第一話『青き瞳の少女』
軋む――。 軋む――。 痛みの中で、ぼんやりと思う。 『これ』は、仕方がないことなのだと。 自分は、『魔女』で。彼らは、『人』である。 だから、仕方がないことである。 そして、『それ』もまた仕方がないことだ。 彼らが、私を裁こうとする。 だから、仕返しをしてやっただけだ。 私は、『魔女』。『魔女』なんだから、仕方がない。 仕方がないのだ。 そう――。 仕方がないのだ。 だから――。 そんな空っぽな瞳に、私を映さないで。 2005年 5月 遠く木霊する、運動部の声。教室に残り、由紀子は分厚い本のページを繰っていた。 小泉由紀子。櫻高校二年生。ツインテールとメガネが印象的な少女。彼女の前に座り、こちらはA5版の小説を読んでいる少女の名は、天野神華。セミロングにした赤茶色の髪には、僅かに金色の光が混ざる。ダークブルーの瞳と相まって、どこか西洋風の顔立ちの子である。 二人は、ただ本を読んでいるように見えるが――これでも一応『活動中』である。 オカルト同好会。遅刻やサボリの回数が多い由紀子を説教していた担任の坂田斎が、由紀子を更生するために作り上げたコミュニティである。しかし、結局由紀子以外の人間は集まらず、同好会止まり。ほぼ非公式な存在と成り果てたが、担任のバックアップもあって、存在を継続された。結果、教室を部室代わりとし、由紀子は放課後、ここに拘束される事がほぼ義務付けられてしまったわけである。 担任は、好きなことをしていればいい――そう言って、一応顧問であるが、なにも催促はしてこない。飾りとして存在しているだけ。由紀子には、担任の真意が正直分からなかったが、家に帰っても何かするわけでもないので、大人しく従っていた。 そんな一人だけのコミュニティに飛び込んできたのが、天野神華である。その容姿と性格で、学校に復帰してすぐ名の知れた彼女であったが、何故か不人気の集まりである由紀子と行動を共にしていた。そして、部活も入らず、オカルト同好会へと参加した。担任の斎は、驚きつつ歓迎した。 そんなこんなで、神華と由紀子は放課後を共に過ごす。それぞれ本を読み、思いついたことで会話を紡ぎ、六時前に帰宅する。それが日常となった。 「神華さん、ゴールデンウィーク、なにか用事ある?」 明日からゴールデンウィーク。特に予定がないのは、神華も同じだった。 「特別何もありません」 予定がない。しかし、せっかく神華という新しい友達が出来たのだ。いつものように腐らせるのは勿体無い。気もそぞろ、本のページを繰っていると、今日の朝見たニュースの事に思い至る。そろそろツヅジが、開花するとか何とか。 ツヅジ――連想したのは、小学校の時に遠足で行った、若草山の皿公園のツツジ。山登りはあまり得意ではないが、皿公園程度だったらなんとかなるかもしれない。由紀子は、プランを固めた。 「・・・ツツジ、見に行こうか」 「ツツジ、ですか? 風流ですね」 風流という言葉に、気恥ずかしさを感じる由紀子。 「そう、若草山に皿公園というのがあってさ、この時期になるとツツジが綺麗なんだ」 「へぇ〜、そうなんですか。いいですね」 神華は、あっさりと了承してくれた。 初夏の爽やかな風が、山の頂上から吹き降ろしてくる。 「あぁ、涼しい。結構、登ったね」 由紀子は後ろを振り返り、少し遅れて付いてきている神華に声をかけた。神華は、日差しをガードするためか、白いつば広の帽子をかぶっていた。 「はい、結構・・・登りましたぁ〜」 由紀子も体力があるほうではないが、神華の体力のなさ加減は、尋常ではないようだ。もう、いますぐにでも座りこんでしまいそうである。 「休憩する?」 「いえ、もう少し、頑張ります」 今回は、二人だけのピクニック。即日決定だったため、スケジュール調整の厳しい、陸上部の虹野夏樹や除霊屋の橘椿には、声をかけなかった。 「後、半分ぐらいあるよ。そろそろ、休憩しよう」 頑張るという神華であるが、目に見えて速度が落ちていた。