸い込まれていく。

 沙夜は、櫻の過去を見る。

 

 天を割るような雷鳴と叩きつける雨の音。

 机、椅子、テレビに食器棚。食器も花瓶も何もかも、滅茶苦茶に壊れ飛散している。まるで台風が過ぎ去っていったような荒れ具合のフローリングの部屋に、小学校低学年ぐらいの男の子が、(うつむ)き加減に立っていた。両の腕には、荒縄のようなものが巻きついており、その荒縄からぴちゃぴちゃと何かが落ちていた。

 鮮烈なる朱。それが、人の血液である事に気づくのに時間は要しなかった。

『どうして・・・お兄ちゃん・・・どうして・・・』

 優しかった兄。仲良しだった兄。手を伸ばす。それに気付いたのかどうか分からないが、男の子が振り返った。その表情の冷たさに、息を呑む。

 目の前にいたのは、兄の姿をした『鬼』だと思った。

 

「どうして・・・お兄ちゃん・・・どうして・・・」

「沙夜ちゃん?」

 突然、沙夜が意味不明なことを口走った。沙夜の瞳は、櫻に集中していた。瞬き一つしていない。完全に硬直している。その彼女の額から、つぅと血が流れてきた。なにも、そこには傷が無かったにも関わらず。

 櫻が動いた。切羽詰った表情で踏み込んでくる。突き出した右手は、沙夜の首を狙っているようだった。

「やめなさい、櫻!」

 その手が届く前に、椿によって止められた。櫻はしばらく沙夜を睨んでいたが、諦めたのか力を抜いた。

「申し訳ありません。手を離してもらえますか?」

「あ、ごめんなさい」

 椿が手を離すと、櫻は踵を返して来た道を戻っていってしまった。

「大丈夫ですか、氷女さん」

 椿はハンカチを取り出し、沙夜の額から流れた血を拭う。

「どういうことなの椿さん?」

 椿は難しい顔をしていた。

「あの子の過去を見てしまったようですね。体験したことが肉体にまで影響が及ぶなんて、とんでもない力だわ。これが、サトリの力」

 椿は、サトリの力がどういうものか、正しく知っているようである。沙夜は、『霊媒』だと言っていたが、他者の過去を見ることも『霊媒』だと言えるのか。由紀子は、すぐに『NO』という答えを導き出す。それは、もっと違う異質な力だ。サトリ。その名前が意味する能力。由紀子は、感づいてしまった。沙夜が隠している、もう一つの力のことに                                                           

「あ・・・私・・・?」

 そこで沙夜が正気に戻った。戸惑っている彼女に、椿はゆっくりと優しい声音で話しかけた。

「大丈夫。ちょっとした事故よ」

「事故・・・? 違う。私、また・・・人の心を・・・!」

「落ち着いて。大丈夫だから」

 椿の言葉は入っていかない。沙夜は、怯えきっていた。

「私を殺して・・・! もう・・・殺して・・・! どうして? やっと私・・・」

 沙夜は、遂に座り込んで泣き始めた。『やっと私・・・』。その言葉の後に、何が言いたかったのだろうか。由紀子には、なんとなくだが彼女の言いたかった事が分かっていた。だから――。

「行こう」

 手を差し伸べる。言葉は、紡げば紡ぐほど嘘になる。大切なのは、由紀子の今の気持ちを示す行動である。

 沙夜は、しばらく由紀子の顔を見上げていた。

 由紀子は、微笑んでみせる。安心しなさい。私は、あなたの味方である――と。

 涙を拭う沙夜。由紀子の手を取り、立ち上がった。ぎゅっと力強く握ってくる沙夜の小さな手を、由紀子は握り返した。椿も、ほっとしたようだ。

 沙夜と由紀子は、母屋の一番奥に案内された。

「当主、お連れいたしました」

「中へ」

 椿が中に伺いを立てると、渋い声が返ってきた。

 中へと通される。室内は、水及の部屋に比べたらとても狭い。六畳程度ではなかろうか。しかし、部屋に置いてあるものは非常に似ていた。これでは、水及の部屋のミニチュア版である。ただ違うのは、水及が座っていた場所に、強面の渋い白髪の老人が座っていることぐらいであろう。