一休みさせた方が、無難であると由紀子は判断したのだ。どこか、休むのに丁度いい場所はないものか。周りを見渡しながら歩いていた由紀子。 「あっ・・・」 神華の呟きは、間に合わなかった。 民家から飛び出してきた一人の少女が、休憩場所を探している由紀子にタックルをかました。 「うわっ!」 「きゃぁ!」 二人の悲鳴が、響き渡る。由紀子は、軽くよろけたぐらいだったが、少女の方は進路を無理やり変えようとして失敗したらしく、派手に転がっていた。とても痛そうである。 「由紀子さん、大丈夫ですか?」 走り寄ってくる神華に、由紀子は『私は、大丈夫』と答え、『それよりも』と少女の方に歩み寄っていった。 「ごめん、全然前見てなかった。怪我してない?」 「わ、私のほうこそ、ごめんなさい! あの、その・・・」 少女は、座ったまま慌てふためいている。由紀子は、彼女の側で屈み、視線を合わせてあげた。 「私は、大丈夫。あなたの方こそ、派手にこけていたけど、怪我、してない?」 もう一度、ゆっくりと語りかける。その時、少女と目が合い、驚いた。少女の瞳の色が、青色だったのだ。神華も少し青色が混ざっているが、少女の瞳はなんの混ざり気もない、青一点のみ。清々しくも美しい、空の色だった。 「わ、私は大丈夫です。ごめんなさい、本当にごめんなさい」 少女は視線を逸らすと、何度も謝りつつ民家の方へと帰っていく。その後姿がなんとも寂しげで――。 「待って」 気付いたら、由紀子は少女を呼び止めていた。少女は、足を止めたが振り向かなかった。瞳の色を、気にしているのだろう。 「あ、えと・・・休憩場所を探しているんだけど、近くにいいところないかなとか・・・」 「休憩場所・・・」 少女は、真剣に考えてくれているようだ。 「あの・・・ウチの玄関でいいなら」 「いいの?」 「お婆ちゃんがいないから、家には上げられないけど、玄関なら大丈夫だと・・・思う」 由紀子と神華は、彼女の言葉に甘える事にした。 少女の家は、立派な家であった。玄関も広くて、神華と二人、座っていてもかなり余裕があった。少女が出してくれた麦茶を口に含む。 「えと、名前、聞いていい? 私は、小泉由紀子」 「天野神華です」 「氷女・・・沙夜です」 不思議な苗字に、由紀子は驚いていた。 「コオリメ・・・どう書くの?」 「氷の女と書いて、『こおりめ』です」 「へぇ、変わってる。初めて聞いた」 温度が、外とだいぶ違う。肌寒さを感じるほどに、ほどよく冷えていた。麦茶をまた飲む。会話が途切れてしまった。どうしたものかと考え込む。そこで由紀子は、あることに思い至った。 「そだ、急いでいたように見えたけど」 彼女は、民家から飛び出してきた。なにか急ぎの用でもあったのではないか。 「人を・・・追いかけていました」 沙夜は、ゆっくりとした口調で教えてくれた。 少し前、縁側に座っていた沙夜の前に、突然一人の少女が姿を現したという。音もなく、気配もなく、唐突にそこに存在を開始した少女は、憂いをはらんだ瞳を滑らせて、走り出した。誘われるように沙夜はそれを追いかけて外まで出た先で、由紀子とぶつかったとのこと。 「・・・誰かいた?」 由紀子の言葉に、神華は首を横に振る。沙夜の家の前を歩いていた二人であったが、そんな少女の姿など見ていなかった。 「確かにそこにいたけど、どこか希薄な感じ。生霊とか、そういうのに似ていたけど・・・もっと確たる存在感がありました。なによりも、とても悲しそうだった」 由紀子と神華が、ポカンと沙夜を見ている。沙夜は失言に気付き、慌てて口を塞ぎ、開いた手を大きく振る。 「き、気にしないで下さい!」 「氷女さん、そういうのが分かる人なのね!」 沙夜は、引かれると思っていたのだろう。だが、由紀子はオカルト大好きっ子である。この手の話に、興味を惹かれないわけがない。 「そっか。氷女さんは、その生霊っぽいなにかに誘われて外に出て、そして私にぶつかった。これは神華さん、私に会わせたかったということじゃない?」 「話の経緯から間違いないかと。でも、動機がいまいちですね」 「・・・そうね、私が氷女さんと会った所で、話を聞いてあげることぐらいしかできないし。氷女さん、その人に心当たりは?」 「えっ? えと、ないです。年は、私と同じぐらいで、髪は結構長くて、両腕に包帯を巻いていました」 「そんな子、さすがに知り合いにいない。神華さんは?」 「私も同じです。両腕に包帯・・・自傷癖でもあるんでしょうか」 神華の言葉の意味が分からず、由紀子は無言で話の先を促した。神華もそのメッセージを受け取る。 「ためらい傷です。自傷は、あくまで『自傷』です。自分を傷つける事で、自分の中の問題を解決する。または、外の人間に意思を表現する。包帯を両腕に巻いているということは、両腕を見せる事ができない。彼女は、内に溜まったものを処理できずに自分を傷つける事でそれを解決しているが、他の人の心配なんて御免被りたいから、包帯を巻いて隠している・・・ん? 包帯だと逆効果でしょうか? 材料が少ないので、確実な事は言えませんが、両腕の包帯はためらい傷を隠すためだと思います。包帯にも何かしらのメッセージが込められていそうですけど・・・」 「おぉ、神華さんの意外な所を見た。そっか、でも納得できる。これは、どこぞの病院に入院していたり、山奥に閉じ込められている女の子が、魂だけで活動していているとか、そういうオチ?」 「なんだか、ワクワクしますね」 「丸っきり小説のネタじゃない」 由紀子と神華は、楽しそうに会話を紡いでいる。その中で、由紀子はあることに思い至ったようである。 「氷女さん、もし今日時間があるなら、私たちに着いてこない?」 「えっ?」 突然の誘いに戸惑う沙夜。由紀子は、恥ずかしそうに頬を掻きつつ、話を続ける。 「私と氷女さんを会わせた奴がいるならば、一緒に行動していればまたそいつが現れるんじゃないかな・・・て」 「由紀子さん、素敵な提案です。氷女さんのお話には、私も興味がありますもの」 「そうね。生霊を見た、なんて貴重な人材、なかなかいないし。私も、氷女さん自身に興味がある」 そんな話に耳を傾け、沙夜は――沙夜自身が望んだ答えを口にした。それは、沙夜にとっての始まりであった。 「・・・お邪魔じゃなければ・・・ご一緒・・・させてください」 由紀子と神華は、笑顔でその返事を受け止めてくれた。 沙夜は一旦着替えて、由紀子達に同行する事に。沙夜のペースは、神華並か下手したらそれ以下のスピードであったため、歩みは必然と遅くなった。 「氷女さんは、この町の出身?」 「いいえ、最近この町に。その前は、天妙に」 「天妙ですか。都会ですね」 神華が言うとおり、天妙はこの辺りでは一番栄えた町である。ちなみにここ櫻町は、この辺りでは一番冴えない田舎町である。 「天妙か・・・私も都会に住んでみたいな。ネッカフェとかこの町ないし。もう最悪」 「ネッカフェ? コーヒーの新種?」 沙夜のお惚け発言に由紀子が吹いた。 「コーヒーの新種って・・・」 「由紀子さんが変な縮め方をするからですよ。インターネットカフェ、ご存知ありませんか?」 「あ・・・パソコンが出来る所?」 「それです。でも私も、いまいちパソコンとかインターネットとか、分かりませんけど。電子機械扱うとよく壊しちゃうので、触らせてくれないんですよ」 「なにそれ、ナチュラル家電クラッシャー? 現代の敵じゃない」 「邪神崇めている人に言われたくないです。えい、退け悪魔」 「ちょっと、ロザリオとか近づけないでよ! 溶ける!」 慌てて神華から逃げる由紀子。そんな様子がおかしくて、沙夜はくすくすと笑っていた。 由紀子達は、舗装された道を歩いている。公園まで、分かれ道はない。まっすぐ道沿いに歩いていれば、その内着くような場所だ。 「この町の出身じゃないなら、櫻の姫様の伝説とか知らないよね?」 のんびり歩きながら、由紀子は話を進めた。 「櫻の姫様?」 「昔、この辺りには宇野国という国があってね、その国の最後の領主が、櫻の姫様。