 橘勝彦。椿の祖父であり、橘家の当主である。

「椿は、下がれ」

「あ、はい。分かりました」

 戸惑いつつも、椿は部屋を出て行く。残された沙夜と由紀子は、緊張した面持ちで老人の前に座った。

「ご無沙汰しております」

 由紀子は、かしこまった口調で挨拶をする。

「元気そうだな。そちらが、氷女沙夜殿か」

「あ、はい」

 緊張する沙夜に、勝彦は少し柔らかい表情を浮かべて見せた。

「硬くならなくていい。私は、この橘家の当主をしている勝彦だ。話は、水及様から聞いている」

 由紀子は、少し驚いていた。勝彦まで、水及を『様』を付けて呼ぶ。さすがに由紀子も勝彦がどれだけ偉いのかは把握しきれていないが、警察も役人も口出しできないことぐらいは知っていた。その彼が、『様』を付けるほどの相手だという事なのだろう。

 勝彦は、早速とばかりに古びた木箱を沙夜の前に置き、その蓋を開けた。中には、青い色の玉で作られた美しい数珠が収められていた。

「『鎮めの契り』だ。君の力が外に出なくする、『堰』の代わりになるものだと思ってくれればいい」

 沙夜は、恐る恐る鎮めの契りを手に取った。その瞬間、沙夜の表情が急変。困惑した表情を勝彦に向けた。

「こ、こんな大事なもの私もらえません!」

 数珠を通して伝わってくるイメージ。それは、過去の断片。満面の笑みを浮かべる、痩せた男。その優しい笑みとは符合しない、多くの悲しいイメージ。涙が、溢れてくる。

「・・・感じてしまわれたか」

「これ・・・さきほどの椿さんの・・・お父さんの形見・・・です」

「えっ? じゃ、椿さんを払ったのって・・・」

 由紀子も感じていた。なぜ椿を払うのか。彼女も十分状況を把握しているのだから、この場にいても不思議はない。由紀子はむしろ、当然だと思っていた。

「椿には、父親の死について詳しくは話していない。もしやと思って、出てもらったのだ」

 勝彦は、一旦言葉を切って座りなおした。

「確かにその鎮めの契りは、私の息子である一哉の能力を封印するために水及様がお作りになったものだ。だが、それは君が背負う必要のないものだ。一哉の妻も君にそれを渡すことを承認している。なぜだか分かるか?」

 首を横に振る沙夜に、勝彦は厳かに微笑む。

「一哉なら、そうするからだ。受け取ってほしい」

 青い数珠は、もう何も語らない。沙夜は、数珠を握り締めた。

「椿には内緒にしておいてくれ。あの子に語るには、私の覚悟の方が足りないものでな」

 勝彦は苦笑していた。

 

「で、効果の程はどうなの?」

 橘神社を後にし、石段を降りきったところで、由紀子はそう聞いた。しかし、実の所は沙夜が嬉しそうにしているのを見ただけで、効果は絶大であったことが(うかが)えていた。

「世界が、違うように思えます。こんなにも世界は静かだったんですね」

 彼女に込められた思いは、底知れない。

「そっか。これで万事解決ね。良かったぁー!」

 大きく伸びをする由紀子。沙夜も笑顔でそんな由紀子を見つめていたが、すっとその表情を引き締めて、橘神社を見上げた。

「・・・あの子のこと、気になるの?」

「分かりません。でも・・・・そうかもしれません」

 曖昧な言葉を残す、沙夜。彼女にもよく分かっていないようだ。

 鎮めの契り。それは、きっと沙夜の生活を変えてくれる。彼女の表情が、もっと明るくなる事を望む、由紀子であった。

 

 机の上で眠っていた水及は、帰って来た狼命の足音で目を覚ました。

「いま、帰りました」

「ご苦労」

 水及は、体を起こして、どこかいたずらっぽく微笑む。

「で、彼女とは何かお話はしたのか?」

「言葉の意味が、よく分からないのですが」

 水及は、疲れた表情で嘆息を吐いた。

「ようやく巡り合えた、サトリの魂を受け継ぐものに、気の利いた言葉の一つもかけなかったのか? そう聞いているのだ」

「主よ、以前も申し上げましたが・・・」

「あぁ、まったくくどい! 貴様の命は、確かに白狼(びゃくろう)から譲り受けたものだが、以前も言ったはずだ! 貴様の命は、貴様だけのものだと! なんでもこの私のせいにするのは、いい加減やめてもらいたいものだな!」

「以前も申し上げましたが、お言葉の意味が理解できません」

「理解できないと、理解しようとしないのは違うぞ」

「左様ですか。失礼いたします」

「あぁ、失せろ! 腹が立つ!」

 音もなく、狼命は社の影へと消えて行った。それを見送った後、水及は頭を抱えた。

「くっ・・・そぉ・・・私だって、お前にこんなことを言いたくはないのに。言わせるなよ、ガキが。私は・・・サトリの側で笑っている、お前の顔が・・・ただ好きだったんだ」

 遠い昔のことに思いを馳せる。それぐらいしか、今できることはなかった。


 第二章 完

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