この山の頂上には、宇野国の城跡あるらしいのよ」 由紀子が、青々とした山を見据える。 「最後って事は・・・滅びてしまったんですか?」 「時は安土桃山時代。豊臣秀吉を倒すために、鹿児島のとある大名が動いた。兵力は、およそ三十万。運が悪い事に、宇野国はその進路上にあってね。鹿児島の大名は、こう言った。兵力と食料を補充させろって。でも、櫻姫はその話を蹴って、千にも満たない兵力で戦いを挑んだ。その結果、城に閉じ込められた彼らは、全員その場で自害したと伝えられている」 言葉を失っている沙夜。構わず、由紀子は話を続けた。 「何故彼女が鹿児島の大名の話を受け入れなかったのかは、大きな謎となっているの。それに、兵は自害となっているんだけどね、櫻姫の記述はなくてね。死んでいたのか、生き延びていたのか。資料が全然ないから、今も分かっていない。こんな地方の伝承を調べている人もいないし、このまま分からないままっぽい」 「この町に『櫻』とつけたり、御櫻神社というのがあったりするぐらいですから、少なくとも彼女の思いは、後世の人に受け継がれていったと、私は思っています」 神華も話を知っていたようで、そう由紀子の説明に補足を付け加えた。山を見上げ、森を見渡す沙夜。五月の爽やかな風を受けて、揺れる木々。それを見て、沙夜は何かに気付いた様子。 「待って・・・!」 「どうしたの?」 不思議そうに足を止める由紀子。神華も足を止めた。沙夜は、彼女らに説明することなく、周りを見渡していた。一体何を見ているのだろうか。由紀子も沙夜の視線を追いかけたが、いまいちよく分からない。沙夜は、かなり切迫した表情をしている。一体、何がそうさせているのか――。 突然、周りの風景が一変した。 「へっ?」 由紀子の間抜けな声が、静かな森の中に響き渡った。さきほどまで三人は、間違いなく舗装された山道を歩いていた。しかし、沙夜の切羽詰った声から数秒もしないうちに、周りはうっそうとした森の中に変化していたのだ。 「どういうこと、これ? 私たちはさっきまで確かに・・・そうだよね、神華さん」 「そのはずです。氷女さん、説明を求めてもよろしいですか?」 「あ、さっき『待って』とか・・・どういう意味?」 沙夜は少し、考え込んでいた。我慢強く、由紀子も神華も彼女が話し出すのを待った。 「・・・私、不思議な力があるんです」 沙夜は、そう切り出した。 「霊媒。不思議な事、『視える』んです」 『霊媒』と『視える』ことは、イコールではないのだが、沙夜自身深くは知らないのであろう。 「霊媒! 氷女さんは、霊能者なの?!」 驚く由紀子に、沙夜は寂しげに首を横に振る。それが何を意味しているのか、由紀子は咄嗟に理解した。 「・・・ゴメン。でも、安心して。誰にも言わないし、その事で氷女さんの事、突き放したりはしないから。ね、神華さん」 「はい、当然です」 二人にそう言われ、沙夜は戸惑いつつもその優しさを受け入れた様子。泣きそうになりながらも、微笑んでいた。 「ありがとう・・・ございます・・・」 「それで、氷女さん的には、どうなの?」 「さっき、切り替わる瞬間に、声がしました」 「声? 由紀子さん、聞こえましたか?」 由紀子は頭を横に振る。 「全然。何も聞こえなかった」 「とっても、無機質で冷たい声でした。『良い目をしている』、そう聞こえました。きっと、私の能力のことを言っているんだと思います。ごめんなさい。もしかしたら、私が・・・巻き込んでしまったかもしれません・・・」 「分からない事は考えても仕方ないよ。そんなに自分を責めないでいいから」 改めて、周りを見渡す由紀子。獣道も何もない、うっそうとした森の中である。場所を把握できるものは、何もなかった。 「・・・歩いてここまで来たことは間違いないと思うので、若草山だと思います」 沙夜が、すかさずフォローしてくれる。 「ねぇ、この先、どうやらひらけているみたいよ」 由紀子は、登り方面を指差した。山を降りるのであれば、降るのが基本である。しかし――。 「行ってみない? わざわざここまで連れてこられたという事は、きっと意味がある。その意味を知らない限り、こういう場合、山から降りられないんだと思うんだけど、どう?」 「私は由紀子さんに賛成いたします。氷女さんは、どう思いますか?」 沙夜は、難しい顔をしていた。 「・・・その通りかもしれません。でも、気をつけてください。この先、とても嫌な感じがします。暗くて、冷たくて、悲しい・・・そんな思いが、一杯広がっています」 「・・・行こう」 由紀子が、神華と沙夜にそれぞれ手を差し伸べた。三人は手を繋いで、山を登り始めた。そこに何があるのか――確かめるために。 森の中にぽっかりと空いたその場所は、見渡せる限りで運動場の半分程度といったところか。前方には、左半分しか残っていない二メートルほどの鉄枠の門と、それに連なる風化した塀。ところどころ穴が開いたり、上部の方から壊れていたりと、散々な姿である。 「寂しい所ですね」 神華の声が、静かに響く。門の向こう側は、建物があったような形跡は全くなく、ただただ好き放題に雑草が生えている。もし、この中に建物があったとしたら、それは家とかそういうレベルではない。屋敷と呼べるものが、どっかりと腰を落ち着けていたのかもしれない。どこかの金持ちの別荘か、はたまた本家か。表札らしきものもないので、ここに何があったのかは空想することしか出来ない。 「由紀子さん、あれ」 神華が指差していたものは、塀の手前ある石碑だった。石でくみ上げられた台に、人の身長と同じぐらいの岩が立てられており、平らに削った場所に『空音・音子、安らかに眠れ』と彫られ、金箔が塗り込められていた。 「なんて読むのでしょう。分かりますか?」 由紀子は、魂が抜けたような表情で、石碑を見上げていた。その黒い瞳の色が、急に赤い色へと変貌した。それと同時に、頬を滑る一滴の涙。 「お母様、姉様・・・こんな所にいらっしゃったんですね。やっと会えた・・・」 「由紀子さん・・・?」 神華と沙夜の手から離れ、石碑に歩み寄り愛おしそうに触れる由紀子。その瞬間、弾けるように由紀子は我に返った。瞳の色も、幻だったかのように黒い色に戻っていた。 「あれ・・・? 私・・・なんで・・・泣いているの?」 頬を伝わっていた涙を拭い、呟く。石碑を見た瞬間、悲しさが湧き上がってきた。だが、その理由が分からない。由紀子は、石碑に書かれている人たちを知らない。知らないのだ。知らないはずなのだ。 どことなく由紀子の表情が強張り始めている事に、神華は気付いていた。だから、咄嗟に彼女は由紀子の手を引いていた。 「戻りましょう。ここには、なにもありません」 「そ、そうだね・・・戻ろう」 由紀子も深くは考えたくなかったため、神華の言葉に従った。共に山を降りようとした振り返ったとき、沙夜が頭を抱えて座り込んでいるのに気が付いた。 「氷女さん?! どうしたの? 頭、痛いの?」 由紀子の言葉に、沙夜は首を横に振った。 「・・・『声』が」 沙夜は脂汗をかいていた。尋常ではない様子である。 「声? 声って・・・声?」 周りを見渡しても、耳を済ませても沙夜がいう『声』は聞こえてこない。またしても、彼女だけに聞こえる声なのか。 「私の中に・・・入ってくる・・・!」 そこで由紀子は、あることに気付いた。沙夜は、言っていた。自分の能力は、霊媒である――と。 「もしかして・・・! とりあえず山を降りよう。ここは、氷女さんにとってよくない場所みたい」 「でもどこから?」 「とりあえず下に降りればいいのよ! ここから離れないと!」 沙夜を支え、来た道を戻ろうとしたその時、彼女たちの前に一匹のオレンジ色の猫が現れた。 「あら可愛い」 「この猫・・・」 由紀子には、見覚えがあった。 「知っているんですか?」 「うん、時折見かけるのよ。首輪もしてないから、ノラだとは思うけど」 そんな風に話をしていると、猫はきびすを返して山を降り始めた。由紀子と神華は、顔を見合わせた。 「もしかしなくても、案内する気なのかな」 「猫は、使い魔にもなるぐらい賢い生き物ですから、あの猫もまた何かに使役されていたり・・・これでは由紀子さんと同じですね」 「その説、面白いわ。案外、ウチの母親だったりしてね」 「猫を使役されているんですか?」 「そういうわけじゃないけど、不思議な人なのよ。猫の一匹や二匹、使役していそうなぐらいにね」 母親のことを思い出して、由紀子は苦笑を浮かべていた。 由紀子たちは、オレンジ色の猫の案内により、無事山を降りることが出来た。近くに最初目指していた所とは違う、小さな公園があったため、そこの東屋へと、とりあえず避難した。 「氷女さん、お茶」 少し落ち着きを取り戻した沙夜は、由紀子が差し出したお茶を一気に飲み干し、重いため息を吐いた。心底疲れた顔をしている。 「大丈夫?」 「はい・・・もう大丈夫です」 「はぁ、良かった。何事もなくて」 「本当に心配しました」 安堵する由紀子と神華であるが、沙夜の表情は暗い。 「私のせいで・・・ごめんなさい・・・」 由紀子は苦笑し、沙夜の頭を軽く拳で叩いた。びっくりして頭をさする沙夜に、由紀子は言った。 「氷女さんのせいじゃない。誰もそう思ってない」 由紀子の言葉は、確かに沙夜に届いたのだろう。彼女はまた泣きそうな顔で笑顔を作り――。 「はい」 と小さく返事をしていた。 「あ、由紀子さん。あそこ、少しですがツツジが咲いていますよ」 山の土手に少しばかりツツジが咲いていたが、圧倒的に数が少ない。 「あちゃ、あんまり咲いてないか。少し、早すぎたね」 「でも、綺麗です。あ、弁当、食べません? 少し遅くなっちゃいましたが、私、お腹ペコペコです」 「あぁ、私も。氷女さん、一緒に食べよう。母さんに言って、少し多めに作ってあるからさ」 「私も、恵美子さんに頼んで、多めに作ってもらいました。一緒に食べましょう」 沙夜は、堪えられなくなって涙を流した。嬉しかったのだろう。彼女が、どういう経緯でこんな田舎町に来たのかは分からない。でも、『青い瞳』と『霊媒』、その二つが彼女を苦しめてきたのは間違いない。寂しげな後姿は、そのためだったのだろう。 「いただきます。一緒に・・・いさせてください・・・」 泣きながら、沙夜は言った。由紀子も神華も、そんな彼女を笑顔で受け入れた。 丘の上の教会。祈りを捧げる神華。静かな時の中で、バサリという羽の音が響く。その音を聞いて、神華はゆっくりと頭を上げた。ステンドグラスの光を浴びる祭壇に現れたのは、赤い翼の天使。無貌の仮面をつけており、表情も性別も分からない。それが本当に『天使』ならば、性別はないのであろうが。 『我を呼んだ理由を明確にせよ』 機械が発するような無機質な声音。直接、頭に響き渡る。その不快感に、神華は眉根を細める。 「・・・氷女さんと由紀子さんを巡り合わせ、あの変な場所に導いたのはあなたでしょ?」 毅然と神華は向き合う。恐れも、畏れも、なにもない。 『答える必要はない』 「肯定・・・するわけね。あの二人に、何を求めているの? ・・・氷女さんはとにかく、由紀子さんにあなたが干渉する理由があるとは思えない」 『大事か。かの者達が』 「・・・大事よ」 『違う。お前は、我に不安を覚えただけだ。安心するがいい。時が来れば、ちゃんと審判を下そう。それまでお前は、我の与えた力を十分に使い、くだらないおままごとを続けていればいい。お前が望むのは、たった一つ。たった一つのはずだ。咎人は、大人しく審判を待てばいい。忘れるな、咎人。お前は、罪を背負った羊だ。神の贄だ。せいぜい、もがき苦しめ。救いは、その向こうにある』 赤い羽根を撒き散らし、天使は忽然と消え去る。神華は、近くのテーブルに拳を振り下ろした。 「・・・そうね、私ごときが悩んでも仕方ない事よ。全ては・・・幻想だわ」 神華の声は、震えていた。
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